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返事の中までKUONです。

  1. 今の思い
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水蜜桃

まわりの大人は「すいみつとう」と呼んでいた。

水蜜桃。初夏の一時期、ていねいに扱われて、少しだけが口に入る食べ物。名古屋の町中で育った私には、すいみつとうは、そんな存在の食べ物だった。

いまは単に「桃」と云うのだろうか。

桃には、みだりに手を触れてはならない。触れたところから色が変わって・・・茶色くなって来て・・・ぐじゅぐじゅと柔らかくなって値打ちが下がる・・・勝手に触れてはならないくだものだった。

もうあまりそういった話題に近づきたくないと考えているのだが。

今日、スゥェーデンの国王ご夫妻が来日中、という記事を読んでいて、天皇と皇后が出迎えて、と読んでいて。

正装のドレスから出ているヨーロッパの貴賓の素肌の腕をわしづかみにしたり、腕をからませたり袖をつかんでぶら下がったりが常態になっている日本の皇后が、やはりこのたびも王妃の腕に腕をからめている画像に、細工がなされているのを見た。

皇后の手が消されていた。皇后が腕組みをしかけていたのは、シルヴィア妃。かなり以前のある写真では、皇后が正装でこの王妃の腕をつかんで引っ張ろうとしていて、後方の、王位継承者である王女が、あからさまに呆れて嫌な顔をしている場面がはっきりと残っている。

他にもさまざま、何より失礼でいやがられるとされている行為を、おそらく悪気でなく平気でしかけ続けて来た皇后、もう顔も見たくないお方ではある。

なのに、見てしまった、動画を。国賓ご夫妻を、二人で案内したはずが。

国王も王妃もフレームの端っこの位置。天皇はにこやかにしているだけであるが(ツマの言うままなすがままにしておられればいいのだ)皇后さんは賓客そっちのけ、見学のど真ん中、教示をうけているのは自分だけ。改めて言うまでもないが…以下、略。

そういった動画の一部に、秋篠宮家の長女である内親王も写っていた。その方の「職場」を、訪問されたそうなのだった。


動画も画像も、申し訳ないながらここでご紹介はできない。
感じたことだけ、書く。

だれもみだりに手をふれてはならないはずの水蜜桃が、配慮知らずの無神経な指に、ぼこぼこと押されて変色して、それでも何とか、水蜜桃の形を保っている。

真っ白なカーテンの内側に。重厚な卓の上に。曇りのない瑠璃の、玻璃の皿に据えられて、静かな威厳さえ帯びている水蜜桃。

・・・そのようなものではなくなってしまっていた。

思いを口に出していいなら・・・出そう、もしかして、今のままの状態が続くなら、こころを病んでしまわれはしないか。そんな危惧を抱いた、一瞬。見させられている当方の精神衛生に関してなどは、ここでは言いもしないが。

よく放置しておくな、誰も何も、どうにもできないのか・・私には関係の無い世界の話ではあるが、こんなことを吐き捨ててどうなるものでもないが。

あの一族を軽蔑する。


 







  1. 今の思い
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「火垂るの墓」

明日は退院できそうとのことで。

目の力がやや戻り、昼ごはんもほぼ完食、平熱に戻った夫を病室に置いて、帰ろうとした。

安心すると同時に、何もしなくても「ああ疲れた~」感があり、このまま帰宅するのもつまらないな、と思い、でも、さてどこで何をしようやら。

タクシーで帰ろう、一気に帰って、のんびりするべし、と。目の前に来たタクシーに手を上げて乗り込んだ。

なんでそういうことになったやら、そのタクシーで、一度は行ってみたかった「ニテコ池」へ行くことになったのだった。

ニテコ池は、アニメーション映画の好きでない私が、唯一何度も観た、途中で涙にむせて見られなくなって、また必死で見続ける、という映画の、舞台の一つ。「火垂るの墓」。野坂昭如原作。

原作は私の十代の終わりに発表されたもの。すぐに読んで、以後、憑かれたように野坂作品を追いかけたきっかけになった、手垢のついた言葉で言えば、「青春の書」の一つ。

アニメ化されてすぐに観たし、実写版も観た、それまで(今も)どこがいいのか全くわからなかった松嶋菜々子が演じた叔母さんは、それなりにリアルで。時代を思えば仕方が無かったのだよね、と、いささか感情移入もできた気がする。

何より。

節子。せっちゃん。

「兄ちゃん。おからの炊いたんあげましょね」

節ちゃん。父は戦火に紛れ、母は空襲に焼かれて死に、非常時でなければ穏やかな付き合いの親せき宅であったであろう家に、いられなくなって、まだ子供と言っていい兄の清太に守られ、頼ったが、つまり飢えて死んでいった。

