KUONのブログへようこそ。

返事の中までKUONです。

  1. 今の思い
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「火垂るの墓」

明日は退院できそうとのことで。

目の力がやや戻り、昼ごはんもほぼ完食、平熱に戻った夫を病室に置いて、帰ろうとした。

安心すると同時に、何もしなくても「ああ疲れた~」感があり、このまま帰宅するのもつまらないな、と思い、でも、さてどこで何をしようやら。

タクシーで帰ろう、一気に帰って、のんびりするべし、と。目の前に来たタクシーに手を上げて乗り込んだ。

なんでそういうことになったやら、そのタクシーで、一度は行ってみたかった「ニテコ池」へ行くことになったのだった。

ニテコ池は、アニメーション映画の好きでない私が、唯一何度も観た、途中で涙にむせて見られなくなって、また必死で見続ける、という映画の、舞台の一つ。「火垂るの墓」。野坂昭如原作。

原作は私の十代の終わりに発表されたもの。すぐに読んで、以後、憑かれたように野坂作品を追いかけたきっかけになった、手垢のついた言葉で言えば、「青春の書」の一つ。

アニメ化されてすぐに観たし、実写版も観た、それまで(今も)どこがいいのか全くわからなかった松嶋菜々子が演じた叔母さんは、それなりにリアルで。時代を思えば仕方が無かったのだよね、と、いささか感情移入もできた気がする。

何より。

節子。せっちゃん。

「兄ちゃん。おからの炊いたんあげましょね」

節ちゃん。父は戦火に紛れ、母は空襲に焼かれて死に、非常時でなければ穏やかな付き合いの親せき宅であったであろう家に、いられなくなって、まだ子供と言っていい兄の清太に守られ、頼ったが、つまり飢えて死んでいった。

一缶のドロップが、節子の宝物だった。ひとつずつ大切に食べて、でも、無くなってしまった。節子はさいご、洞窟のなか、起き上がれなくなった身で、石ころを口に含んでいた、食べるものが無くて。兄ちゃんは、空襲の町を、燃え上がる家々を駆け回って「どろぼう」のようにあれこれかき集めて、なんとか妹と自分を生かしてやろうとしたのだけれど。

汗疹だらけになって痩せ衰えて、節子の幼い命の果てたのが、この「ニセコ池」のほとりだったのだ。

なんでか、タクシーの運転手さんと「御影」の話になり、そこから夙川の話になり、野坂昭如の話になった。地元の人だったのです、運転手さん。

「まだありますよ、ニテコ池」。

そう聞いて、胸が震えた。そんなには変わらずにあるという。

行きたい、と思った。清太が、妹の軽くなってしまった亡骸を、一人で焼いた水辺。

節子の骨は、ドロップの缶に収めた。池のまわりには蛍がいっぱいだった、蛍の乱舞の光が、いくさの犠牲者である幼い節ちゃんの、葬送の光になった。

行きたい、そこへ、と思った。

で、行って来た、タクシーに乗ったそのままで。

・・・野坂昭如は、ほかの著書で、自分は小説のようなあんないい兄ではなかった、と書いていた。年齢設定も事実と違うし、と。自分は、ひたすら、おなかが空いて空いて耐え難かった、妹の面倒を、そんな充分に見たとは言えない、必死だった、おぶって逃げたけど、妹にはどうしても分けてやれず、自分だけが食べてしまった時もあった。そんな風に書いているものも、私は読んでいた。
泣かれてどうしようもなく、叩いたこともあったと・・・。

清太のようには死なかった野坂昭如は、浮浪児の収容所に入れられて、飢えてお尻の肉が減って行って、毎日、今日死ぬのはあいつか、自分か、と、それ以外に考えることが無かった中から、奇跡のように救出され、頬の肉を増やし、大学へも入り、爆発的に売れた歌の歌詞の作り手にもなり=「おもちゃのチャチャチャ」=直木賞作家にもなった。

宝塚出身の夫人との間に生まれた、自作の子守歌までつくった大切で可愛くてたまらない娘について書いても。

「この娘が缶を開けて食べきることもなく放り出すビスケット、クッキー、これをまとめて、あの、飢えて死んでいった妹に、食べさせてやりたい、そんな衝動を抑えられない」。

とも、書いていた。

・・・一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹と、虱で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。(中略)ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。
                  — 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」・・・


