KUONのブログへようこそ。

ブログタイトル変えました。中身は変わらずKUONです。

上手にだまくらきゃあて(うまく騙して)



叔母の葬儀に行って来ました。

朝、新幹線に乗って、名古屋に着いて、タクシーでワンメーターの葬儀会館。数年前のバレンタインデーに、叔母の夫、優しかった叔父を送りに行った、同じ場所でした。

上がって行ったら、喪主である従弟、その姉たちである従妹が迎えてくれました。従弟は叔父に、上の従妹は叔母に、それぞれそっくりで、びっくりしました。あの家の人たちらしい柔らかい物腰で迎えてくれました。会場の方とまだ、打ち合わせ中でした。

葬儀の時間には間があり、姉や姪たちも着いていない状況、邪魔になっても、と、私にしてはまっとうな気が回って(笑)、いったん外へ出て、ファミレスがあったので入って、クリームを載せたコーヒーを頼みました。シロップも入れました。

美味しいのかどうなのかてんでわからないコーヒーをストローで吸い上げながら、ぼおおっとしていました。

会場に、石原裕次郎の歌声が流れていたなぁ。「銀座の恋の物語」。

叔母は石原裕次郎が好きでした。その前には大川橋蔵が。最新のごひいきは「きよしくん」で。私の好みはともかく、見舞いの折にCDをあげると、嬉しそうににっこり笑って受け取ってくれました。

既に持っていても、これは〇子(わたし)がくれた。と、よろよろの文字で油性ペンで書いて、身近に置いてくれていました。

アニヨメである私の母に、はっきりと批判的な叔母でした。間にはさまって困った感じになったこともありましたが、叔母の、私や姉たちへの愛情は本物、40歳そこそこで死んだ「にいさま=名古屋の人は、にいさま、ねえさま、と呼ぶことが珍しくなかったと思います」が遺した姪たちへの思いは、叔母の血肉から発した熱いものだったと、思い出します。

私は葬儀で、息ができなくなるくらい泣いてしまいましたし、母の葬儀に冷静だった二人の姉も、震えて泣いていました。

母には母の事情も辛さもあったのですが、姉たちは、母を恋しく愛おしく思いきれない苦しさの中にいるうちに、母との別れがあったのでした。

身を張って庇ってくれない母だった。姉たちの思いはそこに凝縮しているようです。私も、そんな風に感じていた時期もありました。

どうしようもないこと、どうもできない時期だって、ある。今は私は、母に対して、そう感じています。

実家が自慢で自分の気持ちが大切だった。つまりそんな人でしたが。私には、どうにも切ない親でありました。

死にたくてたまらなかった若い日に、母がいるから死ねない、きっと死んではいけないのだろうと、毎日、日記に、一番の財産だと思っていた、パーカーの太字の万年筆で、書き殴っていた。それで死神はさったのでしたか。

母に、どんな悩みも悲しいことも打ち明けたことは無くても・・・受け止められないひとだったから…母がいたから、起き上がった自分だったことは事実でした。

12歳で、小学校を卒業したばかりで、私は、養父のところへ行くことになりました。

叔母は泣いて怒って、自分のところへ引き取ると言ってくれた。よくそんなことができると、母を責めた。

嬉しかったです。でも、同じような年頃の子ども、いとこが、三人いる。当時は、お祖母さん(姑さん)もいました。それまでのように、夏休みに、母の里の田舎へ預けられたり、叔母のところへいさせてもらったり、でなく、叔母(叔父)に完全に引き取られることは、不可能だと、私にもわかりました。

家は、空襲で焼け残った叔父の家へ叔母は嫁いだので、けっこう広かった。あれこれ手を加えて、広くはありました。しかし叔父は勤め人で収入は定まっているし、叔母は、家の間口の広いのを利用して、玄関部分で、したことの無い商売・・・味噌や醤油を、大きな樽を幾つも据えて商っていた・・・を頑張っていて、と、書けば長くなりますが、自分がそこで暮らすのは無理だろうと、わかっていました。

