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返事の中までKUONです。

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やっと桜が。



昨夜、急に連絡があって、40年ぶりの旧友に会いました

ずっと成績一番だった「かしょり」ちゃん。夫さんが「うつ」になったので、神仏巡りをしていると。

かしょりちゃんには息子さんが二人あります。親に似て賢いお子で(会ったこと無いが)、いい会社に入って、と、噂に聞いて、喜んでいたのでした。

本人、書いても何してもいいと言ってたので書きます、長男がオリンパス。次男は東京電力。

本人たちより、父親である夫さんの心が、へこたれてしまって、と、かしょりちゃんは笑っていましたが・・・。

二時間ほど話して別れました。今度は、いつ、会えるのでしょう。


コメント下さってありがとうございます。


yuutaさん。。

朱音は、私と同じくらいの年齢に設定しています。

これから、黙々と、創作に励んで行こうと思っております。


えまさん。

思うことは、このように気にせず、どんどん書いて下さいね。

小出先生の沈黙が。ほんの数秒ですが重い数秒に感じられました。


ようこさん。

人の気持ちなど、他からわかるわけが無いので、誰かの沈黙の意味も、他のことも、人それぞれの感じ方と思いますね。

奈良では、やっと桜が咲き始めました。


「朱音」続き、六回目です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 大和での、母との暮らし。
 芝居がしたいとか演技に興味があるとか、全くそうではなかったのに、高校では演劇部に入りました。
 入学してすぐに、歓迎会の催しで見た劇の、セリフの一つが胸に残ったのが、理由といえば理由。
 主人公の女性が、舞台の真ん中に立ち、両手の指を強く組んで、宙を仰いで発したひとこと。
「さようなら、ハルピン」
 それに、やられました。
 ハルピンというのが、中国の都市の名前であるとは、劇の進行の具合で理解できました。
 あとは、ほとんど意味の解らない内容ではあったのですが、セリフの、切羽詰った感じに、ぞくりと来たのです。
 ここかも知れない、と、居場所を見つけた思いで入部を決めました。
 主人公を演じたのは、三年生になったばかりのカタさんという上級生で、色が白くて背が高くて、のっぺりした和風の顔、あまりものを言わない人でした。
 自分の頭の中の何かだけに気を取られて、ぼーっとしているような人で、そういう感じを、これが現実離れしている、ということなのだろうと得心しました。
 こういう人だって、実際に、いるのだ。
 いてもいいのだ。
 購買部のどのパンがおいしいの、安いの。
 技術家庭の先生の一人は、毎年引っ張り出して来て着る春のスーツのボタンが、一つずつ取れて、間に合わせの、違うものになって来ていて、今年は、遂に、全部異なるボタンの並んだスーツになった、しかも、少しずつ背中に肉がまわるので、前の合わせ目がどんどん左右に開いてゆく。知り合いの人が卒業生で、何年前かの写真を見せてもらったが、確かに中身の容量の変化に、スーツの前あわせがついて行っていない。
 腕の周りもきつきつで、チョークを持つ手が上がりにくい。
 などという話は、初めて聞いた時には、確かに、不謹慎に面白かった。
 パンがおいしいのは、おいしくないよりいいに決まっていますが、幾つか買って食べてみて、自分がこれがいい、これが好きと思ったものを、値段に問題ないなら次も選べばいいわけで、いつも同じことを、ぐちゃぐちゃ言いながら話し合っている、というのは、退屈なものです。
 先生のスーツのボタンのことも、つまり、どうでもいい訳です。
 私には。
 みっともない服を着ていることが恥ずかしくなく、生徒に「年々風船」なんて呼ばれているのを、知ってか知らずか、平気で学校に着て来ておられるのですから、気にしないでいる他に方法は無いのです。
 しつけのかかったままの物がどっさりある、お嫁入りの際の着物を、着ることも無く所有し続けて処分も出来ず、運んで来た挙句、部屋が四つだけの新しい住み家に全てを持ち込むには無理で、運び出す以前から、つまり東京にいた時分から、ああだこうだと選ったり分けたり、ほとんどを始末できないまま持ち出した中から、もう、身近に置かなくていいと判断したものを(きっとそうです)、モノはいいし、差し上げてもいい、みたいな態度で、兄嫁や姪(私には義理の伯母と従妹)に押し付けようとして断られ、結局、妹に向いてはっきりとノーを言えない兄(伯父)を押し切って祖母の隠居部屋に運び入れ、一部屋が使えなくなったくらいの分量の和服や小物類を押し込んでいる、母のような人より、よほど簡単なことと思えます。
