今日も元気でいましょうね^^

返事の中までKUONです。

詫びるということ

 宮内庁は天皇陛下が昨年詠んだ歌5首と皇后さまの歌3首を発表。それぞれ印象に残ったことを取り上げられたという。

との発表がありまして。

【天皇陛下】

〈第六十七回全国植樹祭〉

 山々の囲む長野に集(つど)ひ来て人らと共に苗木植ゑけり

〈第三十六回全国豊かな海づくり大会〉

 鼠ケ関(ねずがせき)の港に集(つど)ふ漁船(いさりぶね)海人(あま)びと手を振り船は過ぎ行く

〈第七十一回国民体育大会開会式〉

 大いなる災害受けし岩手県に人ら集(つど)ひて国体開く

〈平成二十八年熊本地震被災者を見舞ひて〉

 幼子の静かに持ち来(こ)し折り紙のゆりの花手に避難所を出づ

〈満蒙開拓平和記念館にて〉

 戦の終りし後(のち)の難(かた)き日々を面(おも)おだやかに開拓者語る



【皇后さま】

〈一月フィリピン訪問〉

 許し得ぬを許せし人の名と共にモンテンルパを心に刻む

〈被災地 熊本〉

 ためらひつつさあれども行く傍(かたは)らに立たむと君のひたに思(おぼ)せば

〈神武天皇二千六百年祭にあたり橿原神宮参拝〉

 遠つ世の風ひそかにも聴くごとく樫の葉そよぐ参道を行く



陛下のおうたは、つまり天皇のうた、と拝読しました。皇后のうたは、私感ですが、ますます粘っこい。

以下すこし、引用させていただきます。子どもの頃に、渡辺はま子という歌手の名を耳にしていました。モンテンルパというカタカナ言葉と共に。フィリピンの刑務所なのですね。

   ああモンテンルパの夜は更けて(解説)

   作詞:代田銀太郎
   作曲:伊藤正康
   歌唱:渡辺はま子・宇都美清
   MIDI制作:滝野細道

  (一)
  モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る

 (二)
  燕はまたも 来たけれど
  恋しわが子は いつ帰る
  母のこころは ひとすじに
  南の空へ 飛んで行く
  さだめは悲し 呼子鳥

 (三)
  モンテンルパに 朝が来りゃ
  昇るこころの 太陽を
  胸に抱いて 今日もまた
  強く生きよう 倒れまい
  日本の土を 踏むまでは

(引用です。下線はKUONが引かせていただきました))

 昭和27年6月のこと、このやるせない心を抉るような歌が大ヒットした。「何の歌だろう?」いぶかった人々も直ぐに知ることとなった。この歌はフィリピン、マニラ郊外のモンテンルパ刑務所の死刑囚の作った歌だったのだ。 作詞がB級戦犯死刑囚:代田銀太郎元大尉、作曲がB級戦犯死刑囚:伊藤正康元大尉、歌ったのが「支那の夜」や「何日君再来」などを歌った渡邊はま子。この歌はモンテンルパ刑務所の教誨師加賀尾秀忍から送られてきたものだった。 

戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいることを知った渡邊はま子は驚愕し、レコード化に奔走して、遂に大ヒットさせたのである。これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くが悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まったのであった。
 戦時中の慰問で自分も戦意を煽ったためと感じた渡邊はま子は、どうしてもモンテンルパに行って謝りたいと思い、渡航の困難だった時代に手を尽くしてフイリピンへ渡った。当然フイリッピン政府からヴィザなど降りない。単に戦犯の慰問というだけでなく、終戦時には宣撫慰問の途中で虜囚となり一年も収容所に入っていた女性である。許可など出る筈もなかった。それでも渡辺はま子は香港に向けて出発して行った。香港経由でフィリピンに強行入国しようというわけである。たとえ逮捕されて、戦犯と同じ刑務所に入れられようとも・・・

 昭和27年12月24日、歌手・渡辺はま子の歌がモンテンルパのニュービリビット刑務所の中を流れた。熱帯の12月。40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子は振袖を着て歌った。もう随分と長い間見たこたことがなかった日本女性の着物姿は、死に行く者への別れの花束だった。この歌は、この刑務所の死刑囚達が作詞作曲したものである。この歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえた。会場にいたデュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めた。多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もあったようだ。そして、この「ああモンテンルパの夜は更けて」は、これらの人々を救い出す事になったのである。