で、叔母は、私が養父のところへ行っても、長い休みなどには名古屋へ戻して、自分の家にも来させること

「よお、覚えといてちょおでゃあよ、姉さま」

母に約束させ、それを、違えず守ってくれたのでした。

養父の家にも、同じ年頃の子どもが三人、いました。

叔母は、夏休みなどにボストン提げて行くと、裕福とは言えない家計の中から美味しいものを食べさせてくれ、映画にも、よく、連れて行ってくれました。

映画は、東映の時代劇が多く、大川橋蔵を

「え~男だなあ」

と、うっとりと語る。叔父は晩酌しながら、どうしても結婚したくて、生きて帰ったら結婚させて欲しいと。

水兵さんでしたが死んでいてあたりまえだった中を生き抜いて還って、約束通り妻にした叔母が、「ええオトコ」を語るのを、にこにこと頬を緩めて聞いているのでした。叔父にだけ、夕食に刺身の皿のついている時代でした。

貸本屋で、よく、本を借りて読んでいました。洋裁も得意だったし編み物も上手でした。そういったことは娘時代に身に着けても。

自分自身が習えなかったあれこれ、戦時中でもあって叶わなかったこともあったのでしょう、二人の娘に、ありとあらゆるお稽古ごとをさせていて、私にまで、短いとぎれとぎれの期間にも、お花やお茶や、と、触れさせてくれた。

養父のところでは、そういった「俗な」こと(笑)一切不要、のいささか変則的な考えの下に、みな、育っていたので、私は精神的に、二重どころでない複数の価値観の中での生活。母の家にももちろん、滞在する日々もありましたし。

母の家では、離れの部屋で、一人で本ばかり読んでいました。琴が立てかけてあって、柱も合わせてあったので、勝手にビートルズなど、耳を頼りに弾いてみたり。

母とは、幼い頃から、身をいれて話すことも無かったのでした。母の「神さま」にひたすらだった母は、他人様のことでは損得抜きで動けても、祈れても、自分の生の娘たちには関心が薄かった。徹底的に薄かった。それを、姉たちは、淋しがったのだと思います。

あの家ではこう、この家ではこう、しかし、どちらにしろ、私だけの「家庭」というものは存在しなかったわけで。

高校での寮生活を経て、早く一人で暮らしたい、自分だけの空間の中にいたい、と、なったような気がします。自分でお金をかせげば、自分の空間を買える。それは今でも、そう考えています。

話が大回りしました。

叔母は。熱烈、真剣に、姪たちの事を案じてくれました。叔母には、私たちに伝わる体温があったのです。

私たち姉妹には、親と同様の人だったのです。中の姉は、近くに住んでいたのでもっともその思いが強く、随分たすけてもらったり思いやりをいただいたりで濃い付き合いを続け、いささか余裕ができてからは、小樽まで行こうと、裕ちゃんの記念館へ連れて行ったり、いわくの旅館にも泊まりに行ったり、叔父が無くなって叔母の一人暮らしの頃は、二人の従妹とタッグを組んで、訪問を続けていました。叔母の晩年は外食を好んだので、さまざま、お連れしていたと思います。次姉のシアワセでもあったのです。

そういうこともあって、とは言いたくないが、三人目の長男である従弟の奥さんは、叔母になかなか、心を近寄らせてもらえず、せっかく建て直して一緒に住もう、だった家も、家族で出て行ってしまった。

従弟はツマを大切に思い、私たちには最高のオバサマではあるが、姑としては難しい人である母親と知っていて、間で、懸命に綱渡りしていました。昨日は号泣していました。あの従弟も敢闘賞でした。従弟の奥さんも、昨日は、小姑さんたちのねぎらいを受けて、綺麗な涙を、出棺間際の叔母に、降り注いでいました。そこの家の子どもさんたちも大泣きしていました。

花をたっぷり。

家族葬で、叔母の曾孫である赤ちゃんまで合わせてもこじんまりした葬儀でしたが、何十年来の両隣さんである二軒からも来て下さっており、とにかく花をたっぷりのおとむらいで。

