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返事の中までKUONです。

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深く長い沈黙


京大助教の小出裕章先生は、一週間ほど黙っておられたようですが、久しぶりに「たねまきジャーナル」で話しておられます。貼らせていただきます。

途中に、深く長い沈黙があります。



「朱音」も5回めになりました。

たんたか、たんたか打ったものを、そのまま出しているのではなく、しかも書いていた途中で去年の3月11日になって中断してしまったので、ずっとこの調子でここで読んでいただけるとはとは思えません。
もう何回分かは、書き終えたものがあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私の両親は、離婚というものをすることになりました。
 父は、今可愛がっている、私たちより幼い子供に、お父さんというものを与えてあげたいから別れて欲しいと、母に頼んだそうです。
「深く頭を垂れた」そうなのです。
 大切な話がある、と、私と俊也を呼んで並べて、母は、少し笑いながら、父の言葉を伝えました。
「正直とは言っても度が過ぎる、お父様らしいわ」
 怒っている口ぶりではありました。
 でも母は、笑っていた。
 父が頭を下げて頼んだ、など、そんなことまで言う必要はあるのかしら。
 父を馬鹿にして薄ら笑いを浮かべている母に、白けた気持ちになりました。
 正直の度が過ぎるのは、父だけではないでしょう。
 イヤな話でした。
 聞きながら、お腹を、大きな気持ち悪い手で、ぐにゅぐにゅと揉まれている気がしました。
「そんな勝手な話は無いと思うわ」
 母に向かって私が口から吐き出したのはそんな「思い」でした。
「次に欲しいものが出来たからって、今までのものが要らなくなるなんて」
 悲しかったのか、悔しかったのか、判りません。
 一度見たことのある、あの行儀の悪かった、私の父を人前でぴしゃんと叩いた、静かな大人の店の中できーきーとフォークを振り回していた、誰にも止められず叱られず、醜く傍若無人だった、父がそれを許しているなんて信じられない思いがした、あんな子供のために。
 私を。
 俊也を、もう、要らなくなるなんて。
 ・・・母は既に、決断していました。 
 離婚して、大和へ・・・道が細くて至る所突き当りばかり、あみだクジみたいな路地の入り組んだ、あの、古い城下町へ帰るのだ、と。
 私は母と行くらしかった。
 うなずくよりなかったでしょう。
 父を許せなかったし。
 あんな子供と、同じでいたくなかったし・・・父は、あちらを、取ったのだから・・・。
 父は、あの子の父でいることを、選んだのですs。
 もう傍にはいられません。私は。
 下の歯が全部、ぐらぐら揺れ続けているように不安で、いやな気分でいっぱいで、でしたけれど、父ともう、暮らさないなら、母といるしかないのでした。
 私はまだ、一人では生きられない子供でした。
 遠いところから、集団で東京に出て来て、同じような年で既に働いている人たちがいることも、知ってはいました。
 テレビで見たし、友達の中には、そういう人を雇っている家がありました。
 声が大きくて、髪の毛が黒くて多くて、頬が丸くて赤くて、台所で働いていて、手が荒れている。
 クラスメイトの家にいる「ミエちゃん」は、そういう人だったようです。
 夜になると一人で泣いているそうでした。
 しかし、すぐには帰れないらしいのです。
 旅行で来ているのではない。
 働いて、お給料をもらって、家へ、お金を、送るらしい。
 友達は気にしていない様子でしたが、両親が別れることになって私は、自分が、夜、一人で泣きながらも、雇われた家で頑張って仕事をすることが、できるかどうか、考えてみたのでした。
 自分とはつながりませんでした。
 そんな大変なことが出来ている人たちと、私は、一緒にはならない。なれない。
 正直、そんな大変な自分でなくてよかった気が、ありました。
 俊也は、なんと、自分は東京に残ると言い、固い決意を揺るがしませんでした。
 母は、泣いて俊也を説得しようとしました。弟は頑なでした。
 自分は行かない、東京に残る。父の了解も得ている、いや、むしろ父は、長男である俊也を手放す気は無いと強硬だったので、俊也は父の意見も自分の援護材料として頑張りました。
 だから、だから心配なのだとの説得は、空しかったです。
 母と私が出て、父は、この家に戻って来るらしい。
 一人で、でなく、次の奥さんと、子供と共に。
 父は母に、以後も住み続けるならこの家はあげると言ったらしいのですが、母は、断ったそうなのです。
 こんなにも大きな家は要らないと。
 初めから、好きでない建築であったと。住み続けても愛着のわかない家だと。
 なお住み続ける気は無いと。
 父の、次の奥さんは、ここが欲しかったらしいです。
 俊也が残れば、俊也は、その人たちと一緒に暮らすことになる。
「大丈夫、全然かまわないよ、僕は」
 いともあっさり言い切って、
「僕も、僕は、僕だってお父さんの子供なんだから、何の問題もない」
 母が泣くようなことを、サラリと言って、気にしていないのでした、そして、とにかく、
東京に残る。その一点張りだったのです。
 転校したくない、友達とも離れがたい、剣道も今の道場で続けたい、塾の先生を変わりたくない。
 俊也は言いました。
 特に、剣道の先生と離れたくない、尊敬しているし、それに。
「僕は、あの先生の言われることを聞いていれば、大丈夫な気がするの」
 淋しくなどないと、頑ななのでした。

