今日も元気でいましょうね^^

返事の中までKUONです。

食べもののこと


父親が死んで長姉は高校の寮に入っていた、次姉は、ウチで預かる、と強行してくれた父方の叔母夫婦の家で暮らしていた。

母親と二人暮らしだった子ども時代、あんなこんなはあったものの、鍵っ子になっていておやつの買い食いはけっこうし放題でした。住まいは名古屋のお城の見えるあたり、町中で、それなりに美味しいものも食べさせてもらっていました。母の里の伯父が、戦中もそうだったように、自転車で何時間もかけて、米も野菜もおそらくは祖母に託されたお金も、運んでくれていたのでした。

中学にあがるのを機に、養父の家に引き取られました。

しょっちゅう到来物のある家で、食料タンスには乾物が積み上げられていたし、牛肉も大きな鯛もメロンも、明治屋の缶詰も届きました。私も受け取っていたので知っていました。

食事は寝たきりの親奥さんと、在宅する時は養父と、私より三つ上の長女のHちゃんが、親奥さんの寝間の隣りでお膳でとっていました。

養父の妻は、姑と夫と長女の食べ物は、欠かさず整えていました。親奥さんには朝はバタートースト、昼は煮魚を毎日つけ、魚は、そのたびにお金をもらって買いに行く。御用聞きも来ていたけれど、養母は魚は、自分で買いに出かけていました。

息抜きだったのでしょう。遅いと言って呼び鈴を鳴らして、親奥さんがよく怒っていました。

私より一つ上のそこの長男、二つ下の次女、そして養母は・・・何を食べていたのでしょう、深い記憶がありません。自分の日常食べていたものの記憶も。あまり無い。

ヒトの出入りの多い、来客も絶えずある(以前も書きましたが、宮さまが来られたことも一度ならず・・・学者さんでいらした、その講義や講演のお礼、ひっそりとお渡ししたのでしょう)その家の、財布は、親奥さんがしっかりと握ったままだったのです。いま思うとむごい話です。

大学の柔道部の学生が来るのですき焼きを食わせる、と、飛んで帰って来ていきなり養父が言いつけ、ネギだ豆腐だとおおわらわ、急遽私が肉を買いに。どれくらい買えばいいのか。肉屋で相談して、すき焼きならこれくらいあれば、と、1キロ買って帰って、巨体揃い、十数人の前に、1キロの肉・・・あの時のバツの悪さは、忘れられません。

一人で1キロくらい、食べそうな詰襟の大男たちが・・・。私は中学生だったので。

養父はそこここの学生たちに肉をふるまうのが大好きで、木津川の河原で数十人でのバーベキューも、毎年、何組分か、していました。

養父は旧い家の親孝行の一人息子。できのいいお姉ちゃんが三人、いいとこへ嫁っておられて、運転手つきの車で時々、オカアチャンのお顔を見に、おいでになられた。立派な奥さま方でした、どなたも。姉妹そろっておいでの時は、仕出し屋が届けて来る料理をご一緒しておられた。

長女さんだけはその輪の中。優しい、いい方でした、いまもお幸せです。でも、自分がたべられるものが、弟、妹には無いと言う事には、無頓着だったような。

養母は、養父の女身内さんの中では、無休、無給の、気の利かない女中以下、の存在でした。お手伝いさん、などというきれいごとの言葉では言えません。何度も実家へ帰って、また戻って、の不毛の歳月の後に、諦めの後に私は、養母のお世話になるようになったのでした。

私の立場は、ひとことで言うと、微妙。

おば様方は、私には、それなりの気を配って下さっていた。チョコを下さったりローンのハンカチを下さったり。死んだ父への慮りだったのではありました。詳しく書くのは難しいことなので省略。

