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返事の中までKUONです。

  1. 厚かましい話
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ご立派でいらっしゃいましたよ。ってか。

1460103265988.jpg6月16日は、昭和の皇后、香淳さまの命日。平成12年(2000年)、97歳でご逝去。

その日はわたし予定があって書けないみたい、で、いま少し、取り上げさせていただきます。

その折りの今上の追悼の辞。


崩御を受け、今上天皇は以下の御誄(おんるい:追悼の辞)を述べた。


「明仁」謹んで御母皇太后の御霊に申し上げます。

在りし日のお姿や明るいお声は今もよみがえって日夜心を離れず、思い出は尽きることがありません。哀慕の情はいよいよ胸にせまるものがあります。
ここに、霊柩を殯宮にお遷しして、心からお祭り申し上げます。

   今上天皇   2000年(平成12年)6月29日、殯宮移御後一日祭の儀において



「明仁」謹んで御母香淳皇后の御霊に申し上げます。

昭和天皇の崩御あそばされてより十一年、吹上大宮御所にお過ごしの日々が穏やかにして一日も長からんことを願い、お側近く過ごしてまいりましたが、この夏の始め、むなしく幽明界を異にするにいたりました。
在りしの日のお姿を偲びつつ、櫬殿に、また殯宮におまつり申し上げること四十日、ここに斂葬(れんそう)の日を迎え、葬列をととのえ、昭和天皇のお側にお送り申し上げます。お慈しみの下にあった去りし日々を思い、寂寥は深く、追慕の念は止まるところを知りません。誠に悲しみの極みであります。

    今上天皇   2000年(平成12年)7月25日、斂葬の儀 葬場殿の儀において

こういうものは「ご挨拶」ですので、追慕とか悲しみの極みとか、今上が使っているそういった言葉にも、特に不思議な感じはありません。書かれたのもご本人ではなく。

ただ。知らないことだったからか、「明仁」と名乗っての挨拶であることが、斬新な驚きではありました。

忘れないうちに書いておきます。

まさこは、このご葬儀に「夏バテのようなもの」で、出ませんでした。


晩年の長いあいだ、香淳皇太后は表に出ておいでになりませんでした。

昭和天皇が崩御されてから12年、吹上の大宮御所に、ひっそりと身を養っておられた。報道に際しては「老齢特有の状態」とされたのは、つまり、認知症のこと。それはけっこう早くから患っておられたようです。

実際、加齢に添って現れて来ることであって、隠すことも恥じることでも無いと、私は、思います。

何をどうしてもなさらなければと言うお立場でもない。花を愛で空飛ぶ鳥を愛で、とお過ごしでいらっしゃればよかっただけのこと。日本画、組み紐、書をたしなまれた皇太后さま。

言い方はなんですが、お暮らしに何の不安も無い。そばに何人もの人もおられて、静かな老後をお過ごしであった、と、なればよかったのですが。

いや、事実はそうだったと思います。

腰を圧迫骨折されて歩行が難しくなり・・・どっしりしたお体でしたから、外科的な処置が効いたかどうか・・・自戒をこめて・・・。。

寝たきりのお暮らしでも、すでに周囲への関心も薄れてのことなら、ご本人にお辛い自覚のおありだったかどうか。

介護の手は足りていた。手の足りていない高齢者は大勢おられます。


美智子さんへの反撥から、香淳さまへの過度な持ち上げ方をされる向きがあるように思われ、私は、それに、馴染めない。

激動の生涯でいらした昭和天皇の皇后として、大きなかけがいの無い存在でいらしたのは事実でしょうが。

でも。ごくふつうの「皇后陛下」だったのでは、と、思ってしまうのです。

美智子さんのことは大嫌い、大大大嫌い、そんな呑気なものでなく、捨て置いていいものなのかどうか、歯噛みするような思いを向けていますが、でも少し違うな、ということに、触れたいだけのことです。

