今日も元気でいましょうね^^

返事の中までKUONです。

孤独とな?

お返事も書かず記事も書かず申し訳ないことです。

なじぇか、何時間も記事のアップがうまく行かない状態です。

ふむふむ動画をいっぽん。

呆痴。

2017年1月10日の朝刊(わが家は毎日。とっかかりは産経らしいですね)一面に、でかでかと。

どこの新聞もつまりは、大元のとこから、はい、はいとばかりに記事の素を配られるので。いわゆるすくーぷ「合戦」なんて、今はやっていない。

【天皇陛下の譲位】
新元号は平成31年元日から 皇室会議を経て閣議決定へ 法案提出は今年5月連休明け


↑ こういったことらしいですね。

一応。

新元号、平成31年元日から 皇室会議経て閣議決定へ

産経新聞2017/1/10(火) 7:55配信


譲位関連法案、5月上旬にも提出 大嘗祭は秋以降に

 天皇陛下が在位30年を節目として譲位を希望されていることを受け、政府は、平成31(2019)年1月1日(元日)に皇太子さまの天皇即位に伴う儀式を行い、同日から新元号とする方向で検討に入った。国民生活への影響を最小限とするには元日の譲位が望ましいと判断した。譲位に伴う関連法案は、有識者会議の報告と衆参両院の論議を踏まえ、5月上旬にも国会に提出する見通し。譲位は「一代限り」として皇室典範改正は最小限にとどめる方向で検討を進める。

 複数の政府関係者が明らかにした。譲位の日時に関しては「○年以内に政令で定める」として法案に明記せず、皇室会議を経て閣議決定する方針。

 具体的には、平成31年元日、国事行為である「剣璽(けんじ)等承継の儀」(三種の神器等引き継ぎ)と「即位後朝見の儀」(三権の長らの初拝謁)を宮中で行い、官房長官が速やかに新元号を発表する方向で検討している。

 皇位継承に伴う重要儀礼である大嘗祭(だいじょうさい)は、準備に半年以上を要するため、平成31年11月にずれ込む見通し。皇位継承を内外に示す国事行為「即位礼正殿の儀」は大嘗祭の前に行われるという。

 天皇陛下の譲位に関する有識者会議(座長・今井敬経団連名誉会長)は1月23日に論点整理をまとめる。「一代限り」で譲位を可能にする法整備を求める内容になるとみられる。

 これを受け、衆参両院は譲位に関する議論を始める方針。国会での議論を受け、有識者会議は3月中に最終報告をまとめる。政府が国会に法案提出するのは、5月の連休明けになる見通しだという。

 安倍晋三首相は6日、菅義偉官房長官、杉田和博官房副長官らと譲位に関する法整備をめぐり協議した。皇室典範に関しては、付則の一部だけを改正して特例法で対応するか、本則一部も改正するか、政府内で意見が分かれている。

 皇室典範は終身在位を基本とし、譲位を想定しておらず、譲位後の称号や住居、葬儀なども定める必要がある。このため、政府は、皇室経済法や宮内庁法などの一部改正も視野に入れており、譲位関連法案としてパッケージで国会に提出することになりそうだ。

 憲法4条は「天皇は国政に関する権能を有しない」と定めており、「天皇陛下のご意向」を憲法違反にならぬ形でどのように反映させるかも焦点となる。



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菅官房長官は「そういう事実は全く承知していない」と否定し、「方向性も示されていない段階」とも強調した。

菅長官、新元号時期の報道否定 「全く承知していない」

東京新聞 2017年1月10日 14時37分

菅義偉官房長官は10日の記者会見で、天皇陛下の退位に伴う新たな元号を2019年1月1日からとする方向で政府が検討しているとの一部報道に関し「そういう事実は全く承知していない」と述べた。


