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平和というは

   ハイビスカス ブーゲンビリアの赤い花 平和というは痛みのごとし

八月十五日です。

負けたことの無かった国が、自国を「神国」と称して無謀に突き進み、あまりにも多くの犠牲を出したあげく、敗戦して、その日を終戦記念日と呼ぶ。

赤紙一枚の招集を「名誉」とことほぎ「見事に死んで来い」とバンザイされて出征して、兵士として死んだ者より、餓えて、渇いて、亡くなった数の方が多いと言う。

私の母方の伯父は京都の学校で共産党に「かぶれて」、「アカ」と呼ばれる親戚中の「面汚し」、この戦争は負ける、勝算いっさい立たず、内閣、軍部は間違っている、竹やりと根性なんかで勝てるかと「非国民」な発言を繰り返す危険分子だったとか。

戦前でも自由で無かった思想言語、捕まったこともあったと聞きます。拷問も、若いころ、されたと。激しい拷問の後遺症で体に障害を持つようになり、非国民でもせめて「命を御盾」と戦争で死ぬはずだったのが、皮肉にも徴兵されずに生き延びて、戦後は自分の言っていたようになったのに、生き残った苦しさに心がねじれて、幸せではなかった。
お酒に溺れて死にました。

子どもの頃、夏休みに預けられている私を、川へ連れて行ってくれたりした優しい伯父でした。変わったところもありました。

この山や川は、誰のものでもないとよく言いました、そう言う自分は、資産を有する家を継いだ人間で、生涯労働したことが無く、内心に矛盾があったのでしょう、何かにとりつかれたように、家が所有するあれやこれを、あげたりだまし取られたり飲み代に代えたり無茶苦茶に蕩尽して、ほとんど何も無しにして死にました。・・・脱線しました。

・・・広島、長崎への原子爆弾投下は、戦争を終わらせるための手段として、とても「有効だった」と言う。アメリカはそう思っていると、周囲の誰も言わないことを子どもの私に教えてくれたのは、変人の伯父でした。

母は、実の兄である伯父が、私にそう言ったことを、怒っていました。戦争中でも米や野菜にさして不自由の無かった伯父が、町暮らしで空襲で家を焼かれて大変な、世帯持ちの妹・・母のために、何時間もかけて自転車の前後ろに積んで運んで来てくれる食べ物の一部、まだ沢山備えのあったという薬の数々を、広島の従妹に分けてやりたくて、ぎゅうぎゅう列車で持ち運んだ母が、そこで出逢ってしまったのが、八月六日の出来事でした。

食べ物をくれていたことは感謝、だけど、原爆が落ちたから戦争が終わった(終わらせることができた)というのは、むごいひどい言い分だ、と、母は、そこのところをを怒っていたようです。

無理もない怒りだと思います。私は、もっとずっと後に、その考え方が特別の一部のものでないことを、知りました。

原爆は、戦争終結のために必要な措置だったと。

・・・アメリカは、落としてみたかったのだろうと、私は、考えたりするのですが。一発の原子爆弾を投下して広島を焦土に変えたエノラ・ゲイ機のパイロットは、最後まで、自分は命令に従ったのであり、個人的に他の考えはない、という立場だったといいます。

それは、彼の立場では、そうなのでしょうね。



・・・私は戦後生まれです。向かいの家の、今で思えば五つか六つ年上だった男の子が、教科書に、墨で、線を引いているのを、不思議な気持ちで眺めていた記憶があります。

シンちゃんは、何本も、指定されていたのであろう箇所を、墨で塗りつぶしていた。

鬼畜米英、とか、一億玉砕、とかのフレーズが、消されて行ったのでしょうか。私が小学校でもらった(当時は買った?)教科書に、墨で塗りつぶすことはありませんでした。

私の母は三十歳を過ぎてから夜の学校へ通って猛勉強し、私が生まれた頃は洋裁のせんせいになっていました。戦後すぐは、アメリカ兵の「カノジョ」になって、新しい服を作ってもらう女性が猛烈にいたそうで、母のお弟子さんたちが、がんがん縫いまくっていたとか。

ものすごい強烈な緑色。ビリヤードの台の羅紗を剥がしたみたいに、毒々しいまでの真緑の、フレヤーがひらひらたっぷりのスカートを、彼女たちは欲しがり、流行したのだとか。

とにかくよぉ。名古屋人だった母は、とにかく、と、よく言った。

とにかくよぉ、と。

戦争が終わった、と聞いて、負けた、とか思わず、とにかくうれしかった、と。

「夜、電気つけて、ミシンかけれるもんなぁ」

終戦に対する、それが母の、真っ先に考えたことだったそうです。

電気はありがたいもの。

近眼・乱視・老眼を抱えた母に、電気は、本当にありがたいものだったのでしょう。

誰にもそうだったと考えます。

たっぷりの電気は、しあわせなものだった・・・と、考えます。

それが、今に、つながっている。

私も、ここから、黙祷を捧げさせていただきます。


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小出裕章先生のビデオ・メッセージを、ご覧になっていただきたいです。



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小出
「はい。皆さんこんにちは。京都大学の小出裕章、です。え…私は去年3月11日に福島原子力発電所の事故が起きて以降、たね蒔きジャーナル、にずっとお世話になって来ました。はじめに出していただいたのは、3月13日、だったと、思います。政府、東京電力、いわゆる御用学者と呼ばれてるような人たちが…、私から見ると途方も無いウソを…ついて。それが多くのマスコミで、流されていると、いう中で、たね蒔きジャーナルが私を…を発言をさせて下さった。私の知りうる知識をとにかくみなさんに伝えたいと、思いながら当初、ほとんど毎日のように私の発言を取り上げてもらい、ました。え…そのままずっと、事故がし…現在にいたるまで進行中で、え…原子力を推進する人たちの情報ばかりが、流れる日本のマスコミという中で、たね蒔きジャーナルという1つのラジオ番組は、大変貴重な役割を担ってきて下さったと私は思いますし、ありがたいことだと、思い続けて、きました。ただ、事故自身は、劇的に進行するという、時期が、すでに過ぎて、きましたので。いわゆる公共の電波を私だけがずっと独占するということは、私は気が引けましたので。少しずつ私の出番も減らして下さい、ということで現在は2回に、週2回になりましたし。出来れば、事故が、これから劇的にひどくならないのであれば、週1回にしていただいてもいいと、私は思いながら、きたし。たね蒔きジャーナルの人たちにもそう伝えて、きました。たね蒔きジャーナルというのは、もちろん原子力発電の問題だけ、に、関わってきたわけではなくて。ほんとうに重要な問題、を、ニュースの種を見逃さないと、いうことで、続いてきた番組でした。え…水野さんというアナウンサーの大変優れた個性もあったと思いますし、それを支えてきた、周辺のスタッフの皆さんたち、の大変な努力の賜物でできてきた、番組だと、思います。その番組がなんとか、これからも続いて欲しいと私は願いますし。万一福島第1原子力発電所の事故が、これからまた劇的に悪くなるというようなことが、起きるので、あれば、もちろん私はそれを願いはしませんけれども、起きた時には私の発信をまた拾って欲しいと、思います。え…そしていただけるのであれば、え…これまで私はたね蒔きジャーナルから出演料というようなものを頂いて来ましたけれども。え…それを全て返上して、これからやらしていただく、ということも、十分ありうると思うし。それでも…それで良ければ、存続してほしいなと、願って…います。え……水野さん…たね蒔きジャーナル、のスタッフの皆さん、え…なんとか、これからもいい番組を流して、ください。終わりです」

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KUONの久遠

Author:KUONの久遠
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四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

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