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返事の中までKUONです。

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年度替わりだそうで。


四月一日になりました。
六十歳になったら、もう一度、物書きを目指そうと考えていました。
初めて書き始める人のように書けたらどんなにいいだろうと、考えていました。

先日、パソコンを買い替えた時にわかったのですが、東北大震災の当日の、午後三時過ぎまで、書いていた原稿があったのでした。自分の思いを実行し始めていたのですね。

わすれてました。

ブログと小説原稿は全く別のものと思いますが、このまま放置するのもなぁ…と意地汚い思いもありまして。

時々、ここへうつしておこうかなあ、と。今で200枚を軽く超えているので、途中でどうするか、何も考えておりません。

思い出して読み直していたら、主人公が、出たい、出たい、と言っている気がして。

朱音(あかね)という名に似ず、抑えたヒトなのですが。

始めは少女の文体で、そこは工夫して、やってみました。

読んでいただければ、表へ出す以上、幸せですし、どんな感じで読んでもらうか、いささか楽しみです。好き嫌いははっきり分かれると思います。私の作品は、いつもそうでした。

で、小説.KUONに関しては、こちらからの意見や返事は、させてもらいません。エラソーですね・・・。。

・・・わたし個人でなく、「朱音」は、自分のこの部屋の中では、守ってやりたいのです。いずれ違う形になって外へ、それはまた、別の話です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


       朱 音
                                 

 弟が一人、おりました。
 五つ年下。とてもいい子でした。

 朝の食事は、弟と二人で摂りました。
 パンと牛乳と卵と、野菜。
 それか、
 ご飯とお味噌汁と卵と、海苔、お漬物。
 アヤさんがテーブルに置いたものを食べていました。
 長方形のテーブルの、窓に向いた長い辺に俊也と私が座り、母は、俊也に近い側の、壁を向いた椅子に座る。
 まだ朝のお化粧をしていなくて、ガウンみたいなものを羽織って、母は黙って、座っていました。
 俊也は朝はものが食べにくくて、特に、硬く焼いてしまった目玉焼きの黄身は、のどを通り難いようでした。
 砂糖を入れた柔らかいちりちり卵を俊也は好きなのに、アヤさんは、なかなか出してくれませんでした。
 食べ物を作る人は台所にいて、全然喋らないおばあさんで、皺がいっぱいなのにおでこがぴかぴか光っているお婆さんでしたが、アヤさんがその人に何を作るか言って・・・めいじて、私たちの朝ごはんが出て来るのです。
 ちりちり卵はなかなか出なかった。
 母は、私たちの食事中ずっと、花模様の壁紙に目を向けていて、時々は食器棚の中に積み上げた皿の列の線が揃っていないとかアヤさんに文句を言って、俊也のノドがもそもそと苦しそうでも気にならない・・というか、私たちの方を見ていないし気にしていないので、私は、よく、食堂に持ち込んだ要らないテスト用紙などに、そっと目玉焼きを包んで、ポケットに入れて隠して、俊也に目配せしてやり、大丈夫だとうなずいてやり、すると俊也は安心して、最後の牛乳を飲み干すのでした。
 ご飯に卵をかけるのは,いつもいつもはダメでしたが、ダメだと特に言われない日は、お醤油をいっぱい入れて卵ごはんを食べました。
 白身の中の透明なずるずるしたところを、俊也は食べられなくて、私は、小鉢で卵をかしゃかしゃするのを手伝ってやるフリをして、自分の方にずるずるを移動させる。
 私も、卵ごはんは白身より黄身のところが好きだったけれど、俊也は、嫌い、というよりダメ、腕にも首にも細かいツブツブが出て顔がすぅ~っと青くなって「ひんけつ」になるので、気分が悪くなってしまうので、可哀そうなのだから、力を合わせてやってしまうしかなかったのです。自分の分を残すと俊也の分を引き取ったのが判ってしまうから、全部食べるのに努力しました。
 母は、傍にいない方がそういうことをし易かったのですけれど、父は母に、食事の時は子供たちの傍にいてやれと言いつけているのだそうで、、それで母は、子供たちの傍にいたのだと思います。
 父は、いろいろなキカイを買って帰って来ました。
 トースターも、父が抱えて帰って来ました。
 食パンを入れると、少しずついい匂いがして来ます。
 きつね色に焼けたらもう片方の側も焼く。
 母が持っていたキツネの襟巻きには顔がついていて、目を瞑っている中に目玉は無いそうなのですがまつ毛はあって、それは死んでいる顔だし手足もぶらんぶらん付いていて見るのがイヤだったので、襟巻きよりは、焼けたパンの方がずっといい色と思いました。
 そういう話は、父にすると面白がってくれるのですが、母は、苦手な感じだったから、母にはしませんでした。
 父にはほとんど会わなかったから、私は、俊也と、そういう話をしました。
 ・・・トースターが家に来た時のことです。
 得意そうに父は、何枚もパンを焼きました。パンも、自分で沢山、買って来たのです。
 パンの匂いはおいしそうだし、珍しくて面白くはあったが、その日は夕食を既に済ませていた後だったので、食べろ、食べてみろとニコニコ顔の父の勧めは、本当は困ることでした。
 でも食べました。
 俊也も、頑張って、一枚全部食べました。
 パンはいつも焼いて食べさせろと、父が台所に言いつけました。焼いた方がしょうかにいいんだ、と。しょうか、が消化、だとは、後で判ったことです。
 ここの家では、パンに塗るのは帝国ホテルのバターだ、と、アヤさんが言っているのを聞いたことがあります。お米を配達に来る人に言っていました。
 自分がバターを買って来るみたいな言い方でした。
 お米屋さんはいつも、アヤさんと笑って喋っているのに、帝国ホテルのバターのことはよく知らないようで、へえんと、自慢しているアヤさんに腹を立てているような、ばかにしている目で見ていました。私は、ふと通りかかって聞いたのです。
 ・・・俊也が牛乳を飲み終えると、二人で手を合わせて「ご馳走様でした」と言いました。
 母は、笑顔みたいな顔になって、少し顎を下げました。
 私たちより先に、食堂を出て行きました。
 それで夕方まで、母と会わずに済みました。