「有識者会議に陛下の公務負担の軽減を最優先で静かに議論してもらっている。方向性も示されていない段階だ」とも強調した。

長官のおっしゃる通りと思います。

天皇が気ままなことされるのを、文句も言わず受け止めて、お金も時間も手間もかけて、憲法違反なのに、とも愚痴らず、粛々と話を進めておられる。

というのが、現実の話だと考えます、そうだろうよ!。

こんなことを闇雲にやってしまう側は。

既成事実を作ってしまいたいのでしょうね。

新聞の一面の視覚的心理的効果は、まだ、大きいものが残っている。

卑怯なあざといことをしますね。今に始まったことでないですが。でも、派手にやったなあ。

お急ぎですか。はあ。


新元号は平成31年元日から 皇室会議を経て閣議決定へ 法案提出は今年5月連休明け


この僅かな文字数の中の矛盾にも無頓着。わざとですか、民をなめておられるか、「皇室会議」でいったい、何を決めようと言うのか。

一面でばばーんと出すようなこと、まだ、閣議決定も何もされていない現況で。

焦って、地団太踏んで、何をしようと云われるのか。

もう呆れ果てているだけのミジンコくおん。

日本は法治国家ではないのかな。

呆痴国家、とか言ったら、誰かが怒って来るかな。

あんなグッダグダの、 人ですらない連中だって。利用したい力にとっては、人の形をした〇〇〇。

あと二年。ナルさんが保つと思っているのかな、保つのかな、ちらりと表紙だけ見た女性誌の片隅に、

「秋篠宮さまが皇太子」

とかの文字があった。

待遇、とも後に小さくありましたのでしょうか、チラっと見たのでわかりませんでした、そうというならまた、違う話になって来たりして。

ナルは、どんな意味ででも保たないと、フツーに思っております。あまり言わない方がいいのですよね、これ。



詫びるということ

 宮内庁は天皇陛下が昨年詠んだ歌5首と皇后さまの歌3首を発表。それぞれ印象に残ったことを取り上げられたという。

との発表がありまして。

【天皇陛下】

〈第六十七回全国植樹祭〉

 山々の囲む長野に集(つど)ひ来て人らと共に苗木植ゑけり

〈第三十六回全国豊かな海づくり大会〉

 鼠ケ関(ねずがせき)の港に集(つど)ふ漁船(いさりぶね)海人(あま)びと手を振り船は過ぎ行く

〈第七十一回国民体育大会開会式〉

 大いなる災害受けし岩手県に人ら集(つど)ひて国体開く

〈平成二十八年熊本地震被災者を見舞ひて〉

 幼子の静かに持ち来(こ)し折り紙のゆりの花手に避難所を出づ

〈満蒙開拓平和記念館にて〉

 戦の終りし後(のち)の難(かた)き日々を面(おも)おだやかに開拓者語る



【皇后さま】

〈一月フィリピン訪問〉

 許し得ぬを許せし人の名と共にモンテンルパを心に刻む

〈被災地 熊本〉

 ためらひつつさあれども行く傍(かたは)らに立たむと君のひたに思(おぼ)せば

〈神武天皇二千六百年祭にあたり橿原神宮参拝〉

 遠つ世の風ひそかにも聴くごとく樫の葉そよぐ参道を行く



陛下のおうたは、つまり天皇のうた、と拝読しました。皇后のうたは、私感ですが、ますます粘っこい。

以下すこし、引用させていただきます。子どもの頃に、渡辺はま子という歌手の名を耳にしていました。モンテンルパというカタカナ言葉と共に。フィリピンの刑務所なのですね。

   ああモンテンルパの夜は更けて(解説)

   作詞:代田銀太郎
   作曲:伊藤正康
   歌唱:渡辺はま子・宇都美清
   MIDI制作:滝野細道

  (一)
  モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る

 (二)
  燕はまたも 来たけれど
  恋しわが子は いつ帰る
  母のこころは ひとすじに
  南の空へ 飛んで行く
  さだめは悲し 呼子鳥

 (三)
  モンテンルパに 朝が来りゃ
  昇るこころの 太陽を
  胸に抱いて 今日もまた
  強く生きよう 倒れまい
  日本の土を 踏むまでは

(引用です。下線はKUONが引かせていただきました))

 昭和27年6月のこと、このやるせない心を抉るような歌が大ヒットした。「何の歌だろう?」いぶかった人々も直ぐに知ることとなった。この歌はフィリピン、マニラ郊外のモンテンルパ刑務所の死刑囚の作った歌だったのだ。 作詞がB級戦犯死刑囚:代田銀太郎元大尉、作曲がB級戦犯死刑囚:伊藤正康元大尉、歌ったのが「支那の夜」や「何日君再来」などを歌った渡邊はま子。この歌はモンテンルパ刑務所の教誨師加賀尾秀忍から送られてきたものだった。 

戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいることを知った渡邊はま子は驚愕し、レコード化に奔走して、遂に大ヒットさせたのである。これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くが悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まったのであった。
 戦時中の慰問で自分も戦意を煽ったためと感じた渡邊はま子は、どうしてもモンテンルパに行って謝りたいと思い、渡航の困難だった時代に手を尽くしてフイリピンへ渡った。当然フイリッピン政府からヴィザなど降りない。単に戦犯の慰問というだけでなく、終戦時には宣撫慰問の途中で虜囚となり一年も収容所に入っていた女性である。許可など出る筈もなかった。それでも渡辺はま子は香港に向けて出発して行った。香港経由でフィリピンに強行入国しようというわけである。たとえ逮捕されて、戦犯と同じ刑務所に入れられようとも・・・

 昭和27年12月24日、歌手・渡辺はま子の歌がモンテンルパのニュービリビット刑務所の中を流れた。熱帯の12月。40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子は振袖を着て歌った。もう随分と長い間見たこたことがなかった日本女性の着物姿は、死に行く者への別れの花束だった。この歌は、この刑務所の死刑囚達が作詞作曲したものである。この歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえた。会場にいたデュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めた。多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もあったようだ。そして、この「ああモンテンルパの夜は更けて」は、これらの人々を救い出す事になったのである。

 昭和28年5月、教誨師加賀尾秀忍のもとに渡辺はま子から一つのオルゴールが届いた。曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。オルゴールの音色は心を抉るような響きをもっていた。
 そのころ、加賀尾はやっと時の キリノ大統領 に面会する約束を取り付けることが出来た。初対面の挨拶と、面会の時間を貰えたお礼の後、加賀尾は黙って大統領に例のオルゴールを差し出した。加賀尾の涙ながらの助命嘆願と、哀訴の言葉を予想していた大統領はいぶかったが、オルゴールを受け取って蓋をひらいた。流れ出るメロディー。暫く聞いていた大統領は「この曲はなにかね?」加賀尾師は、作曲者がモンテンルパの刑務所の死刑囚であり、作詞をした者もまた死刑囚であることを語って、詞の意味を説明した。尚もじっと聞いていたキリノ大統領は、漸く自身の辛い体験を語り始めた。

 大統領自身も日本兵を憎んでいたし、日米の市街戦で妻と娘を失っていたのだった。「私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだろう。しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ」
 死刑囚を含む全てのBC級戦犯が感謝祭の日に大統領の特赦を受けて釈放され、帰国が決まったのは、翌月の6月26日のことだった。
 横浜の埠頭で帰国の船を待ちわびる群衆の中に、渡辺はま子の姿があった。