 母と、母の生まれ里へ帰る・・・ 。
 それって、どんなことなのでしょう。
 母の里、母の実家は旧い家なのだそうで、何か人寄りのある時の他は門は閂で閉ざされ、普段は門の横の小さな戸から屈って出入りし、玄関までは飛び石伝い、子供の頃は、門から玄関までの間に、数え切れないセミの抜け殻が転がっていました。
 私と俊也は、それを、あるだけ拾って集めていいと聞かされて、喜んで探し集め、袋にいっぱいになったそれ・・・空蝉、というそうです、それを、どうすればいいかに、迷うのでした。
 嵩は高いのに、軽くて、力をこめて触れればがさりと音を立てて、壊れたり、ひしゃげたりしてしまう。
 私たちは、門の横のさるすべりの樹の下を掘って、セミの殻を埋めました。いっしょうけんめい、掘って、袋をさかさまにして入れて、最後の粉のようなものは、見なかったことにして、土をかぶせた。
 沢山の空蝉は、埋めてしまえば、土の盛り上がりさえ感じさせないようなものでした。
 俊也は、母の里へ連れて来られる夏の度、同じことをしました。
 セミの抜け殻を、見つけて、集めて、しばらく収穫の思いに満たされて、夕暮れが忍び寄る頃には、土を掘って埋める。
 翌年、いつ見ても、どこを掘り返しても、埋めたセミの痕跡はありませんでした。朝顔やヒマワリの種は、埋めておけば芽吹くのに。

 伯父以外の皆は、玄関の横の勝手口から出入りしていました。
 廊下にぐるりと取り巻かれて広い部屋が田の字に四つあり、他に茶の間と呼ばれている部屋、箪笥類の全てが入れられている部屋、渡り廊下を渡って風呂の奥に化粧室といわれる板張りの部屋、中庭をはさんで反対側の渡り廊下の先に祖母の暮らす隠居部屋があり、隠居部屋は二部屋あって、プラス小さな板張り部分には水道も引かれ、ガスコンロが置かれ、独立したトイレもありました。
 それは家全体の左側部分で、門を入って右側には、母がかつてピアノを置いていた洋間があり、そこは従兄が使っており、その奥の畳の部屋は従妹が使っていました。従妹の部屋は、昔の「おなごし・女子衆」さんの寝る所だったようです。
 中庭の奥に蔵があり、蔵の周囲にはドクダミの花がいっぱい咲いていて、私や俊也は、蔵には、近づいてもいけないと厳しく言われていました。
 田の字型の広い和室は、陽の当たる風の通る場所でしたが常にはガランと空いており、隠居部屋にいる祖母はともかく、伯父と伯母は茶の間と箪笥部屋に住んでいる感じで、結婚に破れて帰った娘(だと、誰かが言っていました)である母と、私の、落ち着ける所は、無さそうでした。
 東京にいた頃、里帰りの時、母は、沢山のみやげ物を持参しました。
 食べ物だけでなく、大判のお風呂上り用のタオルとか、到来物の石鹸のセット、紅茶、食用油、味付け海苔や牛肉の佃煮、明治屋で手に入れる缶詰類(そういった買い物が母は好きでした)、洋服の生地とか沢山の靴下とか、伯母の喜びそうな物を。
 先に送っておくようでしたが、訪れると伯母はそれを喜んでいて、お礼を言ってしまいこんで、でも相変わらず、伯父の家のタオルは、どれも真ん中が透けるほど薄い物で、湯上りと呼ぶバスタオルは共用で、からりと乾ききっていたことは無く、湿った匂いがした。
 伯母はいつもブラウスにスカートに色のついた足袋、あるいは黒いズボン、という身なりで働いていました。座っている伯母を、見たことがありません。
 食べるものも慎ましい家だから母は、里帰りの度に(私の記憶にある限り)、駅に近い間口の広い吉田屋でウナギやお造りや出し巻き卵をたっぷり注文して、父の名を告げて、実家に届けるように言いつけ、その夜は伯父は機嫌がよく、母の横に居座る私たちにもあれこれ話しかけるのでしたが、伯母は違いました。
 暗い台所で、お造りを網で焼いて来て、小さい白いころころの焼き物になった魚を、自分の子供たちに食べさせるのでした。
 東京には沢山ご馳走がおありやろけど、と、いつも言うことは決まっていて、
「うちの子らは、なかなかお造りにも当たらんよってに、お魚、生ではよう食べしまへんねん」
 ほとんど歯の無い口で、もにゅもにゅと好物のお造りを食べている祖母も、長い箸で悠々と食べている伯父も、もちろん母も、伯母の言葉は耳の外に流してか、何も応えませんでした。
 俊也は、黙って、お醤油をつけて、背筋を伸ばしてお造りを食べていました。
 父の特訓で俊也には、普段食べるものの中に、食べられない物は無くなっていたのです。