今に残るニテコ池、ここを舞台に妹の鎮魂めの小説を紡いだ、およそ50年前の野坂昭如。

それと知らなければ、水のいろの薄緑色の、どうということもなさげなニテコ池。

周囲は超のつく高級住宅街、経営の神様と称されたかの松下邸もあるらしい、他のどの家についているのか、SPの姿がほの見えた。

穏やかな晩年を生きて逝った野坂昭如は、どんな思いでこの池を眺めていたのだろう。

・・・一人でぼんやりとたたずみ続けた私に、行きますか、と声をかけて、タクシーの運転手氏は車を出した。

家まで送ってくれた。支払い時、こんな金額で済むはずがない、と思われたので、聞いてみたら、走った分はちゃんともろてます、との答えだった。滞在中はメーターを動かしていなかったようだ。

「メシ、食うてる時間くらいでしたわ」。

「もっと他のとこも、よかったら見に行って下さいや」

そういわれるのに、ありがとう、と請求された分だけお金を渡して、去って行くタクシーに、頭を下げた。

あの池の周り、蛍が舞いかわすことは、もう、無いそうだ。


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  1. 2018.04.11 (水) 01:14
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  3. はるせん
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妙なコメントなんですが…
「火垂るの墓」の、記事読んでないのです。読めない。
スーパーでたまたま、サクマドロップ見ただけで、動悸…。
情けないけど、トラウマです。

可哀想で、可哀想で。
この思い昇華したいなぁ。
ぐじぐじと、いつまでもあほみたい!
  1. 2018.04.11 (水) 10:23
  2. URL
  3. [ edit ]

No title

おはようございます。

ロッロップ、ロロップ
兄ちゃん、きーき痛いのん?
はじまりのあのサントラも聞くだけで
すぐ泣けてきます。

まだ、あの池があるんですね!!
最後のシーン
もぬけになった池辺のお屋敷で
ピアノの音が流れてくるのも
不条理を感じ、これまた涙でした。

仕事の担当で
マンガなんて嫌やなぁと思いながら
会社の試写室でトトロと二本立て
見た時は、トトロも新鮮でしたが

もう・・・節ちゃん嗚咽ですわ
試写で見ていたええ大人達も
出てきたら目真っ赤かで、
その日後が仕事になりませんでした。

それから毎年恒例のようにお盆には
テレビで再放送するようになってましたが
この数年、見ませんね。
再放送観る度に嗚咽です(泣)

でも、最近チョット考え出したのが
あの兄ちゃんがもっとしっかりしてれば
節ちゃん、蛍にならなくて済んだやろうに

もし、新世界のチエちゃんのような
女の子やったら
『うちは世界一不幸な少女やねん』って
ホルモン焼きながら、
おっちゃん達に育てられたやろうにな・
下町で逞しく育たないとあかんなぁと

まだ20歳前
大和郡山の君に付き合いだして
スグにもらったのが
多分、野坂さんの『愛人ヨーコの遺書』って本でした
深い意味もこめて
なんでやねん!!!(笑)

実家の本棚に埋もれてるも
内容忘れてしまいました、もう一度読み直したいです
深い意味もこめて
なんでやねん!!!(笑)

ご主人、良かったですね
戻られたら、お世話、家事・・・
お疲れでませんように

PS.
TV見ながら書き込んでるんですが
たった今、高畑監督追悼番組
『蛍の墓』今週金曜に再放映ですって!
見なくっちゃ!


Nちゃんより



  1. 2018.04.11 (水) 11:53
  2. URL
  3. パール
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むかし むかし・・・

KUON様、こんにちは。
ご主人様、ご退院とのこと ようございました。
お疲れの出ませんように。

ニテコ池に行かれたのですね。
日本屈指の高級住宅街の並びの地にありますね。
ごくごく普通の池で、あの哀しみが・・と思いますと
何とも言い難い 胸の重さを感じます。
むかし(若い女子だった頃)行ったことがあります。
まだ映画になっていない時です。
小説を読んで「ここなの?」が正直な感想だったと記憶しています。
アニメは何度か、実写版も見ました。
本当に、野坂氏はどんなお気持ちだったのでしょうか。

松下邸も見ました。(ミーハーですみません)
年賀状が2万枚ほど届くので、郵便局の配達の方が二人みえて
新年のご挨拶をされると聞いたこともあります。
都市伝説かも(笑)
昭和の高度成長期は、有名料亭「はり半」もありましたし
財界人、文化人も多く集った良い時代でしたのでしょう。

Nちゃん様
蛍の墓、再放送の情報をありがとうございます。
涙やら鼻水やらで とんでもない顔になりますが
見逃さないように致します。
  1. 2018.04.12 (木) 06:59
  2. URL
  3. ラム酒
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No title