 しかし、パンや、先生の服や、自分の家族の自慢など、飽きもせず毎日同じことを言い合っている人たちもいるのです。
 しかも、おいしくない上に、サンドイッチのハムが薄くて透けるくらい、これはパン屋が儲け過ぎているとうなずき合う、しっかり手に持ってそれを食べながら。そこから話は進まない。
 ちっとも進まない。
 自分が、ナマイキだとか評されるタイプの人間らしいとは、不本意ながら解って来ていて、それが嬉しいとは思わないが、事実そうなのであろうから仕方がないと思っていました。
 口に出せば何かまた言われるに違いなく誰かを刺激するに違いなく、面倒なので黙っていて、やがて、いつも黙っている人なのだと認知されるようになって行ってホッとしたのは、カタさんのあり方に学んだところは大きいと、思います。
 目立たないでいる、ということは、自由なものでもあります。
 とは言いつつ、私は、カタさんのようには悠々としていられませんでした。
 周囲が気になる。
 小心者でした。
 ・・・毎日部活動をしていれば、帰宅が遅くなれる、というのも、理由の一つではありました。
 母もまた、毎日、出かけていました。
 どこへ。
 自分の実家へ。
 祖母は、私たちが、というより、東京へなぞ嫁かせて、やっと帰って来た娘・・・私の母・・・を、待っていたかのようなタイミングで、私たちが大和に落ち着いた年の夏の始め、突然、倒れました。
 心臓の近くの太い動脈に、風船みたいなこぶが出来てしまっていて、伸びて薄くなっている血管が、いつ破裂するかわからない。
 破裂したら終わりだということでした。
 手術などとても出来ない、と言うより、手術中にそのままになってしまうかも、という怖れで、取りあえず様子を見る、となって。
 実際、そう宣告されてすぐ、危ない状態になりました。
 息が止まって意識が無くなったせいもあり、それまで普通に暮らしていた人で、病気知らずが自慢でもあった祖母の急変に、狼狽した伯父が召集して、親戚のほぼ全員が本家へ集まる騒ぎになったのでした。
 何が起こってもまず伯父が相談し、決定を下してくれていた祖母本人が倒れてしまったのだから「兄ちゃんはあせらぁったんや、気ぃのあかん人やから」。と母が嗤った、そういうことだったのでしょう。
 母が、その春に、離婚して東京から戻っていたことは、親戚間ではその時に、暗黙の了解事項になったようです。
 ほんまに帰って来てはるわぁ、と。
 母が惨めな状態・・・主に経済面・・・ではないらしいと判断することで、表向きは触れないで黙っていることに決めた親類もいたでしょう。
 母は、いいナリをして、顔をあげてすっすっと歩いていました。何も気にしていない風に、声をかけられたら東京言葉で挨拶したり、大和の言葉で返したり、自分のペースで、ゆうゆうとしていました。
 父は戦後の成功者、東京で、かなりなこともして財を成した男、として認識されていたようです。そんな人と、女ができたくらいで別れはったんやて、と、陰で囁かれても、平気な風を装っていました。
 私の、というより私の母の身内係累には、戦争で焼かれた家は、一軒もありません。
 戦争に行ったきりになった人はいるらしいけれど、その誰かが一人息子だった、という事例も無い。代わりの誰かが必ずいて、誰かが引き継ぎながらとにかく、家は続く、つながって来た。
 前の代から引き継いだものを、絶対に減らさないという鉄則は、戦後の「農地解放」とかいうもので、崩された面もあるらしいのですが、そのあたりの歴史に私は詳しくないです。
 あらゆる手を尽くして、可能な限りしぶとく守り抜いた。
 皆はそういう話が好きで、噂にしてもとても現実的で、私の従妹なども、相続放棄がどうとやらと、私の知らなかった言葉を、するっと口にのせていた。小学生だった頃にすでに。
 兄である従弟とけんかして、ひどくやられて、捨て台詞に、言うのです。
「そんなことすんねやったら、いつか、相続放棄のハン、押したらへんで」
 と。
 父は、よその世界の人のように思われていたのでしょう。
 周囲の皆にとって一番大切な問題であり話題であるらしい、家柄だとか出身校だとか息子にもらったお嫁さんの縁戚にどんな人物がいるかとか「どこへ勤めてなはんのか」などには、全く関わりの無い父の生い立ち、履歴。
