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返事の中までKUONです。

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サヨナラダケガ


こんばんは。

桜の木が沈黙しています。

みっしりと枝を埋めるうす紅の蕾は、咲きたい、咲きたいと願っているのでしょうが、なかなかそうさせてくれないようなこの、花冷え。

私の住むあたりでは、佐保川という、昔むかしからの川の岸に、びっしりと植えられた桜の並木が、例年は、見事な時期なのです、四月の始め、今頃は。佐保姫は、春を告げる女神様。

佐保姫が、そっぽ向いているかの、今年の春。

・・・いつかここへ書かせてもらった薔薇子さんは、離婚して、母子三人で、新しい暮らしに入って行かれるとか。

子を二人連れて関西へ避難した妻を、許せず待てず、夫さんは、身近にいて話し相手になってくれる女性と、今後の人生を歩んで行く結論を出されたとか。

話はいろいろ聞いてきましたが、私には、何を言うこともさせてもらうことも出来なかった。ひな祭りには、小さな小さなケーキをプレゼントしたな

春。原発事故のせい、と、はっきり言っていいと思います、運命の変転した若い母親と、きゃきゃとよく笑う幼いお子たちの、これからが、より良いものであることを、祈るばかりです。

。。。花ニ嵐ノ例エモアルサ サヨナラダケガ人生ダ


今年の大河ドラマの、光と影の用いられ方が好きです。ほんまに、陰翳礼讃だ~。

えまさん。お返事遅くなって、きちんと出来なかった~ごめんごめん、ごめんなさ~い。

お気持ちは、よ~く、わかっておりますゆえ。ありがとう、ゆえ。

yuutaさん。ようこさん。朱音、読んで下さったのですね。どうも、ありがとうございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続きです。