一人でおあがり、と、折り曲がって詰められたウナギの重を下さったこともあった・・・でも。

私は、一家のなかで長女さんとは違うグループ・・・その家の当主である養父の、長男であるKちゃんと、末っ子で誰にも見向きもされない次女のYちゃんと同じ群に普段は属していて、上(笑)から下がって来る、焼きプリンの空き缶やどこやら亭の折詰弁当などの残骸を、ただ珍しく見ていたばかり。12歳からの話です。

折詰の中には、紅白の飾り切りを施されたかまぼこや何やらの揚げ物などが、しおれて残ったりしていました。

養母は私に、よかったら食べや、と言いました。長男と次女には言いませんでした。私は「けっこうです」といいました。養母はそのまま引いて、結局かまぼこやフライは捨てられたのかどうか。

お手伝いの、30歳過ぎの女性もいました。実家から仕送りがあったようで、お菓子ばかりヒミツで食べていました。トイレに籠ったら1時間は出て来ませんでした。

・・・あの頃は、麦ごはんと、たまに、養母が仕込んで作る、上等らしいけど舌につぶつぶの残る味噌の汁と、それだけはふんだんにあった到来物の漬物や佃煮と。かつお節だけを扱う店の、木箱の隅に溜まるかつお節の粉。で、主に、食事をしていたのでした。

鯛の刺身も、出る時はどどんと出たりしました。マツタケもそうでした。マツタケの佃煮のようなものを、毎食、食べることもありました。

それしか無かったのです、その時は。

ご飯とかつお節の粉しか無いことも多く、そんな時は台所に、牛肉の甘煮のしょうがの匂いが残っていました。

皆で食べるには量の少ない肉を、養母が、甘辛く煮つけていたのです。味を濃くして、少ない量でご飯がすすむおかずです。

その家の長男Kちゃんは、私とは口をきかないよう、厳しく言いつけられていました。

マチガイが起こってはいけないらしかった。

その言いつけを遵守して彼は、一緒に暮らしている私を、ほぼ完璧に無視していました。私も同様。

飛び級で東京大学を出て来た父親の後を追わねばと、毎日ベンキョウ、ベンキョウ、のKちゃんでした。

財布さえ持たせてもらえない養母は、息子に、ベンキョウ生活を支える栄養のある食べ物を、食べさせてやりたかった。

当然の話です。

私は、外で、自分で食べられるものを食べていました。外食しました。母親とは月に一度、会う機会があり、そのたびに母は私に、何か食べろ、下着も買え、と言うのでした。中学生が持つにはかなりなお金を私は、受け取っていました。

暮らしている家の中で、得られないものを「欲しい」と思う自分を、許せなかったのです。高慢ちきな女の子だった。

挫けないためには、アタマを、思いっきり上げていなければならなかったと、ずっと、自己弁護しています。

自分の家は貧しいと、母子家庭ですし親子で暮らせなくなっていたのですし、普通に思い込んでいましたが、母はお金をくれました。

自分の暮らしを切りつめて、と、これも思い込んでいましたが、そうでもなかったようで。私の母は、セーターは純毛しか着ない人だったし。靴もいいものをはいていました。母が亡くなってかなり経って、姉妹が話をしていた時、不意に、私たちは悟ったのでした。

母には、相続した遺産があったのだと。夫からでない、親からのものが、あったのだと。ずっと後から気がついた話。

父が死んで母が引っ越しをして、帰る家を持たなくなった私たち姉妹は、まったく母の言葉を信じて、嫁いで、頑張って・・・いたのでした。

姉妹もバラバラに育って、ツギハギの育ち方をしたのだと。皆、思い込んでいたのでした、父の死後、残ったものはすべて、母が、当時信仰していた宗教に、つぎ込んでしまったので・・・。

