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  1. 旅のこと、とか
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高野山にて。

和歌山県での用が早めに済んだので、高野山へ足を延ばして来ました。

奥之院・弘法大師御廟を目指す。

一の橋という所から、歩きます。ノルディック・ウォーキング用のストックを両手に握りしめて出発。片道、ゆっくりで1時間、頑張ります。長くは歩けないのです。

両側にお墓がいっぱい。ずうっと、お墓街道。

歩きはじめてすぐに伊達政宗(敬称は略させて頂きます)供養塔。薩摩島津家供養塔。上杉謙信、武田信玄・勝頼親子、石田三成も明智光秀もご近所さんです。

久しぶりの今日は快晴。真っ青な空、出来立ての真っ白な雲。気温も上がって来ていたのですが、道の両側はびっしりとお墓。1000年を優に超す樹齢の大木が繁っていて、空気は澄み渡り、木々の間をすり抜けて来る風は、本当にひんやりと、心においしい風。

標高800メートル。登って来る途中に、600数十メートルの標高が示され、それは、スカイツリーと同じとあって、なんだか微笑ましかったです。・・・そんなとこで、そんな、張り合うみたいな。。。解りやすくするため? とか。

大変、高いところにある場所なのは本当で、人力のみですべてを成していった昔の人々に、ふと思いを巡らし・・・。

創建が806年だとのことですが、そんなに長い間、動かないものがここにあって(墓石だし・・・)、そこへ詣でる人々の思いがここには積もっていて、・・・うまく言えませんが、揺るぎの無い、ここも、場所であって。

ひたすら、気持ちがいい。

絶えてしまった名家なのか苔むした古い墓石も何も、傾いたり転んでしまったりしているものもあります。

お地蔵さんがあちこちに、沢山、います。まっさらな赤い「あぶちゃん」を付けてもらっている地蔵さんもあり、土の上にへたり込んで顔も崩れそう、土に同化しそうに見えるお地蔵さんもいます。

眺めて通り過ぎてゆくのみです。諸行は無常なのであります。

初代市川団十郎の墓もあります。

当然、分骨されて、身近いあたりで懇ろにされているのでしょうが。海老蔵さんは、ここ、来た事あるのかな、などと、ミーハーな思いも抑えがたく。

加賀・前田百万石2代目・前田利長の廟は、きちんと手入れされていました。毛利家の墓、松平の名、あっちにもこっちにも。

今回も胸を衝かれたのは、結城秀康の廟。重要文化財に指定、とありながら、その姿は、あまりにも荒れ果て、朽ち果て・・・徳川家康の次男として生を受けたものの、松平になったり豊臣を名乗ったり最終的には、結城・・。
荒波に揺り転がされるかの生涯、たった三十歳での死・・・など。

見るのが辛いようなお墓でした。

浅野内匠頭の墓の傍らには、四十七士の墓。どちらも、見落とすほど小さいです。

芭蕉の句碑や、幼い子を亡くした母親の歌碑。無名の人も有名の人も、今はひとしくひっそりと石の下、です。

織田信長も豊臣秀吉も。帰り道には、阪神淡路大震災物故者慰霊碑にも黙祷を捧げました、親鸞聖人のお墓は階段が急でお参りを断念しましたが、高野山には、法然上人も眠っている。

痛い痛いとむずかる足を、もう少しねちょっとね、と、言い聞かせては前へ進み、やがて。

御廟橋の手前へ到達。はじめに、先の橋の手前で、ココロの雑念を払い帽子を取って拝をして、渡った橋と同じく。

弘法太子・空海が、その場で即身仏となられた場所・・・

高野山の人々や真言宗の僧侶の多くは、空海が死んだと言うことは半ばタブーとなっており、高野山奥の院の霊廟において現在も空海が禅定を続けていると信じている。奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため一般には不明のままである。

が、つまり、高野山奥の院弘法大師御廟、であるのですが(間違っているといけないので、後でもう一度調べ直します)、そこへ向かって行く人々の群から、ひゅいと抜け出て。その、左側の地へ。

いわば結界中の結界の内にある弘法大師御廟のすぐ横、新たな結界かと思われる小さな橋・・・その下を流れる小さな川=玉川=の水は、えも言えず澄みきって清らかなものでした。