 昭和28年5月、教誨師加賀尾秀忍のもとに渡辺はま子から一つのオルゴールが届いた。曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。オルゴールの音色は心を抉るような響きをもっていた。
 そのころ、加賀尾はやっと時の キリノ大統領 に面会する約束を取り付けることが出来た。初対面の挨拶と、面会の時間を貰えたお礼の後、加賀尾は黙って大統領に例のオルゴールを差し出した。加賀尾の涙ながらの助命嘆願と、哀訴の言葉を予想していた大統領はいぶかったが、オルゴールを受け取って蓋をひらいた。流れ出るメロディー。暫く聞いていた大統領は「この曲はなにかね?」加賀尾師は、作曲者がモンテンルパの刑務所の死刑囚であり、作詞をした者もまた死刑囚であることを語って、詞の意味を説明した。尚もじっと聞いていたキリノ大統領は、漸く自身の辛い体験を語り始めた。

 大統領自身も日本兵を憎んでいたし、日米の市街戦で妻と娘を失っていたのだった。「私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだろう。しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ」
 死刑囚を含む全てのBC級戦犯が感謝祭の日に大統領の特赦を受けて釈放され、帰国が決まったのは、翌月の6月26日のことだった。
 横浜の埠頭で帰国の船を待ちわびる群衆の中に、渡辺はま子の姿があった。

【お断りとお詫び】筆者の故郷はこの歌の作詞者代田銀太郎氏と同郷の信州の南都飯田市で、この話はよくされていました。ために記憶の部分も多いのですが、文中、教誨師加賀尾秀忍師とありますところを誤って記憶していたため一時<加賀屋秀文師>と表記していました。ご迷惑をお掛けしたかた、申し訳ありませんでした。あまり記憶に頼り過ぎてはいけませんね。



引用ここまでです。ありがとうございました。

 許し得ぬを許せし人の名と共にモンテンルパを心に刻む

ミテコさんが、昨年詠んだ中の三首と限定して出して来た中の、一首。許し得ぬを許した人、とは、キリノ大統領のことですね。

刑務所長氏も、りっぱな方でいらしたとあります。

劣悪な環境に押し込められていた、としている記述もあります。

戦争中のあれこれを、後でどうこう云っても、という気持ちが、私の中にはどっかりとあります。


美智子さんは、いつでも、相手方に謝ることだけを考えている方。そういうカッコ付け自体が好きでたまんない方。といった感じを抱いています。一国の皇后として、「天皇の強い意向」を錦の御旗としてあちこち、慰霊にでかけていながら、結局は自分の方に何でもひきつけて、個人の感想、感慨にまとめこんでいる。そんな気がします。

うたは個人の思いをうたうものでいい。ですが。外に対してひらいて見せる「自分」の匂いが、きつくてきつくて。私感ですよ~。

昭和20年2月。戦争の終る半年ほど前の、マニラ市街戦での・・・これは、日米の市街戦です。アメリカは勝った国なので、皇后なんてものもいないので、慰霊に行った話は聞かない・・・日本兵の死者は、およそ1万6000人。ほぼ全滅でした。

蒔きこまれたフィリピンの民間人の数は、10万人以上とか。

凄まじい話です・・・・・・。



「マレーの虎」と呼ばれた陸軍大将・山下奉文。

終戦後、マニラでの軍事裁判のおり、シンガポールにおける捕虜虐殺、マニラにおける市民虐殺の責任を問われて、モンテンルパに収容されておられました。ほとんど、そんなこと、国にさえよくしられていなかった。