美智子擁護、とか、まさか、言われないですよね。いいですけどね。(笑)。あのひと(美智子さん)に、あの頃はそんな力は無かったはず。今は別。

で。その香淳さまが書かれたあるもの、について。


今城誼子に賜る

 苦労をかけて気の毒でした。
大宮様より伺つて居りました通り誠実な人でした事を証明します。
お上の御身を思ひよくお仕へ申し私の為にも蔭になり日向になりよく尽してくれました。
この度御上にざんげんする者あり残念なことですが、
退職させる様な事になりましたが良き時期に再任します。
外に居ても気持は今まで通り頼みます。
大変勝手なことですがよろしく頼みます。

  昭和四十六年六月三十日
        良子(拇印)

手紙には次の二首の御歌も添えられていた。とのこと。

感想を許されれば、この「拇印」に違和感がありました。


 神々も守りますらむ大君につくしし人に幸多かれと

 己が身を忘れて我につくしたる人の身の上幸あれかしと


やんごとないお方、疑うことを知らず育った方が、信じて頼っていた女官を、天皇までが辞めさせよと仰せられた。

香淳さまとしてはお辛く悲しく、御歌も、その思いがほとばしったものだったか。

これ、入江侍従は、天皇までも巻きこんでいた。神がかりの魔女がいなくなれば、宮中のごたごたにも決着がつく平和になるなど、吹き込んだと言われています。

入江相政日記に「魔女騒動」として出て来る、五年間にもわたる「事件」といいますか。

・入江相政は、(昭和)天皇の祭祀を簡略化・・・宮中祭祀の廃絶を目論んだ人物。クリスチャンでもありました、と、書いておきます。

・今城女官とは、貞明皇后(大正)に傾倒したひと、貞明さま没後に香淳さまに出仕して大変信頼が厚かった。

・貞明さまは祭祀第一の方でしたが、それは大宮御殿流、といわば言えるものであり、それを今城女官は皇居に持ち込もうとしたことで、不穏な空気も。

細かいことがいっぱいあるのですが、飛んで。

入江相政日記14、から。また引きです。

《昨日、一昨日と相次いで魔女から電話。大晦日にだれが剣璽の間にはひつた、なぜ無断ではひつた、とえらい剣幕でやられたといふことだつた。一戦を交へる積りのところ何の音沙汰もないのはどうしたものか。》(昭和四十一年一月三日)

《魔女のこと次長が申し上げた。そしたら魔女が田中さん(直・侍従)に怒つてきた。皇后さまがおつしやつた為だらう。剣璽のことも申し上げられた由。》(昭和四十一年一月十日)

《保科さんから聞かされた所によると魔女の行くのは「誠[真]の道」といふ宗団の由。堺の鷹司さんから話があつた由。》(昭和四十一年二月四日)

《皇后さま七度八分。お歯がもとらしいが魔女の一言で侍医にお見せにならない由。》(昭和四十一年四月二十一日)

《午前中は侍従長の部屋で長官、侍従次長等と会議。女官長の後任のこと並に魔女の件。》(昭和四十一年十一月十五日)


また飛ばします。

香淳さまは、昭和34年の皇太子・明仁の結婚に反対でいらした。

周囲の宮妃、旧皇族華族の女性たちも一斉に、異を唱えたけど、美智子さんは入って来てしまった。

反対された結婚ほどムニュムニュするものも、そんなには無いでしょう。翌年35年には浩宮が生まれ、美智子さんの立場は確固たるものになりました。

世の中も平民からあがった東宮妃に熱狂し(当時は)この妃がまた、うまかったもので、香淳さまは、嫁いびりをするワルモノ扱いされる羽目になってしまわれた。

美智子さんの居心地がよろしくなかったのは、事実でしょう。

日本一の旧家。お姉さんの沢山いる長男坊。親類縁戚も山盛りいます、お辞儀の仕方もものの言い方も実家とまったく違う環境(違い過ぎましたね)の、居心地が、いいはずがない。当たり前ですね。我の強いひとなら、かつんかつんと、どこでもどちらへでも、当たり放題にぶつかったでしょう。