一缶のドロップが、節子の宝物だった。ひとつずつ大切に食べて、でも、無くなってしまった。節子はさいご、洞窟のなか、起き上がれなくなった身で、石ころを口に含んでいた、食べるものが無くて。兄ちゃんは、空襲の町を、燃え上がる家々を駆け回って「どろぼう」のようにあれこれかき集めて、なんとか妹と自分を生かしてやろうとしたのだけれど。

汗疹だらけになって痩せ衰えて、節子の幼い命の果てたのが、この「ニセコ池」のほとりだったのだ。

なんでか、タクシーの運転手さんと「御影」の話になり、そこから夙川の話になり、野坂昭如の話になった。地元の人だったのです、運転手さん。

「まだありますよ、ニテコ池」。

そう聞いて、胸が震えた。そんなには変わらずにあるという。

行きたい、と思った。清太が、妹の軽くなってしまった亡骸を、一人で焼いた水辺。

節子の骨は、ドロップの缶に収めた。池のまわりには蛍がいっぱいだった、蛍の乱舞の光が、いくさの犠牲者である幼い節ちゃんの、葬送の光になった。

行きたい、そこへ、と思った。

で、行って来た、タクシーに乗ったそのままで。

・・・野坂昭如は、ほかの著書で、自分は小説のようなあんないい兄ではなかった、と書いていた。年齢設定も事実と違うし、と。自分は、ひたすら、おなかが空いて空いて耐え難かった、妹の面倒を、そんな充分に見たとは言えない、必死だった、おぶって逃げたけど、妹にはどうしても分けてやれず、自分だけが食べてしまった時もあった。そんな風に書いているものも、私は読んでいた。
泣かれてどうしようもなく、叩いたこともあったと・・・。

清太のようには死なかった野坂昭如は、浮浪児の収容所に入れられて、飢えてお尻の肉が減って行って、毎日、今日死ぬのはあいつか、自分か、と、それ以外に考えることが無かった中から、奇跡のように救出され、頬の肉を増やし、大学へも入り、爆発的に売れた歌の歌詞の作り手にもなり=「おもちゃのチャチャチャ」=直木賞作家にもなった。

宝塚出身の夫人との間に生まれた、自作の子守歌までつくった大切で可愛くてたまらない娘について書いても。

「この娘が缶を開けて食べきることもなく放り出すビスケット、クッキー、これをまとめて、あの、飢えて死んでいった妹に、食べさせてやりたい、そんな衝動を抑えられない」。

とも、書いていた。

・・・一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹と、虱で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。(中略)ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。
                  — 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」・・・


今に残るニテコ池、ここを舞台に妹の鎮魂めの小説を紡いだ、およそ50年前の野坂昭如。

それと知らなければ、水のいろの薄緑色の、どうということもなさげなニテコ池。

周囲は超のつく高級住宅街、経営の神様と称されたかの松下邸もあるらしい、他のどの家についているのか、SPの姿がほの見えた。

穏やかな晩年を生きて逝った野坂昭如は、どんな思いでこの池を眺めていたのだろう。

・・・一人でぼんやりとたたずみ続けた私に、行きますか、と声をかけて、タクシーの運転手氏は車を出した。

家まで送ってくれた。支払い時、こんな金額で済むはずがない、と思われたので、聞いてみたら、走った分はちゃんともろてます、との答えだった。滞在中はメーターを動かしていなかったようだ。

「メシ、食うてる時間くらいでしたわ」。

「もっと他のとこも、よかったら見に行って下さいや」

そういわれるのに、ありがとう、と請求された分だけお金を渡して、去って行くタクシーに、頭を下げた。

あの池の周り、蛍が舞いかわすことは、もう、無いそうだ。




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赤い鳥居がありました。

朝から「街」へ行って、疲れて帰って来ました。

欲しいものが幾つかあり、神戸・三宮のロフトへ行ったのです。越してきたときに、車は奈良へ置いてきました。ほとんど乗らない車を寝かしておくために駐車場をかりたくない。夫は歩いて工場へ通っています。それをするために越して来たのです。歩いての通勤がリハビリになっていると信じています。

必要な時はレンタカーを借りる。一度借りました。月初めの墓参、姑との寿司屋行き。車でないとなかなか、な用は、まとめて済ませるアタマも使います。私は脚が痛いし、言えば電車で済ませられる用ばかりではない・・。

