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今日も元気でいましょうね^^

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溢れる思ひ。



              
          大伯皇女・考

                                 


  うつそみの人なるわれや明日よりは二上山を弟背(いろせ)と吾が見む

                                     万葉集巻二・165




弟は死んだ。天武帝の皇子・大津は、謀反の名のもと死に追いやられた。二十四歳。ただ一人の同腹の弟だった。

母がみまかった時は、五歳の幼さだった。私が伊勢の斎王となり、離れて暮らすようになっても、

「文武にすぐれ眉目浄らか、性は明るく人望あり」

など聞くだに嬉しい誇らしい弟だった。

たまさかに大津の消息を伝えて来る都からの風を、どんなに私は、待ちわびたことだろう。

その大津。私の弟が、十幾年ぶりに、夜陰に乗じて会いに来たのは、あれは、今に思えば,死の、何日前のことだったか。

斎宮という立場に置かれた人間の日常など、ああこうと語ってみたところで、余人に理解されるものでもあるまい。

私もそして、余の世界のことは知らぬ。

神に仕える身といえど 私は神を見たことは無い。

十三の歳に移されてより幾星霜。私には無為の朝であり夜であった。

二十六歳までを私は、いわば薄明に目を慣らしながらゆるゆると長らえていたようなもの。

胸に手を当てればそこにある身のうちの音のように、その名を思うそれだけが、わが身の生きのことわりであった弟。大津。ただ一人の、大津。

二つ違いの弟の突然の来訪は、空に耀ようあまたの星のうち最も大きな、最も光鋭い一つが、目くらますがごとく降ってきたようなものだった。

仰いでわかる背の丈も思わず指が触れんと延びた頬の粗さもむんむんと放たれているわが生に知らざる匂いも。

大津は、私の知らない世界のすべてと思われた。

忍びつつも朗らかに声は明るく、腕の力は強かった。涙の粒はわが肩に、熱く重かったのだ。

誰も二人の籠るあたりに近づかなかった。

見えなくとも常はそこここにある、密かな息遣いのおんなたちの気配も、消えていた。

息苦しかった。すぐに慣れてしまった。そばに大津のいることに。

朝を告げる鶏鳴さえ聞かなかった。短かすぎる夜だった。

やまとへ。

帰さねばならぬ弟の、もう見えなくなっている後ろ姿をいつまでも見送りながら私は、おそらくは逃れ得まい弟の酷い運命を思い、のがれる気持ちを見せずに発って行った胸の内を思って。

しとどの朝露に濡れながら、立ち続けた。

立ち続けるしか、なかったのだった。

既に母も父も亡い。皇女とはいえ私は、無力な一人の女に過ぎなかった。


  百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ


これが、弟・大津皇子の辞世である。

・・そんなに邪魔だったのか、そんなにも、邪魔だったのだね、わたしが。

さみしい笑顔を浮かべた弟の姿が、私には見える。

私には、甘えに甘えた弟だった。

幼かった日々も。

最後の、ただ一度の、あの、訣れの夜も。

しかし一人で逝ったのではない。見て来たように伝える者が、私にも、いた。

弟の妻・山辺は、いよよと知るや裳裾ひるがえし髪を振り乱し、はだしで駆け駈けて夫の死に殉じた。

ひとり行く秋山はどんなにか越え難かろうと、あの日わたしは弟のために泣いたものだが、死をまでも分ちあう、若くこころ結ばれた夫婦が相たずさえての旅ならば、黄泉への道も、寂しいばかりのものでもあるまい。

私は、まみえたことも無いのであっても、弟の妃に、よくぞ、と、手を合わせたい思いがする。と同時に、山辺のようには生きも死にも叶わぬわたしの命とは、いったい何なのだろうという気も、する。

私は伊勢より大和へ戻され、大津皇子の葬られた二上山を、いまは。朝に夕に仰ぐ。

幼くて離され、成年となった姿で私の前に現れた弟は、そのただ一夜を限りに、手の届かないところへ行ってしまった。

二上は美しい。暮れて行く峰を、朝日にきらめく峰を、もうどれだけ、眺めて来たか。

山でさえ、雄岳雌岳と睦まじい姿であるものを、茫々といのち残されたこの身に、この先、幾つの季節を越さねばならないのだろうか。

一人で、私は。

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たいへん寒いので事務所にこもって室内整理に励んでおりました。ちょっとお茶など、のひまに万葉集を開いたりして、やはり私が気になるのは、天武天皇の皇子・大津皇子と、姉の大伯皇女のこと。

