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  1. おそれながら、なこと
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たんたんと刑場に消えていった。追記あります。

引用ばかりですが。

1948年(昭和23年)12月23日。敗戦の3年後、当時の皇太子・明仁の、15歳の誕生日のできごとでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


  東條英機・広田弘毅ら7人、絞首刑執行

>彼らの何が罪なのか、彼らだけの罪なのか。 歴史こそが最後の審判を下すはず。 <

           
1945/07/26   連合国、ポツダム宣言発表
1945/08/14   御前会議、ポツダム宣言受諾を決定
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/09/02   降伏文書調印 (全権:重光葵、梅津美治郎/第二次世界大戦終結)
1945/09/11   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令① (東條・東郷ら39人)
1945/09/11   東條英機自殺未遂
1945/09/12   杉山元、ピストル自殺
1945/11/19   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令② (小磯・松岡ら11人)
1945/12/02   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令③ (平沼・広田ら59人)
1945/12/06   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令④ (近衛・木戸ら9人)
1945/12/16   近衛文麿、服毒自殺
1946/04/29   A級戦犯容疑者28人の起訴状発表
1946/05/03   東京裁判(極東国際軍事裁判)開廷
1948/11/12   東京裁判、A級戦犯25被告に有罪判決
1948/12/23   東條英機・広田弘毅ら7人、絞首刑執行
    東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、木村兵太郎、武藤章
1948/12/24   GHQ、岸信介らA級戦犯容疑者19人を釈放と発表

引用

花山は、東條につづいて板垣、木村、土肥原と面会を終えた。 そのあと彼は、モーニングの上に法衣をまとい、第一棟の一階一号室に駈けつけた。そこが仮りの仏間だった。

花山が水を入れたコップ七つとブドウ酒のコップ七つを準備してまもなく、 土肥原、松井、武藤、東條が二階から降りてきた。 午後十一時四十分だった。四人の姿を見た花山は絶句した。 彼らの姿はあまりにも異様だったからだ。 両手に手錠がかけられ、その手錠は両股と結ばれ固定してあった。 正装して死にたいという彼らの望みはかなえられず、アメリカ軍の作業衣のままで、 背中と肩のところにはプリズンの「P」の字が刷りこんである。 それが彼らの最後の衣裳だった。 靴はアメリカ陸軍の兵隊たちが履いている編みあげ靴、両足には鎖がついていた。 彼らの誇りは一顧だにされていない。

両側に立つ将校は、いつもとちがって身体の大きな者にかわっていた。 連合軍の警戒が厳重なのは、ニュールンベルクの教訓のためである。 処刑場にカメラマンをいれて処刑の様子を撮影させたため、被告は興奮状態になり、 あばれる姿がそのまま世界に報じられた。 これは死者への冒涜であるとして花山は総司令部に訴えていたが、巣鴨ではカメラマンは入れないことになった。 しかし七人が錯乱状態になって暴れることを想定し、がんじがらめにすることだけは忘れていなかった。 四人には暴れる徴候はなかった。

仮りの仏間での最後の儀式が行なわれた。 花山が線香に火をつけ四人に渡し、四人はそれを香炉にいれた。 辞世の句を書いてもらおうと用意していた筆と硯をさしだし、せめて名前だけでもと花山が言うと、 四人は動かぬ右手に筆を握り、土肥原、松井、東條、武藤の順で署名した。

つぎに花山はブドウ酒のコップを手にして、四人の口にあてた。 アメリカ人将校の差し入れのブドウ酒だった。 彼らはぐいぐい飲んだ。「うまいなあ」東條だけが声を発した。花山が『三誓偈』の一部を読経した。

護衛の将校が処刑場にむかうよう促した。 そのとき誰いうともなく、「萬歳を・・・・・・」ということになり、武藤が「東條さんに」と名ざしした。 すると東條は「松井さんに」と答えた。松井は彼の先輩にあたる。 松井が音頭をとり「天皇陛下萬歳」を三唱した。 ついで「大日本帝国萬歳」を三唱した。両手を下げたままの萬歳だった。