昭和21年2月23日(後に平成の皇太子が生まれた日です。何の因果でしょう)。戦争犯罪者・・戦犯として、作業着のまま、絞首刑を執行されました。

日本陸軍中将・本間雅晴も死刑。

「バターン死の行進」の責任者として銃殺刑。

このお二人以外に15人の日本人の死刑が執行されたのでしたが、上記、当時のキリノ大統領の特赦をうけて、108人の収容者が、日本に還ることができた。

細かく書きたいこともいっぱいあるのですが、今はせいぜいこれくらいしか触れられません。

美智子さんの今年の歌については次回に触れることにします。


今日のおわりに、山下奉文陸軍大将と、本間中将の、それぞれ辞世のうたを二首ずつ。

ご紹介させていただきます。


   野山わけ 集むる兵士 十余万 還りてなれよ 国の柱に


   満ちて欠け 晴れと曇りに かわれども とわに冴え澄む 大空の月

                                山下 奉文


   戦友(とも)眠る バタンの山を 眺めつつ マニラの土と なるもまたよ志


   予(かね)てより 捧げし命 いまここに 死処を得たりと 微笑みてゆく    

                                本間 雅晴



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

山下大将の遺書。享年60歳。


これは教戒師の森田正覚氏が処刑40分前に将軍の言葉を記録したものです。

「私の不注意と天性が閑曼であった為、全軍の指揮統率を誤り何事にも代え難い御子息或は夢にも忘れ得ない御夫君を多数殺しました事は誠に申訳の無い次第であります。激しい苦悩の為心転倒せる私には衷心より御詫び申上げる言葉を見出し得ないのであります。

かって、皆さん方の最愛の将兵諸君の指揮官であった「山下奉文」は峻厳なる法の裁を受けて死刑台上に上がらんとしているものであります。アメリカ初代大統領ジョウジワシントンの誕生祝賀記念日に独房を出て刑の執行を受けるということは偶然の一致ではありますが誠に奇しき因縁と云わねばなりません。

謝罪の言葉を知らない私は今や私の死によって、私の背負された一切の罪を購う時が参ったのであります。もとより私は単なる私一個の死によってすべての罪悪が精算されるであらうというような安易な気持ちを持っているものではありません。

全人類の歴史の上に拭うべからざる数々の汚点を残した私は、私の命が断たれるという機械的な死について抹殺されることとは思わないのであります。絶えず死と直面していた私にとりましては死ということは極めて造作のない事であります。

私は大命によって降伏した時、日本武士道の精神によるなれば当然自刃すべきでありました。事実私はキャンガンで或はバギオでかってのシンガポールの敵将パーシバルの列席の下に降伏調印をした時に自刃しようと決意しました。然し其の度に私の利己主義を思い止まらせましたのは、まだ終戦を知らないかっての部下達でありました。

私が死を否定することによって桜町(キャンガン)を中心として玉砕を決意していた部下達を無益な死から解放し祖国に帰すことが出来たのであります(私が何故自決をしなかったかということは、ついている森田教誡師に質問され詳しく説明致した所であります。)

私は武士は死すべき時に死所を得ないで恥を忍んで生きなければならないということが如何に苦しいものであるかと云う事をしみじみと体験致しました。此の事より■して、生きて日本を再建しなければならない皆様の方が戦犯で処刑されるものよりどれだけ苦しいかということが私にはよく分るのであります。

若し私が戦犯でなかったなら皆さんからたとえ如何なる恥辱を受けませうとも自然の死が訪れて参りますまで生きて贖罪する苦難の道を歩んだでありませう。

兵は国の大事にして死生の地、存亡の道なり、察せざるべからず、と孫子もいったように兵はまさしく凶器であり、大きな罪悪でありました。この戦争を防止するため私はあらゆる努力を払いました。然し悲しいかな私の微力よく之を阻止することが出来なかったことはまことに慙愧に耐えない次第であります。

マレー侵略、シンガポール攻略、国民の血を湧かした丈に恐らく皆さんは私を生粋の侵略主義者、軍国主義者の最たるものであると目して居られるでしょうがそれは当然であります。一身を軍職に捧げた職業軍人であります。今更何をか之に加えましょうか。然し私も軍人であると共に一■日本国人民としての意識も又相当強く動いて居りました。亡国と死者とは永久に再生はないのであります。

兵事は古えより明君賢将の深く慎み警むる所でありました。一部の■者がひとの事を断じて国民大衆を多く殺傷し残れる者を今日の如く塗炭の苦しみに落入れたことは等しく軍部の専断であり国民諸君の怨嗟悉く我等に集中するを思う時私は正に断腸の思がするのであります。