二度目の妊娠がよろしくなくて流して、そんな時に

「親王さまのお子を流すなんて」

と言い放ってしまう宮妃もいたり。・・・自分は何人ものお子をなして、当時は自信たっぷりでいたお方が、その言葉を吐いたんだろうなぁ。

脱線しています。

とにかく。

とにかくじゃなかった、話は続く、36年には、香淳さまは、第一皇女でいらした東久邇成子さんを亡くされました。

降嫁後、戦中戦後の苦労もさせた長女さん。30半ばのお歳で、幼いお子さんを5人も残して。

お辛かったでしょう。その香淳さまのところへ、美智子さんは、ご亭主と長男ナルちゃんを引き連れて、何やら文句を言いに行った。

打ちひしがれておられる方に、自分らの不満をぶつけに言った・・・姑さまは、黙っておられたと。

この話も、入江日記には書かれていますが飛ばします。


息子は、ヨメのお尻に敷かれてしまっている・・・そんな気持ちの中で、香淳さまは、昭和40年代に入って行かれたのかも知れません。

新興宗教に、こころ寄せられたのも、そんなあたりから・・

世の中は、そのころ、右肩あがりの時代に入って行っていました。

皇太子の一家のニュースの溢れかえった時代でもあった。

そんな中で、頼っていた女官を引きはがされた香淳さまの精神的打撃はいかほどのものだったか。

今城女官がこの間、香淳皇后はもちろん高松宮妃喜久子妃までをも動かし、入江側についた北白川祥子女官長の更迭などを画策したが、昭和天皇が入江を支持したため、今城の画策は失敗に終わった、と(も)入江は日記の中で述べている。

今城は皇后から当初の退官予定日だった1971年6月30日に、前掲の

「この度御上にざんげんする者あり残念なことですが退職させる様な事になりましたが良き時期に再任します 昭和四十六年六月三十日 良子」という拇印入りの手紙を拝受したり、

退官後の新居が完成する迄の間、赤坂御用地内に仮住まいを許されていた今城氏。

香淳皇后がこの仮住まいに電話をかけていることが知られると、宮内庁から電話を撤去されてしまった。

この、電話が取り上げられてしまった件は有名ですね。

再任は空手形に終わったが、御用地からの引っ越しの朝、三笠宮妃百合子御手づからのおにぎりが届けられるなど香淳皇后を始めとする一部の皇族は、今城を皇室に忠誠を尽くす者と捉えていたようである。


・・・とあったのが、どこだったかどなたのサイトだったか、いまわからなくなっています。失礼でしたらお詫びします。


老齢者に特有の症状は進行しました。

落ち込んだ香淳さまは、以後、、宮中の問題について意見を述べられることは無くなられた。

日常生活もままならないような状況にさえ陥られました。人前に出られる時には、笑顔ではおられた。

そう言うお育ちでいらしたから。

東宮御所に招かれて、紀宮さまが手を引かれたりしての写真が残っていますが、認知症は、言われているより随分早く、訪れていたようです。

とても楽しかったと述懐されたアメリカ訪問の時にも、

「楽しかった」

とだけ仰せ下さいとの手引きがあった、とも。

侍従長、入江は、昭和47年には

「皇后さま、このごろはひどいことになつておしまいになつたらしい」

と、しゃらっと述べてもいます。この方にも背後に、霊能者が控えていたとの説もあるやに聞きます。

お公家さんて冷酷なもの、のパターンだったかも。

日本一の旧家に蠢く犇めく魑魅魍魎。

ヒステリー起こしてはぶっ倒れていた美智子さんなど、こんな頃に、何の力があったやら。

あのいたわしい拇印つきの文書は、あれは美智子さんが主犯のものでないと、私は考えています。あの時は。


が。

ずっと胸の底にあって、腹に据えかねている美智子さんの言葉。態度。

これも以前一度、触れましたが、もう一度。

紀宮さまの著書(ということになっている・・・もう信じられないようになっています、部分的にのみ、清子さまかな)。

「ひと日を重ねて」の中に(p.213)

「・・・この百日というものは、あっという間でもあったような、またそれだけの時を経たような不思議な期間でした。陛下が、駆け寄られるように皇太后さまのおそばにお寄りになって、じっとその御最期をお見守りになり、そのお後で皇后様が、丁寧にお掛け布団などをお直しになりながら、「ご立派でいらっしゃいましたよ。」とささやかくようにおっしゃったその時に、周りの人びとの悲しみがふっとあふれるように感じられました(略)」

私はこれがずっと胸に納まりきれません。

言っていい? いいですか?