【お断りとお詫び】筆者の故郷はこの歌の作詞者代田銀太郎氏と同郷の信州の南都飯田市で、この話はよくされていました。ために記憶の部分も多いのですが、文中、教誨師加賀尾秀忍師とありますところを誤って記憶していたため一時<加賀屋秀文師>と表記していました。ご迷惑をお掛けしたかた、申し訳ありませんでした。あまり記憶に頼り過ぎてはいけませんね。



引用ここまでです。ありがとうございました。

 許し得ぬを許せし人の名と共にモンテンルパを心に刻む

ミテコさんが、昨年詠んだ中の三首と限定して出して来た中の、一首。許し得ぬを許した人、とは、キリノ大統領のことですね。

刑務所長氏も、りっぱな方でいらしたとあります。

劣悪な環境に押し込められていた、としている記述もあります。

戦争中のあれこれを、後でどうこう云っても、という気持ちが、私の中にはどっかりとあります。


美智子さんは、いつでも、相手方に謝ることだけを考えている方。そういうカッコ付け自体が好きでたまんない方。といった感じを抱いています。一国の皇后として、「天皇の強い意向」を錦の御旗としてあちこち、慰霊にでかけていながら、結局は自分の方に何でもひきつけて、個人の感想、感慨にまとめこんでいる。そんな気がします。

うたは個人の思いをうたうものでいい。ですが。外に対してひらいて見せる「自分」の匂いが、きつくてきつくて。私感ですよ~。

昭和20年2月。戦争の終る半年ほど前の、マニラ市街戦での・・・これは、日米の市街戦です。アメリカは勝った国なので、皇后なんてものもいないので、慰霊に行った話は聞かない・・・日本兵の死者は、およそ1万6000人。ほぼ全滅でした。

蒔きこまれたフィリピンの民間人の数は、10万人以上とか。

凄まじい話です・・・・・・。



「マレーの虎」と呼ばれた陸軍大将・山下奉文。

終戦後、マニラでの軍事裁判のおり、シンガポールにおける捕虜虐殺、マニラにおける市民虐殺の責任を問われて、モンテンルパに収容されておられました。ほとんど、そんなこと、国にさえよくしられていなかった。

昭和21年2月23日(後に平成の皇太子が生まれた日です。何の因果でしょう)。戦争犯罪者・・戦犯として、作業着のまま、絞首刑を執行されました。

日本陸軍中将・本間雅晴も死刑。

「バターン死の行進」の責任者として銃殺刑。

このお二人以外に15人の日本人の死刑が執行されたのでしたが、上記、当時のキリノ大統領の特赦をうけて、108人の収容者が、日本に還ることができた。

細かく書きたいこともいっぱいあるのですが、今はせいぜいこれくらいしか触れられません。

美智子さんの今年の歌については次回に触れることにします。


今日のおわりに、山下奉文陸軍大将と、本間中将の、それぞれ辞世のうたを二首ずつ。

ご紹介させていただきます。


   野山わけ 集むる兵士 十余万 還りてなれよ 国の柱に


   満ちて欠け 晴れと曇りに かわれども とわに冴え澄む 大空の月

                                山下 奉文


   戦友(とも)眠る バタンの山を 眺めつつ マニラの土と なるもまたよ志


   予(かね)てより 捧げし命 いまここに 死処を得たりと 微笑みてゆく    

                                本間 雅晴



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山下大将の遺書。享年60歳。


これは教戒師の森田正覚氏が処刑40分前に将軍の言葉を記録したものです。

「私の不注意と天性が閑曼であった為、全軍の指揮統率を誤り何事にも代え難い御子息或は夢にも忘れ得ない御夫君を多数殺しました事は誠に申訳の無い次第であります。激しい苦悩の為心転倒せる私には衷心より御詫び申上げる言葉を見出し得ないのであります。

かって、皆さん方の最愛の将兵諸君の指揮官であった「山下奉文」は峻厳なる法の裁を受けて死刑台上に上がらんとしているものであります。アメリカ初代大統領ジョウジワシントンの誕生祝賀記念日に独房を出て刑の執行を受けるということは偶然の一致ではありますが誠に奇しき因縁と云わねばなりません。

謝罪の言葉を知らない私は今や私の死によって、私の背負された一切の罪を購う時が参ったのであります。もとより私は単なる私一個の死によってすべての罪悪が精算されるであらうというような安易な気持ちを持っているものではありません。

全人類の歴史の上に拭うべからざる数々の汚点を残した私は、私の命が断たれるという機械的な死について抹殺されることとは思わないのであります。絶えず死と直面していた私にとりましては死ということは極めて造作のない事であります。

私は大命によって降伏した時、日本武士道の精神によるなれば当然自刃すべきでありました。事実私はキャンガンで或はバギオでかってのシンガポールの敵将パーシバルの列席の下に降伏調印をした時に自刃しようと決意しました。然し其の度に私の利己主義を思い止まらせましたのは、まだ終戦を知らないかっての部下達でありました。

私が死を否定することによって桜町(キャンガン)を中心として玉砕を決意していた部下達を無益な死から解放し祖国に帰すことが出来たのであります(私が何故自決をしなかったかということは、ついている森田教誡師に質問され詳しく説明致した所であります。)

私は武士は死すべき時に死所を得ないで恥を忍んで生きなければならないということが如何に苦しいものであるかと云う事をしみじみと体験致しました。此の事より■して、生きて日本を再建しなければならない皆様の方が戦犯で処刑されるものよりどれだけ苦しいかということが私にはよく分るのであります。

