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返事の中までKUONです。

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秀樹さん。

朝丘雪路さん亡くなったと。

「雨が止んだら」という歌、大好きです。若かった私が心底しみじみ、毎日、ラヂオから流れるあの歌声を聴いていた、歌詞に涙腺ゆるんでいました。

星由里子さんも、私は、あの加山氏方面の明るさやセイシュンのありようなどに遠く存在していて(青春は暗いものであらねばならぬ,、の思い込みが強烈であった)、映画とか見たことも無いのですが、先日も健康コーヒーのCMにゆったりと出演しておられるの観て、きれいでおんなの人らしくて立派なもんやなあ、と、感心していました。

夫さんに、最後の呼吸困難の時は抱き抱えられるようにしてもらって、と今朝読んで。よかったなあ、全うされたんだなあ、立派だなあ、と、このところ「立派」なんぞというフレーズが、私の持ち言葉になっているようです。

数日前に珍しく長々と見ていたテレビ画面で、郷ひろみを見て。

やたら御大ぶって(と見えた)やたら消息通ぶって(と見えた)やたら気さくなボク、ぶって(とも見えた)人を立てることを知らない司会者役(で、すごく唄いたがっていた)の五木 ひろしの傍らで、郷さん、とても繊細な人なのがわかりました。もう一人画面の中にいた布施 明さんも、豊かな感じが出ていて、しかも歌、超絶うまいし、感じよかった。いっとき、歌、ずれずれ崩しの危険ゾーンにはまっていたのに、きちんと唄う当たり前路線に戻しておられるの立派。

どなたにしても私は私生活には関心ない、表現者として出して来るものがよければ何をしておられようが、との考えです。郷さんは、全くすれていないのが見えました。体系維持も声量変わらずも立派、と思って見ていました。郷ひろみのファンだった時代は一切ないのですが。内緒で言えば、新曲がヒットするか否かは、私にはわかりませんが。

残って行く人は、違う。

・・なんぞと。こんな番組また見たいわね、とか思っていた日に、西城秀樹さんの訃報を聞きました。

秀樹。ヒデキは、私ではなく、私の長姉の救い主でした。

十一歳としの違う私の姉は、あの当時、下は保育園から上は中学生の四人の子どもを抱えて。

親の許さない学生駆け落ち結婚の結果、まだ生後半年だったいちばん下の子も軌道に乗り始めていた小さな会社も振り捨てて、姉の夫は、買ったばかりの車の助手席に事務の女性を乗せて、遁走。

あれこれあって、伯父の家の離れの二間に、姉と四人の子たちは身を寄せて。住むところをそうして授かったのは幸運でしたが、姉の生活は大変でした。伯父は、姉の母にも(私の母でもある)姉の妹二人にも(次姉とワタシ)、いっさい経済的な援助をすることならぬと厳命して、自分も猛反対したあげくに行ってしまい、四人の子を手元に置くことだけを条件に離婚することになった姉を、自分のところへ引き取ってくれたのでした。

姉の生活の大変さは、書けば長くなります。とにかく、子どもたちを食べさせて、学校へ行かせて、風呂に入れて寝かせて。宿題は各自の責任でする、と叩き込んで。夕方少しだけ早めに帰宅できる託児所の仕事に通っていました。いちばん幼かった末っ子の甥は、違う保育所へ行っていました。

姉と姉の家族の楽しみはテレビでした。昭和4年代から50年代、そういう家庭は普通に多かったと思います。

テレビが家族みんなの楽しみであり得た時代だったのですよね。歌謡番組、ドラマ、花盛りでした。

姉のごひいきは西城秀樹、ヒデキ~っでした。欠かさず漏らさず見ていました。当時のテレビは(よそは知らず姉宅のテレビジョンには)、その時を捉えて、必死で、しっかりと、見るだけ。そんなテレビでした。

必死で姉は、ヒデキを見ていました。子どもたちに自己流の説明、演説をしかけ、番組都合によっては食事の時間を前後させ(ヒデキに関してだけ許される家庭内特殊事情)、文句は言わせない。

これでお母ちゃんは、元気で楽しくいられるのよ、ヒデキだけは見せてもらうわよ。」

子どもたちも、文句言わず。叔母である私が、そういう時の懐柔策として姉に渡しておく、皆の好きなお菓子とか。いつもは許可されない炭酸飲料とか。そういった奥の手を駆使しつつ、三十代で四人の子のお母ちゃんとしてのみ生きていた姉の日々は、過ぎていたのでした。