 離婚することになって母は、もちろん、伯父にも相談をもちかけたようです。
 里の家が持っている借家の一軒に手を入れて、二人ゆっくり住めばいいと言う伯父に、ではそうすると母は、答えたのだそうです。
 母がそう言いました。
 母と二人で住める、というのは、不安だった私には魅力的な話でした。
 伯父の家ではその頃、朝は茶粥、お昼はうどん、夜に初めてご飯を炊いて、味噌漬けの魚は御馳走の部類、あとは、かぼちゃとか大根と油揚げの煮物とか、そんな食事が、普通でした。コロッケだって、近い方の肉屋で揚げている、硬い小さいものを、伯父や従兄だって一人に二つ、キャベツがぱさぱさと添えられ、そして味噌汁に漬物、それだけ。従妹は、一つだけのようでした。
 私も俊也も、コロッケを二つ、つけてもらっていましたが、一つでいいのに、と、思ったこともありました。
 たまの母の里帰りでは、南側の十条の部屋に布団を敷いてもらいましたが、住むとなれば、いる場所は無いと、私なりに考えていました。
 祖母のいる離れに、一緒に、と言われたらどうしよう。
 ラヂオの深夜番組など、絶対に聴けません。自分の部屋も確保できない。
 母の着る物だって、どこへしまっておけるでしょう。
 

 奈良市内にある高校を受験したり、東京で通っていた学園を卒業したり、行ったり戻ったり。春はばたばたと過ぎて行こうとしていました。
 街を歩いていて、ふっとスカートが浮き上がるような、手で抑えても抑えきれないような不安な落ち着かない気分になり、なぜだろうと考えて、ああ、そうだ、と納得する。
 父と母が別れ、私は東京を去る、だからなのだ、と、その度に自分に言い聞かせる感じでした。
 父に、もう、会えないかもしれない。
 父はいい、仕方ない、裏切り者だから、でも俊也に・・・。
 俊也のことを、いったん頭から消そうと、必死で私は、一緒に来ない俊也を、諦めようとしていたのだと思います。
 俊也が望んだのだから。
 俊也が、自分で、私とは離れていい、平気だと判断したのだから。
 取りあえずは自分のことだけ、考えていよう。
 あちらへ行ったら、とにかく、学校を卒業することを目指す。
 高校を出て、出来れば大学も出る。
 まだ、女の子たちは、当たり前に大学進学を考える時代でもなかったようですけれど、私は、大学部まであって、当然そこまで行くと考えていた東京の学園から、離れたとしても、出来るだけ学校へは行った方がいいと、漠然と考えていたのです。
 本を読むことがつまり勉強になるような、大学って、そういうところもあるらしいと聞いて。
 それなら自分にも出来るかも知れない。
 就職して・・私に何が出来るか判らないけれど・・お金を、貯めて、もしも何時か、俊也が困っていたら、苦しい目に遭っていたら、私が、俊也を、助けてあげなければならない。
 その気持ちは、固く固く、しっかりと心の一番奥にしまってあったから、私は、どうにも出来ない俊也との、現実の別れについて、悩まないでいようと思っていたのです。
 一時の別れだと、言い聞かせていたのです。
 悩まないでいられました。
 父の気持ちも、母の気持ちも、私たちに遠い所で揺れたり走ったりで、親という人たちを、心の底からは信じられない。
 信じると辛くなる。私が、俊也に、いつか役に立つ姉でありたい決意だけは、変化しようも無く、深く考えたり迷ったりも無く、実際には、楽なものであったのでした。