 俊也は、幼稚園へ、車で通っていました。
 ウツミかエンドウさんが運転して、乗せて行く。
 俊也は、体が大きい子供でなかったので、後部シートに座ると帽子をかぶっていても、沈んでしまって見えなくなりました。
 私は毎朝、門の外まで出て、俊也に手を振ってやったので、俊也は、ぴんぴんに背中を伸ばして、きっと座ったまま爪先立ちをしていたと思うけど、帽子のつばを跳ね上げて顔を・・・目の下までを窓から見せて、私に、手を振り返すのでした。
 小学校へ行く私が、玄関で靴を履いている頃、微かに、味噌汁の匂いが漂って来ることがありました。
 母が、自分のための味噌汁を作らせているのです。
 母の里の、暗くて奥に深い祖母の家で、祖母や伯母や分家の誰やらが作っている味噌を、送って来るらしく・・・らしいというのは、母が、大和から荷物の届いた日は喜んで、味噌だの漬物だの果物だのを見せるからです。
 漬物など好きでないし、母が、得意そうにその臭い物を見せる時の顔が、いやでした。
 喜んで笑う顔になっている母は、目の横にも頬にも、いきなりシワが出来て、ヘンでした。
 ほとんど笑ったことが無いのに、そんな時だけ笑う。すごく笑う。
 柿も、たくさん送って来ていて、見せながら、たくさん食べなさい、むいてもらって食べなさいと言われましたが、食べませんでした。俊也は柿が苦手で、柿を食べた日の夜中は、こっそり、私の部屋へ来なければなりませんでした。
 お腹が緩くなって、痛んで、だから。
 かわいそうです、お腹が痛いと。
 でも大丈夫。
 イクさんは「通い」で来ていたので、学校から帰って、おやつの時間、お剥きしましょうかと尋ねるのに、今は要らないから、あげます、どうぞと言うと、下を向いてコクンとして、ささっとエプロンの下にしまって、持ち帰りました。
 父が頂いて帰ったクッキーとか、奥歯の底が痺れる甘過ぎるチョコレートも、イクさんに上げました。俊也と二人では食べきれなくて、湿って来るとおいしくないし、母はクッキーとか食べなくて、たまに開けても缶ごと放っておいてセキニン取らないので、そしてイクさんは黙って、素早くコクンしてもらうので、アヤさんにはあげないで、イクさんに上げました。
 アヤさんは、ずっと母の「味方」だったので、母に何か、色々、もらっていたと思うから。
 味方だとは、自分で言っていたことです。
 