その橋の奥に「歴代天皇陵」

と、そっけなく記された場所があります。一の橋に入る前にもらった数枚の簡単なガイドマップの、あるものには記され、あるものには天皇陵の記載はありませんでした。

静謐な、小さな御陵でした。宮内庁管轄のお墓恒例の木板が立てられていて、そこに、魚鳥を取るな、中へ立ち入るな。など書いてあります。

柵の向こうの、およそ1メートルほどの高さの小高い塚の上に、宝匡印塔が載せられている(わたしには)珍しい形の「御陵」に、拝をしました。弘法さんの御廟の方には、ひしめくほどの人々が参っていても、ここへ拝をしているのは、その時は私だけ。

霊元天皇の「御歯塔」だといいます。

歯?。

この天皇と共に、中御門・後花園・桜町天皇の御髪燈や桃園天皇などの御髪爪燈の九燈があり、それぞれ小円墳を築いて、上に宝篋印塔をたてている、ということなのだそうで。歯や爪や髪が祀られていることを、聞いたことはあっても、詳しく知ったのは今日が初めてです。

霊元天皇は、112代天皇、26年間の御在位だったそうです。

父は後水尾天皇 、母は藤原国子 、鷹司(藤原)房子 を中宮とされた。典侍の中に坊城(藤原)房子の名もみつけ、意味も無く、ふううん、と感じ入ってしまいました。繋がってる・・・。

退位の後の長い天皇であらせられ、歌をよくし、能書家でもあられた。

ご陵墓は、京都、東山の、先に、悠仁親王殿下が、ご両親に伴われてご参拝になられた、泉涌寺、です。


泉涌寺にも、行きました。

今日は今日で、自分なりの気持ちを籠めて、拝を長く、しました。

「じゅそ」に近い思いを、心の中で形にしたと、思います。

拝の後、もう一度正面から向き合った柵の内部、幾つもの塔の上に、白い霧のような淡い雲のようなものがかかっていました。

ご皇室が、浄らなものに、戻りますように。


・・・コメントへのお返事は、明日、させていただきます。









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  1. 2014.09.15 (月) 01:45
  2. URL
  3. 主婦
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そう言えば、

悠仁親王のお印が、高野槙でしたね!!

紀子妃殿下が、和歌山、、、紀州にゆかりがお有りで、
悠仁様が、高野山にゆかりがお有りで、

もしかしたら、何かのパワーに引き寄せられて、
高野山を訪れられたのでしょうか。。。

  1. 2014.09.15 (月) 05:42
  2. URL
  3. ローズマリー
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KUONさま
弘法大師空海様が、中国からお帰りになる時に、密教を広めるための廟を何処に建てるべきかと、お船から東の空に"三鈷"をお投げになりました。"三鈷"は空を飛び、高野山の松の木に止まり光を放っていたそうです。その松の木は"三鈷の松"と呼ばれ、不思議なことに三本の松葉です。
高野山はよい処でございましょう!わたくしも、時々参ります。バスのツアーに申し込んで、ふらりと行くこともあります。このところ、KUON様のことやお大師様のことなど、ふと考えておりましたので、御記事嬉しかったです。 ありがとうございました。
  1. 2014.09.17 (水) 15:37
  2. URL
  3. KUON
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主婦さん。

そうなんですね、悠仁さまのお印が高野槙。あちこちのお店で、柿と並べて売っていました。帰り道の、一番最後の店で求めて帰りました。

お墓に高野槙を供えることもあります。姑は、華やかな「仏花」がいいと言い、青春時代は戦争の影響でおしゃれも叶わず色彩に乏しい日々だったことを考えると、よく解りますので、両方にする、とか。(笑)。

本当に空気の澄んだ霊場で、気持ちのいい数時間を過ごさせてもらいました。仕事で、近くまで、早朝から走って行っていたのでした。

  1. 2014.09.17 (水) 15:47
  2. URL
  3. KUON
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ローズマリーさん。

少しお久しぶりです。(笑)。私のことなども、考えて下さっていたとは、ありがとうございます。

高野山は、三度目でした。あのような山の上の嶮しい高い所に、どうやって、と、そのたびに思います。月並みですが、昔の方、そして、信念の方の徹しようはすごいものだなあ、と、ただただ感嘆します。ありがたいことだとも。

この記事で、墓と供養塔と廟と陵との区分を、もう一度確かめられたらいかが、と、ご指摘を下さった方があり、なるほどそうだな、と、考えています。お勉強します。(笑)。

弘法大師の「三銛」の話は、確かには知っていませんでした、よく解りました、ありがとうございます。

またぜひ、行きたいです。


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KUONの久遠

Author:KUONの久遠
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四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

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