次女の制服代だけ手元に残して。と。母自身がそう、言っていた。家もお金も全部、と。事実、そうであったのですし。

遺産だの何だの、思ってみたこともない。だから、欲しいとも思ったことも無い。

「おばあちゃんは、自分で言うほど、ビンボウで苦労したわけでは、なかったんだがねえ」。

みな三人とも、けっこうなトシになってからのそんな話で爆笑したものでした。

呑気な話、でも、自分たちらしい話で、頼り癖が持てなかったことは、よかったのだと結論が出て、また、笑った・・・

脱線しました。


中学生の私は、自分の暮らす家の中での格差、というかヒエラルキーというか、微妙な差、というか。むずむずと、居心地のよくない思いでいて。

確かに微妙でした。

先に書いたウナギの話。私だけで食べろと仰るのは、大家の奥さんである、養母の小姑さま。

そんなことができるはずもなく相談します。しかし養母はそんな時、必ず、

「そう言うてはんねやったら、〇ちゃん(わたし)がいただいたらええのやで」

でも、ですからとお願いして、大人が分けて、と、私は言う。

「少しずつみんなでいただいたらどやろか」。

気取り屋の私の美意識に反する、オバちゃんみたいなセリフを云わねばならず、もうウナギはいいから、こういうシチュエーションにならずにいたい。

養母には養母の、なんとも言えないこだわりめいた気分は、当然、あったのでしたし。

私は、養父の、いわば「恩人の娘さん」みたいなことで、世話になっていたのでした。それにしては養父は、日々の暮らしの些事には頓着なく、すべてを妻に丸投げで、生活費の自由さえ与えないまま。

養母のやるせない気持ちは、中学生ながら、自分ながら、いささかは解っていたつもりでおりました。

学校に行っている間に日記帳を読まれているのも知っていました、私が、町の食堂で、一人で親子どんぶり食べていた、お好み焼き屋から出て来たと、養母に告げる人があるのも知っていました。

いろんなことが、ありました。

主婦が。

よその子を預かっていて、財布の自由も無くて、夫は母親と嫁いだお姉ちゃんたちに牛耳られていて・・・社会的には全くそんな気配も見せない成功者でしたけれど・・・同じきょうだいでありながら長女は缶のままのゴーフルを与えられている、長男は「ダイドコの子」で、幼い頃は母親である自分を庇って、夫の鉄拳の前に立ちはだかってくれた子で、体は大きくて腹減らし、叶うかぎりに美味しいものを食べさせてやりたい。

これ。当たり前のこと。

と。本ばかり読んでいた私は、なんとなく、理解していたように思います。しかも預かってやっている子(わたし)は、一人で勝手に外でごはんを食べてしまうような金を持っていた。自由な金を持たされていた。

養母は、私が高校の寮に入る時、月に一度は顔を見せにおいでと。

お友達も連れておいでと。

言っていてくれました。行けば笑いかけて、煮込みうどんを作ってくれたりしました。恩知らずなのか面倒だったのか、月に一度も行かなくなりました。せっかくの一人の休日だとの気分があったのでしょう。

どこまで信用していいのかが、まず、わかっていなかった。

・・・私は、養父の家にいる間、家の中にいる一人に、まるきり無視され続けていることが、平気でいられませんでした。

養母に日記帳を読まれていたことにも。それをなじれないことにも。日記帳の中に挟んでいた紙幣の位置が、ずれていて、足らなかった数枚が数日後に戻っているようなことも。養母はきっと、複雑な思いを沢山、味わったと思います。私のせいで。