このころ「萬歳」は、アメリカ人が嫌うというので、あまり聞かれることばではない。 しかし四人の将軍は、アメリカ人のまえで三唱できたことに充足を覚えたようであった。 大日本帝国の「大」も「帝国」も消滅したのに、彼らは死の瞬間まで大日本帝国でしかものを考えられないことに、 花山はいささかの異和感をもった。

萬歳三唱のあと四人は、両隣りの兵士に「ご苦労さん、ありがとう」と言った。 それから花山の手を握り、期せずして同じことばを吐いた。

「先生、いろいろお世話になりました。 どうか国民の皆さんによろしく。家族もよろしく導いてください。先生もお身体をお大事に・・・・・・」

入口の扉が開いた。将校が先導し、そのあとを花山とアメリカ人教戒師が並び、 土肥原、松井、東條、武藤とつづいた。 そしてその後ろにさらに数人の将校がつづいた。 「南無阿弥陀仏」と花山が唱えると、四人は唱和した。花山は空を見た。 星が無数に散っている夜で、それはいかにも彼らの葬送にふさわしく思えた。

処刑場の窓からは電灯の光が洩れていた。 が、厚手のカーテンがかかっていて内部は窺えなかった。 ドアが開いたが、花山と教戒師の入場は許されない。 だが室内には明るいライトがあり、四つの階段が中央にできあがっているのが垣間みえた。 四人はもういちど花山の手を握った。 東條は数珠をはずし、花山に渡した。 そして身をかがめるようにして処刑場にはいっていった。

そのあと花山と教戒師は、いま来た道を戻った。 つぎの組の準備をしなければならなかったからだ。 三、四メートルほど歩きかけて星空をみた。 そのとき処刑場からガタンという音がきこえた。反射的に時計を見た。午前零時一分だった。

板垣、広田、木村も同じような儀式を終え、たんたんと刑場に消えていった。

総司令部の発表では、四人の死亡時間は午前零時七分から十三分までと分かれているが、 それは六分間から十分間、彼らが仮死状態にあったことを意味している。

そのあと花山は、処刑場内部へ招じられた。 七人は七つの寝棺に横たわっていた。 彼はひとりずつに念仏をとなえ、回向をつづけたが、どの顔にも苦痛はなかった。 平常心そのままに死に就いた七人に、花山自身は感銘にも似た気持を味わった。

保阪正康 「東條英機と天皇の時代(下)」


引用

新聞もラジオも七人の処刑を伝えたが、 そのことによって軍国主義が一掃されたかのようなとりあげ方であった。 憎悪と侮蔑で七人を謗れば自己証明ができるかのような無節操な論もあった。 彼ら七人を謗ることが一切を免罪するかのような意図的論調は、無反省で無自覚な国民心理を培養するだけであった。 やがて七人のなかの東條だけが〈普通名詞〉に転化していったのは、その培養の結果といえた。

東條英機の名誉も基本的人権も踏みつけであった。

ひとつの例をあげれば、ある有力な新聞が二十四日の朝刊に、 「幼児の心持つ東條――満足し死の旅に、夜通し祈った勝子夫人」と題して センセーショナルに報じた記事が指摘できる。 それは「この日勝子夫人は一切の面会をさけ独り静かに冥福を祈っていたが、 特に本社記者に次のような談話を発表した」と前書きして、東條はすでに幼児の心境になっていたとか、 これからの時代に東條の遺族として負けずに生きていこうとか書かれていたが、 この記事を書いた婦人記者松田某は、その日の夕方、この新聞をもって謝罪にかけつけたという。 また彼女は、判決宣告の翌日にも東條夫人の手記として、 「主人の精神的な命は敗戦と同時に終りました。 今は肉体的生命の有無は問題ではありません。 主人として死は願うところでしょうし、私共家族といたしましても主人の願うところはつまり家族の願うところであり・・・・・・」 といったような記事を捏造していた。 その日も訂正を求める家族に、「男性と伍していくには、こういうことでスクープする以外にないんです」と 得手勝手をいいつつ、問題を大きくしないように懇願して帰っていったという。

この種の記事がいたるところで見られた。 東條と舞踊家某との情事、連日の豪遊といった根拠もない話が氾濫し、 外地のある捕虜収容所では、思想改造の手っとりばやい方法として、 東條が酒色と金銭を目的に日本人民を欺いていたと、彼を卑劣な無頼漢にしたてあげた。