今日はバスと電車で出ました。三宮のそごうデパート。地下の市場街を通って目的地まで行きますが、海鮮類が豊富で安くて目移りして、まっすぐに歩けないくらいです。魚もタコもわかめも、新鮮でたっぷり盛られていて、海なし県の奈良に住み慣れた目には、気絶しそうなくらい、魅力的で、安い。あれも買いたいこれも食いたい(東海林さだおさんの絶品グルメ本の数々の大ファンなのです私)。帰りに買おうと自分に言い聞かせますが、おそらく無理だろうともわかっています。お刺身、リュックに入れて帰れません。

ロフトと本屋で買い物をして、もっと買いたいもののある夫を待って、などしながら、鍼治療の予約の時間まで過ごしました。店内も外も人でいっぱい。ホワイト・デーの前ということもあるのでしょう、モノがバンバン売れていて、華やかで,にぎやか。どこかからジャズ・バンドの演奏も聞こえてきていました。

リュックに収まるくらいのモノをささやかに私は買い、夫は、苦手なはずの街なかをあちこち巡ったけれど欲しいモノを見つけられず・・品物が豊富過ぎて新し過ぎて、基本的に「山奥の実験だけ大好き仙人」である夫の目はチカチカしてしまったのでしょう。

ひとごみを抜け出して、にしむら珈琲店でフレッシュ・ジュースと野菜サンドにありついた頃には、ヘッタヘタのクッタクタになっていたのでした。

鍼治療は、夫には合っているようです。脳梗塞を起こしてもうすぐ二か月、ロレツもかなり回るようになり、食べ物を飲み込むこともしやすくなっている様子です。にしむら珈琲店の、お気に入りのサンドウィッチ・・きゅうりとトマトとホワイトアスパラガスの・・を、ゆっくりいただいて、もうウロウロしないで帰りの電車に乗り込みました。

帰宅すると、リビングの窓の向こうの海はすでに、夜の色に包まれていました。

朝、出て行く時は、朝の光を受けてキラキラ光っていたのです。

七年前の早春。

震災の後、しばらくの後に訪れた時、かの地の海は、大きく広々と、まばゆく光っていました。

何も知らぬげに光っていました。

私が、つれて行ってもらって立っていたその場所は、黄土色に乾いて広がっていました。

赤い鳥居がありました。表札の残ったままの片側の門柱。登り切ったところに何もない、唐突にある石の階段。

何もかもが、黄土色の大地から突然はえたように、脈絡なく「在る」のでしたが。

それらは、生えたのでなく、取り残されたものだったのです。

そこにあったものは、そのすべてといっていいくらい、海がさらっていったのでした。

家も暮らしも・・・いま、午前零時になりました。

三月十一日になりました。

・・何もかもを津波がさらっていった町の、向こうに見える海は、きらきらと光っていました。

何も知らないような、穏やかで静かな海でした。

私が、どうしようもなくただ涙を流したって、なにも、どうにもならない海なのでした。




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もう、ええなあ。

おはようございます。

朝から外は激しい風、5時ごろには深い藍色に見えた海も、鈍色の雲が厚くぼったりと覆いかぶさっている今はどんよりと鉛いろ。

ここへ来てから初めてといっていいくらい、波立って、不穏な様子です。

雲のひとところが切れて、陽がさして、きらきらと。光っている海を、いま、見ることができました。

疲れているのに神経が剣山みたいにとんがっていて眠りに入りにくかったのが、ここ数日、疲労時に於ける人体のノーマルな状態といいますか、布団入った、ちょっとだけ本読も、あ無理、目ェあいてられへん、電気のスイッチどこや、まだ見当つかない、あ、これやんかリモコン、よいしょっと押して、暗くなったわあい、バタン、ぐー。

こういう感じになってまいりまして、よく眠れて、ごはんの支度なんぞもできるようになって。ずっと三世代六人分、おさんどんしていた身には、簡単、簡潔、簡素な台所シゴト。ええですわ(笑)。


昨日は月末で銀行回りもあったのですが、それより、仲人さんが亡くなられて

年齢的には不足ないと思われる、後顧の憂いもおそらくはおありにならない方。夫婦養子を迎えておられて曾孫さんも何人もおられて。

その方のお世話を任されていた孫嫁さんが、お子たち連れて実家へ帰ってしまっていっとき大騒ぎ、結局、施設に入っておられた。

時々お顔を見に行っていました。寝付かれてからは若いころのアクも激しさも意地の悪さもすっきり抜け落ちて、行けばニコニコ、ただ嬉しそうに、笑いかけてくださった。

持病があるからと食べ物の持ち込みは厳禁でしたが、家族ならぬお医者さんにナイショの了解をもらって、好物だったお菓子をほんの少し、もって行きました。奈良で一番古い和菓子の店の、直径が2センチ足らずの小さい、でもとてもとても美味しいお饅頭。それを一つずつ、ペットボトルのお茶で、一緒に、いただいたのでした。