順番に記すと、長女はいささかシビアに母親を眺め、自分は、ヒデキでない方へ関心を寄せていた。横溝正史とか。長男は、私が与えたフォークギターを飽かずさわりまくるようになっており、母親がヒデキさま没頭中は、うるさいと叱られるから、弦の下にタオルを敷いてテレビに最も遠い場所でコード進行をまさぐっていた。二番目と年の離れた次女は、いつもは自分に回ってこない「お母ちゃんの傍」の位置を、そんな時は確保できるのが嬉しくて、可愛く口をいっぱいに開けて母と一緒に「ジュウリィイイイ」と叫んでいました。ドラマの中での「ヒデキの祖母ちゃん」のあの、超・有名なシーンのことです。末っ子の次男坊は、小学校低学年の頃から、ひとりでもくもくと「ものを考えている」子どもでした。そのままずっと考え続け、定時制高校から遅れて大学に入り、学習塾も家庭教師も縁のないまま黙って頑張りぬいて、人より遅れて司法試験に受かりました。母親は男性問題いっさい無しで走り抜けたし、母親の「オトモダチ」からガッコ行く費用やら誕生日にテーコクほてるでご馳走になるやら、そういうこと無しで。先日会った時に

「あのパラリーガル、どうよ」

と言ったら、ああ、と笑って。ああ、ねえ。と、笑っているばかりなのであった(笑)。

姉は最終的に長女のもとに身を寄せて、共働きの夫婦の助っ人として(私の初めての姪にあたるその)娘の、ここも男女二人ずつの四人の子を、祖母として手塩にかけました。四人ともぜんぶ、大学を出て、結婚しています。姉はいま、78歳になりました。ときどきお菓子など送ると、お礼の電話がかかり、その電話はたいへん長いものになるので、電話苦手のワタシは覚悟を決めて相手する感じになります。

昨日は私が電話しました。姉は喜んでくれました。とりとめのない話をして、不意に姉が、〇っちゃん(私)は、と言い出しました。

「あの歌が好きだったねえ」

西城秀樹の「ブーツを脱いで朝食を」という歌のことです。その歌を、私も、好きでした。

「ブルー・スカイ・ブルーも好きだったね、〇っちゃん」

確かにそうでした。私は胸の詰まって来る思いでした。確かに私も、西城秀樹のそれらの、甘いハスキーな声の良さの発揮された歌が好きでした・・・しかし。姉は、自分は全部好きだから一曲だけは選べないのかも知れませんが。

若くて時に思いやりのない妹だったであろう私の、昔の好きだった歌のことなど、覚えていて。話を振ってくれて、私は寂しいだろう、と、慮ってくれたのでした。姉妹とはいえ、父の早世などあれこれあって、一緒に育たなかったし、いろんなことがあった、世間一般の姉妹のようには過ごせない時代の方が多かった、でも。

父が生きていた幼い頃、その日は家風呂が使えなかったのだと思います。長姉と次姉と私と、三人で銭湯へ行って。

帰りに、曲がり角にあった店へ、連れて入ってくれた。

ラムネや駄菓子やお好み焼き(おもんじゃ、と呼んでいました)、鉄板の傍に大きな鍋に串刺しのこんにゃくやごぼう天や、豪勢の極みの茹で卵が、逆さまに突っ込んであって、ぐつぐつ煮えていて。店のおばあさんが、こんにゃくを抜き出して、傍らの手拭い(だったのだと思う、実は現代の基準に照らして言えば、雑菌まみれの雑巾、というしろものだったと思う)に、ぱんぱんと叩きつけて水分を落とし(やはり雑菌まみれの・・以下、略、それでもその食べ物は嬉しいものでした)鍋の真ん中の容器に煮えたぎっている甘味噌にどぷんとつけて慌てて取り出し(想像されるの正解、味噌が余分について減らないように細心の努力を)はい、と手渡してくれる・・母は一度も連れて行ってくれなかったその店に、おそらく父にもらったのであろうお小遣いでもって、連れて行ってくれた姉。みかん水も飲ませてくれた。私の洗って濡れた髪を、耳にかけて