 母の、お友達という人たちも、あまり好きでありませんでした。
 絵を見るところで会ったり、デパートで会ったり、資生堂パーラーで何人かでケーキを食べたりしました。
 みんな顔が白く口紅を塗っていて、髪の毛をくるくる巻いていて、にこおっと笑っていて、あちらを向くとすぐ、笑う顔でなくなり、こちらを向くと笑っているのでした。
 きんきんの声を出して喋ったり、笑ったりして、母に、お子さん方は本当にお行儀がよくてお静かで、と、いつも言いました。
 母のお友達の子供は、押し合ったり走ろうとしたり、お母様お母様とうるさく呼んだり、していましたが、そして叱られたり睨まれたりして、睨み返したりしていましたが、俊也と私は、いつも、おとなしく、じっとしていたのです。
 母は、子供のお行儀を褒められると、まあ、おほほと笑って、とっても機嫌のいい顔で、私や俊也の頭を、ぐい、ぐい、と撫でたりする。
 俊也が、母に撫でられてビクッと避けようとするのを、私は、何度も、手をぎゅうっと握り締めて、我慢するように「テレパシー」を送りました。
 母は家では私たちを撫でたりしないのに、自分の友達に私たちを褒められると、撫でるのでした。
 私は、もうよく解っていたので我慢できましたが、俊也は、母の手が頭に降って来ると、体中がかちかちになって、何か言われても返事が出来ず、頬が赤くなり、私は代わりに、
「弟は、恥ずかしがりやですので申し訳ないことでございます」
と、答えてやるのです。
 すると皆は、また笑って、私のことも、お利口さんなのね、と言いました。
 それには返事は要りませんでした。黙っていればいいのでした。
 母に連れられて会った中には、同じクラスの人もいたことがあり、あちらも私も、黙って、互いの母の傍で口を閉じていました。
 あちらのお母さんが、お友達なのだから、お話してもいいのよ、私たちのように楽しくお話しなさい、と勧めましたが、二人とも、黙っていました。
 学校でも親しく話したことが無いのに、親の前で言うことなどありません。
 外国の土産の綺麗な色の鉛筆や、とてもよく消える消しゴムや、ハイカラな絵の塗り絵を学校へ持って来て、しょっちゅう自慢しているその子を、私は、好きではありませんでした。
 それに寄って行って、いいわね、とキラキラ褒めているクラスメイト(その言い方は担任の先生が教えて下さいました、私は、弟とは別の、お祈りのある学校へ通っていたのです、お祈りの時には、何を祈ればいいのか、最後まで解りませんでした、俊也が幸せで、俊也のじんせいが良いものでありますように、と、少し慣れた頃には祈っていました、先生は優しい人が多かった気がします)のことも、どう言えばいいのか、自分は、そうしたくない、と。
 私も、綺麗な文房具は、引き出しの中に、使いきれないほど持っていたのですよ。
 つまり母のお友達の方の子供さんは、私の好きでない子だったのです。
 私をじろじろ見ながら黙っていたその子は、次の日、学校で私に寄って来て、ねえねえ、と話しかけ、
「昨日のお料理はいま一つだったわねって、ママが言ってたわ」
 と言い、私に、あなたはどうお思い、と尋ねました。
 そうだったかしら、と、私は答えました。
 母と、車の中でも帰ってからも話をしなかったし、父は、子供が偉そうな口をきくのは許さん、と言う人でした。
 パパ、とかママ、とかいう呼び方を、ばかにしていました。
 それには、私は少し、憧れたこともあったのですが。
 父は、成り上がり、というもので、戦争の後でお金を沢山もうけた人で、元もとのお金持ちでないとは、知っていました。
 住んでいる家も、クラスメイトたちの家のように、ご先祖とか前の代の方から受け継いだものでなく、父が大人になって建てたもので、ワヨウセッチュウなのは、立派な床の間と、庭には鯉を飼う池とをどうしても作りたかった父と、建てる当時には赤ん坊だった私に、自分でピアノを教えたいから、と洋風の部屋を欲しがった母との希望を、取り入れたからだ、と、それは、お風呂を焚いたり庭の落ち葉を掃除したりする「オノダのおじいさん」に聞いたことがあります。
 オノダのおじいさんは、私が、俊也の朝の卵や他の食べ物(残して隠して持ち帰った給食のパンや揚げ物)を、ゴミ箱に入れていると知って、これからは残り物は自分のところへ持って来るように、言った人でした。
 そっと燃やしてやるから、食べ物をゴミ箱へ捨てるでない、と。
 卵を捨てるなんて、自分には想像も出来ないことだとオノダは言いました、私は、そういうことを言われたかったのでなく、残したり捨てたりがバレないようにしたかっただけなので、黙っていました。
 家で働いている人たちと、何でも気安くぺらぺら喋ってはいけないと注意されていました。
 物を、勝手にあげてもいけないと。
 でも、オノダの話は、けっこう面白かったのです。
 オノダは、父をそんけい・尊敬していて、たいへん立派な方だと言っていました。
 褒め方が、嘘らしくなかったので、私には気分がよかったのです。
 オノダが、成り上がりとは立派な人のことだと、父のことを言ったので、私は、満足したのです。
 父は、ものすごく仕事すると、オノダは、言いました。
 頭がよくて、気が回って、人を使うのが上手だと言いました。
 そうか、と私は思いました。
 わくわくして、思ったのです。
 で、そんな父は、私たちのような年齢の子供が、料理を「もう一つね」など評することを嫌う人でした。
「私のママ、朱音さんの弟さんは、とっても綺麗なお子さんよって、パパに、話してたわ」
 へえ。ああ、そう。心の中でだけ言って私は、鯉が凍っている寒い朝の池みたいに黙っていました。
 俊也が綺麗なお子さんなのは、誰より私が一番、よく知っている。
 誰に言われなくても知っている。
 父の言葉をマネすれば、
「お前ごときが何を言う」
 みたいに感じたので、放っておいたのです。
 本当に、そう思ったのです。