ポツダム宣言によって日本が賢明ならざる目論見によって日本帝国を滅亡に導いた軍閥指導者は一掃され、民意によって選ばれた指導者によって平和国家としての再建が急がれるでしょうが、前途益々多事多難んることが想像されます。建設への道に安易なる道はありません。軍部よりの圧力によったものとは云えあらゆる困苦と欠乏に堪えたあの戦争十箇年の体験は必ず諸君に何物かを与えるに違いないと思います。新日本建設には、私達のような過去の遺物に過ぎない職業軍人或は阿諛追従せる無節操なる政治家、侵略戦争に合理的基礎を与えんとした御用学者等を断じて参加させてはなりません。

恐らく占領軍の政策として何等かの方法が取られるでありましょうが将に死に就かんとする私は日本の前途を思うの余り一言申し添えたいと思うのであります。踏まれても、焼かれても強い繁殖力を持った雑草は春が来れば芽を吹きます。国悉く破れて山河のみとなった日本にも旺盛なる発展の意志を持った日本の皆様は、再び文化の香り高い日本をあの1863年丁独戦争によって豊沃なるヌレスリッヒ、ホルスタイン両州を奪はれたデンマークが再び武を用いる事を断念し不毛の国土を世界に冠たる欧州随一の文化国家に作り上げたように建設されるであろう事を信じて疑いません。私共亡国の徒は衷心からの懺悔と共に異国の地下から日本復興を祈念いたします。新に軍国主義者共を追放し自ら主体的立場に代られた日本国民諸君、荒された戦禍の中から雄々しく立上がって頂き度い。それが又私の念願であります。私は朴訥なる軍人であります。

今や死の関頭に立って萬感交々至り謝罪と共に言語の形式を以って申し述べたいのでありますが、武将の常として従来多くを語らず寡言実行の習癖と加うる語句又豊富でありませんので之を表現することが出来ないことを残念におもいます。

私の刑の執行は刻々に迫って参りました。もう40分しかありません。この40分が如何に貴重なものであるか、死刑因以外には恐らくこの気持の解る人はないでしょう。
私は森田教誡師と語ることによって、何時かは伝はるであろう時を思い、皆さんに伝えて頂くことに致します。
聞いて頂きたい・・・・

其の第一は義務の履行ということであります。

この言葉は古代から幾千の賢哲により言い古された言葉であります。そして又此の事程実践に困難を伴うことはないのであります。又此事なくしては民主主義的共同社会は成り立たないのであります。他から制約され強制される所のものでなく自己立法的内心より湧き出づる所のものでなくてはなりません。束縛の鉄鎖から急に解放されるであろう皆さんがこの徳目を行使される時に思ひを致す時聊か危惧の念が起こって来るのであり、私は何回此言葉を部下将兵に語ったことでしょうか。峻厳なる上下服従の関係に在り抵抗干犯を許されなかった軍隊に於いてさえこの事を言はざるを得なかった程道義は著しく頽廃していたのであります。甚だ遺憾な事でありますが今度の戦争におきましては私の麾下部隊将兵が悉く自己の果たすべき義務を完全に遂行したとは云い難いのであります。他律的な■務に於いてさえ此の通りでありますから一切■絆を脱した国民諸君の■に為すべき自律的義務の遂行にあたっては聊か難色があるのではないかと懸念されるのであります。旧軍人と同じ教育を受けた国民諸君の一部にあっては突如開顕された大いなる自由に幻惑された余り他人との関聯ある人間としての義務の履行に怠慢でありはしないかと云うことを恐れるのであります。

自由なる社会に於きましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成して頂きたいのであります。此の倫理性の欠除という事が信を世界に失ひ■を萬世に残すに至った戦犯容疑者を多数出だすに至った根本的原因であると思うのであります。

此の人類共通の道義的判断力を養成し、自己の責任に於て義務を履行すると云う国民になって頂き度いのであります。

諸君は、今他の地に依存することなく自らの道を切り開いて行かなければならない運命を背負はされているのであります。何人と雖も此の責任を回避し自ら一人安易な方法を選ぶ事は許されないのであります。こゝに於いてこそ世界永遠の平和が可能になるのであります。

第二に、科学教育の振興に重点をおいて頂きた度いのであります。

現代に於ける日本科学の水準は極く一部のものを除いては世界の水準から相去る事極めて遠いものがあるということは何人も否定することの出来ない厳然たる事実であります。一度海外に出た人なら第一に気のつく事は日本人全体の非科学的生活ということであります。

合理性を持たない排他的な日本精神で真理を探究しようと企てることは、宛も水によって魚を求めんとするが如きものであります。我々は資材と科学の欠除を補ふ為に汲々としたのであります。