私は素直な子でなかった、よく嘘もつきました。

外でどんぶりメシ、食べて帰って、今日は天ぷらや、ごはん沢山おあがり、と言われて、おかわりが出来なくて、

「大好きなおかずやのに、なんでやろなあ」

と、言われたりすることも。

とても、とても、平気でいられなかった。小説の新人賞に応募して入賞していたのに、聞かされていなくて、結局、賞は辞退にされていた、そんなことも。

もしかして「将来を潰された」と感じた、そのことが、いちばん、

耐えられなかった・・・早く早く自分でお金を得られるようになりたかった、自分のお金で空気を吸いたかった、気詰まりなくごはんを食べたかった、そんなこんなで。

定時性高校なら寮へ入れる。家から出られる。

ことを知って、反対されましたが、定時制高校へ進学したのでした。

寮では、皆、同じタイミングで同じものを食べられました。

大ヤカンで、火鉢で、一度にたくさんインスタントラーメン作って、ずるずるすすって食べた、八人部屋。


養父にも養母にも感謝しています。この頃は特に。思い出はいっぱい、あります。

養母も晩年は穏やかでした。

心臓を患って、食事制限も厳しく受けて、長い間の闘病生活でした。

私が中年になって、時に、美味しいものをと連れ出して、あれもこれも勧めても、ほとんど何も口にできないでおられました。

・・・・・・・・・・


もっと、食べ物のリアル、自分の中の汚いこころ、食い意地の引き起こす醜い気持ちも、書くつもりでしたが。

中途半端になってしまいました。

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「愛子さん」の痛ましい姿を見て。

内親王さんと何を比較するなどの話でなく。

食べものに絡む気持ちの底の事など、書いてみたかったのでしたが。

なかなか・・・きれいごとになってしまったかも・・・

続きをまた、書くかもしれません。

「愛子さん」は、生きていたくないのかも、と思います。理屈でない、本能のところで。

見ていられない姿です。



見えない。

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先日、葉山へ静養に出かけた今上夫婦。

奥方のペースで散歩やお声かけやあれこれ、親しい方のお宅へ食事に招かれ、ずいぶん遅く、10時はとっくにまわった時刻に、御用邸に戻られたり。

お疲れになられたのでは、陛下。

陛下。お顔も手の甲も浮腫んでおられます。

シャンプーさえ今はずいぶん間遠だというおぐしが、乱れておいでです。

今日はこれ、、じゃんじゃか歩数をかせげそうな、おみ足もお丈夫そうな奥方ですね。

けっこうぞんざいに、ぐいぐい引っ張られておられますね、陛下。

陛下。

おずぼんのセンターラインは、プレス仕上げでないですね。

おうちの中でお召しの、普段着ずぼん?。

陛下。

絶句もの。

皇室の長に見えないです。


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警護の方がそばについておられる。

愛子さんらしいのですが。

顎のラインが削れて見えるのは、マフラーの具合なのか、どうなのか。さすがマフラーは上等そうな。

頬っぺたに肉が無くなっている。口の形も失礼ながらお魚みたい。おいしいごはん、召し上がっていないのか。

瑞穂の国、日ノ本の内親王さんなのに。15歳なのに。

15歳に見えないです。



きれいなものがいい。

温かくなったら本格化する予定・・・身の周りの雑多なモノを、整理すること。

中学から高校時代の日記帳や、膨大な量あったスクラップ・ブックも、なんとかするつもり・・・とか言って、また、自分うっとりのメモ書きや切抜きに、見入ってしまっていました。

ボーっとした、感傷的な、恋に恋するおんなのこだったのでした。今もそんなには変わりない。


     風は遠くの歌をうたっている

     ただ空をながめ

     キンポウゲのことを考える

     おきき  もう時間なの 



ふうむ。なんでキンポウゲなのかわけがわからん。あの頃は、何かの思いがあったのでしょうね。


     わたしは美しいものの中でしか生きてゆけないの

     そこが異常なのかもしれない



なんて書きなぐりもあり、しかしオノレに酔っ払いながら醒めていた証拠(なのか?)に、

「異常!!」と太字で自分に突っ込んでいる、17歳のくおん。あ~、くすぐったい面白い、そして。


幾時代かがありまして
茶色い戦争がありました

幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
今夜此処でのひと盛り
今夜此処でのひと盛り

サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

         「サーカス」


中原中也の詩とか。とっても好きでした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ここから以下は、これも読み直したりしていた、美智子さんの資料の一部です。