保阪正康 「東條英機と天皇の時代(下)」  


引用

かくしてもう十一時半にもなったので、私は大急ぎで一階にかけ降りて、 再び仏間の用意をし、コップにブドー酒をつぎ、水を入れたりして七人の到来を待った。 まもなく三階から処刑第一組として土肥原、松井、東条、武藤の四人の順で、列をつくって降りて来られた。 それぞれ二人の看視につきそわれていた。 両手には手錠がかけられ、さらにその手錠は、褌バンドで股に引っかけられていた。 極めて不自由な姿である。 着物はいつも着ていられた米軍の作業衣であった。しかしシャツは見えた。 クツは編み上げの日本クツであった。 係官から時間が七分しかないということをいわれたので、取敢えず仏間のローソクの火を線香につけて、 一本ずつ手渡し、私が香炉を下げて手もとに近づけて立てていただき、それから仏前に重ねておいた奉書に署名をしてもらった。 不自由な手ながらインクを含ませた筆をとって、土肥原さんから順に筆を揮った。 それからコップに一ぱいのブドー酒を口につけてあげて飲んでもらう。 さらに水のコップを私が少しずつ飲んでは、みなさんに飲んでいただいた。 東条さんの「一ぱいやりたい」も、どうやらこれで果され、大変な御機嫌であった。

その後、まだ二分あるというので、『三誓偈』の初めの三頌を声高らかに私は読んだ。 四人は頭を下げて、静かに瞑目して聞いておられ、終った時、

「非常に有難うございました」

とお礼をいわれた。それから誰いうとなく「万歳」という声が出て、たぶん東条さんと思うが、

「松井さんに」

というので、松井さんが音頭をとって「天皇陛下万歳」を三唱、 さらに「大日本帝国万歳」三唱を共に叫ばれた。

ブドー酒のあとで「お菓子はどうですか」といったが、みな入れ歯を取っていられたので、 歯がないからと遠慮されたが、松井さんに、やわらかいビスケットを一つ口の中に入れてあげたら、 もぐもぐたべられた。

以上の行事は、仏間ではせまくて、すべて廊下に立ったまま行われた。 この時、東条さんから、約束通り念珠を受取った。 松井さんも、手にかけておられたので、

「これを、奥さんに差上げましょうか」

といったら、

「そうして下さい」

といわれ、受取った。他の二人は、部屋(独房)の袋に残して来られたという。 やがてチャプレン・ウォルシュ師及び二、三人の将校にあいさつをして、それぞれしっかりと握手を交わされた。 私も、いちいちみなの手を握って、最後のあいさつをかわした。 いずれの方も非常に喜んで、長い間の労苦を感謝され、また、

「あとの家族のことをよろしく」

と頼まれた。時間は、刻々と迫ってきた。

出口の鉄の扉が開いた。当番将校先導で、その後にチャプレンと私がつづき、そのうしろに 土肥原、松井、東条、武藤の順で並び、両脇には看視、あとに将校が二、三名つづいて、 静かに中庭を歩んでゆく。その間、約二分ぐらいかかったが、念仏の声が絶えなかった。 とくに東条さんの声が・・・・・・。

刑場の入口(コンクリート塀)で、私は隊列を離れ、さらに四人と、 また一人一人手を握って最後の「御機嫌よろしゅう」をいったところ、

「いろいろ御世話になって、有難う。どうか、また家族をよろしく願います」と、 みなにこにこ微笑みながら、刑場に消えられた。 あとで聞いたところ、台上では四人とも、最後の南無阿弥陀仏を称えていられたということだ。 急いで仏間に帰る途中、ガタンという音をうしろに聞いた。時計をみると、午前零時一分だった。

仏間に戻って、再び用意して待っているところへ、第二組の三人、 板垣、広田、木村さんが降りて来られた。 顔を合せると、すぐ広田さんが真面目な顔で、

「今、マンザイをやってたんでしょう」といわれた。

「マンザイ? いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣りの棟からでも、聞えたのではありませんか」

