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佐理ちゃんのことも忘れていない

ジョディ・フォスターは佐理ちゃんに似ている。

「羊たちの沈黙」を見た時、まず思った。
眼窩のくぼみ方、細く通った鼻筋、小鼻の肉の薄い感じや、意思的な、やはり薄くしっかりした唇。部分部分も似ているが、ぱっと見た感じが似ている。目の色は違うが似ている。

ジョディ・フォスターは、言うまでもない、ハリウッドの大女優、スター女優である。
佐理ちゃんは、子供の頃近所に住んでいた、同い年の女の子。
実名で書かせてもらう、佐理ちゃんの名前は「佐理子」だった。

昭和20年代半ば、日本のどこでか生まれた時には、父親がいたのだろう。自分にそっくりの娘を、父親は「サリー」と呼んだのだろう、故国には沢山いる、女の子の、名前の一つで。
やがて父親は去り、母親は娘と共に残された。「サリー」が「佐理子」になたのは、その頃だろう。
私が佐理ちゃんと同じクラスになったのは3年生の時。
大人しい子だった。茶色い髪が、いつも寝癖でハネていた。
歯並びがとても美しく、笑うと、揃った歯がきれいに並んだ。
父親にばかり似た子だったのだろう。

佐理ちゃんには妹がいた。目も髪も黒い子だった。お父さんもいた。坊主刈りの頭の、腕ののコリコリした人で、私は、ものを言ったことがない。お母さんは、ちりちりのパーマ頭の人だった。佐理ちゃんを呼ぶ時、いつも、初めから怒鳴っていた。
佐理ちゃんの家にあがったことは無い。
当時、近所に沢山いた同学年の女の子たちも、あがらせてもらったことは無いと言っていた。
そういう家は、佐理ちゃんの家ばかりではなかった。
子供は外で遊ぶもの。そんな時代だった。
まりつきやゴム飛び、大波小波や、土の上に大きな円を描いて「陣地取り」。
あちこちに広場があったし、道路にも、今ほど車は走っていなかった。
自転車で、名古屋城の堀端まで漕いで行って、50も100も、紋白蝶を捕まえた。
私は体を動かす遊びが得意でなく、お城まで行くのも大儀で、家で一人で本を読んでいることが多かった。
腎臓病で長く学校を欠席したこともあり、あの子はジンゾー悪いから、と、一緒に遊ばないのを見許してもらっていた部分もある。

向かいの家のエイコちゃんの家の玄関には「遺族の家」という表札のようなものがかかっていた。本読み虫で知りたがりの私が聞くと、母は、エイコちゃんちのオバサンのだんなさんは、戦争で亡くなって、オバサンは、弟さんともう一度結婚した、それが、エイコちゃんのお父さんとお母さんだと、教えた。私の母は、小学生に向いても、アレンジ無しでそのまま、そういう話をする人だった。
母の言う「戦争」とは、アメリカとした戦争だろう。

近所のおじさんや、おばさんや、市場でものを売っている人たちや、学校の先生までが、佐理ちゃんへの態度が、他の子に対するのと、違う。
佐理ちゃんは、真面目で一生懸命授業を受ける子だったと思うが、あまり成績は芳しくなかったようだ。
地球儀を作る授業の時に。
先生が、ここを切り離してはいけない、と、注意されたところを、佐理ちゃんは切ってしまった。
先生は、さぁりぃ。そう言ったきり、佐理ちゃんの机を離れた。そういった雰囲気を読むのに長けた男子がいて、寄って行って、うわっぁぁ、と、大げさにはやした。
あれだけ言われたのに、と、はやした。やっぱりぃ、あいのこは、こうだな~。
佐理ちゃんは、黙っていた。
このことに、それは関係ないだろう。
思ったが私は、何もしなかった。できなかった。

