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返事の中までKUONです。

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明日は春の嵐、とか。



[朱音」三夜目です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 幼い男の子を抱いた父は、反り返ったり体をねじったりするその子を落とすまいとして、よろよろしていました。
 中学部の二年生だった年の、秋。
 母と出かけていたのです。
 視力がどんどん落ちて行った時期で、不安で、でも読書が止められなくて。
 母が連れて行ってくれて三越で新しい眼鏡を作ってもらい、外へ出たところで母が知人と出会い、私は、何か飲みながら待ってくれるかと問われ、もちろん急いでうなずき、手近な喫茶店の、母や知人の方に少し離れた卓に、席を占めたのでした。
 喫茶店という所へ来たのなら、コーヒーを飲んでみたい。
 とても苦いものらしい魅力的なその飲み物を、平然と口に出来たらどんなにいいか。
 と、願いはしたものの、母が綺麗な透明な緑色のクリームソーダを注文してくれたので、泡を眺め、ソーダの味を含んで溶けかかるクリームの舌触りにうっとりし、それも買ってもらったばかりの雑誌を広げると、雑誌はシャキッと新しい紙の匂いがし、ちょっといつもとは異なる外での時間を、楽しいと思いました。
 中学生になってから、母との距離が近くなっていました。
 父はほとんど家にいないから、私を連れ出してくれるのは、母だけになっていて。
 母は実は、出かけることの好きな人だったのです。
 いつも髪をきちんとして身なりもいい母と連れ立つ感じは、私の虚栄心を、満足させたのだと思います。外にいる時は、母も、いつもよりもっとゆったりと、物分りのいい母親の気分だったと思うのです。
 それは、私や俊也が幼い頃から、そうでした。
 外にいる時に私たちは、仲のいい母子でした。
 ともかく、母との外出は、心弾むものでした。
 母は、約束したことは守ってくれました。
 行く先も、時間も。家を出る際の、時間をかけて本を選んでいいとか、ソックスやハンカチの色は、華やかな物にしてもいいとか。そんな約束。
 その日は、喫茶店、なんて、大人の感じの店に、一緒に入ることが出来たし。
 俊也は、沢山しなくてはならない勉強だけでなく、剣道を始めていて、お休みの日にも、上級の方々の試合を、座って見ているだけでも興味深いらしく、見学のために会場へ連れて行ってもらうようになっており、それはウツミだけで済む用だったし、ウツミは、よそのお子さんも一緒に車に乗せて差し上げて(母の言いつけではありましたが)重宝されていたらしいです。
 だから弟が、母や私と共に外出する機会は、めっきり減っていたのです。
 俊也は俊也で楽しむ・・・というか、いい時間を過ごしている感じは、出かけていても安心で、楽しめました。
 中学生のその頃には私は、学校のクラブ活動や、休日に友達と、ささやかな冒険じみた外出をして、学校では禁止されていても、自分たちだけで甘いものを食べたり、迷って迷って一番お気に入りのペーパーバッグを一枚手に入れたりすることに熱心になっていました。
 ・・・と言うのは嘘で、私は、実は、誰より沢山お小遣いを持っていました。皆が選ぶのに真剣になる、しゃれた紙のバッグくらい、幾つでも買えました。
 まともな会話を交わすヒマは無くても、たまに家にいる時の父から、せがまないでお小遣いを貰うことは出来ました。
 応接室のソファで、一人座って、前屈みに座って、殻付きのピーナッツの殻を散らかして食べながらテレビを眺めているのが、当時の記憶の中の父。
 コップにプラッシーを注いで寄って行って、どうぞと差し出して傍に掛けて、黙ってしばらく、一緒にいる。
 思い出したように父は、うまい物を食べているかと問う。
 友達とうまくやっているかと問う。
 まあまあ、と答えると、そんな奇妙な返事はないぞ、と口では言いながら、そうか、問題ないのかとうなずいて、てのひらをポリポリ、掻いたりするのです。
 水をくれるか、とも、よく、頼まれました。
 くれ、でなく、くれるか、と言うのが、父のものの言い方でした。大きなコップに入れて欲しいらしく、カットの細かい小ぶりの切子などでは、フン、という顔を見せました。
 その水を一気に飲み干して、いきなり小遣い欲しいかと言い、返事しないでいると、ごそごそ財布を取り出して、お金を、くれるのでした。
 不良になるなよ、と言いながら。
 不良って、どんなもので、どうやってなるものなのでしょう。
 ありがとうと言うと父は、むむむむ、と、口をつぐんだまま嬉しそうに笑うのでした。
 そんな風に笑う父を、好きでした。