ドロップと ビスケットとクッキーの話が悲しいです。

豊かな時代の豊かな家に生まれ育った娘さん…と
戦時中を体験した多くの人のもどかしい思い。

あの時、薬があったら、、、
水があったら、、、
最期に甘い物を口に入れてあげたかった、、、

親戚から、「あの時、最期に、、、」
よく聞かされました。

久しぶりに思い出しました。
  1. 2018.04.12 (木) 08:19
  2. URL
  3. ROM
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No title

「火垂るの墓」、私にとっても衝撃でした。本を読んであんなに本気で泣いたのは初めてでした。
けど、歳をとるにしたがって、むしろ「作品」よりも、その野坂氏本人の言葉のほうが実際に辛い気持ちになりました。
空腹に耐えがたく妹に分けてやらなかった自分、泣いているのを叩いた自分をどんなに責めて苦しんだかを思うほうがたまらなかったです。
五木寛之の「大河の一滴」にも、満州から引き上げるとき、10代半ばの五木少年が、体の弱い弟さんの手を引いて逃げた時の五木さん自身の心象が書かれていて、同じようにたまらない思いがしました。
私自身、介護した両親の死を自宅で看取ったことで、すまない気持ちだけが残り、さらにそのたまらなさが深くなった気がします。
  1. 2018.04.12 (木) 13:33
  2. URL
  3. KUON
  4. [ edit ]

No title

こんにちは。

おっとは退院しましたが私が風邪ひいております。大したことは全くないのですが、どろ~~んとダルい。薬飲んで美味しいもん食べて寝て寝て、今週中に治そうと思っとります。

来週は、御影公会堂、というところへ、行ってくるつもり。せっかく近くにいるのだから、行っておきたい、のところへは行ってみる。戦火を免れ大震災からも残った建物。

「火垂るの墓」に出て来ます、そこも。車を運転なさる方には、ちょいとそこまで、でしょうが、私にはプチ遠征。とろ~りと、行こうと思っています。

地下のオムライスが絶品、なのですと。(笑)。


・はるせん さん

妙なコメントとは思いませんよ。

>ぐじぐじと、いつまでもあほみたい!

とも思わない。お気持ち、そのままなのだと思います。

なんか、タカハタ氏が亡くなった後で、これこそ妙なタイミングの記事になった気もしますが、こちらへ来るとなった時から、考えていたことでもありました。奈良では、それなりに、それなりのところを訪ねておりました。これからは阪神間のぶんがく的な遺産の場を、ゆっくりと確かめたいなと考えています。

はるせんさん、はるせんさんのように、おられたらいいのではないのでしょうか。いつまでだって、哀しいです。


・Nちゃんさん

泣いた、泣いたとことさらに言い立てるのも恥ずかしく、たいていは黙っておるのですが。観ている間だけでなく、また当分残ってしまうのは事実でしょうね。

う~む。私は実は、正直なこと言いますと、チエちゃん苦手かも。あの魅力は(たぶん)客観的にはわかる、漫画も、全巻貸すから絶対読破しなさいと友に命じられて持たされて(笑)、少しは読んだ、底抜けに明るい世界の、あの漫画の「よさ」は、わからないではない、でも。

オールウェイズ・タメ口のあの世界、わたしどう対応したらいいんだろうと。ビビる。単に個人的な感想ですけどね。

で。これも私の感想。作品中の四歳の節っちゃん、野坂氏の現実のまりこちゃんの一歳四か月。当時。そのどちらにせよ、中学生の少年が、寄る辺ない戦時中に、守り抜くことは、やはり、困難だった気がします。清太一人なら、どうやってでも生き延びただろう、が、幼子を連れては、ものすごく困難だった気がも、私には、します。

私の思いでは、ああなるまではええしのボンやった清太少年、よう頑張った、大変やったやろにね、という感じ。この思いは、どうしても書き留めておきたかったの、気になったらゴメンね。


・パールさん

訪れられたことがおありなんですね。ほんと、ここなの?の感はありました。でも、そんなものかもしれませんね。

タクシーの運転手さんは、他にもいろいろ話して下さったのです。(私けっこう運転手さんと話してしまうのです、一緒に乗っていた男友達に叱られたこともある)、回生病院はあちらの方で、とか。