思わずザーッとコピーした・・・まことに、ご自分たちの意志を通して来られた過去。

多くて長いですが、知られたことではありましょうが、興味深いことも沢山かと思います。

49 :松本健一氏の本から抜粋・1 :2010/12/22(水) 23:34:53 ID:84CqVfd0松本健一 「昭和天皇 畏るべき「無私」」 という本を読んでいたら、興味深い記述がありました。
「皇室危機の本質とは何か」という1994年初出の文章です。抜粋して紹介します。

松本氏は、天皇制の無為無私の理想と遠いところにいると批判的で、とくに海外訪問とメディアへの
露出と、公務を増加させ、家族主義を前面に押し出す平成の皇室が皇后の意思によるものである
ことを批判しています。また、皇后が一々報道に介入することを嫌悪しています。

・天皇・皇后は個人としての好悪の情をはっきり表明する

→・天皇がまだ学習院の学生だった皇太子時代には「×××さんは民族主義的で、嫌な政治家だ」、
 「○○の書くものは嫌いだ」といった発言をしたと報道されていた

・最近も京都御所で「なぜ、私たちまで靴やハイヒールを脱がなくてはいけないのか。脱ぎたくない」と
 言ったと伝えられた

・今回の一連の皇室報道(皇后バッシング)についても、皇后が「幾つかの事例についてだけでも、
 関係者の説明がなされ、人びとの納得が得られれば幸せに思います」「事実でない報道には、
 大きな悲しみと戸惑いを覚えます」といった要望を宮内庁職員や記者クラブにしている。
 事実と違う場合は徹底して争う、という明確な意思表示、自己主張をする(p137)。

・天皇・皇后は政治的な発言も進んでする(p138)
→即位後の国会で「憲法を遵守します」⇒国家元首と認識され、中韓から利用された

 細川首相の最初の内奏の折に「私より若い人が首相になったのは初めてです」、連立政権が
 できて旧野党関係者と言葉が交わせるようになったことも歓迎した

・美智子皇后は秋篠宮の結婚に際して、「秋篠宮家の繁栄を祈ります」旨の発言
→天皇家が祈るべきは宮家の繁栄ではなく、国民の不安、国家の安泰、民族の永続ではないのか(p138)
 

50 :松本健一氏の本から抜粋・2 :2010/12/22(水) 23:36:55 ID:84CqVfd0
・1993年の訪中が問題になっている際、「自分たちは行きたい」と発言(p142)
→宮沢政権は国民の反対を「天皇陛下が望んでおられるから」との発言で押し切り、
天皇・皇后の希望を優先(p144)

・ベルギー王室の葬儀出席を口実に訪欧し、認証式の関係で細川政権誕生を4日遅らせた(p144)
→国事行為よりも「ロイヤル外交」を優先(p145)

・1991年宮沢政権誕生時、国際周産期学会とレセプション出席のため、
 認証式を夜9時まで遅らせた

→学会会長が皇后の手術執刀医&紀子妃出産の担当医だったため「ぜひともお祝いに
  いきたい」ということから (朝日新聞皇室記者が『文藝春秋』にも記している)(p145)

・天皇は相談されても「どうだろうな」ということが多く、結局は皇后が決めている(p146)

・紀子妃が秋篠宮の髪を直した写真を撤回させた事件
→皇后がああいう写真はよくないと言って引っ込めさせた(p149)

・皇后は女性誌であれ一般週刊誌であれ、テレビの皇室番組であれ、
 「ここは事実と違う。どうしてこういうことが正されないのか」と頻繁に言う

→自分の理想とする皇室像にそぐわないものを排除しようとする

・皇后が皇太子妃時代に常陸宮と皇居で聖書購読会を主催→教養として
 聖書を読むのはよいが、宮中でキリスト教を講義するのはやめよと昭和天皇が注意

→天皇に叱られたショックから失声症になった

→このことを松本氏が雑誌に書いたところ、宮内庁から編集長宛に
 「書かないでもらいたいのです」と圧力(p150-151)