「ヘップバーン」

と笑った姉。お好み焼き屋の鉄板の横の壁に「ローマの休日」の、オードリー・ヘップバーンの、アン王女の姿の切り抜きが、貼り付けてあったのでした。

店主はおばあさんでしたが・・・。とにかく。

姉は父のお気に入りの長女でした。当時はすでに、学寮のある高校へ入っていて、家にはいつもはいなかった。たまに帰ってきての、大盤振る舞いだったのだと、後で気づきました。春に高校へ入り、夏に帰省、そして

それからほどなく、十一月に死んだのでした、私たち姉妹三人の父は。

・・・苦労の盛りの時期、激しい物言いをし、母に辛く当たり、自分優先の態度が、苦労知らずでのほほんとしていた私の目に余って、姉だとはいえ好きだとはとうてい思い得なかった時期のけっこう長かった姉。

いまは、本当に、穏やかに暮らしています。娘夫婦と三人の暮らし、何もないとは言えない、とうぜん、いろんなことが、大きく小さくあるのは、当たり前のことと思います。でも、いまは平穏に暮らす姉。

カセットテープに歌を採ることができるようになった頃、懸命にヒデキ・テープを作っていた。

いい子だ、いい子だ、と言っていた。昨日も、ヒデキ頑張ったんだねえ、と、感慨深げでした。一人で追悼特集になる自分用の何か、せっせと制作しているのだと思います。

西城秀樹さん、どうもありがとうございました。

あなたの歌や、ドラマで見せる姿や、いろんな場面。激しさ優しさ、独特のセクシーも。私の姉は、大変だった時期を、秀樹さんに救われたのだと言っています。文字通り、そうだったと思います。姉の頑張りを、今だからきちんと私も見られます。ヒデキさんに感謝します。

ありがとうございました。

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  1. 2018.05.20 (日) 22:20
  2. URL
  3. まりりん
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新御三家の中では、郷ひろみ推しでした。
五木さんがそんな態度だったと感じられたのですね。
ヒデキは確かに、セクシーでカッコ良かったです。
歌も上手かったですし、絶叫系の歌い方はファンの心を掴んだと思います。
「寺内貫太郎一家」の演技は新鮮でした。
樹木希林さんとの掛け合いで、必ず「ばあちゃん、きたねぇよ」という台詞が毎週出て来ました。
「じゅりいい〜」も毎週出ましたね。
久世演出と向田の成功ですよね。
グループサウンズの後にフォーリーブスがアイドルとして来て、その後の新御三家と認識しています。
あの頃は歌番組も沢山あって、楽しみが沢山ありました。
今は
TV、見たい番組が無いです。
あの頃が懐かしいです。

無邪気にTVを見ていた時代です。
  1. 2018.05.21 (月) 13:48
  2. URL
  3. たまき
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父と母が生きていた頃、
テレビから芸能人の訃報が流れると
「まっ!あんなんも死んだか。。。」と
感にたえた風情で言っておりましたが。

その頃の芸能人は私には遠く遠く身近な存在ではなくて。

いま、その感じがようわかります。

あの人もこの人も死んでゆくな〜
一緒の時代を過ごした人達が次々と
逝ってしまうなぁ、という
狼狽と惜別と感慨と。

そして、自分ももう遠くないなぁと
いう想い。

ほんに人生って一瞬でしたわ。
振り返ってみると。
  1. 2018.05.21 (月) 20:04
  2. URL
  3. KUON
  4. [ edit ]

・まりりん さん

いやいや。五木さんのことは、私の個人的な感覚だったかもしれません。おそらく「いい人」で「まじめな人」でもあるのでしょう。ただ、私の好きなタイプの「いい人」「まじめさん」でない、と。それは、もう何十年も、漠然としっかりと、感じていることで。あまり気になさらないで下さいね、私、毒持ちなので(笑)。

郷さんは全くすれない人に見えます。すごいことと思います「哀愁のカサブランカ」とか「ナタリ~」の「黒い瞳」など、いいなあと聴きます。

ええと。フォーリーブスは、先ではなかったですか? どうでしたか、私の中学時代はともかく。ザ・ビートルズ。それは続きましたが、高校の寮、全員に一台しかテレビが無かったのですが、朝、必死で支度をして「720・・セブンツーオー」という、まんまのタイトルの7時20分からのGS番組を見てから,どたどたと出て行ったのは確かなんです。武道館公演も、寮のテレビで皆でコウフンして観た・・土砂降りの雨の夜でした。