おいしいな、ええな、うれしいな〇っちゃん。老いても色白の綺麗な肌、細く眼光の柔らかくなった目「~」にして笑って、ゆっくりと口の中で味わって食べておいででした。

また来てな、来てくれるやんな。それが、退出するときの背中にかけられる言葉でした。ドアの前からベッドサイドに戻って、手をきゅっと握りしめて、また来させてもらいますゥ。そう言うのが、いつものことでした。

・・越して来て、わが家は車を手放して、何十年ぶりに車の無い生活を始めています。幸いバスの便はよく、タクシーも、いざの時には頼みやすいようです。でも、今までのように身軽に、少し離れたところへは行けません。

引っ越しの前に見舞ったときは、風邪をひいておられて中途半端な熱が出て、しんどそうにしておられました。

ベッドサイドの椅子に座って、手をつないで顔を眺めていたら、私の顔をじいっと見つめて、何か言いたそうなのですが声が出ない。

私は涙が出て来て。勝手に涙は目から溢れて頬を滑って落ちて、つないでいる手を濡らしていました。

やがて。

かすかにうなずいてウンウンと二度小さくうなずき、かすかに手を動かされました。

もうええよ。

もうええなあ。

そんな感じに私は、受け取りました。何もおっしゃらない,おっしゃれない方の手を、もうしばらく、握っていました。

すうっと目を閉じられ、涙が一滴だけ右の眼から流れ、くちもとは、確かに、微笑んでおられました。

眠られるんだな。そう思って手を放し、そんなことはしたことが無いのに、真っ白になった柔らかく少なくなった髪を、ふんわりと撫でさせてもらいました。

ナースさんが入って来られたので、それを機に部屋から出て来ました。

・・亡くなったのは、それから16日目。最後はうとうとしたまま、安らかな最期だったそうで、何よりのことと思います。

葬場は〇〇や、紋付き袴で来てや。。喪主さんからそんな電話があって夫は、型通りの弔電を打てと言う。
ひっそりと亡き方を偲ぶと言います。

亡くなられた方は、学生時代から私の夫を可愛がり、何かにつけそばへ寄せ、「うちの長男やのに、養子にくれてえらい強引やってんで」と姑は、一つ話に怒っていました。

夫の結婚相手も勝手に決めていたそうで、私との結婚の仲人も、引き受けなければいいのに絶対にやる、と言い張られて、気にくわない途中入りした(わけではなかったのですが(笑)、私に、はじめはきつかった、ひどかった。私は何となく、姑よりはこの遠縁の「おばさま」がものを言いやすいな、の感じがありました。

・・夫は本当に通夜にも葬儀にもゆかないと言う。
私もならうことにしました。
四十三年間の、それなりのお付き合い。

最期は葬儀の参列で終えるのが普通かも。

・・最後の数十年は、お会いして嫌な思いをすることは無かった。最後の十年は、暖かいといっていい接し方ができた。

最期の数年は、しみじみと懐かしいような、薄くはあっても何かの縁につながれた同士の、優しい触れ合いをさせていただけた。〇〇ちゃんと睦んで下さった。

それでいいなあ、と、思います。

今日は、夫が帰宅したら二人で、神様の前で、頼まれ(ない)仲人をしていただき、今日、夫は古希を迎えますが、ここまでなんとか来られたことも併せて、神様と仲人さんに感謝しようと思います。

最期にお会いした時に「もうええなあ」といっておられるように感じたこと。

あれで、よかったのだと、思っています。

・・・これを書き終えて見たら、雲がいなくなって、太陽が海を照らして。

海が、きらきらと光っています。






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新しいパソコンで

あああああ残念にございまする~~。

20日のうちにお礼を申し上げたかったのに、21日になってしまいました。16分過ぎてしまいました。

新しいパソコンで書いています。これからもよろしく。

今夜はご挨拶のみ。留守中に踏み込まれた土足の跡は、ともかくお掃除しました。見たくもないモノを見せられてしまう羽目になってしまわれた読者さまがたに、お詫び申し上げます。わたしKUONのためにタタかって下さった方には、深くお礼を申し上げます。

お返事エトセテラは、おそれいりますが、もう「しばらくお待ちください、お願いします。





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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

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