・1993年の訪欧時、皇后が「バチカンにはどうしても行きたい」といって訪問し、
 フランスの修道院で修道女と二人だけで礼拝した(p155)


もっといっぱいあるのです。もっともっと。

上記は、松本氏と言う方の書かれた美智子さん像とは言えますが、事実に基づいたものであるでしょう。

今上が自分で決断されないのはむかしからで。

とうぜん「生前退位」のことも、しかであろうと。

美智子さんが驚いて違和感を感じて、と報じられたのは、中身はともかく美智子さん作でなかったのだろう「生前退位」なる言葉そのものに対してだとは、理解できます。でも、出してしまえばそれまで。今は「在る」言葉になったのか。したのか。

しようとして必死、の現状ですか。エグイ執念と思われます。

カラオケがお好きで「ここに幸あり」を熱唱されるとも、他のところに書いてありました。

目に見えるような図です。

両手を前に組み、お目目ははるか上空に据え、ソプラノ(でしょう)で、あのお首の筋びんびんにお立てあそばしてうたいあげるお姿。

一緒にカラオケしたくないタイプだ~。あ。今日の不敬発言(笑)。


583fc352_20170207112951fd1.jpg

この写真は検閲オケーだったようですが。

見たくもない画像です。天皇である方への惧れも慎みもはばかりも無い。でも(だから、かな)貼っちゃった(笑)。

受け入れておられるお顔も。なんだかな~。


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一番下で申し訳ない。

最近「きれい」と感じた画像です。

佳子内親王殿下。

空気まで日差しまで美しいです。

本当にお美しい。



プラチナ。

「政府が近く正式に発表する」

とされているニュースですので、はじめの部分だけを。時事通信です。新聞なども取り上げているようです。

 3月11日に政府主催で行う東日本大震災6周年の追悼式典に、天皇、皇后両陛下が出席されないことが19日、政府関係者への取材で分かった。秋篠宮ご夫妻が出席する方向で調整が進んでおり、政府が近く正式に発表する。

 両陛下は被災地に心を寄せ、天皇陛下が心臓手術を受け、退院からわずか1週間で出席した2012年の震災1周年追悼式以降、毎年出席。昨年で発生から5年の節目を迎えたのを機に、今後は10年などの節目に、その時の天皇が出席する方向という

私が立ち止まったのは、赤い文字の部分でした。

なんか。ちぎって投げたような言い方だなあ、みたいな。

もう一つ思ったのは、

秋篠宮さまと紀子さまは、便利屋ではないのになあ、ということ。

黙って真摯に、地味・・・とは申しますまい、地道なおつとめを、積み上げられておられる。

先日、秋篠宮殿下を「皇太子待遇に」との報が出た時。

二つの方向のことを考えました。

うまく言えませんが、その一つは、どんなことも、いざ、のときに一時には動けないので、

いわばプラチナ・ゾーンを作っておくのかと。

ナルヒト氏は、実態はごみでも、皇太子。こうたいしでも、実はごみ。

秋篠宮殿下は、つまり、プラチナ。


両陛下は最近では、世界遺産ラスコー展の鑑賞に行ったり。

お相撲を見に行ったり、相変わらずお出かけ熱心。とてもお元気。

テロップに「天覧試合」と出ていたけれど、そんなうやうやしい感じは抱けませんでした。

昭和帝が、ごくまれに、大好きな相撲見物をなさって大喜びの笑顔でいらした、あの国技館は、まさに「天覧相撲」の場であったと感じます。贔屓の力士の名を出せば「天皇の公平性」が損なわれると。決して個人の名を口からお出しになられることは無かったと伝わっています。

皇宮警察の武道大会へも行っておられます。

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あれだけ出かけていたら、まとまったことなど何も出来ないでしょう。祭祀王であられた陛下は祭祀はなさらず、ハゼの学者としてのお時間は持っておられるのでしょうか。去年、狸のフンの研究を共同で、とか報じられて、え、いつの間にタヌキ??と、驚いてしまったのでした。