 
 父が家にいる夜は、父も一緒に夕食でした。
 母は、お父様は和食がお好きだから、と、お造りや野菜を炊いたのや豆腐の料理や、父だけが食べる、藁に包んだねばねばの納豆を、用意させました。父と食べると、キュウリと蛸の(父の大好物)お料理の酢の匂いが鼻に詰まって、ワケが解らなくなるのだけど、それは黙っていなければならなくて。
 食べるのがものすごく早い父に、母は、優しい感じの呆れた言い方で、もっとゆっくり召し上がって、とか、言うのでした。
 小さい頃は食べられなかったお造りを、私が、だんだん好きになって来ていて、わさびも利かせて食べられると知ると、父は、喜んで、自分の分のマグロやお鯛のお造りを、私の皿に分けてくれました。
 父は本当は、塩っ辛い鮭が好きでした。自分で言っていました。でも、俊也のちりちり卵と同じく、父は、白い塩がぺたぺた付いている塩鮭を、食事の時に出してもらえないでいました。
 塩でくるんだみたいな鮭だと、そればかりでご飯を食べるから、よくないらしいのでした。色んな物を食べて頂かないと、と、母は言いました。
 父はお造りは、外で、食べ飽きていると言いました。どこでも、刺身さえ出せば済むと思っていやがる、と、言ったことを覚えています。
 母は黙っていました。
 もらった私が、父のお造りを食べると、うまいか、と、犬みたいな顔になって父は、にこにこしました。
 俊也はまだ、幼かった頃の私のように、生の魚は無理で、しかし父は、食べ物を残すのは許さんと、俊也が、自分の刺身を食べ終わるまで、ご馳走様をさせませんでした。
 母は、皆で食べる時はあまり食べず父にお茶を淹れたり、一所懸命食べようとしている俊也に、応援するような声をかけて笑ったりする。
 ますます俊也は、はきはき、ぱくぱく、食べられなくなる。
 私は俊也が心配で、かわいそうで、俊也の気持ちがぜんぜん見えない大人を、嫌いだという思いが大きくなってしまい、そうです、一度、言ったことがあります。
 あの時のことはよく覚えてる。
 俊也はいつもは、殆ど食べ物を残さない。
 私と食べる時は、何でも最後まできちんと食べます。
 出された物は、のどが詰まっても食べます。
 食べようとします。
 給食も、沢山食べて来ていると思う。
 少しは残しますよ、誰でも。
 私も、一学期に一度くらいしか出ないけれど、薄くてしゃびしゃびの「おぜんざい」は、残したいくらい。でも、飲みますが。
 漫画に出て来るブタの鼻みたいな白いふにゃふにゃのマカロニが入っているのです。
 それはともかく、好き嫌い無いです、俊也は、こんな小さいにしては、とっても偉いと思う。
 一生懸命私は、言いました。
 父も母も、返事しないで聞いていました。
 父が、母の大事な大和の味噌の味噌汁が好きでないこと、母が、父の好みの東北の茶色い味噌は好きでないこと。
 大和から来るもの以外では母は、自分の友達とデパートやホテルで食べる洋食が好きで、
今日のような夜ごはんでは、自分の分はよそわせないで過ごしてしまうこと。
 納豆食べるくらいなら、後まであの匂いが口に残るのなら、何も食べないでいる方がいいと、アヤさんに言うこと。
 何度も言っていたこと。
 私には解っていた。
 解っていました。
 父は、めったに家にいないのに、俊也のことなど何も知らないのに、たまにいると、俊也にきつく当たる。
 男の子に白いセーター着せてどうする、とか。
 言われると俊也は、自分がいけないことをしたように感じて、とても辛いのです。
 俊也が、白いセーターを着たがった訳ではない、違いますそれは。
 俊也が、どんなにいつも、周囲の人を嫌な気分にさせないように気を遣っているか。
 どんなに優しい心か。
 その俊也に向かって、私の弟に向かって、父だからといって。
 男なのにどうだとか、誰のお陰でこの生活が出来ているとか。
 母も同じ、朝だって子供と一緒に、テーブルに就いているだけで、俊也が、苦手な目玉焼きにむせていても、背中をトントンともしてやらない。
 こっそり、残したものの始末など、絶対にしてやらない。
 私は、俊也の残したものを内緒で焼いてもらうから、オノダに、背中や腕を撫でられたりするのに。
 母はそんなこと、絶対にしない、だから何も知らない。
 自分で驚くくらい、私は、色々なことを、次々、いっぱい、口から放っていました。
 そして、勝手な時に勝手な文句を言うのなら。
「大人になったら、私が、俊也に、ごはんを上げたり学校へ行かせてやったりします」
 ・・・小学校、四年生か五年生の時だったでしょうか。
 私は父に、叱られませんでした。
 俊也も。
 大きな声で怒鳴られるか、叩かれるか、するかも知れない、と考えて、恐ろしい気がしたけれど、あの時は、絶対に身を縮めたくなくて、必死でしゃき、と、椅子の上に座っていました。
 もし父の拳固が飛んで来ても、逃げたりしないで、まっすぐに座って、きちんとやっつけられようと決意していました。
 声も拳も、来ませんでした。
 父は私を見ていました。
 見つめていました。