我々は優秀なる米軍を喰い止める為百萬金にても贖い得ない国民の肉体を肉弾としてぶっつける事によって勝利を得ようとしたのであります。必殺肉弾攻撃体当り等の戦慄すべき凡ゆる方法が生れました。僅かに飛行機の機動性を得んが為には、防衛装置の殆どを無視して飛行士を生命の危険にさらさざるを得なかったのであります。

我々は資材と科学の貧困を人間の肉体を以って補わんとする前古未曾有の過失を犯したのであります。この一事を以ってしても我々職業軍人は罪萬死に価するものがあるのであります。 今の心境と、降伏当時との心境には大なる変化があるのでありますが、ニュービリヒット収容所に向ふ途中、ヤングの記者スパートマクミラン君が「日本敗戦の根本的な理由は何か」と質問された時、重要かつ根本的な理由を述べんとするに先達って今迄骨身にこたえた憤懣と■■な要求が終戦と共に他の要求に置き換えられ漸く潜在意識のなかに押込められていたものが突如意識の中に浮び上がり、思はず知らず飛び出した言葉は「サイエンス」でありました。敗因はこれのみではありませんが重大要因の中の一つであったことは紛れもない事実であります。 若し将来不吉な事でありますが戦争が起こったと仮定するならば、恐らく日本の取った愚かしい戦争手段等は廃人の夢の昔語りと化し短時間内に戦争の終結を見る恐るべき科学兵器が使用されるであろうことが想像されるのであります。戦争の惨禍をしみじみと骨髄に■して味うた日本人は否全世界の人類は、この恐るべき戦争回避に心■を打込むに違ひありません。又このことが人間に課せられた重大な義務であります。

あの広島、長崎に投下された原子爆弾は恐怖にみちたものであり、それは長い人間虐殺の歴史に於てかって斯くも多数の人間が生命を大規模に然も一瞬の中に奪われたことはなかったのであります。獄中にあって研究の余地はありませんのでしたが、恐らくこの原子爆弾を防御し得る兵器は、この物質界に於て発見されないであろうと思うのであります。

過去に於ては、如何なる攻撃手段に対してもそれに対する防御は可能であるといわれて参りました。実際このことは未だに真実であります。過去の戦争を全く時代遅れの戦争に化し去ったこの恐るべき原子爆弾を防御し得る唯一の方法が若し有るとするならば世界の人類をして原子爆弾を落としてやろうといふような遺志を起こさせないような国家を創造する以外には、手はないのでであります。敗戦の将の胸をぞくぞくと打つ悲しい思い出は我に優れた科学的教養と科学兵器が十分にあったならば、たとへ破れたりとはいへ斯くも多数の将兵を殺さずに平和の光輝く祖国へ再建の礎石として送還することが出来たであらうといふ事であります。私がこの期に臨んで申し上げる科学とは人類を破壊に導く為の科学ではなく未利用資源の開発或は生存を豊富にすることが平和的な意味に於て人類をあらゆる不幸と困窮から解放するための手段としての科学であります。

第三に申し上げたい事は・・・特に女子の教育であります・・・

伝うる所によれば日本女性は従来の封建的桎梏から開放され参政権の大いなる特典が与えられた様でありますが現代日本婦人は西欧諸国の婦人に比べると聊か遜色があるように思うのですが、これは私の長い間の交際見聞に基く経験的事実であります。

日本婦人の自由は、自ら戦い取ったものではなく占領軍の厚意ある贈与でしかないという所に危惧の念を生ずるのであります。

贈与といふものは往々にして送り主の意を尊重するの余り直ちに実用化されないで観賞化され易いのであります。

従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人のそれと何等変る所のものではありませんでした。この虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました。そこには何等行動の自由或は自律性を持ったものではありませんでした。皆さんは旧殻を速かに脱し、より高い教養を身に付け従来の婦徳の一部を内に含んで、然も自ら行動し得る新しい日本婦人となって頂き度いと思うのであります。平和の原動力は婦人の心の中にあります。皆さん、皆さんが新に獲得されました自由を有効適切に発揮して下さい。 自由は誰からも犯され奪はれるものではありません。皆さんがそれを捨てようとする時にのみ消滅するのであります。皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮して下さい。もしそうでないならば与えられたすべての特権は無意味なものと化するに違いありません。
最後にもう一つ婦人に申し上げ度い事は皆さんは既に母であり又は羽となるべき方々であります。母としての責任の中に次代の人間教育という重大な本務の存することを切実に認識して頂き度いのであります。私は常に現代教育が学校から始まっていたという事実に対して大きな不満を覚えていたのであります。

