KUONのブログへようこそ。

返事の中までKUONです。

  1. 呆然となること
  2. tb: 0
  3. cm: 4
  4. [ edit ]

ぼちぼち出て参りました。追記あります。

もう先週号になってしまいましたが、週刊新潮。工藤美代子氏。この回から 小和田家の先祖に関する内容に移っています。

・小和田恆氏の血脈は、越後村上藩(現・新潟県村上市)の流れを汲むとされる。江戸中期、村上藩の町同心や下横目(しもよこめ)の職に小和田家が就いていたのは判明している。俸禄は石高でなく、わずかな金銭・穀物を支給されていた。

・町同心は下級役人のひとつ、与力の下、現代では巡査のような職。

・下横目は情報を集めて同心に知らせる、補佐の役。いずれにしても十手、取り縄を持つ「捕り方」。

・幕末期の当主道助は捕縛術に秀でていて、いささかの抜擢を受けるが、俸禄は乏しかった。明治元年の藩士籍分限で、小和田家は「二人扶持2両」という年収。{詳細・略)。これは

・「日本で最も貧乏だった幕末の村上藩主 内藤家に仕える藩士の中でも、最低賃金労働者だったと思われる」=市・郷土資料館館員。

・雅子さんの父・恆氏の父祖は、能力がありながら生活の苦しかった、この道助
兵五郎が立てた分家で、その嫡男道蔵匡利(ただとし)が跡を継いだとされている。

・古資料により、この「兵五郎」の名は同心組が住む城下の足軽屋敷の一角に確かに見出せる。



「兵五郎と息子・道蔵匡利が維新後に相次いで亡くなったため、道蔵匡利の次の世代があいまいなのだ。

現在分かっているのは、どういう出自かは判然としないものの金吉という人物が現れ、税務署勤務をしながら小和田姓を継いだということである。

多くの系図資料を検討しても道蔵匡利と金吉を実線で繋ぐものはなく、点線でしか繋がっていない。

「いずれにせよ、小和田の祖父がこの金吉ということになる。」

・金吉は高田税務署に勤務していた明治30年、熊倉竹野と結婚し、長男・毅夫と長女ミヨシをもうけるが、明治33年早逝してしまった。」

・竹野は苦労して助産婦の資格を取って子を養育、毅夫は当時の最高学府を卒業して教員に。教員、校長と務め、地元では篤実な教育者として名が残っている。8人と多くの子に恵まれ、子の全員が秀才、才媛揃いであり、この次男(第4子)として生まれたのがだった。


(KUON)小和田恆氏に、一人は夭折したと言え、他に七人もの兄弟姉妹がいたとは、初めてしりました。

勉学的には一般的に言って極めて優秀、男5人はすべて東大、おんなきょうだい2人も奈良女、御茶の水、と<なれば、学歴エリートのきょうだいたち、それなりにつながって、という気もするのですが、私は雅子さんに親戚のある人の匂いを感じたことがありません。海外の生活が多かったにせよ、雅子さんにイトコ等のいる感じが皆無。一人娘である母親方との密着加減かとも思ったり。

ここ以後の小和田氏の出世の話は知られたこと。今も、88歳まで継続の仕事の席に。後輩に道を譲る気が無さそうなことを揶揄されていますが。

    「身を立て 名をあげ やよ はげめよ」

恆氏の父親の子らへの躾は↑であったのだろうと、工藤氏は書く。以下のようにも書く。引用させていただきます。

おそらく雅子さんも恆の娘にふさわしく、いや、それをも超えた刻苦勉励を重ねたに違いない。(これ、素直に皮肉ですかしら)

海外で父の仕事先を転々としながらボストンのハイスクールからハーバード大学へ、
これ以後を略して進みます、捏造された過去が一応、羅列されています。

「これ以上の女性キャリア官僚は見当たらないのではないか、と思われるほどの有能ぶりが喝采をあびたのはまだ記憶に新しい」と、工藤氏が書く小和田雅子さんが、東宮妃に内定したのは平成5年1月に行われた皇室会議だった。

・結婚を前に恆と妻・優美子が雅子さんとともに新潟市の菩提寺泉性寺にある墓を詣でたことはテレビや新聞で大きく報じられた。

・ただし小和田家の墓はかつて村上氏と新潟市で三か所に分散されており、各寺の住職でさえ家系を辿るのは難しいと語っている。

・墓碑の取り壊しやご遺骨移動の事情も絡み、小和田家代々が泉性寺に祀られているかどうかは不明なのだ(でも一応、継ぎ接ぎの傾いた墓碑に手を突っ立てて拝んでた、家族全員、お念珠無しだった、赤いローソクが立てられていた)