 母が、月の初めに額を決めてくれる分で、友達との付き合いをしました。
 一緒に出かける友達と、あまりにも違うことはしない方がいいとは、なんとなく判っていました。
 派手なお金の使い方をする人は、だんだん、遠くなるものです。
 私の学校には、中学生で既に、とてもすごいお金の使い方をする人たちもグループもいました、けれど私は、当時よく行動を共にした友人たちの中の居心地がよく、ここで一緒に並んでいたいと考えていたのです。
 余裕が無いのではないみたいだけど、とんでもない付き合いをする必要はなさそうな、普通の感じの友達。
 極端に目立ちたくなかった。
 それは、きっと疲れることだろうと、漠然と感じていました。
 余ったお金を、自分の部屋の、自分しか知らない場所に隠していました。
 いずれ俊也にあげよう。
 私が遊んでいる間にも俊也は、遠い学習塾へ行ったり、剣道や、長い休みの時にはお寺の小僧さん修行に行ったり、時には父と、あまり楽しくないと私は思うどこかへ、出かけたりしていたから。
 俊也は絵を描くのが好きでしたが、なかなか、ゆっくり描けないでいるのは判っていました。
 父は、戦争の後に自転車一台で始めて(と言うのが口癖でした)、お金をもうけた運送業以外の分野にも、仕事の手を伸ばしているらしいのでした。
 当然、俊也を、跡継ぎだと本人に言い聞かせ、いろんな方々に紹介しているようでした。
 俊也は、黙って父の後についていました。
 男だから、仕事はしなくてはなるまい。父の後を継ぐのは想像がつきやすく、俊也にとってもいいことのような気がして、俊也がイヤでないなら仕方がないのだろうと、私は、詳しいことを聞かされないまま、考えていたのです。
 しかし父にもらうお金は、自分だけのものでなく、俊也の分でもある、と、決めていました。

 映画も、友達と観ました。
「風と共に去りぬ」の、レット・バトラーを、友達は、いい、いいと、自分の胸を抱きしめてハアア、なんてうっとりしていました、が、私には、レット・バトラーが素敵とは思えなかった。
 黒い髪を脂っぽく固めているのも、勝手にあれこれして、勝手にどこかへ行ってしまうのも、何か、いやでした。
 ビビアン・リーという女優さんは、本当に、素晴らしく綺麗だと思いました。
 一本だけ映画を観たアラン・ドロンの方が、レットよりいいと思いました。
 目の青さがすごかった。
 初めて、青い目の美しさを知ったのです。
 外国の男の人って、周りにいる人たちと全然違う。
 まつ毛も長くて。脚が長くて。首も長い。 
 日本へ来た時の、背広を来たアラン・ドロンのグラビアを眺め、あの、髭を生やしてワケの解らない笑い方をするごっついレット・バトラーよりやはり、私はこちらだわ、と、納得していました。
 でも、誰のことも、本当に「いい」とは、思えませんでした。
「太陽がいっぱい」でも、マリーさんという、だるそうな女優さんが、綺麗で素敵、と思って、見ていたのです。
 もんじゃ焼き。バスに乗って遠くまで行って、友達のお姉さんに連れられて店に入って、初めて食べました。
 道路の埃がわーと入り込んでいる開けっ放しのお店で、雑巾で鉄板の上を拭いて、その上へいきなりキャベツを投げて、メリケン粉をじゃーと流して焼き始めたのにはびっくりしたのですが、せっかくお姉さんが連れて行って下さったので、知らん顔して、教わるままに小さいコテで、鉄板から直に、もんじゃを食べました。
 ソースの焦げたのは、おいしかった。店のおばさんが、水を、何度も汲んでくれて親切だと思いました。食べながら飲む水が、おいしかったのです。
 店を出てから、お姉さんが、妹である私の友達に
「あのフキンは、ちょっと、だったわね」
 と言い、
 「本当ね」
 と友達が応じたので、やはりそうなのかと思い、私が雑巾と思ったのは変でなかったと思い、少し安心しました。
 自分の家では、雑巾でもあんなに黒くないと感じたのですが、言うと、とても失礼な気がしたのです。
 よく拭いて使って黒くなっただけで、しっかり洗って絞ってあったと思っています。
 友達が、してみたら楽しかったと言ったので、家で、カレーライスを作ったりもしました。
 初めての時、母は、アヤさんイクさんやウツミの分まで、お昼ごはんに作ろうとはしゃいだみたいに言って、エプロンをして野菜を刻みました。
 私たちの食事とみんなの食事は、普段は違うものだったのですが、大きな鍋で作って、皆にも勧めました。
 初めの一度で母は止めてしまい、私は時々、アヤさんに教えられて、簡単な料理をしました。
 卵焼きやオムライス。
 食べた後は、食器を洗うのも拭くのもしまうのも、最後に床を雑巾で拭くのも、料理を作った朱音ちゃまがするのだとアヤは、かっきり言いました。
「朱音ちゃまは、これからお嫁に行かれる方なのですからね」
 と。
 私は、お嫁になど行きたくないと、常づね考えてはおりましたが、アヤのかっきりと言う言葉は、多分、本当な気がしました。
 毎日するのなら、絶対いやだと思いました。
 フキンを、真ん中だけ熱湯に浸けて両端を持ってぎゅうう、と絞るやり方も、アヤに教えられました。
 父が一時凝って、いくつも大切にしていた吊り忍が、干からびて庭の隅に転がっているのを、もったいないと、何度もうるさく言い、水のやり方をどうだこうだと言いましたが、私は、そんなの、ちっともよくなかった。