叔父が逝って、一人で暮らしていた叔母でしたが、ある日、夜に行ったトイレで、お尻がすっぽり、はまり込んで、抜けなくなってしまった。

必ず持って歩けと言われていた携帯電話を、もたずに、さっと個室に入って、そうなったのでしょう。

朝、お願いしてある方がピンポン押しても返答が無い。もしや、と、手筈の通りに家に入っても、寝室に姿が無い。胸騒ぎを抑えて探して、トイレで、呆然自失の状態の叔母を、見つけて下さった。

ひとばん、どうしようもなく、トイレにはまっていたのです。

どんな思いをしていたのでしょう。不安なんてものではなかったでしょう。

急激に痴呆が進みました。

まだ、人手を借りつつ家にいられる。そんな判断もありましたが。長男である従弟が決定の鉈を振った。

「家にいたいのはわかる。いさせてもやりたい。おりやすいようにリフォームもしたばかりだ・・・けど。

「お母ちゃんは、呆けたら入れてな、と言っていた。そうなったら自分で判断できんので、子どもが判断して、もしもの時に子どもが責められたり、自分を責めたりせんでもええように、わたしがもしも、イヤがっても、上手にだまくらきゃあて、入れてえよ、

「お母ちゃん、そう言っとったがや。気になるんだったら毎日でも会いに行きゃあええ、24時間見てくれとるとこへ、俺は、入れたりてゃあわ

「どんだけ近くにおっても、いざ間に合わんかったらどうするんだ、俺は決めるぞ、気持ち変わらんぞ、俺んたぁが決めな、おふくろ、自分では、よお、決めんのだぞ

ずっと「頼りない長男」認定され続けて来た従弟でしたが、血涙くだる大演説。従妹たちも自分の身近に手もかかって来る年頃、そうしょうまい、と、決まって、この数年、叔母は、施設のお世話になっていました。

明るい個室の壁に、裕次郎やきよしくんのポスターを張り巡らして。常に歌声も低く流して下さっていました。貼られている叔母自身の写真も、笑顔ばかりで。

叔母は、施設の皆さんに、とても大切にして頂いていました。

若い頃には大きな声で子どもを叱ったこともありましたが、にこにこ、にこにこと。

最後に会った時・・・二か月ほど前でしたか、

「あんたは私の知っとる人ぢゃにゃあきゃあ」

と声をかけて来て。

「〇子だよお、叔母さま」

言うと。

〇子かぁ。じいっと見て。

「えりゃあこと器量があがっとるがね」

と、言った。私は、叔母の枕のカバーにしがみついて、泣いたのです。

「私、いま、しあわせだもん、いろんなことはあるけど、いまは、安心して暮らしてるもん」

・・おばさまたちのおかげ、とは、聞こえたかどうか。

にこにこしていたのが、急に眉毛がへの字になって、ぽろぽろっと涙を流して。ふんかぁ。=そうかあ、と、叔母は言いました。

「よかったなあ、しあわせかぁ、わたしも、ほんなら、安心しやあええだなあ」

最後まで、とことん相手の身で考えてくれる人でした。

その叔母の、葬儀の日、6月11日に私は、65歳の誕生日を、迎えました。

叔母、あい子、数え年97歳の大往生でした。


・・・・・・・・・・・・・・・コメントを沢山ありがとうございました。後で必ず






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コメント

くおんさん お帰りなさい(^^)

よいお別れができたのですね…。

こんな言い方は 失礼にあたるかも知れませんが くおんさんの 今までの生い立ちは 本当に私小説を読んでいるようで 場面が目に浮かびます。

人は 死に際にその生きざまや ひととなり が表れるものですね。 叔母様も。周りに同じように思われている 訳ではないですね。家族だからこそ の いろいろな複雑な想い…重いですね。

自分は 山口瞳さんの『血族』という私小説が好きで。くおんさんの 叔母様のお話を聞いて なんとなく重なってしまいました。

叔母様のご冥福をお祈り申し上げます。

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(泣)