・(略)小和田家先祖の苦節が偲ばれる訳だが、墓の件にこれ以上分け入るのは今回は避けたい。

墓の件にこれ以上分け入るのは今回は避けたい、ですと。

・故郷へ錦を飾った一家の誇らしい気持ち、高揚感の現れの一つか、と工藤氏は書き、新発田市の庭園「清水園」にある有名な木札に触れている。

・恆の生誕地から至近距離にある木札は、雅ドンご成婚の記念として市の職員の手で建てられた。雅ドンのお印の「ハマナス」が傍に植えられた木札には、

     雅子妃殿下御父上誕生の地

     樹種 ハマナス

     寄贈 北蒲原群聖龍町

     平成五年十一月十三日

     新発田市皇太子殿下御成婚記念実行委員会


・「何度か、小和田さんご夫妻がお見えになっていますよ。最初は細長い木簡のような札に書いて立てたのですが、奥さまから『なんだかお墓みたいね』と言われたので、市の方であわてて現在の形に作り変えました」=清水園管理職員。

これまで、東宮妃の父親の生誕の地が、わざわざ顕彰される事柄はあまりなかっただろう、と、記事は書く。

・平成10年10月に新潟駅では、駅長以下総出で皇太子妃の父の出迎えに奔走していた。

・地元の敬和学園大が主催する小和田国連大使による特別講演会が開かれるため。

・駅長先導で特別通路を通り、JR東日本新潟支社の正面玄関から用意された車で、駅や道中での警備陣の対応も、

「まるで天皇陛下並みの緊張ぶりであった。

・平成21年2月に国際司法裁判所(ハーグ市)就任の夏には、夏休みを兼ねて妻と帰国。山形市で記念講演を行い…盛り上がる地元の歓迎ぶりのなか、山形市・天童町に隣接した山辺町に於いて、自らの手形と署名を残した。

・翌年、黒御影石の立派な記念碑が建立された。石碑の文字は来町記念などで。中央に実物大の手形。

・・・ヒサシが申し出たのではないだろうが、と工藤氏は書き、同時に

・「個人の感覚はそれぞれ違うが、人前で自分の印象を強めるような振る舞いを極力避けて生きた正田英三郎との差異は歴然と書いている。


・・・この号のラスト近い下記の部分、箇条書きにはさせていただきますが。。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・成婚前に、小和田家の系図を遡って用意しようとしていた宮内庁は、部落 解放同盟から思わぬ抗議を受けた。

・雅子さんの父方、三代前からの金吉以前が繋がらず、調査に行き詰まっていたときである。

・今の時代、出自で人を云々することは、もとより許されない。だが、一般とは違う立場の歴代の皇太子妃はこれまで厳密な系図が準備されてきた。

・「身元調査は差別である」との抗議が、部 落解放同盟中央本部の機関誌「部落 解放」(平成5年6月号)に掲載された。抗議文から、一部引用しておこう。(部分引用)。

「本年一月六日の「皇太子妃内定」の報道以来、こうした差別撤廃、人権確立をすすめる立場から看過できない内容の報道がなされています。とくに、小和田雅子さんの『家系図』の掲載や、『家柄』賛美などの過剰ともいえる報道内容、そして『皇太子妃を選ぶにあたっては、皇室専門の興信所員が四代前まで徹底調査』などと、宮内庁自らが公然と身元調査を指示していたことが報道されています」

抗議文は3月16日付で、宮沢喜一皇室会議議長(内閣総理大臣)、衆議院議長、参議院議長、宮内庁長官ほかにも送付された。

・個人情報の管理が以前よりはるかに厳しくなっている時代に身元調査」は確かに差別といわれるのも当然。

・しかし、家柄や血筋と、家風や伝統は異質のものだ。子どもにどのような教育を・・・

・・・・・・・ここあたりで今号の記事はほぼ終了で、後は続くようです。

KUONのこの記事も、今日はここで。・・・部解同は、どこでどうやって、宮内庁が調べていることや、その内容を知り得たのか。一番はじめからの私の疑問です。

結果的に身元調査が不発になって、それが「よかった」ことになったのは、小和田さんの側。

基本的に部解同って、皇室に対しては「反」の一文字のはず。そこがクレームつけて結果的に雅子さんをごり押しさせた、「助けた」形になった、不思議です。とても。

追記。これに関しては、小和田家が三代前を遡れない家であることを、宮内庁は明らかにしていた、と教えて下さる方がありました。それに解同が噛みついたのだ、と。

なるほどとうなずきつつ。たった三代前を遡れない家の娘さんが尚も皇室の後嗣、長男の妃「候補」であり続けるって、それも皇室に関しては不思議なことよの、と、思う私。いつも考えますが、家の三軒隣の住人のことなら気にしない。


申し訳ないですが、今日はコメントへのお返事も書くことが出来ません、明日、元気に書きます。




スポンサーサイト


  1. 2014.10.08 (水) 16:59
  2. URL
  3. 看護師
  4. [ edit ]

ふぅーっ(ため息)

もう、なんだか…
小和田 夫妻、
双子の妹達、
(亡くなった祖父の江頭もでしたが)
皇族気取り、呆れています。

いつも、思うのは、
何故、いわく付き雅子さんが、皇室に入れたの?!
天皇両陛下、許したの?!
(嘆き)


「開かれた皇室」って、何?!