公務でお忙しいのではない。

単独行動の状態化している皇太子は、今年も、女子大へのお出かけで。一時間半も「山について」語ったそうな。

いつも同じ内容、どうだ、とばかりに繰り出す「こうたいしさまのジョーク」のタイミングまで同じだそうです。本当のこと。

秋篠宮殿下と紀子妃殿下は、どなたよりお忙しく暮らしておられます。テレビは報道しません。紙メディアも。

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夕方から、あれ消し、ここ書き直し、していて。

やっぱり一枚の写真の持つ力はすごいな、と、書いていたほとんどを削ってしまった、この画像。

人と人を比べるものでないと、重々、承知しておりますけれど。


・・・おまけの一枚。

少し前にコメントを下さったことのある「真実(まこと)」さんのブログから。お借りしてしまいました。

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(笑)。(拍)。

皇室のヒミツのお金に手を出そうとして、やら。

その金額は はっちょうえん、とやら。

書類不備で失敗、やら。

スイスの某ホテルで軟禁中、やら。

私には何が何やらわかりません、のです。

けど。ホントのような気がしますし。

それならいいわね、とも。はっきり明確に、思ってしまっていることも、本当なのです。

おわだ氏が借金地獄におられるのは、事実のようで。

「まいどーた-いずくらうんぷりんせす」

これで、あちこちからお金を引っ張ったとか。そんな世界にもわたし、無縁です。

何がどうなのやら。八十過ぎてこんな話。

ブリキのティアラで宮中晩餐会に出て来る女。の、父親。

ナル氏の、御岳父であらせられます。

いのちの紐の途切れないうちに、謝って下さい。

日本に。日本人に。



明日はわからぬ。


再来年、2019年の年初から天皇がチェンジし、元号が変わると。決定的事項のように、それを前提に、新聞屋が何か書いたり。

テレビに出るのが嬉しい、テレビがする質問になら何でも答えますッニコニコ、のお人が、何やら聞かれて、もっともらしく、マイクを突き付けている相手の望みそうなことを、小器用に喋ったりしています。

「元号? そうですね~」

などと。聞く方も聞く方、したり顔で顎に手を当てる方も。平和やなあ。

平和という言葉。いつの間にやらマイナスイメージに落っことされてしまって。

街頭インタビュー。まず回答ありきで無作法に向かって来るマイク。

マイクを逃れたり無視したり、望まれない回答をする人々は、初めから、映し出される対象から外されているし。


天皇陛下はお気の毒、など。

天皇を「気の毒」と言う、それ自体が不敬なことと、誰も言わない。もともと「敬」など失せ果てているので、何でもいいようです。

そんなこと言わせる方が、まあ、アホなんや。毅然としてはったら、おかわいそ、なんぞ、言いませんて。


単なる職業名になら、元、も前、もあるでしょう。

今上陛下に「上皇」だの。似合わねえ~とか言ってしまう誰かがいたら。すてきやな。

ご本人は6年ほど前に、

「自分は上皇になる」

と、仰っていたとも、仄聞します。

何を言っても「天皇の言葉」になるさだめ、にしては、要らんことをこぼし過ぎておられるような。

神輿は軽い方が、など、ひどい言い方をされることもありますが、現代の神輿には、どんな音も拾ってしまう集音設備が搭載されています。

何より。代筆、代弁、代しゃべくり、のわかちゃいないお方が常に側に。


元・天皇やら前・天皇やら。そのような言い方は、存在しません。


あのあたりが、ぐだぐだと全くなっちゃいないので、どんどん悲惨な状況に墜ちて行っておられますので、勝手に愚痴れば、平尾誠二さんの訃報にショックを受けても、ミテコがどうだまさこがああだと、気になってなって、結局なんにも書けなかった(勝手な八つ当たりです、わかっています)。