ささやくように「ご立派でいらっしゃいましたよ」だとぉ!。

お前なんかにそんなこと言われたくない!。


私が(申し訳ないながら)そこで亡くなったばかりの人なら。

何をぉおおとばかり跳ね起きて、

効いた風な口を利くなあぁあ、とか。そして今度こそ、アタマの血管切れて・・・に、なる気がします。

いややなあ、この人の、この「振り」。いややなあああ。


………取り乱して失礼いたしました。

何を訴えることもおできにならず、どうするすべも持たない香淳さまに、美智子さんは、随分なことだったと、書いておかないといけませんね。



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  1. 2017.06.13 (火) 19:12
  2. URL
  3. まりりん
  4. [ edit ]

「ご立派でいらっしゃいましたよ」
なんという上から目線・・・
さーやはどんな思いでその言葉をお聞きになったんでしょうね。
  1. 2017.06.13 (火) 23:27
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  1. 2017.06.13 (火) 23:29
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  1. 2017.06.14 (水) 00:14
  2. URL
  3. 文句つけ婆
  4. [ edit ]

またやって参りました。

さすがKUONさん。

趣深い記事を愉しんでおります。

もっともっとラディカルでもよろしいかと。
  1. 2017.06.14 (水) 07:26
  2. URL
  3. ひらりんこ
  4. [ edit ]

跳ね起きるシーンで声を出して笑ってしまいました。
怒っていても悲しんでいても失われないKUON様のユーモアが好きです。

もう疲れちゃった、、というお気持ちでいらっしゃるのではと気がかりです。
自分がそうなので、奮起したくなるとここに来ています。

望みを捨てず頑張りましょう!
(何を?と言われるとよくわからないけど)
  1. 2017.06.14 (水) 08:14
  2. URL
  3. ひなぎく
  4. [ edit ]

KUONさん、お久しぶりです。
いつもROMしておりました。

香淳皇后が今城さんへ宛てた手紙というのは、ネットで拾えたのですが、2首の御歌は分からなかったので、ありがとうございます。
私はずっと香淳皇后は意地悪な人と思い込んでいたので、以前は大嫌いでした。
でも、ミテコさんの悪行(笑)を知るにつれ、そういう人ではないと知り、香淳皇后のファンになってしまいました。
はい、単純ですね。

以前、成子さまが亡くなられた時の昭和天皇と香淳皇后のエピソードを読んで、お二人の悲しみを知りました。
「天皇が見舞いに行くのは危篤の時-」なので、愛娘の見舞いにもなかなか行けず、『成子さまは宮内庁病院に転院、昭和天皇は週に1、2回、皇后は毎日、成子の見舞いに出かけ、食事を口に運んだり、バラやダリアの花を病室に飾ったり、布団を直したりなどあれこれと面倒を見ていたという。』ということでした。

ミテコさんの「ご立派でいらっしゃいましたよ。」は本当にお前が言うか!!ですよね。
  1. 2017.06.14 (水) 10:28
  2. URL
  3. みさき
  4. [ edit ]

目が離せません

KUON様の文章に引き込まれます。その時々の情景が鮮明に目に浮かび、そして心に響きました。

いややなあ、いややなあああ、これ、好き。
ミテ子の「ご立派でいらっしゃいましたよ」
気持ち悪いシナを作って(想像)、ささやき、って
人生の最後まで嫌がらせ。どこまでも、期待を裏切らないほどの性悪の女ミテ子。

もうね、皇室いらないわ。
大きな皇居は、江戸城再建か、神社、お寺に
したらどうでしょう。
祭祀する、神主と神道を守る方々で神事だけする処にしてほしいですね。
  1. 2017.06.15 (木) 21:07
  2. [ edit ]

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  1. 2017.06.16 (金) 10:57
  2. URL
  3. りんご蜜
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本ですが