幼児に於ける教育の最も適当なる場所は家庭であり、最も適当なる教師は母であります。真の意味の教育は皆さんによって適切な素地が培われるのであります。若し皆さんがつまらない女であるとの謗りを望まれないならば、皆さんの全精力を傾けて子女の教育に当って頂き度いのであります。然も私のいう教育は幼稚園或は小学校入学時をもって始まるのではありません。可愛い赤ちゃんに新しい生命を与える哺乳開始の時を以て始められなければならないのであります。愛児をしっかりと抱きしめ乳房を哺ませた時何者も味う事の出来ない感情は母親のみの味いうる特権であります。愛児の生命の泉としてこの母親はすべての愛情を惜しみなく与えなければなりません。単なる乳房は他の女でも与えられようし又動物でも与えられようし代用品を以ってしても代えられます。然し、母の愛に代わるものは無いのであります。

母は子供の生命を保持することを考へるだけでは十分ではないのであります。

■が大人となった時自己の生命を保持しあらゆる環境に耐え忍び、平和を好み、強調を愛し人類に寄与する強い意志を持った人間に育成しなければならないのであります。

皆さんが子供に乳房を哺ませた時の幸福の恍惚感を単なる動物的感情に止めることなく、更に知的な高貴な感情にまで高めなければなりません。母親の体内を駆け巡る愛情は乳房からこんこんと乳児の体内に移入されるでせう。

将来の教育の■分化は、母親の中に未分化の状態として溶解存在しなければなりません。
幼児に対する細心の注意は悉く教育の本源でなければなりません。功まざる母の技巧は教育的技術にまで進展するでせう。

こんな言葉が適当か、どうか、専門家でない私には分りませんが、私はこれを「乳房教育」とでも云い度いのです。
どうかこの解り切った単純にして平凡な言葉を皆さんの心の中に止めて下さいますよう。これ が皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります。」

昭和21年2月23日 払暁 ロスパニオス(マニラ東南40キロ)で絞首刑
同日午前3時40分マニラ憲兵隊長大田清一中佐、同4時17分元通訳ヒガシジタクマの絞首刑も執行された。

追記 大田清一中佐のご家族は四国・善通寺生野(いかの)大麻山に居られた。24日、悲報は家族の許に届く。家族7人は希望を失い、抱き合って慟哭したとあります。ご長男が上梓した「流れゆく雲」(大田清一遺稿集)の「獄中日記」(昭和20年9月15日~21年1月5日判決)を視れば、12月13日の記述に、「見よ山下将軍は悠々と散歩しあり。」とあり、1月5日には、「午前9時より判決。予定の如く絞首刑だった。どうせ彼等の計画的な芝居だ。貴き犠牲と諦めよう。もうとうに覚悟は出来て居る筈だ。今日の午後ぐらい他の監房に移すだろう。悠々たる山下さんと一緒になれる。一つ修養せん哉。」とある。
 
辞世 : 流れゆく雲を 窓辺に眺めつつ 奇しき運命を 夢かとぞ思う

                                   


「謝罪する」「詫びる」ということについて、考えてしまいました。




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コメント

おめでとうございます

 遅ればせながら あけましておめでとうございます

私(長屋の爺)は、しぶとく生きております(笑)


時間的余裕と体調を観ながら時折訪問させていただきます

日日是好日

・長屋の爺さん


爺さま。

コメント下さって嬉しいです。びっくりしました。

うまく言えませんが、訪問して下さって嬉しかったです。

わたしますます元気です。机に向かっている自分は、今までに増して元気なのです。痛む足も膨れ上がる一方のおなかも、気にしません(笑)。

今年も当分は茶番鑑賞、なのか。いろいろ取り払って考えれば、ものすごくシンプルなこと。だと、思っています。

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しんしんと肺碧きまで海の旅

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やはり赤い口紅が好き。


ものすごく唐突ですが、私、口紅(だけ)はシャネルよ。(笑)。

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