若し私が戦犯でなかったなら皆さんからたとえ如何なる恥辱を受けませうとも自然の死が訪れて参りますまで生きて贖罪する苦難の道を歩んだでありませう。

兵は国の大事にして死生の地、存亡の道なり、察せざるべからず、と孫子もいったように兵はまさしく凶器であり、大きな罪悪でありました。この戦争を防止するため私はあらゆる努力を払いました。然し悲しいかな私の微力よく之を阻止することが出来なかったことはまことに慙愧に耐えない次第であります。

マレー侵略、シンガポール攻略、国民の血を湧かした丈に恐らく皆さんは私を生粋の侵略主義者、軍国主義者の最たるものであると目して居られるでしょうがそれは当然であります。一身を軍職に捧げた職業軍人であります。今更何をか之に加えましょうか。然し私も軍人であると共に一■日本国人民としての意識も又相当強く動いて居りました。亡国と死者とは永久に再生はないのであります。

兵事は古えより明君賢将の深く慎み警むる所でありました。一部の■者がひとの事を断じて国民大衆を多く殺傷し残れる者を今日の如く塗炭の苦しみに落入れたことは等しく軍部の専断であり国民諸君の怨嗟悉く我等に集中するを思う時私は正に断腸の思がするのであります。

ポツダム宣言によって日本が賢明ならざる目論見によって日本帝国を滅亡に導いた軍閥指導者は一掃され、民意によって選ばれた指導者によって平和国家としての再建が急がれるでしょうが、前途益々多事多難んることが想像されます。建設への道に安易なる道はありません。軍部よりの圧力によったものとは云えあらゆる困苦と欠乏に堪えたあの戦争十箇年の体験は必ず諸君に何物かを与えるに違いないと思います。新日本建設には、私達のような過去の遺物に過ぎない職業軍人或は阿諛追従せる無節操なる政治家、侵略戦争に合理的基礎を与えんとした御用学者等を断じて参加させてはなりません。

恐らく占領軍の政策として何等かの方法が取られるでありましょうが将に死に就かんとする私は日本の前途を思うの余り一言申し添えたいと思うのであります。踏まれても、焼かれても強い繁殖力を持った雑草は春が来れば芽を吹きます。国悉く破れて山河のみとなった日本にも旺盛なる発展の意志を持った日本の皆様は、再び文化の香り高い日本をあの1863年丁独戦争によって豊沃なるヌレスリッヒ、ホルスタイン両州を奪はれたデンマークが再び武を用いる事を断念し不毛の国土を世界に冠たる欧州随一の文化国家に作り上げたように建設されるであろう事を信じて疑いません。私共亡国の徒は衷心からの懺悔と共に異国の地下から日本復興を祈念いたします。新に軍国主義者共を追放し自ら主体的立場に代られた日本国民諸君、荒された戦禍の中から雄々しく立上がって頂き度い。それが又私の念願であります。私は朴訥なる軍人であります。

今や死の関頭に立って萬感交々至り謝罪と共に言語の形式を以って申し述べたいのでありますが、武将の常として従来多くを語らず寡言実行の習癖と加うる語句又豊富でありませんので之を表現することが出来ないことを残念におもいます。

私の刑の執行は刻々に迫って参りました。もう40分しかありません。この40分が如何に貴重なものであるか、死刑因以外には恐らくこの気持の解る人はないでしょう。
私は森田教誡師と語ることによって、何時かは伝はるであろう時を思い、皆さんに伝えて頂くことに致します。
聞いて頂きたい・・・・

其の第一は義務の履行ということであります。

この言葉は古代から幾千の賢哲により言い古された言葉であります。そして又此の事程実践に困難を伴うことはないのであります。又此事なくしては民主主義的共同社会は成り立たないのであります。他から制約され強制される所のものでなく自己立法的内心より湧き出づる所のものでなくてはなりません。束縛の鉄鎖から急に解放されるであろう皆さんがこの徳目を行使される時に思ひを致す時聊か危惧の念が起こって来るのであり、私は何回此言葉を部下将兵に語ったことでしょうか。峻厳なる上下服従の関係に在り抵抗干犯を許されなかった軍隊に於いてさえこの事を言はざるを得なかった程道義は著しく頽廃していたのであります。甚だ遺憾な事でありますが今度の戦争におきましては私の麾下部隊将兵が悉く自己の果たすべき義務を完全に遂行したとは云い難いのであります。他律的な■務に於いてさえ此の通りでありますから一切■絆を脱した国民諸君の■に為すべき自律的義務の遂行にあたっては聊か難色があるのではないかと懸念されるのであります。旧軍人と同じ教育を受けた国民諸君の一部にあっては突如開顕された大いなる自由に幻惑された余り他人との関聯ある人間としての義務の履行に怠慢でありはしないかと云うことを恐れるのであります。

自由なる社会に於きましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成して頂きたいのであります。此の倫理性の欠除という事が信を世界に失ひ■を萬世に残すに至った戦犯容疑者を多数出だすに至った根本的原因であると思うのであります。

此の人類共通の道義的判断力を養成し、自己の責任に於て義務を履行すると云う国民になって頂き度いのであります。

諸君は、今他の地に依存することなく自らの道を切り開いて行かなければならない運命を背負はされているのであります。何人と雖も此の責任を回避し自ら一人安易な方法を選ぶ事は許されないのであります。こゝに於いてこそ世界永遠の平和が可能になるのであります。

第二に、科学教育の振興に重点をおいて頂きた度いのであります。

現代に於ける日本科学の水準は極く一部のものを除いては世界の水準から相去る事極めて遠いものがあるということは何人も否定することの出来ない厳然たる事実であります。一度海外に出た人なら第一に気のつく事は日本人全体の非科学的生活ということであります。

合理性を持たない排他的な日本精神で真理を探究しようと企てることは、宛も水によって魚を求めんとするが如きものであります。我々は資材と科学の欠除を補ふ為に汲々としたのであります。