 父の目は黒くて大きくて、まぶたは深い二重で、運転手のウツミは、旦那様の目は睨まれると震え上がる目ですよお嬢ちゃん、など言いましたが、あの時は、ただ黒い、丸い、きょとんとした目になっていました。
 私は父を見ませんでした。
 父は、私の目を、欲しがっていたかも知れない。
 私たちは、仲良しだったから。
 父と不二家へ行くのは本当に大好きだったし、時々は、車でデパートへ行って、母ならまず買わない、ひらひらやふわふわの服を、買ってやる、どれが好きだ、何が欲しい、と機嫌よく、店員に、これとあれと、と、たっぷりした声で注文する時の父の感じが好きでした。
 父にもたれていれば、困ったことも怖いことも無い。
 私は、父にとって、大好きな、大切な子供なのだと、そんな感じがして、幸せってそういう気持ちのことでしょう、きっと。
 母は、そういう服は朱音ちゃんには似合わない、と、後で必ず、文句を言いました。
 知らん顔して私は、家の中で、レースやリボンの服を着ました。足首のところでフリルがふわふわ踊る、ナイロンのソックスをはきました。
 私を外へ連れて出る時、母は、きちんとした格好を、させたかったのです。
 つまらない服でした。
 白い襟がついていて、袖口にも白い折り返しがあって、ワンピースで、膝の下までの靴下をはく。そういうの。
 母の好みは嫌いでした。
 エナメルの靴だけは好きでした。
 イギリスの王女様も、同じような黒い靴をはいていられた。
 靴だけはよかったです。
 母の、お友達たちは、ワンピースを褒めました。
 父の買ってくれた服を着ていても、褒めたかも知れない。
 あの夜。
 母が、どうだったか、それは、どうでもいい。
 覚えていません。
 私が気にしていたのは、向かい側の席で、両手を食卓の上に軽く置いて、首をまっすぐ上に引っ張られるみたいに伸ばして表情の無い顔で、白い、とても綺麗な顔で、じっと私を見つめている俊也の、深い潤んだ目、でした。
 もうここの場所にいたくない。
 俊也の目はそう望んでいました。
 ここにいたくない、あちらへ行きたい。お腹が痛くなって来そうだ。
 自分が、行儀悪く(と、母から言われ慣れている)激しい音を立てて、立ち上がったのを覚えています。
 ああ。そういえばあの翌年、俊也は、小学校へ上がったのでした。思い出しました。
「俊也、行こう」
 呼んで、手を伸べて俊也の、冷たい小さなぎゅっと握り締めて来る手を取って、食堂を出ました。
 そんなことをしたのは初めてでした。
 これから、と、考えていました。
 これから、何度でも、言う、俊也に、りふじん・理不尽なことを言ったり、したりするのは、許さない。
 父でも。
 当然、母でも。
 その夜更け、私は、自分の下着が、経験したことの無い赤い汚い色に汚れていることに気づきました。
 学校で聞いていたし、イクさんが用意をしてくれていたし、すぐに察して私は、ドキドキ脈打つ胸を、鎮めながら、手当てをしました。
 こういう物が新しく出ているそうですよ。そう言ってイクさんが、買って来て、自分以外の人の目に触れないようにしまっておくよう、教えてくれたのです。
 ナプキンというものをはさんだ時、歩いた時、ものすごく悔しい気がしました。
 とうとう、なってしまった。
 なりたくなどなかったのに。
 眠れない夜、というものを経験した、あれが、初めてでした。
                                   (2)
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  1. 2012.04.02 (月) 07:33
  2. URL
  3. yuuta
  4. [ edit ]

NoTitle

KUONさん おはようございます

俊也は遠い子供時代に垣間見たあの男の子かしら、、、
そんな記憶が甦ります

都内の下町と呼ばれる地域
種々雑多な人たちが一生懸命生きていた頃です
低収入の人たちが 一番多く住んでいる区域とも言われていました
子供達はたくましくいつも元気でした
そんな私たちを 高く積み上げられた石の塀についている木の門扉の隙間から見ている子がいたの
何度か目撃したので 一緒に遊ぼうと声をかけたらダーッっと逃げるように家の中に入ってしまったの(外から家は見えないのだけれど)
人がせっかく声をかけたのになんで返事しないのかとチョットむくれた私でした


  1. 2012.04.02 (月) 17:56
  2. URL
  3. えま
  4. [ edit ]

NoTitle

kuonさん こんにちわv-25

朱音の心が手にとるように、身近に感じられ・・・
ぐいぐい惹きつけられてます。
次がとても楽しみです。

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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

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