 父とは、東京を去る何日か前に会いました。
 父がよこしてくれた車に乗って、どこだったか、大きな立派なホテルの中の、中国料理の店へ行きました。
 いつの間にか家からいなくなっていたエンドウが、父の車を運転して来ました。
 案内されて行ったのは、赤い絨毯や高い天井や、房のいっぱい下がったランタンや、巨大な衝立のすりガラスに、よく太った女の人や口の尖った男の人の絵が描かれている、そんな店でした。
 個室に、父は、先に着いていて、匂いの強い煙草を喫っていました
 姿を見る前から、父のいることが判りました。
 入って行った私を見て、父は、
 朱音。
 朗らかに呼んで、右手を上げて、脚を留めて父を凝視した私に、とまどったように降ろしかけて、思いなおしてその手を、振りました。
 招きました。おいで、おいで、の形に。
 昔の、私のものだった頃の父みたいに。
 私は、いきなり胸が熱く、湯をかけられたように熱くなり、従業員に椅子を引いてもらいながら、座りながら、涙が目から噴き出してしまいました。
「どうして笑うのよ、お父様」
 いきなり叫んでいました。
 涙が、まっすぐ前の方に、ぴゅううっと飛び出ました。
「絶対、今日、泣いたりしたくなかったのに」  
 卓越しにハンカチをくれた父に、礼も言わずひったくって、私は泣きました。
 ずっと父は黙っていて、途中、私がこんなに泣いているのに父は何をしているのだろうと、腹が立って、ちらりと見ると、俯いて父も泣いているのでした。
 丸い卓に両手を、掴まるみたいにちょんと置いて、父は顔を下に向けて肩を震わせていました。
「どうして泣くの」
 どうしてあなたが泣くのかと、私は、ざくっと言いました。
 母ならきっと、止めなさいと制止するであろう声で。
 自分は、勝手なことをして、したいようにして、あんなに朱音が好きだ、世界一可愛い、朱音が一番大切だなんて言っていたくせに、そんなこと忘れて私のいる家に帰って来もしないようになって、よその子供を可愛がったりして、それなのに、どうして、泣いたりする。
 私と別れるのが、まるで悲しいみたいに、辛いみたいに、なぜ泣いたりするのだと、父をなじりました、責めました。
 そのうち少し気が済んで来て、涙も止まって、普通の顔に戻って、何が食べたいか、と、あちらもケロリとした声に戻って尋ねる父に、ものすごいご馳走が食べたいと言いました。
「冷たいオレンジ・ジュースと」
 生のジュースでないとイヤよ。私は言いました。
 私が望むものは、父といると、直ちに叶えられました。
 名前は判らないながら、肉や海老や、材料を知らないけれど、こりこりのもの、滑らかなもの、甘酸っぱい食べ物、とてもおいしい揚げ物、包んで食べるものは父が上手に包んでくれ、真っ白なテーブルクロスを遠慮なく汚しながら私は、大変な量の食べ物に手をつけました。
 どれだけ何を汚したって、父といるなら、遠慮は要らない、嫌な顔をされて傷つくことも無い。
 どんどん運ばれて来るどの皿にも無鉄砲に無作法に手をつけました。
 あっちへ、お母様と帰ったら。
 ぷりぷりの海老を噛み切りながら私は、言葉を吐き飛ばしました。
 お粥や素うどんや、お味噌で匂いを消したみたいな魚ばかり、食べるんだわ。
 しみったれた物ばかり食べるんだわ。
 電気はマメに消せだの、大きな声で喋ったら近所に聞かれるだの、デパートで買い物をしたら、包装紙が目立たないように持って帰れだの、言われる。
 こんな店もあちらには無い、あっても行けないだろう。
 言いたい放題、口にしました。 
 心が滾って、黙ることが出来ませんでした。
 父の心が、みしみし、ぎしぎし、痛めばいいと思いました。
 贅沢させて育てた娘を放り出すので、しゃばしゃばのお粥にお漬物を食べさせるハメになると、後悔して、辛がればいいと思いました。
 私の言葉には嘘があり(母の里の家で暮らすのではない、今度の母と二人の家では台所も造り替えて明るい場所になっているらしいと知っていたのだから)、大げさで、ヒガイモウソウみたいで、と、判っていたのですけれど、何も言い返さず、黙って聞いている父に、言いたいだけ言いたくて、ののしりの言葉を言っているのが気持ちよくて、さんざんに料理を食べ散らしながら、
「泣いていいのは私だけだったのに」
 派手な照明器具や、衝立や、螺鈿細工のテーブルや、とにかく、どれをとっても中華料理の店、な感じの、個室の中で、父に、意地悪を言いまくりました。
「私は、お父様が、一番、好きだったのに」
 その言葉が口から出た時、父は、ゆっくりと顔を上げました。
 顔を上げて、呼びました。
 朱音、と。
 そんなに、本当に、お父様が好きか。
 じっと真っ直ぐに見つめました。
 お父様のそばにいたいか。
 なお見つめていました。
「そんなこと、一度も言わなかったじゃないか」
 よそに女の人を作ったくせに、勝手なことを言いました。
「お父様が、世界で一番好きだって、言わなかったよ、朱音は。お前は」
 東京に、残るか。朱音。
 返事のしようのない卑怯なことを言いました。
 ・・・私は、そうして、父と別れました。