観るだけですけど、野球よりサッカーより、ラグビーが好き。

ああ、あ。平尾さん、亡くなってしまいました・・。


私には、子ども世代はともかく、孫世代の生きて行く国はどうなのかなあ、という妄念が消し去れないです。

皇室という存在は、無くてもどうでもいいものと、思いきれません。

それであるのに、現実は、ご近所さんには絶対おられないような。

知人のどなたを思い描いてもあり得ないような。

ケジメもなんにも無い、みごとに下品な方々が、やんごとなき位置に坐り続けている。

ただ。

人間の浅知恵や裏の力や、陰謀だか何だか知りません、そういうものもあるらしいのですが、ものごとは、思うようにはならないもの。

この思いは変わらず持っております。

あがこうが必死で引き寄せようが、無理なものは無理。

ナルヒト氏が、天皇になるかならないか。

バカげた設問です。

あと二年あると言うなら、もう少し、しゃあないので、見ているのだろうと思います。

ナルヒト氏の、神さまの認める「実」。「徳」。実はそこだけの問題ではないかと、私は考えています。

二年後の自分、ただただ苦い虚しい思いを抱いているだけなのかも知れません。それならばそれで、その時の自分の欲することを、考えて行くだけのこと、ですか。

やれるもんならやってみろ。そういう感じです。明日、何が起きて何がどうなるか、誰にもわからない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


おうたを沢山お寄せ下さり、ありがとうございました。

思いがいっぱい、おありなのがよくわかりました。

今年半ばに六十七歳になります。もう新しいことをはじめる気にはなれませんでした。

まだ、個人的に、したいことがあります。なかなか集中できません。自分の怠惰のせいではありますが、皇室の状況が変わったら即、そちらに取り掛かりたい思いでおりました。でも・・・

ごちゃごちゃ言うてんと、申し上げます。

おうたを、詠みたい方がおられるのですよ。たくさん。よくわかりました。

恒常的にお受けするのは、私には難しい事なのです、さら~っと、いいかげんには扱えないので。

ですから。

毎月十五日に、おうたを寄せて下さいと、ここに書きます。

そのタイミングで、おうたを下さい。添削、感想は、無しで。いただいたままを、今回のように出させてもらいます。それでよろしければ、数はどれだけでも。二度にわたってもかまいません。

十五日から十七日まで。毎月。私に対処の可能な限り。

で、十七日の夜か、十八日の当ブログにて、いっせいにご紹介させていただきます。

お題は無しです(笑)。技術云々でなく、あまりにひどい 内容 と、わたしKUONが判断した場合は、受けられないかもしれません。

詠み人のお名前は、お好みでどうぞ。裏コメントでなくなさって下さい。

いつまで続くか。とりあえず、来月二月の半ばに、来て来て~、と、コールさせていただきます。

 「みんなのうた」 とします。

その時以外には、おうたは、ご遠慮願います。中途半端には扱えませんので。

どおぞ、よろしく。

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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
・・・・・

五月雨の露もまだひぬ奥山の真木の葉がくれ鳴くほととぎす

さみだれの つゆもまだひぬ おくやまの まきのはがくれ なくほととぎす
   
金槐和歌集 源実朝


真木は「高野槇」ともいいます


・・・・・・・・・・・・・・・


やはり赤い口紅が好き。


ものすごく唐突ですが、私、口紅(だけ)はシャネルよ。(笑)。

プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
・・・・・

五月雨の露もまだひぬ奥山の真木の葉がくれ鳴くほととぎす

さみだれの つゆもまだひぬ おくやまの まきのはがくれ なくほととぎす
   
金槐和歌集 源実朝


真木は「高野槇」ともいいます


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やはり赤い口紅が好き。


ものすごく唐突ですが、私、口紅(だけ)はシャネルよ。(笑)。

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