長く住んだ奈良には愛着があります、いいところでした、が、昔から、いつか神戸に住みたい気持ちがありました。山と海と街、ぜんぶあるじゃん(笑)。去年の暮れに結婚した長女のお相手さんは、ご実家が御影。うげ、敷居が高いわ、と一瞬揺れた(笑)。大丈夫ですが。

震災で、いろんなものが壊れてしまった街の、でも残っているものを、ゆっくりと訪ねたいなと考えています。美味しそうなごはんの店も、もちろん(笑)。

明日、また観たら、当分残るだろうな。でも見せてもらいます。


・ラム酒さん

戦中戦後の話を、婚家の姑に、たくさん聞かせてもらいました。一緒にいる時間が多かったし。大阪の駅近くの地下道やそこらに、お札を握りしめて死んでいる人が沢山いた、とか。お金はあっても食べ物に代えることのできない人は、きっと、勤め人だっただろ、とか。姑の実家は大きな農家で、よく言われるように着物や壺やなんでも持ち込んで、食べ物に代えて欲しいと仰る方がたくさんいたとも。

親を亡くした子供たちが群れてかっぱらいしていたとか、中学生くらいの女の子が子供を産んで縊り〇したとか、の話。

短歌の先輩方にも、引き揚げて来られた方、何もかも焼かれてしまった方、おられて、私は肩身が狭かったです。

>親戚から、「あの時、最期に、、、」
>よく聞かされました。

時の流れの中に消されていった、いろんな思いが、溢れるくらいにあるのでしょうね。

末期の水さえ叶わなかったのですからね・・


・ROMさん

野坂氏と五木氏は、私の20歳前後、焼け跡派、闇市派、対談もよくされていた。

五木さんは、引き揚げの途中でお母さまの酷い目に遭う様子を目撃する羽目になられて。野坂さんは、孤児の浮浪児になって収容所に入れられて、明日死ぬか今日か、という中、実のお父さんに助けられて。野坂さんは神戸の名家へ後継ぐために養子にやられたお子で、実のお父さんは新潟県の知事。一人だけ命拾いして「助かった~」はもちろんだったでしょうが、自分だけ、の思いも,のちには出て来られたのでしょう。辛かったでしょう。

作品は作品として確固として立つもの。でも、

その背景をしることで、読者の方はまた、さまざま、思うこともある・・・のですよね。


  1. 2018.04.12 (木) 14:40
  2. URL
  3. ROM
  4. [ edit ]

No title

焼け跡・闇市派・・懐かしい・・と言ってしまうくらい過去になってしまったのかという思いです。
あの頃はまだ、戦争体験が生々しく語られた時代でしたね。
戦争でフィリピンまで行き、命からがら生還した父もよくその状況を話していました。
とはいえ、父は、国を恨むどころか、保守思想を固く抱いて亡くなっていきましたけれどね。。


ご主人様、よかったですね。
今度はKUON様がお風邪とか。
どうぞ、ご養生なさってください。

  1. 2018.04.13 (金) 09:23
  2. URL
  3. きく・かおる
  4. [ edit ]

火垂るの墓

父親の涙を見たのは、このアニメを一緒に観た時が現時点で最初で最後です。「男は泣かない」と言う世代の人を、娘の前で泣かせてしまった作品です。

うちは父親自身が末っ子で、戦時中はまだ幼児で、皆からかわいがられて良いものを食べられていたけれど、両親(私から見たら祖父母)は切り詰めて痩せ細って、戦後間もなく相次いで肺炎と髄膜炎で亡くなったそうです。
栄養状態が整って体力があれば、亡くなるほどひどい病気ではなかったと思えば、逆に自分を守るために犠牲になってくれたことへ、申し訳なさを感じるようです。

親の無償の愛を感じて育ったからか、本当に優しい父親で、注意はしても叱るとか怒るとかはありませんでした。学もない、いわゆるブルーカラーの人ですが、身を粉にして働き、愛情をかけて大切に育ててくれました。
まだ健在なのですが、私はろくに親孝行もしていないので、反省してこれから残り少ない余生へ恩返ししないと、と「火垂るの墓」から思い起こしました。
  1. 2018.04.13 (金) 18:44
  2. URL
  3. KUON
  4. [ edit ]

No title

・ROM・さん

>戦争でフィリピンまで行き、命からがら生還した父もよくその状況を話し>ていました。
>とはいえ、父は、国を恨むどころか、保守思想を固く抱いて亡くなってい>きましたけれどね。。