父親参観日というものがあった。
詳しいことは忘れたが、佐理ちゃんと私は、初めて二人だけで、帰った。
スキップして帰った。
ごめんねと私は謝った。
この前、何も言えなくてごめんねと。
そんなぁ、と、茶色い髪に太陽の光を宿して、佐理ちゃんは笑った。
「わたし、たーけなもんで、いかんだわ」

私達は、四年生も同じクラスになった。
佐理ちゃんは、掃除を丁寧にする子供、という賞をもらったりしていた。

母親の元を離れて、遠い中学へ進学することになった私に、佐理ちゃんは、年賀状の交換をしようと申し出た、そして、大人になっても私達は、年賀状を交し合った。
誰とも長く続かなかったのに、佐理ちゃんと続いた。
時代は「ハーフ」を歓迎する風潮に移って来ており、佐理ちゃんにも華やかな風が吹いていたようだ。
年に数回会っていた母と、たまたま佐理ちゃんの話題になって。
「今は、ええ顔できるわね、あの子も」
母は何気なく行ったのだが、私は、佐理ちゃんが越えてきたものを思って、うなずけなかった。
ハーフって、かっこいいから、今は、いい顔できる、そう言うのですか、お母さん。
私は、なぜ自分の母親に、あんなにも厳しい目を向けていたのだろう。
ごめんね。

先に結婚したのは、佐理ちゃんだった。
律儀なだけの職人だけど、優しいから。それが佐理ちゃんの「のろけ」だった。
男の子が生まれ、女の子が、生まれて一つになった頃、佐理ちゃんは、結婚したての私を訪ねて、奈良へ来てくれた。
夫が、車で、あちこち案内してくれた。
奈良公園では、小さな「れな」ちゃんを肩車してくれた。
眠ってしまった「じゅん」君を抱いて、歩いてくれた。
たった一泊ではあったが、佐理ちゃんは、数え切れない「ありがとう」を言ってくれた。
西大寺の駅まで送った。れなちゃんを、おんぶ紐でおぶって、じゅん君の手を引いて。
立派なにっぽんのお母ちゃんの姿だった、その佐理ちゃんを指さして「ガイジンが子供おぶっとる」大きな声で叫ぶ子供がいた。
佐理ちゃんは、全く気にしない様子で笑っていた。
私も、気にしなかった(覚えているが・・・)。
優しいだんなさんでいいね、と佐理ちゃんは言った。
「人に、あんな親切にしてもらったことがない」
きれいな歯を見せて笑った。
私は、少し泣いた。
夫は、まさに、私に一番やさしい人であったので。

私が長女を産んで、次の年の年賀状に、佐理ちゃんからのものが無かった。
おかしいな、と気になりつつ、慣れない生活にあたふたしていた。

春になって、見慣れない文字の葉書が届いた。
妻、佐理、去年六月十八日、永眠しました。

内容はそれだけ、小さな文字だった。

何年たったのだろう。
今日が、斉藤佐理ちゃんの命日だということだけ、覚えている。











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  1. 2011.06.18 (土) 12:34
  2. URL
  3. yuuta
  4. [ edit ]

No title

KUONさん
読ませていただきました

「拍手」のカウントをポチするのもどうかと
躊躇しながら、、、でもポチしました

あなたが書かれる物読んでいると わたしのなかでも
ふつふつと浮かんできます 
思い出したくない事も もう1回思い出して
今の自分が整理すると 少し抜け出せたかなと
感じるときがあります
それがエネルギーとなる、、、最近わかりました

いつもありがとうね




  1. 2011.06.21 (火) 18:32
  2. URL
  3. えま
  4. [ edit ]

No title

kuonさんこんにちわ

kuonさんは

柔らかい心をおもちだなって思います

そして強いけれど偏りのない

大人びたお子さんだったのですね

そんなような気がして・・・

kuonさんの文章は

美しい言葉をならべていないのに

優しいやわらかな響きがあります

kuonさんの文章

好きです

ありがとうございます

 管理者にだけ表示を許可する
 

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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

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