我々は優秀なる米軍を喰い止める為百萬金にても贖い得ない国民の肉体を肉弾としてぶっつける事によって勝利を得ようとしたのであります。必殺肉弾攻撃体当り等の戦慄すべき凡ゆる方法が生れました。僅かに飛行機の機動性を得んが為には、防衛装置の殆どを無視して飛行士を生命の危険にさらさざるを得なかったのであります。

我々は資材と科学の貧困を人間の肉体を以って補わんとする前古未曾有の過失を犯したのであります。この一事を以ってしても我々職業軍人は罪萬死に価するものがあるのであります。 今の心境と、降伏当時との心境には大なる変化があるのでありますが、ニュービリヒット収容所に向ふ途中、ヤングの記者スパートマクミラン君が「日本敗戦の根本的な理由は何か」と質問された時、重要かつ根本的な理由を述べんとするに先達って今迄骨身にこたえた憤懣と■■な要求が終戦と共に他の要求に置き換えられ漸く潜在意識のなかに押込められていたものが突如意識の中に浮び上がり、思はず知らず飛び出した言葉は「サイエンス」でありました。敗因はこれのみではありませんが重大要因の中の一つであったことは紛れもない事実であります。 若し将来不吉な事でありますが戦争が起こったと仮定するならば、恐らく日本の取った愚かしい戦争手段等は廃人の夢の昔語りと化し短時間内に戦争の終結を見る恐るべき科学兵器が使用されるであろうことが想像されるのであります。戦争の惨禍をしみじみと骨髄に■して味うた日本人は否全世界の人類は、この恐るべき戦争回避に心■を打込むに違ひありません。又このことが人間に課せられた重大な義務であります。

あの広島、長崎に投下された原子爆弾は恐怖にみちたものであり、それは長い人間虐殺の歴史に於てかって斯くも多数の人間が生命を大規模に然も一瞬の中に奪われたことはなかったのであります。獄中にあって研究の余地はありませんのでしたが、恐らくこの原子爆弾を防御し得る兵器は、この物質界に於て発見されないであろうと思うのであります。

過去に於ては、如何なる攻撃手段に対してもそれに対する防御は可能であるといわれて参りました。実際このことは未だに真実であります。過去の戦争を全く時代遅れの戦争に化し去ったこの恐るべき原子爆弾を防御し得る唯一の方法が若し有るとするならば世界の人類をして原子爆弾を落としてやろうといふような遺志を起こさせないような国家を創造する以外には、手はないのでであります。敗戦の将の胸をぞくぞくと打つ悲しい思い出は我に優れた科学的教養と科学兵器が十分にあったならば、たとへ破れたりとはいへ斯くも多数の将兵を殺さずに平和の光輝く祖国へ再建の礎石として送還することが出来たであらうといふ事であります。私がこの期に臨んで申し上げる科学とは人類を破壊に導く為の科学ではなく未利用資源の開発或は生存を豊富にすることが平和的な意味に於て人類をあらゆる不幸と困窮から解放するための手段としての科学であります。

第三に申し上げたい事は・・・特に女子の教育であります・・・

伝うる所によれば日本女性は従来の封建的桎梏から開放され参政権の大いなる特典が与えられた様でありますが現代日本婦人は西欧諸国の婦人に比べると聊か遜色があるように思うのですが、これは私の長い間の交際見聞に基く経験的事実であります。

日本婦人の自由は、自ら戦い取ったものではなく占領軍の厚意ある贈与でしかないという所に危惧の念を生ずるのであります。

贈与といふものは往々にして送り主の意を尊重するの余り直ちに実用化されないで観賞化され易いのであります。

従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人のそれと何等変る所のものではありませんでした。この虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました。そこには何等行動の自由或は自律性を持ったものではありませんでした。皆さんは旧殻を速かに脱し、より高い教養を身に付け従来の婦徳の一部を内に含んで、然も自ら行動し得る新しい日本婦人となって頂き度いと思うのであります。平和の原動力は婦人の心の中にあります。皆さん、皆さんが新に獲得されました自由を有効適切に発揮して下さい。 自由は誰からも犯され奪はれるものではありません。皆さんがそれを捨てようとする時にのみ消滅するのであります。皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮して下さい。もしそうでないならば与えられたすべての特権は無意味なものと化するに違いありません。
最後にもう一つ婦人に申し上げ度い事は皆さんは既に母であり又は羽となるべき方々であります。母としての責任の中に次代の人間教育という重大な本務の存することを切実に認識して頂き度いのであります。私は常に現代教育が学校から始まっていたという事実に対して大きな不満を覚えていたのであります。

幼児に於ける教育の最も適当なる場所は家庭であり、最も適当なる教師は母であります。真の意味の教育は皆さんによって適切な素地が培われるのであります。若し皆さんがつまらない女であるとの謗りを望まれないならば、皆さんの全精力を傾けて子女の教育に当って頂き度いのであります。然も私のいう教育は幼稚園或は小学校入学時をもって始まるのではありません。可愛い赤ちゃんに新しい生命を与える哺乳開始の時を以て始められなければならないのであります。愛児をしっかりと抱きしめ乳房を哺ませた時何者も味う事の出来ない感情は母親のみの味いうる特権であります。愛児の生命の泉としてこの母親はすべての愛情を惜しみなく与えなければなりません。単なる乳房は他の女でも与えられようし又動物でも与えられようし代用品を以ってしても代えられます。然し、母の愛に代わるものは無いのであります。