愛情深い叔母様だったのですね。

KUON様の、ほんとうにいろんなことがあったであろう人生の、心の支えでもあった叔母様だったのですね。

別れは辛いです。どんな形であろうと、やはり苦い、辛いものが、心に溜まる。

でも、KUON様の文章にはそんな「つらさ」を乗り越えたやさしさを感じます。

…あまり巧いこと言えなくてごめんなさい。

叔母様の御冥福をお祈りいたします。

お返事いつもありがとうございます、仕事の合間に励まされております。

若輩者ですが、今後もよろしくお願いいたします。

追伸。心の支えになった方が亡くなると、私はベートーベンの「月光」を弾くのです。なぜかしっくりくるのです。戯れ言失礼いたしました。

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私が別れた男からもらった最高の言葉は、

話すは離す。

離しなはれ。

お悔やみ申し上げます

読みながら考えさせられました。

叔母様の気持ち...お母様の気持ち...KUONさんやお姉様達の気持ち...それぞれの想いが手に取るように感じられました。
>実家が自慢で自分の気持ちが大切だった。つまりそんな人でしたが。
母親と末娘の気持ちがよく分かり、お母様に少し似ている私には耳が痛いような切ない気持ちになりました...。
末っ子のKUONさんが大人になってお母様の気持ちも分かる気がすると思ってくれている事がお母様も喜んでいると思います。
早く亡くなった人より後に残った人の方が厳しく言われて生きて行くのは大変です。
KUONさんはお父様とお母様の両方の良い所を頂いたから才能溢れる方なんですね*\(^o^)/*
私も母親を反面教師に生きて来ましたが、年を取ると残念ながら似てしまう所もあります(≧∇≦)
これからもずっと楽しみに読ませて頂きます。

KUONさまも叔母様も戦後間もなくの貧しいけれども皆が頑張っていた時期を生きてこられたのですね。でもこの時代はまだ旧き良き日本が残っていて、思いやる心や優しさがありました。小さい頃から御苦労の連続でしたKUONさまに優しく接して下さった叔母様の御霊が安らかでありますように。
大好きだった方との別れは大変悲しく辛いものです、くれぐれもお体に気をつけてお過ごし下さい。

叔母様、大往生でしたね。
お悔やみ申し上げます。

私にもKUONさんにとっての叔母様のような方がいます。
父のお弟子さんだった方。
愛情の塊のような方で
「お世話になった先生のお嬢さんだから」ということで何かにつけて心を配っていただきました。
若い頃はなにもわからなかったけれど、歳をとり
私が今あるのもこの方のお陰だとつくづく思い、今は心ばかりですが自分なりに恩返しをしているところです。
私も母がどちらかというと??な人でしたが、それを補うような方を身近に遣わしていただいたんだなと思って感謝しています。
KUONさんの若くして亡くなられたお父上様はきっと叔母様にとって良き兄上だったのでしょうね。
いろんな意味で因果は巡るのだと思います。

私も、この4、5年の間に
父、母、叔父、叔母と
立て続けに見送っております。

この世にいて、陽にあたれば影を
もっていた存在が
ある日を境に消えてしまう
という儚さを
いま、イヤというほど
味わっております。

ほんとに人間は
何をしにこの世に生まれ
またあの世にかえっていくの
でしょうね

人が死ぬと
考えてしまいます。

お返事させていただきます。


@焼酎のお湯割りさん。

山口瞳「血族」

佐藤愛子「血脈」

作家の目で書けば、闇の中の闇の奥まで抉ることもあるでしょう。私はけれど、自分の縁につながる者たちの事は、何かにことよせてしか、書けない、書きたくない気持ちがあるのです。