お父さま。こういう真面目な疑わない日本人、天皇陛下万歳と死んでいったという・・・(とされた、というべきか)・・・、失礼ながら純真ないじらしいお父さま。
なんとも申し上げることができません。できません。
  1. 2018.04.13 (金) 19:07
  2. URL
  3. KUON
  4. [ edit ]

No title

・きく・かおる さん

>栄養状態が整って体力があれば、亡くなるほどひどい病気ではなかったと思えば、逆に自分を守るために犠牲になってくれたことへ、申し訳なさを感じるようです。<。

乏しい食料を我が子に、ご自分たちはほとんど召し上がらないで。で、体を傷めて亡くなってしまわれた。

「火垂るの墓」の中にも、衰弱している節子を、ようやく医者に診せることができた清太が、

「滋養とらせて、いうて、どこにそんな、滋養があるんですか」

と、思わず医者に食ってかかる場面がありました。バターとか。卵とか。そういうものを妹さんに、と言われて、現実とのあまりの乖離に、怒り悲しみが抑えきれない場面だったと記憶。

野坂氏自身、少し大きくなってのこと、「滋養のつくもの」と信じた卵、バターを入手して。これはいいものと勇んで摂取して腹痛を起こして。。ということを、と書いてもおられました。からだが弱っていたのですね。

「流れる星は生きている」という一冊があります。数学者の藤原正彦氏のお母さま、作家の新田次郎の夫人でもあった、藤原てい さんの著書。終戦となって、夫無しで、はじめ6歳、4歳、赤ちゃん、だった3人のお子さんを連れて、着の身着のまま38度線を越えて日本へ帰って来られた記録です。

引っ越しの度に大切に持って運ぶ一冊。内容を記すには内容が濃く深すぎて簡単には難しいですが、一読をお勧めしたい一冊です。もうご存知かもしれませんね。

藤原ていさんの3人のお子さんは、お母さんの凄まじい執念のごとき思いで生還されましたが。

戦争は嫌だ、だめだ、との思いが、強烈に募る一冊です。

お父さま、ご存命なのはお幸せですね。お父さん大好きだよ~、の思いを、できるうちに、向けられたらいいのにな、と願います。ぜひ、そうなさってくださいね。
  1. 2018.04.13 (金) 20:05
  2. URL
  3. ROM
  4. [ edit ]

No title

KUON様

コメントを迷いましたが。。

いえ・・父はそんな純真な人間で、だから天皇陛下をーとかいうような人間ではなかったです。
公務員であったせいもあるかもしれません。

というより、強固な反共産主義者であったのです。

だから、共産主義から日本を守るという意識が強く、では日本とは何かというと、伝統の国体にいきつく。
別に、天皇を崇めていたということもなく、けれど、これが日本なのだ、という信念というか。
そういう人でした。
ということをお伝えしたくてすみません、コメントしました。

ですから、戦争が嫌なのはだれもがそうで。父ももちろんでした。

でも反戦が左翼と手を組むのを嫌がってました。

何度も失礼しました。<(_ _)>
  1. 2018.04.14 (土) 09:35
  2. URL
  3. きく・かおる
  4. [ edit ]

お返事ありがとうございます

「流れる星は生きている」30年ほど前20歳頃に読みました。先に藤原正彦先生の本を読んでいたので、その流れでお母様に興味が湧いて。

その頃は大変な人生経験をされても、母は強しのパワーで乗り越えられたことに圧倒されました。ただただ女性として人間としてすごい方だなあ、と思うばかりで。

KUON様のおっしゃるように、人間が生きて行く上で、について深く考えさせられる作品ですね。年月を経た自分への戒めを込めて、再読してみようと思いました。
書籍のご紹介だけでなく、父親への対応にもアドバイスを賜り、本当にありがたく嬉しかったです。残り少ない親子の時間に、感謝を込めて接して参ります。

前後して失礼いたしましたが、時節柄気候不順につき、お身体大切に。ご主人様も回復なさって何よりです。お大事にお過ごし下さい。
  1. 2018.04.15 (日) 03:41
  2. URL
  3. よみびとしらず
  4. [ edit ]