母は子供の生命を保持することを考へるだけでは十分ではないのであります。

■が大人となった時自己の生命を保持しあらゆる環境に耐え忍び、平和を好み、強調を愛し人類に寄与する強い意志を持った人間に育成しなければならないのであります。

皆さんが子供に乳房を哺ませた時の幸福の恍惚感を単なる動物的感情に止めることなく、更に知的な高貴な感情にまで高めなければなりません。母親の体内を駆け巡る愛情は乳房からこんこんと乳児の体内に移入されるでせう。

将来の教育の■分化は、母親の中に未分化の状態として溶解存在しなければなりません。
幼児に対する細心の注意は悉く教育の本源でなければなりません。功まざる母の技巧は教育的技術にまで進展するでせう。

こんな言葉が適当か、どうか、専門家でない私には分りませんが、私はこれを「乳房教育」とでも云い度いのです。
どうかこの解り切った単純にして平凡な言葉を皆さんの心の中に止めて下さいますよう。これ が皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります。」

昭和21年2月23日 払暁 ロスパニオス(マニラ東南40キロ)で絞首刑
同日午前3時40分マニラ憲兵隊長大田清一中佐、同4時17分元通訳ヒガシジタクマの絞首刑も執行された。

追記 大田清一中佐のご家族は四国・善通寺生野(いかの)大麻山に居られた。24日、悲報は家族の許に届く。家族7人は希望を失い、抱き合って慟哭したとあります。ご長男が上梓した「流れゆく雲」(大田清一遺稿集)の「獄中日記」(昭和20年9月15日~21年1月5日判決)を視れば、12月13日の記述に、「見よ山下将軍は悠々と散歩しあり。」とあり、1月5日には、「午前9時より判決。予定の如く絞首刑だった。どうせ彼等の計画的な芝居だ。貴き犠牲と諦めよう。もうとうに覚悟は出来て居る筈だ。今日の午後ぐらい他の監房に移すだろう。悠々たる山下さんと一緒になれる。一つ修養せん哉。」とある。
 
辞世 : 流れゆく雲を 窓辺に眺めつつ 奇しき運命を 夢かとぞ思う

                                   


「謝罪する」「詫びる」ということについて、考えてしまいました。




今年に感謝。

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天皇誕生日に「両親」にはさまれて「陛下に挨拶に」行かれる[愛子さま」とのことです。

いいんですか、この方を放置しておいて。

周囲の大人みな、大丈夫なんでしょうか。

大丈夫で「今までで一番おきれい・by・渡辺みどり」で「完璧主義のゆえに痩せられてしまわれた・by・友納尚子」愛子さま、って。

美智子さんは「励ましの抱擁」をされたとのことですが。このお子さんを見て、それだけですか。

さすが名代の偽善者。

偽善者。

大ばか者の「両親」を、どうすることもできない・・・しないで。

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で。この方がその「偽善者」である皇后陛下、らしいです。

ときどき口の中が真っ黒な写真を見かけました。

いまどき「お歯黒」でもありますまい。でも、どうなっているんでしょう。

歯はどうなっているのでしょう。帽子も帽子のゴムも表情もおかしい、おかしいおかしいおかしい、おかしいです。

ご高齢であることを揶揄はしません。バカにもしません。そんなこと、できるものではありません。が。

おかしいです。


おおつごもりの一日の始まった夜更けにこんなこと書いているわたし、の方が、おかしいのかも知れません。

見えているのに見ていない、で、通そうとしておられるものを、変だ変だと騒いでいるなんて。KUONがおかしいかな。自虐的になる感覚が、おかげさまで(笑)蘇ってきた昨今です。


王さまは裸だ~~~


やけくそで叫んでみました。(笑)。


今年いちねん、多くの方々にブログを読んでいだき、多くのコメントをいただき、幸せな一年でした。

来年もきっと、とてもいい年になるでしょう。

24時間以内に新しい年は来て、自分の部屋の自分の机に座っていながら、遠く除夜の鐘を聞けることでしょう。

禅寺の鐘の音が、耳の底に届いてくれるのです。

そのさなかに、新年のご挨拶をさせていただくつもりです。

若水を含んだ後の、いささかはキレーな私として。

来年もまた、よろしくお願い申し上げます。


プロフィール欄の「なまずのてんし30」てぬぐいのご紹介は、いったんひかせてていただきますが、今後もどうぞよろしくと、紹介者、賛同者として、末尾ではありますが、お願い申し上げます。

では。

しばしの後に。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


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阿蘇神社から寄付のお礼状が届いたとのことです。

手拭の売り上げの一部を寄付されたのです。

ありがとうございました。


不要です。追記あります。

先日の「新嘗祭」に関しての天皇とこうごうの歌・・・本来は天皇のうたは御製(ぎょせい)、こうごうのそれは御歌(みうた)と呼ぶ習わしのようですが。

あの作品群は、少なくとも、当時皇太子であった今上が、新嘗祭のその場におられて、それをおうたにしてみた、という体裁なわけです。

しかし。今年の新嘗祭には、祭祀長たる天皇その人も、次代として祭祀を見届け、記憶し継承する存在のはずの皇太子・ナルヒト氏の姿も、無かったようです。

天皇は、宮中の祭祀の大いなる一、大祭である新嘗祭を、欠席・・・東宮も、不在・・・白衣(びゃくえ)をまとって神嘉殿の儀をつとめられる二人の姿は無く(と推察されます)モーニング姿の秋篠宮親王のみが着床された、と。