今はただ、ありがとう、ありがとう、それだけでいいんです・・・。


@ヒミツのMさん。

初めまして。

私もそちらは、ほぼ毎日、訪問させていただいています。ヒミツのコメントですから、言えるのはこれくらい。

いろいろ、あります。人を羨んだことも妬んだこともありました。

今は、自分なりの思いで日々を迎え、過ごしています。自分なりに、幸せだと思っています。


@hortenciaさん。

私の事を、いつも考えて下さっていて、感謝です。

恩返しも孝行も出来ませんでしたが、きっと解っていてくれると、甘えています。

いい叔母でした。

さっそく、月光を聴こうと思ったけど・・・ものすごく泣きそうと思い、平日の昼間にしようと思いました。(笑)。


@ヒミツのSさん。

何と素晴らしいお知らせ、ありがとうございます。

なんかシミジミします。生と死の輪廻、とか、うまく言えませんが。

精いっぱい、納得のゆく生き方を、なさって下さい、おめでとうございます!。


@ヒミツのPさん。

コメントありがとうございます。大変なことがおありだったのですね。

心が弱っている時に温かくして下さったり庇って下さったり。そういう方は貴重ですよね。私の気持ちもまだ、すっぽり欠落していたり何かが溢れそうだったり。

ヒミツなので多く言えませんが、よろしければまたいらして下さい。


@詠み人知らず さん。

う~ん。考えておきます、と。(笑)。

我の強いKUONは、自分のやり方でしたいの。ありがとう。


@ドラえもん&継美さん。

母は、亡くなって11年です。眠ったまま心臓が止まって苦しまずに逝ってくれたのですが、体から離れた瞬間の魂が、空を越えて私の所へ来てくれたのです。

大変な時期で疲れ果てていたのですが、天井の方で、とても綺麗な金属音がして。きれいな音でした。ふと目を開けると、形では無い気配を感じました。

おばあちゃんや。

確かに感じ、そのまままた眠った。(笑)。朝、電話で、母が亡くなったことを知りました。

私が、母に対して罪悪感を抱いていたのをわかっていて、来てくれたと信じています。

気にしなくていいよ、と、来てくれたと、信じています、勝手かも知れないけど。

毎朝、神さまに拝をする時に、なげしに掲げた父と母の写真にも拝します。

母は私を、許してくれていると思います。

叔母も。ただ、ただ、愛してもらったことを、感じています。

@衣通媛さん。

お優しいお言葉、ありがとうございます。

最後の儀式に行くことができて、イトコや姉たちと、叔母の話をしたりお骨をあげたりできたことが、ありがたいと思いました。

顔の艶もいい、ゆったりとした顔で発って行ったことも。何もかも、こうして、温かい気持ちを頂いて、感じられることも。

自分の中で〆ができて。何十年も同じ場所で生きた叔母は、両隣の方にも来て頂けて、本当にいいお葬式でした。

ご近所を大切に生きていました。普通の人でしたが、昔ながらの、まともな日本人でした。あの叔母がいてくれて、幸せでした。

ありがとうございました。


@メゾピアノさん。

>私が今あるのもこの方のお陰だとつくづく思い、>今は心ばかりですが自分なりに恩返しをしている>ところです。

恩返しができて素敵ですね。すてきです、よかったですね。

叔母は私の父を「にいさま」と呼んでいました。名古屋の人のイントネーションで、ぜんぶ同じ音で。

叔母に言わせると、ええオトコで、何より優しかった、大好きな頼りがいのある「にいさま」だったと。

田舎のお嬢さまで気位高い母と、父は、仲がよろしくなく、当然叔母は、にいさまの味方だった。(笑)。

さまざまな話はあります。優しい男は時に優柔不断で。ええオトコはオンナが途切れなかったり。

いろんなことがあって、人は、でも、最後が幸せならそれでいい気がします。


@たまき さん。

私は五歳の時に祖父、父、伯父を、半年のうちに亡くしました。母には父、夫、長兄です。

母の人生も私のそれも変わりました。

10歳の時に、祖母と、祖母とずっと一緒だった母の実家の伯父が一週間のうちに逝きました。

祖母が息子を呼んだのだと大人たちが話し合うぼそぼそ声を、布団の中で聞いていました。

人は死ぬものだ、と、強く感じました。

数年の間に大切な方々を亡くされた。

なんとも申しようがありませんが。

まこと、諸行は無常、無情と思いますが。

「それでも、生きなければ」

この言葉が、私の底の方に、大きく横たわっている気がします。

自分を、失いたくないとしてくれている人が、いる・・・。






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