 自分一代で、お金を、膨大に手にした、ということで、軽くあしらわれつつ一目置かれていたのが、私の父というひとでした。
 別れてから、よく解りました。
 哀れで、内心、悔しかった。
 自分の力だけで頑張った父を、一日に二十時間も働いて成り上がった父を。
 自分の力で会社を興し、大きくして沢山の人を雇う立場にいる父を、見下げながら羨んでいる人々の話を、黙って、聞いていない顔で私は、聞いていました。
 馬鹿みたい。
 この人たち、馬鹿みたい。
 心の中で呟き・・・いいえ、時にしばしば、胸の内側で罵倒しながら。
 ・・・祖母の話です。
 かかりつけの医師が、倒れてすぐからずっと付いていてくれたのですが、何やら取って来るものがある、すぐに戻りますと、近所の、ご自分の診療所、兼、自宅へ帰った。
 その隙に、周りを取り巻いている皆の見ている前で、祖母が、すーっと、白くなりました。
 私も見ました。
 一気に、白くなりました。
 顔を、あちらからこちらへ動かしたと思ったら、真っ白くなったのです。
 皆の後ろの方にいた従兄が、誰かに怒鳴りつけられて医師を呼びに走り(というのは後で知ったこと)、母は、いきなり、ばっと自分の母親の上に覆いかぶさって、叫びました。
「お母ちゃん、おかあちゃーん」
 肩を掴んで細かく揺すぶりながら母は、お母ちゃーんと呼び続けました。
 停まった心臓が、母の必死の呼び声で再び鼓動するように、なったということでしょうか。
 十二畳の間にぎゅうぎゅう詰めに集まった人々が、母の迫力に圧倒されて静まり返る中、母は、のどの血管を膨れ上がらせて、汗と涙にまみれて髪を振り乱して、必死に祖母を呼び続けました。
 祖母は、娘の愛・・・迫力に応えました。
 心臓が、また、ぱとん、ぱとんと、動きを始めたのです。
 母は祖母を、呼び戻したのです。
 でも元のように起きてはいられず、祖母は、常に布団に横になっている生活になりました。
 手元に人を呼ぶためのブザーを置き、タオルが手に触れないだけでも自分で探ろうとはせずブザーを鳴らして呼ぶので、離れの隠居部屋から出て、茶の間の隣の十畳間に寝ついたのです。
 祖母は、寝付いて後、けっこう「言いたいこと言い」だった性格に凄みが増して癇症がきつくなり、伯母や、家にいる孫たちに、暴言を吐くようになって行きました。
 私の一つ下、高校受験を控えた従妹が、おまるを持って飛んで行って、お尻の下に入れようとしても、やり方が悪い、痛い、こぼれるやないか、どうするねん、することが粗いと怒り、ぬぼーと大きぃなっただけで役に立たん子ぉや、気働きの「気ぃ」の字も無い、母親と同じや、などと言いたい放題、実際に私も自分の耳で聞いたので、判ります。
 従妹もそのうち本気で腹を立て、もう、お祖母ちゃんなんか知らん、となりました。
 どっちみち、お祖母ちゃんは私のことなんか可愛くもなんもなかった、子供の頃からずううっと、朱音ちゃんと比べられて来た、
「朱音ちゃんにええ顔したいから、私やお兄ちゃんが貰ったお年玉取り上げて、朱音ちゃんと俊也の二人にあげてた」
 にこにこしてあげてた、と、従妹は激しかった。
 何か綺麗なものもろたら、朱音に、て仕舞い込んで、私には、どうでもええような物だけ、ぽい、ってくれるだけやった、ずうっとそうやった。
 同じ孫やのに差別するような人のおしもの世話を、なんで私がせんなあかんの、それやし、お尻拭いてもらいながら、ふんって、冷たい目で見るの、あの目がいや、大嫌い、私のこと嫌いなのよ、それでけっこう私も大嫌い、お祖母ちゃんのこと好きやとか優しいとか思うたことなんか、ただのいっぺんもあらへん。
 私も、母もいる前での、一度目の爆発でした。
 そしてあの時も。
 ブザーが鳴って、私が立って、それより先に従妹が、祖母の部屋へ向かった。
 従妹に、祖母は、今日はまだ暑い、なんぞ冷たいもんでも買いに行ったってや。
 言いつけて、母と私、二人分のアイスクリームが買える程度のお金を渡そうとしたらしいのです。溶けないように帰りよし、だらだら歩くでないで、と言い
「帰ったらあんた、わたいのおこし、濡れたよってに替えんなんで」
 と、付け加えた。
 従妹は噴火しました。
 立って行くまで従妹は、私と、高校の制服の話などしていたのです。
 朱音ちゃんの学校よりはアホ学校やけど、制服は可愛いし、などと話していた。
 だんだんと足音立てて戻って。
 戻って来て、もういやっと、立ったまま叫んだのです。
 私に・・・でなく、伯父に。
 父親に向かって。
 堰を切った従妹の怒りは、叱り付けることで穏便に、無理やりに収めようとした父親を許しませんでした。