一年前、去年の新嘗祭に出られた河野太郎氏が、詳細に記されたものを、下部に引用させていただきました。

直会の献立なども、読むと興深いものがあるか、と、私は感じました。


その前に、美智子さんの歌集に収められた新嘗祭のうたをご紹介して、この項をいったん閉じさせていただきます。

   新嘗のみ祭果てて還ります君のみ衣夜気冷えびえし

    しんじゃうの みまつりはてて かへります きみのみころも やきひえびえし

                                           昭和54年



昭和天皇がご健勝であらせられ、祭祀をとどこおりなくおつとめでいらした頃の新嘗祭。

このうたを詠んだ女性の夫君は、当時、皇太子でいらした。

霜月も終わりに近い夜、皇太子として神嘉殿に侍り、すべてを終えて戻ってきた「君」の、衣の冷えが、ほら、こんなにも厳しい。

夫君はさぞや、お寒かったであろう、というツマの気持ちを、衣の冷えに託して詠まれたこの一首は、技巧的にも素晴らしい、美智子さまのお優しさも素晴らしい、とされる一首です。

すばらしい一首でしょう。

わざわざ貶める意図は、ここでも一切ありません。

ただ。

夫君は皇太子。寒風のうちにつとめておいでになった「こと」は、「仕事」ではない、余人にはつとまらない皇室の神事。祭祀。

どう言えばうまく言い表せるのでしょう、確かに寒かったでしょう、厳しいのでしょう、でも。

ツマの立場でこう、詠まれては、なにか、う~む。

うまく表現できません。

外科医の妻が、夜更け帰って来た夫の髪から、緊急オペのなごりの血の匂いをふっと嗅ぐ。

ぽっぽ屋の妻が、雪の中に立ち尽くした後に帰宅した夫の、凍りついた指を、一本ずつ握りしめて、息をふきかけて動きを取り戻してやる。

自分も急いでパートタイムの仕事に出かける妻が、夜勤明けで戻った夫の無精ひげ、目の充血を、すれ違いざまに見ながら何か思いながら、黙って靴をはく。

ような。そういったうたを、読ませてもらったら、自然に湧きあがって来るであろう人としての共感が、美智子さんのこの、秀逸な一首に対して、感じられない。

うまく表現できないもどかしさを、ざばっと吐き出してしまうとしたら。

乱暴ですが、こんな感じになる・・・

妃殿下。神事のことは。祭祀のことは。

こんなにお上手に、沢山溢れるようにお詠みのなかの、珍しい歌材のひとつのごとく、お詠み遊ばすな。

・・・KUONの歌感です。

もう一首、疑惑のうたが。

   傷ましきがれきの上に手向けたまふ君が水仙は白く花咲く

    いたましき がれきのうへに たむけたまふ きみがすいせんは しろくはなさく


あの有名な、阪神淡路大震災の後、被災の地に、美智子さんが持って来(させてい)た水仙の花束の一首。

以前も一度、これについて書きました。再度。

何でもうたう、どこへでも慰問に行く美智子さんに、水仙のうたが無い。

なぜ?

と、思っていました。美智子さんの歌集には無いのです。

したらば。他のところにありました。

内親王さんで、こういったことをなさった例は、あったのかどうか、詳しくは存じませんが、清子さまは平成十七年に、一冊の本を上梓しておられます。

どしっとしたハードカバーの、300ページに近いような本です。

おうたやお言葉、エッセイのような内容。

平成は、内親王様にだけ、こういった本を出させておられるのです。

で。

おうたの中の一首として、ありました。

   傷ましきがれきの上に手向けたまふ君が水仙は白く花咲く

伊勢の神宮の遷宮の折りの清子さまを、神々しいお姿と拝見したのでした、今もその感覚は変わっていません。

「傷ましきがれき」

と。まこと心ある歌人なら、こうはあっさりとこの事実をこの言葉で詠まないだろうと、考えてしまい、清子さまは、この状態をこんな風にはお詠みにならないのでは、などとモタクタ考え。

では???と。

一首の作者に対する疑問を、拭えないままに、日々は暮らしております。

違うだろうよ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2015.11.25、河野太郎氏のブログより。

>新嘗祭神嘉殿の儀に参列いたしました。

まず夕の儀。

参集所に夜七時ごろ参集します。

寒いと聞いていたので、モーニングの下にヒートテックの上下と靴下を二枚ずつ重ねてはいて、さらに貼るホカロンを腰に張り付け、モーニングの上にはマフラーと外套という格好です。

外套は、黒色又は地味な色、マフラーは白色又は地味な色。毛皮は避けること。

七時十八分に、総理を先頭に閣僚は年齢順に並び、ろうそくがともされた提灯に導かれて参進します。

総理を先頭に三権の長、閣僚、最高裁判事などが幄舎に着床(椅子に座る)します。

幄舎は、屋根と後ろの壁はありますが、前は大きく開いていて、風が吹き込みます。運が良いとストーブの近くになります。

神殿と幄舎に囲まれた広場では、四か所ほどで穴が掘られ、たき火がたかれています。

たき火の光と提灯の光のみです。雅楽が奏でられています。

秋篠宮殿下が参進され、幄舎に着床されます。

天皇陛下が出御され、皇太子殿下も続いて参進されているはずですが、神殿には白い薄い幕が張られ、まったくわかりません。

天皇は神饌を御親供になり、御拝礼の上、御告文を奏せられているはずです。

我々は秋篠宮殿下が参進される際に起立し、その後、着床、さらにまた、長い時間起立し、着床、もう一度起立し、着床。

その後、総理を先頭に一人ずつ神殿に拝礼。神殿の前の真菰(ござのようなもの)の前で一礼し、真菰にのって拝礼、そこから降りて一礼して退下。八時二十二分

参集所で直会。

直会の献立は

雑汁 
合鴨 八ッ頭芋 大根 干椎茸 焼豆腐 人参

作り身 
鮃重ね作り 烏賊細作り 桂大根 花人参 防風 紅蓼 山葵

加薬飯
鰻蒲焼 干椎茸 錦糸玉子

漬物
奈良漬瓜 浅漬大根

白酒(しろき)

