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へいかの恋 Ⅰ



へいかがお生まれになったのは。

お姉さまの次にお姉さまが生まれ、次のお子もお姉さまそして最後のお姉さまが生まれていらした、後の、ことでした。

昭和8年。

初めての男の子。初めから天皇のお子、皇太子でいらしたのです。国の人々は大喜びをして、万歳をしたり

「こうたいしさまお生まれなった」

と、その際に作られた歌をうたいながらの提灯行列をしたり、とっておきのもち米と小豆を惜しげもなく出して洗って(惜しんだ人も、出したくても持っていなかった人もいたのですが)、お赤飯を炊いて、お祝いをしたのでした。

そんな大切なお子さまでした。いずれ頂点に立って、立派な国の治め主となられなければなりません。

当時、へいかのお父さま、天皇は「神」であらせられました。

へいかは、その御子でいらっしゃいました。

伝統に従って女の子の服装をさせられ若く健康な乳母のお乳を与えられ、ぺったりと誰かに甘える心地よさの記憶も未だ朧の満二歳の折には、ご両親から離れて、伝育官・・・厳しい御世話役の方々の手に躾けられ導かれて、お育ちになりました。

はじめは日曜日には、ご両親のお住まいへ赴かれていましたが、だんだんそういうことも遠くなりました。

疎開もされました。

戦に負けて。お父さまである天皇の玉音放送は、とあるホテルの2階でお聞きになりました。へいかは、しずかに涙を流しておられた、ということです。

まだあまり何が何だかわからなかった頃に、国は戦いに破れたのです。

お父さまは、戦いに勝った国のリイダアの所へ丸腰でお出かけになり、責任は自分にある。自分の命は要らない。困窮の極みにある国の人々に食べ物を、と、お願いをされました。

死んでもいいご決意でおでかけになられたのが、小さな傷の一つも負われないでお帰りになったと、へいかは、後で、よその大人の口から、その時のお父さま・・・へいかの前のへいか、昭和帝・・・のことを、お聞きになったのでした。

それまでは、へいかのお家には、いろんなたくさんのものはあったようなのでしたが、お父さまが誰かとされた約束なのか負けた国だからなのかどうなのか、何もかもが、へいかのおうちのものではなくなったようでした。

お隠しになられたものも、すぐには出せる状況ではありません。隠すということは、知られてはならぬこと。

お嫁に行っておられたお姉さまが、家族に食べさせるモノが何もないのよと、やつれたお姿でひっそりと帰っておいでになっていたり。お庭でおいもを作っても、慣れていないので太ったおいもにならないらしいと、お母さまがお父さまに話しておいでになったり。

お父さまは国中の皆さまに会いにお出かけになるにも、丹念に継ぎを当てたコオトなどもお召しになられましたが、お母さまは、洋風のデザアトなども、楽しそうに召し上がるお方であられました。

お姉さまのお家には、人を遣って何か、しておられたようでした。

戦いに勝った国が、この人たちはもう、自分たちで生きて行ってもらいなさい、貴族はこんなには要らないと線を引き、その線の外側になってしまわれた、一人の叔父さまのおくがたのお父さまが、お金に困って山へ入って、自分で死んでしまわれたこともありました。

へいかご自身、学校で、お前なんかもう、えらくもなんともないぞ。国の人々が権利を持ったのだ、働かないで食うな、だぞ、コウゾクはみんなが国へ納めたゼイキンで暮らしているんだ、コウシツはゼイキン泥棒と言うんだと、ボオナスが出た日にお酒呑んで帰って、うちの父さんがいってたぞ。

そんなことを言われたことだって、何度もありました。

へいかは、何をいわれても、誰にでもどんなことでも、口答えはしないでいました。

自分がなにか不要なことを言うと、お父さまによくないことが起こると。

ずうっと。いっしんにへいかは、信じていたのです。

13歳の頃から4年間ほど、ブラウニング夫人と呼ばれる異国の女性から、へいかは、個人的な教えを受けることになりました。聞いたことも無い名の、質実なのを旨とする宗派だと言う、クリスチャンでした。クウェーカ―教徒。

それは敗戦時の天皇、お父さまの勧めに添ったことであり、へいかは受け入れて学ぼうと真摯であろうとされましたが、ジョンだったかジョージだったか、夫人の教え子として呼ばうのにつけられるという、馴染みの無い英語の名を、受け入れることは、難しいことでした。

自分には自分の名がある・・・アキヒト。

しかしへいかは、口を重くなさっていました。

だまっていることを貫いていました。

世の中は変わったのだ。

自分たちは、世のため人のために祈りを捧げるために、それのみのために、残されたのだ・・・そうらしいのだ。

余計なことは言わない。顔にも出さない。

と。

そんなへいかの前に、現れた、その女性を。絶体、どうしても、離したくない。どうでもこの女性と、生きて行きたい。

思いを押さえることに自らを慣らして来られたへいかが、強く、思い込まれたのは、天皇の名代として大学を休学して世界の諸国を回っての後。24歳の時。

軽井沢の恋。テニスコートの恋。そう呼ばれて、日本史の1ぺージに燦然と光を放つことになる出会いが、あったのでした。

どうでもどうでもと一途に思い、願い、説得し、電話で話し合いを重ね。

へいかは、自分の人生の伴侶を、自分で見つけることがお出来になったのでしたけれど。

周囲の。女性の親族がたは、お気に召さないのがありありのご様子で。

へいかのお母さまも例外ではなく。義理の妹に当たる各妃殿下がたと語らって手をお組みになって、なんとか、皇族華族でない一般の家庭から、殊もあろうに皇太子の妃が入って来るなどという「蛮行」がなってなるものかの勢いで、あちらこちらへはたらきかけた・・・と、云われております。

製粉会社の令嬢とのロマンス。それはいったい何。あってならざること、日本ももう終わり。大きな騒動でもありました。

最終的にはへいかのお父さまが、天皇が、断を下された。

戦後10余年。全国の小学校で、パンと脱脂粉乳の「給食」が、馴染んで来ていた頃でした。

ご婚約は成りました。国の人々は、熱狂的に、へいかと平民出身の妃のろまんすを称え、絶賛しました。

明治以降では初めての、平民妃の入内が成るのです。

へいかは、私と共に歩んで欲しいと、逡巡するお相手に語りかけました。

温かい家庭が欲しいのです、共に築いて下さいませんか、と。

そんなことを、想うのも口にするのも初めてのことではありました。

しかし、やはり、これだけは言っておかねばの思いも、おありなのでした。

「私は、私のつとめを第一番に優先して行おうと考えております」

と。それにお相手は、反応された。お受けさせていただきます、と、なったのでした。

へいかは安堵し、幸福感に包まれ、翌・昭和34年、日本の皇太子の結婚は、世界中に祝福され、自宅にテレビ受像機を備えることの可能になった国の人々は、お二人の馬車でのご成婚パレードの中継に熱中したのです。









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