                             (5)


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  1. 2012.04.05 (木) 22:04
  2. URL
  3. yuuta
  4. [ edit ]

NoTitle

KUONさん こんばんは

今日も「朱音」を読ませていただきました

自分では決められない親の事
お父様に対して怒りの涙をぶつける朱音
一緒の気持ちになって叫んだ気がします
大人って!

種まきジャーナル聞いてから読んだからかな
大人って!

全部は出来上がっていないのですね
わかりました
KUONさんがここまで、、って思われるところまでで大人しく待ってます
もったいない気持ちすらしながら読ませていただいてます

  1. 2012.04.06 (金) 12:03
  2. URL
  3. えま
  4. [ edit ]

NoTitle

kupnさん こんにちわ

朱音・・・子供の頃、思春期の頃の我が身を思い出しています。

父のDVの為、末の弟を連れて母が家を出て
残された私と年子の弟。
母のいない初めての小学校の運動会に
父は不憫に思ったのか、私達に料理屋に頼んだ高級なお弁当を持たせたのです。
今までは、母が作ったお煮しめや、おにぎりを校庭で広げて、賑やかに食べたのでした。
しかしその日は、母が作るお弁当とは全く違う、
豪華で、食べた事もない、見た事もないような立派なお弁当を、無言で弟と2人で食べました。
家に帰ると父が、どや顔で
どうだ、凄い弁当だっただろう・・・美味かっただろう?
と返事を催促してきました。
お、美味しくなんて、なかった、と口から出ていました。
平手で頬をたたかれました。父は何かわめきながら・・・
年子の弟が、何でそんな事をいうの?叩かれるだけなのに・・・と言葉では言わないけれど、そんな怯えた目で私を見ていたのを、鮮やかに、40年以上前の事ですが思い出しました。

すみません、自分の事書いてしまって。
朱音の気持ちが自分の事のように、感じられるのです。環境はちがうのですが、感受性が一緒みたいな気がするのです。
そして、朱音が、こんなに感じやすい彼女が
傷つかないで・・・と心から願います。
でも、やっぱり傷つくのでしょうねえ・・・v-409


小出先生の長い沈黙、先生の深い悲しみを感じます。
先生、諦めないでと応援したいです。
  1. 2012.04.06 (金) 14:38
  2. URL
  3. ようこ
  4. [ edit ]

NoTitle

kuonさん こんにちは

小出先生がなぜ表に出てこられないのか
疑問に思っていたことが、このお話でわかりました。
行政のありばいづくりに利用されかねないと思われていたのですね。

福島原発ができたころ、私は福島に住んでいました。
福島原発でも臨界事故があったことも初めて知りました。
完成当時、東電の「安全神話」は県内広く知れ渡っていました。
そんな中、両親は「雨が降ったらなるべく濡れないようにしなさい」と言っていたのを思い出しました。
何気なく聞いていた言葉の意味がようやくわかりました。
「絶対的な安全はない」からなのですね。

朱音ちゃん 負けないでね

えまさんのコメント読んで、私も子供の頃忘れられないことを思い出しました。
誰にでも小さな傷はあるかもしれませんね。

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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

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四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

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