黒酒(くろき)

温酒

直会お開き、八時五十分

白酒と黒酒はかわらけの杯に入れて出されます。味は酸っぱく、どろっとしています。甘酒の酸っぱいもののような。黒酒も言われてみると灰色がかっているような気がするという程度で、黒いとは思いません。

shiroki
左が白酒(しろき)、右が黒酒(くろき)

この白酒(しろき)、黒酒(くろき)は、各都道府県の精農家からの献穀をもって謹醸され、行われたばかりの新嘗祭(にいなめのまつり)に供進されたものです。

天皇陛下も御告文の奏上が終わると新穀(米御飯・栗御飯)と新酒(白酒・黒酒)を神々と対座されて召し上がられますが、これも直会と称するそうです。

初穂をお供えし、それを多くの人に分かち、直会を共にすることはいにしえの新嘗祭の豊明節会(とよのあかりのせちえ)と同一のご趣旨と拝察されます。

新嘗祭には天皇陛下と皇太子殿下が純白の祭服で参列され、秋篠宮殿下はモーニングで幄舎に着床されますが、皇后陛下、皇太子妃殿下、妃殿下方は参列されません。

直会終了後、一度議員宿舎に戻り、夜中の十二時少し前に再び、暁の儀に参列するために参集所に参集します。

暁の儀

夜十一時過ぎに参集所に参集します。

服装は同じです。

十一時二十分ごろに参進し、幄舎に着床します。

秋篠宮殿下が参進され、幄舎に着床されます。

今年は、天皇陛下は出御されず、神殿で皇太子殿下が拝礼されました。

その後、秋篠宮殿下が真菰で拝礼され、退下されると、我々が同じように拝礼し、退下します。

天皇陛下が出御されなかったため、今年の暁の儀は短い時間で終わりました。

その後、参集所で直会になります。

暁の儀の直会の献立は

鴨雑煮
合鴨 小餅 芹

酢の物
菠薐草菊花巻 柚子醤油

温物
風呂吹大根 海老曽保呂掛け

温酒

零時五十分に退出。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どうもありがとうございました。

末尾になりましたが、ヒミツのコメントさんから、まとまった内容のコメントをいただいていました。

>2014年11月天皇陛下は気温が低下する深夜に始まる「暁(あかつき)の儀」
>への陛下のお出ましを今年から取りやめられると発表した。という記事がありました。

>今年の新嘗祭の予定では秋篠宮殿下のみの出席となっています。
>天皇陛下のご負担の軽減の仕方が間違っていると思います。
>祭祀だけをすればいいのです。
>宮内庁には新嘗祭の重要性もわかる人がいなくなったのでしょうか。


>祭祀を行わない天皇や皇太子は不要です。

・・・つよく同感です。というより。

言うべくもない、ということです。

祭祀を行わない天皇も皇太子も、それを「支える」立場だとかいうツマも、当然、不要です。

………………追記

コメントでご指摘くださった方がおられて(本当にありがとうございます)。

宮内庁のホームページの記載を見て参りました。

書いてあるのは以下です。

平成28年11月23日(水)

ご日程

天皇陛下 新嘗祭神嘉殿の儀(夕の儀)(神嘉殿)
皇后陛下 新嘗祭神嘉殿の儀(夕の儀)ご終了までお慎み(御所)


平成28年11月24日(木)

天皇皇后両陛下 新嘗祭神嘉殿の儀(暁の儀,掌典長ご奉仕)ご終了までお慎み(御所)



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・平成24年に宮内庁が画策、発表したごとく

「暁の儀」は、現天皇の体調を考慮されて天皇はなさらず。

「掌典長がご奉仕」。代拝。

私はこれを思う時。

全く見当違い、ばかなことを言うとお思いでしょうが。

よく、無茶に仕事にかかる時、冗談に紛らせてウガーッっと口走っていたセリフ。

「死して屍拾う者無しっ」

を、想います。日本の天皇って、そんなヤワなものなのか。

「ししてしかばねひろうものなし」

やるんだやり抜くんだそれしか無いんだ。

無になって。

明日を思わず。

わが身の都合は思わず。

そんな風に陛下は祭祀にお向かいだと信じていた、今は遠くなった日々に。

疲れるだろうか風邪ひくだろうか心臓にこたえるだろうか。

との思惑一切無し、つとめおえて倒れたってかまわんぞ、の、しかし激しいものでない静かな気迫で、つとめるもんじゃないのか、

など、本気で考える、愚か者です。

お出ましなのか否か、これならどっちなのか、わかんないです。

高齢者に対して思い遣りの無い民です、わたし。

おしっこ洩らしの皇太子に、祭祀に臨む何をも期待しておりませんのです。

潔斎、無理でしょう。でも宮内庁はそんなこと気にしない。

平成28年11月23日(水)

皇太子殿下 新嘗祭神嘉殿の儀(夕の儀・暁の儀)(神嘉殿)

平成28年11月24日(木)

皇太子殿下 新嘗祭神嘉殿の儀(前夜に引き続き 暁の儀)(神嘉殿)

皇太子同妃両殿下 ご説明(在シンガポール大使(シンガポール大統領閣下及び同令夫人「国賓」来日につき))ご陪席(御所)


まさこはハナから祭祀になど無関係なヒト。

皇太子も妃も、

病気なら責められない、が、公表されていないのだから、おもんぱかりは、これも不要です。

自分なりに調べて書きましたが、宮内庁がホームページに「出た」と書かせているなら、出ていたのでしょう。

そりゃ、そうでしょう。

愛子さんだって「いる」のですもの。






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