のさかさん

のさかさん。

黒の舟歌。

おまえが17、俺19
忘れもしないあの河に
二人の星のひと欠片
流して泣いた夜もある・・・。

row & row,
row & row,
振り返るな row, row

13歳だか、14歳のとき、長谷川きよしさんのコンサートに連れていってもらって。

よくわからないけど、暗い歌。哀しい歌。黒の舟歌。

17になったら、わかるのかな・・・?と思ったけれど。
17になっても、わからなかった。


良くも悪くも。
戦後のテレビジョンで、名をはせた野坂さんと五木(寛之)さん。

あの頃は、テレヴィジョンが、嘘を報道するなんて、思いもしなかったなあ・・・。


蛍の墓。

今年は、蛍を見に行けるかなぁ?
去年は、大量発生で、喜んでいました。

でも、蛍の光は、なんだか、哀しい。
刻苦勉励。蛍の光と窓の雪の灯りで。
勉強するだなんて(もしかして?冗談?と思ったりした。それくらいやらないと人生ダメなんだね。きっと)。
受験雑誌?蛍雪の友・・・なんてのがあったような気がするし。

蛍は、哀しい。
青白い燐光。
死せるものの魂なんでしょう。


益体もないコメント、申し訳ありません。

寒暖の差激しき折、ご自愛くださいませ。

  1. 2018.04.16 (月) 21:14
  2. URL
  3. KUON
  4. [ edit ]

No title

・ROMさん

>でも反戦が左翼と手を組むのを嫌がってました。

お一人お一人の事情や「本当のこと」を、いただくコメントから理解しきることは、不可能なことです。私はただ、できるだけまっすぐに、書かれていることを受け止めたい、そのうえでお返事したいと思っている。

時にイヤがられるやろなあ、と思いながら「私はこう思うが」と書くことも、ためらわないでいようと、普通に、考えているだけです。

これだけしか申せませんが、ご両親をご自分で見送られたって、それ素晴らしいことと思います。これから少し、ぐれてもいいよ。

うた、いっぱい書いて下さい、気のすむだけいっぱい。


・きく・かおる さん

私事ですが、父親運が私には無いようです。実の父とは五歳で死別。養父は力のある立派な人で、私のことを養父なりに思ってくれたと後々わかりましたが、素直に近づいて行けずでした。寄って行きたかったのだと思うのですが。
舅とは仲良くやれそうだった、優しい人でしたが、結婚して数年後、関係の最悪だった姑から逃れてアイジンさんの方へ行ってしまった。舅をよく言うと姑は怒りました。

晩年の半年間は一人暮らしになっておられたので、ました。ちょくちょく家へ来てもらっていっしょにお鍋を囲んだり。入院されて亡くなるまで、息子のヨメさんらしい付き合いができました。最後、息を引き取られる直前、私の手を強い力で握られて。それから体温がどんどん下がって行って。

最後の半年間があったので、自分の気は、ほぼ済んだ気がする・・そう、思おうとしています。舅はビルマへ出征していて、マラリアで死にかけ、やっとの思いで帰国したら家は空襲で焼かれ、父親は焼夷弾で焼かれ、姉は同じ焼夷弾で片足飛ばされ、婚約者も亡くなっていて、残っていたのは母親と七人の弟妹だけ、という過去を持つ人でした。

お父さんがおられて、関係が良好な方に、できるだけ・・・など、つい、踏み込んだことを言ってしまうクセが、あるようです。

お父さま、お大切になさって下さいね。おせっかいKUONでした(笑)。


・よみびとしらず さん

そうです。「黒の舟歌」。長谷川きよしのLPレコードを何枚も持っていました。今も時々、YOUTUBEで聴きます。「別れのサンバ」も好きなのです。たまらなく好き。

野坂さんのも聴きます。蛇足ながら自分もカラオケで唄います。え、ほんまに蛇足? 失礼(笑)。

五木さんと言えば、若い頃よく行っていた喫茶店のマスターが五木さんファンを自称していて。

「金沢まで行った、自宅の場所は探してあった、家の前へ行っただけで足が震えて、『俺は来たぜ五木さん』と心の中で怒鳴って、そのまま帰って来た」

と教えてくれたのが、忘れられません。そんな純情な「ファン」もいた。レイコさん、と、五木夫人を呼ぶとき、とても大切そうに頬を染めていた、そんな時代もありました・・・。

私の蛍の思い出は、母の兄,伯父との思い出。晩婚で授かった娘を、生後すぐに亡くした伯父は、父を亡くして夏休みに田舎に預けられること多かった私を、今は幅の狭くなっている川遊びに、よく、連れ出してくれて。

蛍をいっぱいつかまえて、頬に水を含ませてぶわっと吹き付けてくれて。

翌朝、みな、死んでいました。軽い骸。子ども時代の、幸せだったと言える夏の思い出です。生涯その川を恋うていた母の、遺骨を、散骨したのもその川です。

私こそ、益体もない思い出話をしてしまいました。

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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・