日本で最たる旧家のお宝も流失「Yahoo! オークション」
東宮家は増改築やり放題「小和田 部屋」

「締まりのない皇室」になってしまいましたね。

  1. 2014.10.11 (土) 10:08
  2. URL
  3. きく
  4. [ edit ]

ド庶民の私でも

父親の方は分家ですが八代
母親の方は本家なので十五代
さかのぼることができます
庶民ですらこうなのに…

どんなに親戚付き合いを避けても
戸籍をたどれば
当世必ず七~八代前までは判る、と
聞いたいとこが調べてみた結果です

プライベート以前に
戸籍が偽造されたものとしか
考えられません

学習院に先祖調べの宿題が
過去にあったとしても
ド庶民だってその気になれば
七~八代は判るということから
自分のルーツを知る機会として
差別でも何でもなく
出されていたのだと思います

在日の人でもその身分や出生に
誇りを持っている人は
通名は使わず隠しません
韓国ではこうなんだよ、とか
色々堂々と話して潔いです
その是非はともかく…

隠すというのは後ろめたいから
帰化以前に後ろめたいことが
あるからなんです
  1. 2014.10.13 (月) 15:01
  2. URL
  3. KUON
  4. [ edit ]

看護師さん。

返事が遅くなってしまいました。

私も、ふぅ~~~って思っています。過去へは戻れません。

そして、今をどうにかしようと、頑張って出来ることだってあるように思うのですが。

皇室の問題は、どうにもならないのですかね。開かれてなど、いませんね。

戦後、ある種の躁状態で、内親王の貴子さまを「おスタちゃん」とか、美智子さまを「ミッチー」とか言い囃した、あの時代も、今は昔の話で。ナルちゃん憲法とか。

ふぅ~~~って、ため息出ますね。
  1. 2014.10.13 (月) 15:32
  2. URL
  3. KUON
  4. [ edit ]

きく さん。

私も立派など庶民です。庶民って言葉はあまり好きでなく、普通に普通のヒト、といつもは思ってる。(笑)。家柄だのなんだの言う人が周囲に多くて、反動みたいに、そういうことを言いたがる親戚だのから遠ざかりたい気持ちを抱いていました。自由とか平等とかに心が寄っていた時代もあって。(笑)。

でも、そこそこ世が収まり始めた徳川の時代からは先祖も判るんだろうと思います。平家物語の世界に憧れたので平家が先祖ならいいなと思いましたが、源氏のようです。先祖話は聞いた話も沢山あるし、家紋がそうだったし、今でもそんなことばかり気にしてる面々も、名古屋に。私は、気の強い高慢ちきな武家の女の気質があるんじゃないかと自分を感じています。

生まれとかあれこれで人を判じるのは「下品」な気が、なんとなく長い間、していましたが、年とって、ここ数年、東宮さんのとこの話をじっと見ていると、小和田さんですか、あの家の気持ち悪さは、私が、そんなのどうでもいいじゃん、と気にして来なかったこと、に、強く表れているんだな、と、実感しました。やはり、違うんだな、と。見るたび知るたび、おかしい。違和感しか感じない。もう根っこのとこが違うって、本当にあるんだ、と、年とってから解る気がしました。遅いですね。

丸太にしがみついて日本海を渡って来た、とか、一部では小和田さんの先祖をそんな風に言います、そんなことが実際にできるか、あるか、見当もつかないけど。ブログを始めて、男性の書かれる記事を読む機会もできて、いわゆる背ノリ、拾い墓、なりすまし、など、未知だった世界にもいささかですが触れている最中です。

先祖がどうあろうと今が大切、と言われますし、それも一面でしょう、が、争えないものがあってそれは強いんだなあ、とも思います。

>その身分や出生に
誇りを持っている人は
通名は使わず隠しません
韓国ではこうなんだよ、とか
色々堂々と話して潔いです
その是非はともかく…

隠すというのは後ろめたいから
帰化以前に後ろめたいことが
あるからなんです<

それはそうなんだろうなあ、と、今は素直に思います。差別と区別の違いも感じる・・・区別は、あってしかるべきと強く考えています。私は、小和田さんと親しくなりたいとは、1ミリも望みません。両陛下は、ここまですごい違い方の人々を、見たことも無くて、強引に押されて、あれよあれよでやられてしまわれたかも、とも、考えています。

こんなことがあるとは。知りはじめるまでは、想像もしませんでした。

 管理者にだけ表示を許可する
 

trackback


ブログカウンター

プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・