私も真面目に、こうこたえた。

「いや、そんなことはないが・・・・・・」

とにかく、今度は三人とも仏間の中に入ってもらって、お線香を一人ずつに、 前のように渡して立ててもらい、署名をされたあとで、今度は時間があったので『三誓偈』を全部読んだ。 木村さんだけは、眼鏡をかけて降りて来られ『意訳聖典』も持って来られたため、 私の読経中それを開けて読み、私の読経に合せておられた。お経の終ったあとで、広田さんが、

「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか」といわれた。 私も、やっと気がついて、

「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」といった。 それでやっと、マンザイがバンザイだとわかって、

「それでは、ここでどうぞ」

というと、広田さんが板垣さんに、

「あなた、おやりなさい」

とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、 まるで割れるような声で一同は「天皇陛下万歳」を三唱された。もちろん、手はあげられない。 それから、仏間の入口に並んで、みなにブドー酒を飲んでもらった。 このときは、米兵の助けをかりず、私がコップを持って、一人一人全部に飲ませてあげた。 広田さんも、おいしそうに最後の一滴まで飲まれたし、 板垣さんの如きは、グッと元気よく一気に飲みほされた。 よほど好きらしかった。 木村さんだけは、半分以上残された。 余り、酒の好きな人でないと見えた。 次に、水を飲みかわして、しっかりと握手をした。 みな、にこにことあいさつをされて、

「いろいろお世話になりました。どうぞお大事に、また家族たちをよろしく」

たいへんに、感謝された。

それから、前のような列になって刑場の入口へすすみ、私はここで、前と同じように、別れた。 最後に、木村さんは頭を幾度も下げ、にこにこ笑って、私に、

「どうか、家内たちをよろしくお願いいたします。お世話になりました」

と、長いあいさつをして刑場に入られた。 中庭はそうでもなかったが、刑場の中はあかあかと照明に照らされていた。 この時も、また途中でガタンを聞いた。零時二十分だった。

花山信勝 「巣鴨の生と死」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

この、最後に7名にお会いになられた教誨師の花山信勝さんのお孫さんが、金沢市の宗林寺というお寺を継いでおられ、2年前の夏に、以下のようなことがあったと。当時の読売新聞が伝えていたそうです。

A級戦犯7人、最期の肉筆…遺書など一般公開<

 東条英機ら「A級戦犯」7人の処刑に、日本人でただ一人立ち会った教誨(きょうかい)師花山信勝(しんしょう)(1898~1995)の生家で、7人が最期に残した署名などを保管している金沢市の宗林寺が、戦後70年を機に遺品を一般公開している。

 信勝の孫で住職の勝澄(まさずみ)さん(59)は「戦後の始まりを振り返り、平和を考えるきっかけにしてほしい」と話している。

 公開されているのは、A級戦犯として絞首刑となった7人の署名や遺書の写しのほか、処刑直前に飲んだワインの瓶や、戦犯が拝んだ仏像など。これまで檀家(だんか)や研究者、報道機関など以外に公開されていなかった。

 東条の遺書は、処刑の約1か月前に信勝に託したもので「刑罰は私に関する限りは当然である」「ただ戦禍を受けた同胞のことを思う時、私の死刑によっても責任は果(た)されない。全く相済まぬと思っている」などと記されている。

 金沢市武蔵町の浄土真宗本願寺派・宗林寺で生まれた信勝は東京帝大教授を務めた仏教学者。1946年2月、巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)の教誨師に任命されて戦犯らと交流し、極東軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けた戦犯の処刑に立ち会った。

 巣鴨拘置所で東条英機(元首相)、広田弘毅(同)、板垣征四郎(元陸相)、木村兵太郎(元ビルマ方面軍司令官)、土肥原賢二(元奉天特務機関長)、松井石根(元中支那方面軍司令官)、武藤章(元陸軍省軍務局長)の7人の処刑が執行されたのは、48年12月23日未明。信勝の著書「平和の発見」によると最期の酒としてワインが出され「悲しみも動揺もなく、平常心そのまま、『念仏』とともに死についた」とある。信勝は執行の間際に署名を求め、7人は手錠をかけられたまま揮毫(きごう)した。その絶筆は、同寺の石碑に刻まれている。