皇女は四十一年の生涯に、ただ六首しかうたを残していない。そのうたも全て、弟の大津皇子に向けたものです。

これぞ和歌、短い中に、思いのたけが溢れています。なまなまと胸に来る絶唱です。

いいなぁいいなぁと震える思いでいて、勢いで、小さい物語なども、書いてしまいました。そして、

以下に、上記一首以外の皇女のうたを、書かせておいていただきます。

万葉集の中の人びとは、天皇から防人まで。本当に生き生きと、人の思いをうたって(訴えて)おられて、すごいなあ、万葉集のある国に生まれてよかった! と、改めて何度でも喜ぶ、KUONです。


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わが背子を大和へ遣ると小夜更けて あかとき露に我が立ち濡れし(2-105)

二人行けど行きすぎ難き秋山を いかにか君が一人越えなむ(2-106)

ここまでは、男子禁制の神宮へ大津皇子がひそかにしのんで来て、翌日、帰って行った時のうた。現代の言葉に訳されているので、引用される場合も、言葉は微妙に異なっていることも多いです。万葉集のむずかしい元の文字群を、どう読み解くか、なのです。

たとえば、2-106の一首、最後の七音を、

「一人越ゆるらむ」

としてあるような。私は個人的に、字余りになるけれど(わざと字余りにすることもあります)

「いかにか君が一人越ゆるらむ」

の方が、余情があっていいなあ、などと感じています。こういうことも、うたの楽しみの一つと思います。もう、オタクの世界かも。(笑)。

原文は、以下だそうです。~だそうです、としか言いようがないのです私には。

「二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武」


そして。

以下は、ただただ、追慕している皇女さまです。



神風の伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ 君もあらなくに(2-163)


見まく欲り我がする君もあらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに(2-164)


うつせみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟背と わが見む(2-165)


磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといわなくに(2-166)



会いたい、会いたい、恋しい。

でも、あの愛しいものはもう、いない。のでした。




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2 Comments

長屋の爺   

感服しました

こんばんは

大津皇子の最大の謎 伊勢行の綺麗なストーリーに感服しました

私は伊勢に行ったのは天皇が崩御する少し前だったと考えています

姉弟の今生の別れはどのような思いだったのか・・・

それにしても・・・KUONさんの文才(才能)の一欠片が欲しい

書いてみたい題材はあるのですが・・・どんなに絞っても出てこない言の葉

己の才覚の無さに立ち尽くしたままであります(笑)

2016/02/18 (Thu) 22:34 | EDIT | REPLY |   

KUON  

・長屋の爺さん。


爺さま。お言葉、ほんに嬉しゅうございます。

大伯皇女(大来皇女)に関しては、たくさんの方々がそれぞれ書いておられるようで、私の書くは、史実、年表などに関して言えば、あやしいもんだとの自覚があります。

こういう風に書いていいかどうか、長い長い間、考えておりました、叱られるんじゃないかと。(笑)。

でも最近、とみに開き直ったというか、いいよね~、みたいな気持ち。

うたに残された気持ちは本物だろう、では、うたに呼び起こされる私の気持ちが、ほんとう(本物かどうかは自分には言いきれません、ので、本当、にさせていただきます)なら、切なくいらしたでしょうね、ひめみこさま、と、やってもいいよね、と。

万葉集を読んでいると、皇子といえど皇女といえど天皇といえど。

まったく人間そのものに思えます。

夫のたまわった死に、不満だっただろう山辺の妃(?)は、刑死の現場に駆けつけてそこで自害した、と、この話がずっと胸にありまして。

爺さまのブログで、少し前に、大津皇子の死に方はこうだったのではないか、とお説を読ませてもらい、そうよね、綺麗ごとでは無いわね、と、しーんとしていました。

現代人の思いとは違う所にある、万葉集の中の人びと。

皇女なのに、恋しさ抑えきれず「朝川渡る」とやっちゃった但馬皇女。そのひめみこの亡き後の、穂積皇子の、短詩型であればこその哀傷のうた。

あれこれ、私もまだ、思いを抱えています。

妄想の果てに、ひとのかなしみのようなものを、わああっと抱え込んでしまう心情は、おそらく、少しは人より沢山持っていて。それを、才能と言っていただくと、はなはだ、面映ゆいのですが・・ありがたく嬉しくも、思います。

爺さまの「ものがたり」も、ぜひ、ゆっくりと紡いでいただきたく、お待ちしておりますと、プレッシャーかけさせておいて頂きます。

読ませて下さい、私のようでない、爺さまの、題材、料理法の、物語を。ぜひ。



2016/02/19 (Fri) 10:35 | EDIT | REPLY |   

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