今城女官の件が書かれた本があります。なぜ、彼女が当時の御所内で疎まれるようになったかその経緯が、詳しく書かれています。

『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』 河原 敏明著
2004年 発行 講談社

眉に唾をつけて読んだ方がいい章もありますが、今城女官の件が書かれた章は読みごたえがありました。

私も以前読んでから、ずっと忘れていたのですが最近掲示板などで、今城女官の件が上がっているので久しぶりに読み返しているところです。

河原氏とは、著者紹介によると『皇室ジャーナリスト』の道を切り拓き、『数々の特ダネ』を発表された人物だそうです。寡聞にして存じませんでしたが。。。

とっくにご存知の本でしたら大変失礼いたしました。

六月とは思えぬ乾いた涼しい日が続きますが、ご自愛くださいませ。

  1. 2017.06.19 (月) 20:19
  2. URL
  3. KUON
  4. [ edit ]

お返事遅くなってしまいました



「ご立派でいらっしゃいましたよ」

これは、清子さまの著書とされている本の中に、清子さんが書いているテイサイのセリフですが。

文章本体が、美智子さんの手になっていると思います。文章がクネッっています。

結論。

さーやさまは、黙って、お孫さんのお気持ちで、香淳さまを見送られたと思います。手をとって散歩など、なさっておられましたもの・・・。


ヒミツの〇さん×2 さん

了承いたしました。ありがとうございます。うほ。


・文句つけ婆さん

・・・先日の方ですか?


さすがKUONさん、とは。褒めていただいてるのか、見降ろされてるのか。考え過ぎなのでしょうかしら。


・ひらりんこ さん

確かに、どよ~~んと疲れていました。あまりにも汚いことばかりで、その他(笑)。

「天は自ら助くる者を助く」

って、聖書のオコトバでしたか。私もそう思っています。口あけて待っていたって、誰も助けてくれないと。私は日本教に信者ですが。

無理やり守ることも、無理やり形を整えることも、限度あるよねと思ってる。

一番気持ちに添うのは

「諸行無常」

「諸行無情」

これなんですわ~~~~~。意味不明でごめんなさい。ごめん!。


・ひなぎく さん

成子さんは長女で、陛下におもざしも通っておられた、作文を読ませていただくと、たいへん賢い思いの深いお方とわかります。美智子さんの入内に賛成されたのは、思いやりの故だったと、このことはそう考えます。

戦前に降嫁され、戦時中は庭を耕してお芋作ったりされ、でも、そんなうまく出来ません。いちばん苦労をさせた子、との思いが、おありだったのかも知れません。貴子さんなどは、本当に明るい存在でいられたのだし。

葬儀の日の写真を見たことがありますが、香淳さまは口を引き結んで平静を装っておられました。

そんな苦しい中へ、自分のうっぷんをぶつけに行った美智子さん。

あれこれ思うと、そして今、やらかしていることを思うと、大変なモノが入り込んでしまったのですね。


・みさき さん


はじめ「ご立派で・・・」を読んだ時、本気でウゲエエエエエエでした。

もう、言うのもイヤだ、でも言ってる・・・


・ヒミツの〇さん


いつもありがとうございます。

お喜びのことも「よかったですね」。

もう「安心」が何よりうれしいトシですよね。。。


・りんご蜜さん


同じ一つのことも、見る方向、見る人間の基本姿勢、こうあって欲しい、の欲求、などで、全く違ったことになりますね。

河原敏明氏の本は、何冊か読みました、かなり以前に読んだものは、受け入れてしまっていた気もします。

今は、あの方の方向には向きたくない自分のような気がします。

あの女官さんにしても、単純にいい、悪いと断じられない面があったのでしょうね。解っていることは、判断にいささかの問題が生じていたにしても、皇太后がこころ許しておられた側近をもぎ離したことは、自然でない気がします。優しさも無い。

もう表舞台にはおられないのだから、グレイゾーンを設けてのやり方があったとは思う、今ここで思ってもどうしようもないですが。

あれこれ読むと思うと、宮中も大奥も女性の多い職場の裏部分も~~~の感はあります。人間そのものの質についてなど、考えますと。

美智子さんのしたことが、ご本人に返るとは、疑いなく信じています。









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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

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