 勝澄さんは「歴史として冷静に振り返ってもらうには長い時間が必要で、一般公開は戦後70年を節目と考えた」と話す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「教誨師花山信勝氏のご子息花山初音陸将補は学習院で天皇陛下と交流があり、後に陸上自衛隊に一般大学卒(学習院)の幹部候補生として入隊されました。 第1空挺団勤務や富士教導団長等を歴任され退官後の講演を2度程拝聴させていただきました。 花山初音氏も鬼籍に入り数星霜… 教誨師の子が国防に生涯を捧げたエピソードも知っていただきたく、書き込みました。」

コメント欄にいただいた「鉄」さんの書き込みです。教えて下さいました。

ありがとうございました。

以上、引用ばかりではありますが。

いただいているコメントへのお返事は、明日、ゆっくり書かせてもらいたいです。



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  1. 2017.12.27 (水) 01:16
  2. URL
  3. たまき
  4. [ edit ]

はじめて、その時の詳しい事を知りました。
ありがとうございます。

「覚悟」の仕方が違いますね。
そして、やはり最後は「天皇陛下万歳」でしたか…

今の惨状を見たらどう思われるでしょう?
「天皇陛下万歳」と言って、淡々と逝けるでしょうか?
  1. 2017.12.27 (水) 01:37
  2. URL
  3. はるせん
  4. [ edit ]

目の前に映像を見ながら読みました。
厳かで、日本人の品格を感じる最後に思えました。
しかし、この方々が処刑されたことで、癒しを得た人もいるのでしょうね。
善悪ではかれない、人の世の複雑さ、切なさを感じる記事でした。
  1. 2017.12.27 (水) 03:03
  2. URL
  3. [ edit ]

参考になりましたら…

 教誨師花山信勝氏のご子息花山初音陸将補は学習院で天皇陛下と交流があり、後に陸上自衛隊に一般大学卒(学習院)の幹部候補生として入隊されました。 第1空挺団勤務や富士教導団長等を歴任され退官後の講演を2度程拝聴させていただきました。 花山初音氏も鬼籍に入り数星霜… 教誨師の子が国防に生涯を捧げたエピソードも知っていただきたく、書き込みました。
 

 

 
  
  1. 2017.12.27 (水) 20:41
  2. URL
  3. KUON
  4. [ edit ]

・たまき さん

今の感覚で当時のあれこれを断じることはできませんね。

「東京裁判」という映画を、遠い昔に見ました。私は何も知らないに等しいアタマで、わけのわからない感覚で、その映画を見ました。

津川雅彦が東條英機を演じていました。大変確信的な表情で、

「南京大虐殺は無かった」言い切った時びっくりしました。当時の私は、珍しいことでもなかったと思う、本田勝一の本なんかも読んでいて、そういった感覚を引きずっていたのでした。

ただ。短歌をしていたので、歌人としての斎藤史・・226事件の首謀者、斎藤〇(すみません、この文字が今、わからないので使えませんの娘さん・・に魅かれていて。そのあたりからは、巷間言われているような人物評やできごとの解釈は一定でない、人の言うこと丸のみにはできないなあ、という感覚はありました。

何が言いたいか困って来ましたが。(笑)。現代にはいない男が、あの時代にはいた・・安っぽい言い方になりますが、その感はあります。

「天皇陛下万歳」は、あの当時のあの軍人さん方の気持ちなど、私には推し量ることはできません。

引用させていただいた著者にしても、さまざま評価はあります。ありますが。

天皇家とやらも。よくぞここまで堕ちにけり、が、今年最後の呟きになるかと。情けないです、まっこと。


・はるせん さん

少しご無沙汰でしたか。

>目の前に映像を見ながら読みました。
>厳かで、日本人の品格を感じる最後に思えました。
>しかし、この方々が処刑されたことで、癒しを得た人もい>るのでしょうね。

仰る通り、私も感じ入りました。

>善悪ではかれない、人の世の複雑さ、切なさを感じる記事でした。

ここですよね。どっちか、なんて言えない、絶体に。

思うことを掬い取って下さって、感謝します。

「善悪ではかれない、人の世の複雑さ、切なさを感じる記事でした」。

そうなのですよね。


・鉄さん

ご教示、感謝します。

末尾になりましたが、お気持ちありがたくいただいて、加えさせてもらいました。

ありがとうございました。

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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

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