 結婚するとしても、こんなことはする必要無いだろうと、放っておいたら、いつの間にか無くなっていました。 小砂利を敷き詰めた庭の部分の箒目の立て方なども、アヤは私に教えました。春、中庭の桜の樹に、うじゃうじゃと湧いて出た毛虫を、油をつけたボロ布で焼くのだと聞き、私はそれは、拒みました。
 そんなことまで、私は、絶対しない。
 桜の樹のある家に住むことなど無い。
 当分、アヤと口をききませんでした。
 毛虫の処分までを私にさせるアヤを、許せない気持ちだった。
 父にも言いました。言いつけ口が卑怯なのはわかっていた。でも黙っていられなかった。
 父は、桜の樹を切れと命じたようで、庭はおかしな見晴らしになったけど、私は、やっとせいせいしました。
 庭を見て喜ぶ誰も、家の中にはいませんでした。
 ・・・俊也は、カレーライスもオムライスも、おいしい、おいしいよ、と笑顔で、お代わりして沢山食べました。
 嬉しかった。
 とても嬉しかったです。
 最初のカレーは、父の分も、小鍋によけて置いておきました。
 遅く帰った父が、こんな時間に、脂の固まったカレーなんか食えるかと、手を付けなかったと母に聞き、残しておくのはやめました。
 もしかして喜んで、おおっとか、大げさに手を叩いて、スプーンを手にするかも、と、考えたのですが。
 私のを食べながら、どこそこのカレーはうまい、とか言われたら感じ悪いわ、と、思ったせいも、ある。
 人に気を遣うくせに、時々そのようなことを、びっくりするほど平気で言う人だと、知っていたから。
 ある時イクさんが、うちでは肉を入れないでカレーを作ったこともある、と、笑って言いました。
 私の家では母が、朱音が作る時は、と、サイコロみたいに四角いお肉を台所に届けさせていたので「肉無しのカレー」に驚いたけれど、そういう時びっくりした顔をするのはよくないことだと、感じていました。口を滑らしてそんなことを言ったイクさんは、ウッと俯いていたし。
 普通の顔をしてお味を聞いたら、うちの子は大好きで、沢山食べるんですよ、と、もうイクさんはハキハキと答えました。
 イクさんは、日曜日に休むだけで、あとはずっと家で働いている。
 イクさんの旦那さんも、よく判らないが職人さんで、以前聞いたのは、屋根から落ちて大怪我をしたこともあり、治ったらまたすぐ働いていて、なのに、肉の入らないカレーを、喜んで食べているイクさんの子は、偉い気が、しました。
 一度、私が小さかった頃、勝手口の方でみかけたことがあります。
 男の子で、前歯が沢山抜けていて、坊主頭で、ぱかっと口を開けて、母ちゃーんとイクさんを呼んで、にこにこしていました。台所の中には入っていませんでした。
 ゴーフルを、あげようと思ったけれど、台所では渡しにくくて、表門から出るはずはなく、裏門の外で待っていると、お父さんに手をつながれて出て来ました。
 私は屈んで、ゴーフルを入れた袋を、その子の手に渡そうとしました。顔が、耳まで熱くなってしまって、早く受け取って欲しいと思いました。
 私と俊也の間くらいの歳の子は、父親を見上げ、じっと私を見て、こくん、とし両手を出して受け取って、
「ありがとう」と言いました。
 こくん、とするのは、イクさんと同じやり方でした。
 お父さんの方も頭を下げ、二人は、手をつないで振りながら、歩き去って行きました。
 やはりあの子はいい子だな。
 私は、泣きたい気分でした。
 