母は、こんなお味噌は東京には無い、買えない、麹がどうで、とか、届く度に同じことを言いました。アヤさんは母の横で、うんうん首を振る。
 そんなものより私は、父が、時々、私だけを連れて行ってくれる不二家のパーラーが、よほど好きでした。
 パフェは、何より好きでした。比べようが無い、他のものとは、あの美味しさは。
 丈の長い透明な分厚いガラスの容器に、クリームとチョコレート。少し酸っぱい缶詰の果物が乗っている。
 口の中でクリームとチョコが混ざって溶けて、舌の上に置くと、ふへへ、と、おかしな声が出そうになるのでした。
 おいし過ぎて。
 母の里から来る柿やアケビなど、問題外でした。
 俊也も連れていってやりたいと、言ったことがあるけれど、父は、うなずいてくれませんでした。
 朱音と、二人で、みんなには内緒で、甘いものを食べに来たいのだ、と言いました。
 お父さんの、一番の楽しみだ、と。
 胸が、どきどきしました。
 顔の位置が揃うように屈んで、父は、ナイショの声で、そんなことを言いました。煙草と、頭に付けているポマードというものの、匂いが混じってウッとなる、いつも、けれど、私は、目の前にいる父が、自分は好きなのだという気がしました。
 いつも、父を好きな気がしました。
 のどが詰まるような、大きく息をしないと吸い込めない感じで、涙が出そうで。
 俊也も一緒でないなら行きたくない、とは、言えませんでした。
 いつか自分が、俊也を連れて行ってやろうと思いました。
 ホットケーキ、本当に本当においしくて、バターとメープルシロップが、溶けて、しみこんで色が濃くボッタリとなっている所は、お腹の中に入れてしまうのが惜しいくらい、美味しかった。
 店の中の匂いが甘くて、座っている人たちはみんなキゲンが良さそうで、電気も沢山きれいに灯っていて、不二家は私の、夢のお店でした。
 帰りに、ねだって必ず、ミルキーの大きな箱を、買ってもらいました。
 二つ、買ってもらいました。持つところがモールになっている箱に、沢山、あぶら紙をねじって包んだミルキーが入っている。
 ミルキーは、一度、歯でぎゅうっと噛んで、歯型がはっきり付いたのを、手に持ってじっと見てから、もう一度口に入れて食べるとおいしかった。
 学校でそんなこと言うと、口に入れたものをまた出すなんて、と、嫌いな同級生に言われたりするので(言われて腹が立ったことがあります)、言いませんでしたが、俊也と二人、代わる代わる見せ合ってそうして食べると、面白くて楽しかったのです。だから。
 二箱とも、いつも、俊也にあげようと思うのですが、俊也は、
「一緒に、一つずつ分けよう」
 と、必ず言うのです。
「私、お父様と、チョコレートやクリームの、おいしいもの食べて来たの」
 堪らず告げると、俊也は、ぴか~っと笑って、ほんと、と大きな声を出しました。
 よかったね、朱音ちゃん、おいしかった?と。
 俊也は、そんな子でした。
 俊也が言う時、言葉は本当だったのです。
 大きくなったら、絶対、俊也を、連れていってやろう。
 決心していました。

 母が、私たちをどこかへ連れて行くことも、ありました。
 呉服の会には一人で行きました。
 音楽会や、絵を見にいったりするのは、本当は嬉しくなかった。
 母は、若い頃、せいがく・声楽、ということを、ずっと続けたかったそうで、結婚することになってだんねん・断念したそうで、私が覚えている頃は、またさいかい・再開していたらしく、自分の部屋にピアノを置いていたし、あ~と声を出して練習していたし、家の誰かの運転で、れっすん・レッスンに出かけていました。
 部屋の中いっぱいに歩きにくいふかふかの絨毯を敷いていて、私たちが小さい頃は、階段を上って来る子どもの足音がドシドシしてうるさいと言って、父に頼んで、階段にも廊下にも絨毯を敷いたのです。
 それはアヤが言ったのです。
 私たちがうるさいからイヤで、だから絨毯を敷いた話を、私に言うなんて、ワルクチみたいなのに、と私は思い、俊也は、おとなしい賢い子なので、どたどた階段を上がったりしないのに、と思いました。
 のどを荒らしたくないので、大きな声を出さないで、朝、食卓で壁を向いて黙っているのも、起きたてののどの為、だったそうです。
 そんなこと私は知らないことでした。
                                      (1)

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  1. 2012.04.01 (日) 12:29
  2. URL
  3. yuuta
  4. [ edit ]

NoTitle

KUONさん 
これから 楽しみですv-398
  1. 2012.04.01 (日) 14:04
  2. URL
  3. ようこ
  4. [ edit ]

NoTitle

kuonさん 

「初恋」チャヌのヒョンが
友人ドンパルの結婚式でのスピーチで
「真の友がひとりいればその人は不幸ではありません」と言いましたよね。
それと同じく
自分にとってどんな時でも味方になってくれる人が
ひとりいれば生きていける
そんなことを読んでて思いました。

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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

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