 お腹の底のうっぷんの箱が壊れて一気に何かが噴出したように、従妹の目は吊り上りました。
 早々に母と私は伯父の家を退去したのでしたが、伯父と従妹は、黙れ黙らないと火の出るような口争い、伯母は傍で、何事も無いように針仕事を続行しつつの無言を貫いたらしく、最後に伯父が出て行け、と怒鳴ったら、従妹は、わかりましたと目を据えて、家を出たらしいのでした。
 歩いて行ける距離の、代々のお墓のあるお寺の、鐘つき堂の柱の陰にうずくまって、夜を明かしたと聞きました。
 残暑のしつこい時期のことで、怒りに乱れて汗をかいたそのままの姿で飛び出して、全身を蚊に刺された従妹は、発見されて連れ帰られたままひどい熱を出し、何日も寝込み、後は、伯父と、口をきかなくなりました。
 祖母が私と俊也をひいき、というより、娘である母の産んだ子供をひいきしていたのは本当のこと。子供のころから気になっていました、どう思われているか感じていました、当たり前のように祖母や伯父の傍らに座って、お茶を出してもらって涼しい顔でいる母を見る、従妹たちの視線が、見ている私は痛かった。
 夏休み、母の里帰りに伴われるたびに、胸の縮まる思いをしました。
 せめて食器を下げたりするのを手伝おうとして、緊張して、落として割ってしまったこともありました。
 伯母は、あせって困惑して立ちすくんでいる私に文句を言わず、
「朱音ちゃんは、お手伝いしてくれる気ぃやってんもんなあ」
 怪我が無いかなど、気遣ってくれました。
 母は、すみませんなあ、ねえさん、と、座ったまま口だけで謝って、立っても来ませんでした。
 蔵ん中に、食器なんか山ほどある、というのが、母の気分だったようです。
 伯母が結婚の時に持って来て使っている食器など、どうということもない安物だ、と、公言したこともある。母は。
 伯父は、貸している家や土地の守りをしながら信用金庫に勤めていて、そういった場面に関して、ほとんど口出しをしない態度でした。
 妻や娘が、母親にいいように扱われていても、見えない、だから知らない、という態度でした。
 長男である息子、家の二階で「べんきょう」ばかりしている従兄の存在は、また、別の話です。
 祖母が倒れても伯父は、伯母に、それまでと同じに接していました。
 変わったのは伯母でした。
 頭ごなしに夫に言われることに、返事を返さなくなりました。
 することはしていました。黙って。伯母が変化したので、従妹も噴火できたのだと思います。
 従妹はもちろん、父親に従順な息子である従兄も、いや従兄の方が沢山の分量、母親の味方でした。私でさえ気づいていたことに、全く無頓着だったのは伯父だった訳です。当の母と。
 祖母に寝込まれて伯父は、急に孤独になりました。
 支配下にあった筈の妻や子供たちは、遠く離れていました。
 いつから、など、伯父は、考えてみたでしょうか。なぜ、とか。
 伯母に、偉そうな態度をとらなくなりました。弱くなりました。
 従妹のことがあって、もっと大人しくなった感じでした。
 
 私はずっと、見ていました。
 母は、祖母の世話をする、という名分で、実家へ足しげく通うようになり、すぐに、ほとんど毎日、母親の傍で過ごすようになっていました。。
 伯父の家族の気持ちは不明ですが、伯母にとっても、まるまる、迷惑なばかりでもなかろう、と、私は、考えるようにしていました。
 嫌いでもいやでも、祖母の世話は手の空いている誰かがするほかは無いのですから、従妹は、母がいる時には自分の部屋にいられるだろうし、母がいれば祖母がブザーを鳴らす回数も減る。
 そう、思っていました。そう思うよりなかった。
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  1. 2012.04.07 (土) 01:48
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  3. yuuta
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KUONさん

一気に読んでしまいました
息してなかったかも、、、

もう遅いので寝ます
寝付く間ずっと考えるでしょう 
朱音のこと

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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

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