 母は、声楽のレッスンに、通わなくなっていました。
 もういいの、と言っていました。
 何が、もうよかったのでしょうか。
 子供の頃の記憶。
 母から、ピアノを教えてもらっていて・・・やらされていた感じでした・・・何歳ぐらいだったのでしょう、私は・・・俊也は赤ん坊だったような・・・母の部屋で、母のピアノで、指が違うとか、また違うとか姿勢が悪いとか、何度も注意されて、階下から父の、ものすごく大きな声がして、私を呼ぶ声で、そのうち、どんどんと父の足音が上がって来て。
 父の呼ぶ声に気を取られた私は、ドアの方に顔を向け、鍵盤の上の指が泳いでしまい、そして。
「何をするんだ、お前は」
 父の怒鳴り声がして、何事が起きたのか判らぬまま私は父に抱きかかえられ、その拍子に頭が下向いてしまい、そのまま階下へ降りた・・・父は爪先で靴を突っかけ、歩きながら履き、羽根ハタキで車を払っていたウツミに、どけ、と言い、私を抱き直し、まっすぐ抱いてからドアを開けて助手席に置き、自分で運転して、家を出て、あれから、どこへ行ったのでしょう。
 その場面以外、はっきりした記憶は消えています。
 母は、私の指の・・・手の上に、ピアノの蓋を落とそうとした。
 あれは、うつつのことだったのでしょうか。
 
 目を閉じて私は、喫茶店と言う場所の、香しい(という表現をしてみたいと願っていた)匂いを愉しみ、目を開けて壁に掛かっている、私も美術の教科書で見て知っているルノアールの女の子や、画家の名は知らないけれどフランスあたりの田園風景を描いた絵など、あちらを見、こちらを眺めて、うっとりしていたのでした。
 そこへ、父が、入って来たのでした。
 新しくしたばかりで、よく見えはするが微妙にまだ鼻の上に馴染んでいない眼鏡越しに見えたのが、父と、男の子なのでした。
 抱えた子供をビロードの椅子に重そうに掛けさせ、汗を拭きながら父は、子供に話しかけていました。
 子供は、なにやら甲高く叫んで、屈みこんだ父の頬を、ぱしっと叩きました。
 何のためらいもない叩き方でした。
 きゃきゃっと笑い声を響かせました。
 びっくりしました。
 本当に父かと、じっと見ると、やはり父なのでした。
 頭の中がぐるぐるしました。心臓が、どっどっと波立ちました。
 ・・・よく似たどなたか、では、ない。
 小さな子供に頬を叩かれて、怒りもせずふにゃふにゃと笑っているあの人は、確かに父で。
 私の、父親で。
 あの子は。
 あの子は・・・誰なのだろう。
 クリームソーダの楽しみも、新しい雑誌の喜びも、ざっと一気に遠くなりました。
 一体、どういうことなのだろう。
 運ばれて来たケーキらしいものを、突き刺したりこねくり返したりして食べながら、子供は、クリームの付いたフォークを振り回し、父は、ハンカチを手に、その、行儀の悪い子供の顔や手を、拭いてやろうとしている。
 多分呆然と、私は、父と、知らない子供から目を離せずにいたのでしょう。
 気づくと、私に沿って、母が立っていました。
 見上げると、
「お待たせしたわね朱音ちゃん」 
 母の、いつもの声でした。
 ものを言えないでいると、母は、私の向かいのソファに浅く座りました。
 寄って来るウェイトレスに、少し手を挙げて去らせました。
 見せてしまったのね。静かに、普通に言いました。
 うなずくと、一瞬目を伏せて、すぐに目を上げて母は、帰りましょうか、と言いました。
 黙って立ち上がり、まっすぐ行くと父たちの横を通ることになる、と、ためらった私に、母は、
「朱音が隠れることはないのよ」
 前に視線を置いたまま、言いました。
「あなたが隠れる必要はないの」
 私の顔は、その時には、父の視線を感じていました。
 父は見ている。
 私を。
 母を。
 支払いを済ませた母が、いつもの、足音を立てない歩き方で出て行く後を、私も、追いました。
 静かに、普通に、何も見ず、何の動揺を感じたこともない風に。
 少なくとも、そのように見えるように。
 そう、見られたかったのです。
 父に。
                                       (3)

yuutaさん。
えまさん。
読んでくださって、ありがとうございます。

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  1. 2012.04.03 (火) 10:07
  2. URL
  3. えま
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NoTitle

kuonさんおはようございますv-279

ドキドキしています。
胸が、何か、とっても。
  1. 2012.04.03 (火) 17:02
  2. URL
  3. ようこ
  4. [ edit ]

NoTitle

kuonさん
風が暴れまくっています。

朱音ちゃん
愛が守ってくれるよ。

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KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

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