仰るように今は、見たい番組が無いです。でも、昨日、部屋の中で鳴っていた大河ドラマを眺めるともなく眺めていて。

西郷さんの島での妻、愛佳那を演じていた女優さん・・迫力あった、すごかった、二階堂ふみ さんですか。可愛くて切なくもあり。久々に次週の待たれるドラマに出会った気がします。

「ニューヨーク恋物語」とか、むかし、よかったなあ。

無邪気にTVを見ていた時代、懐かしいですね。


・たまき さん

同じこと思いますね。

>その頃の芸能人は私には遠く遠く身近な存在ではなくて。
>いま、その感じがようわかります。

そうそう、そういう感じ。このたびのヒデキさんは、虚を突かれた感じがありました。大杉漣さんは、そんなに昔から知っていた人でなかったけど、秀樹さんは独身時代からの「お知り合い」でしたもの。四つ年下ですし。私はあの時代は沢田研二、だったとはいえ。

これから、じわじわと、来るのでしょうね。

>そして、自分ももう遠くないなぁと
>いう想い。

独身時代からの友達は、↑ のごとく言うと、本気で「やめろ」と怒る。人生100年時代に、と。友をアホか、と思うわたくし。そんなに生きてどーするんだよ、何するんだよ、願わくば70代半ばくらいでひとつ、と、それも厚かましいことを思っておりますが。(笑)。

>ほんに人生って一瞬でしたわ。
>振り返ってみると。

いやいやそれはそれで、気の早いお言葉。まだ終わり近くでもないですよ、きっと。でもダラダラと暮らしているんですよ、ホントに・・・
  1. 2018.05.26 (土) 23:23
  2. URL
  3. きく・かおる
  4. [ edit ]

Kuon様こんばんは

5月というのに夏日で暑い日が続いておりますので、お身体大切にお過ごしください。

本日秀樹さんの告別式で、従姉が参列しました。もちろん中には入れない一般人ですが。紀子さまや小室母と同い年の私より一回り年上なので、多分秀樹さんとは同世代。
Kuon様のお姉様のお話を伺って、テレビに居住まいを正して向き合い、一挙一動を見逃すことなく、秀樹さんの歌に聴き入っていた従姉の姿を思い出しました。

弔辞を読んだ五郎さんが衰弱していたのが気になりました。あれから毎日泣いている、とのこと。奥さんに先立たれた配偶者ロスのお父さん、みたいになっていて、このまま病気になってしまうのでは?と心配です。
ひろみさんは気丈にふるまっていました。内心は五郎さんのように悲しみでいっぱいなのでしょうが、それを表出しないのが彼なりの美学かも知れませんね。

秀樹さんのご冥福、ご家族の今後の平穏無事をお祈り申し上げます。
  1. 2018.05.27 (日) 21:14
  2. URL
  3. KUON
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・きく・かおる さん

こんばんは(今は夜です)。今年は暑くなるのが早いのですか?。ちょっとつかみ切れていません。毎日、ここには風が吹いていて、室内は暑くなってもベランダに出ると風が涼しく、空は青く海は濃い青で。いつまでここで暮らせるのだろうと考えます。最後は施設に入ろうと考えていて、それまでは、できるだけ、今のこの部屋に過ごしたいのです。

秀樹さんも、いつの頃ですか、バリ島に別荘をお持ちでしたね。テレビで見た記憶、プールもあって、バリ風の素敵な家具が配されて。素敵だなあとうっとりしながら、でも、行くのにけっこう時間がかかるし、遠くの別荘、すてきだけど大変では、など、頼まれもしないのに心配したりしていました(笑)。あの別荘は、手放されたのかなあ・・・。

従妹さん、秀樹さんのファンでいらした。驚かれたでしょうね。でも、これは本当に感じていること。大事な人は亡くなると、遠くにいる生きている人より、うんと近くに。それこそ体の中に、いてくれるようになると。

手に触れられない誰かは、どれだけ好きになっても大丈夫。思う存分、好きになっていい。なれる。ある意味贅沢な存在になってくれる気がします。

従妹さん、お寂しいでしょうが、何か感じておられるのでは・・。確かに早すぎたとは言えるけど。

五郎さんも、気持ちの柔らかい方で、でも、ご自分の家族もいる、護りたい存在がある、一所懸命生きて行かれると思います。郷さんも、前向いて行く方だから。

これから、こんな風にええっという訃報に接することが増えるのですね。

ひとつずつ、受け止めて行くしかない・・・。




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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

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