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よく切れる方の裁ちばさみで。


小学校の3年生の時に腎臓の病気になり、学校を休んで一人で寝ていた。

医者が言ったほどには長くかからず、やがて復学できたが、妊娠するたび蛋白の反応が強く出るのは不安だったし、今も無理するとムクむ。顔がまん丸い成分は「肉」のみならず、浮腫のせいもある。と、しておきたい気分もある。

毎日、朝は目玉焼きとごはん、昼は近くの公設市場の煮物屋さんで買って来るポテトサラダをはさんだサンドイッチ、夜には焼き海苔に醤油をつけないで、ごはんと一緒に食べていた。飽きもせず同じものを食べていた。母は、夜、遅くなることがよくあった。

頼まれれば人の世話をしに行っていた。病人の付添をしていることもあった。無報酬である。たまにはいくらか頂いていたかも知れないが・・タダで人に何かしてもらうの、イヤな人もあるでしょう。そうして得たお金も、宗教の方へ「供え」ていた。

午前中に大通りの向こうの医院まで歩いて行き、静脈注射を打ってもらっていた。大柄な、色の白い女医さんは、いつも私の母のことを怒っていた。子どもを放っておいて何をやっとるだ、と、名古屋弁で怒っていた。

「たあけらしい、人のこともでゃあじ(大事)だけんど、自分とこの子、ほったらきゃあて(放ったらかして)やっとる、いうのは、たあけ(ばか)だわ」

毎度必ず「たあけ」と言われ、時に「ど」が付いて「どたあけ」になる。女医さんはストレートに口に出していたが、それは近所の住人の思いでもあっただろう。医院からの帰途、ぽくぽく歩いていて、お母ちゃんは何やっとるの、と、声をかけられたことも何度もあった。笑ってやり過ごすすべを覚えた。

私は、どうでもよかった。一人でもよかった。淋しいと感じない子どもになっていたのだと思う。

一人の方がよかった。本を読んでいた、ずっと。

母は、私が5歳の時に夫(私の父)、父親(祖父)長兄(伯父)を、半年の間に亡くし、その前から入信していた宗教に一気にのめり込んだ。

現在の「カルト」のいずれかではない。新規の信者を獲得する意欲も失せているような、当初の形式に縛られているのかしがみついているのか、建物だけは聳えつつ、内面から静かに確実に滅びていっているような新興宗教である。
熱を帯びることから遠く離れて、腐敗臭すら発し得ない教団と化しているその宗教団体から、今も誘いが来る。

誰が読むんだこれを、という、50年前の文章をそのままに、届く。

ようやくそれを、痛みを覚えず捨て去ることができるようになった。

こんな風に斜めから視てはいけないのだと、長く自分を責めていた。若い頃は特に、疑問が湧くたび膨れるたびに、自分を責めていた。信じ切れない自分が悪いと思っていた。罰はあると怯えた。



ともあれ。

遠い日母は、苦しかったのだろう。一人では立っていられなかったのだろう。

田舎の薬屋の末っ子に生まれて可愛がられて育って負けん気で生きて。村で初めて女でそこを目指したと自慢だった学校を出て、顔も知らずに気のいいお人よしと呼ばれた夫(父)と結婚して、かかあ天下を取った。夫をやりこめる妻であった過去は、母にとっては誇らしい事実だったようだ。私の2人の姉は今も、早死にした父親をばかり恋うている。母が逝って10年にもなる、今も。

頑張り屋の母だった。

30代の初めに3人目の子である長男を生後3日で亡くし。その子を育てるに費やすはずだった時間をくれと夫に談判して、洋裁学校へ通い始めた、やがて教え始めた。姑(祖母)とは仲が悪かったと聞いている。祖母は、私を見ないで死んでいるが、のったりと昔のままの名古屋の言葉を使う、足の小さな、小さな足で生きて行けるような生涯を送った人だったという。

母は。古い家の跡取りの妻であったのが、周囲の猛烈な反対を押し切り住んでいた家も、空襲で焼け残っていた貸し家も(焼かれた家もあったらしい、その跡地は終戦後、うやむやに住み着かれてそのままになったとか)手放し、売却代金も含めた現金も父の遺したサイケンとやらも何もかも、その宗教のセンセイに託し、3人の娘の末っ子である私だけを手元に残して「教会」に住み込んでしまった。そこの主が大きな役を任されて、留守を母に任せて引き上げてしまった後に。

歳の離れた長姉は、父の死んだ時すでに高校の寮に入っていたのだが、次姉は小学校の6年生。亡父の妹(叔母)が、兄さまが遺した姪(次姉)を、わけのわからない人の出入りの多い教会なんかに行かせるに忍びないと、有無をいわさず引き取った、で、私は、母と2人の母子家庭になった。環境は激変した。

母の実家は、母のしたことを苦く思いつつも、目を瞑って援助を続けたらしい。教会に住んで、家賃は不要だったが、必要経費や母子の生活費を出す者はいない。幾らもらって住み込み女中になったかと訊ねられれば、母は、1円ももらっとりません、と、きっぱり答えていた。

田舎の伯父ちゃんがいろいろ、運んでくれるもんなあ、と、私は傍で聞いていた。それと母には、父の年金がおりていた。

私は3畳の部屋をもらっており、そこへ潜って生きていた。母が私に目を停めることはほとんど無かった。人のことをしていれば、自分の子は良い子に育つ。それが母の信念だったようだ。私は、良い子かどうかなど考えず、放置状態の子として、勝手に生きていた。

自分としては悪くない日々だった。食べることも自分で簡単なものを作って出来たし、母はお小遣いは欠かさず置いて出ていた。お金があればなんとかなる、との考えだったか。

腎臓の病気になるまで、治ったあと、買い食い三昧な私ではあった。

市場が近くにあったので。10円硬貨があれば子どもの望みはけっこう叶えられた。私は、オヤツとも呼べないおやつを買い込んで、貸本屋から借りて来た本を、汚さないようには注意しながら(貸本屋のオバサンは、本を汚すことには厳しい目を向けていた)、もさもさと食べ物を貪った。

そのままに記すが、イカのゲソの天ぷら、コロッケ、アンコを丸めて半透明の葛をかけたもの、揚げたねじり菓子。やはり市場内のお好み焼き屋の、常連客でもあった。

ソースの焦げる匂い、鉄板の上で跳ねるちょっとだけの量のイカ、今の豚肉より何十倍も美味しかった気のする、メリケン粉に乗せられる前の豚肉の焼ける、じゅうううっという音。店主は、ぽっちゃりとした若そうな「おねえさん」で、私にとても優しい人だった。時々、年取った男の人が、何も食べずに店の隅っこの丸椅子に座っていて、その人は「お姉さん」の「ナニ」だとか、大人たちの話から、何となく知って行った。

豪勢に(!)買い食いしている私に、お母さんはなんでお金を持っているの、と聞かれたことがあり、そのオバサンは、母が教会のお金をチョロまかして、子どもに贅沢をさせている、と感じているのだろうな。など、私には、わかったのだ。

どう言いようも無く黙っていたが、同じ分団で集団登校をする誰もが、よその大人に、そういうことを問われていることは無い、とも、私は、わかっていた気がする。

お父さんがいなくて、教会に住んでいて、お母さんはしゃきしゃきと出歩いている、ので。だから、聞かれてしまうのだろうと。

私にはどうすることも出来ないことだった。

本ばかり読んでいた。腎臓の病気以後、体も弱くなっていた。


困ったのは、近所に住む同じ宗教を信じる「オバサン」が、夜、酔っ払っては訪れて来るようになったことだ。

酔っ払って来る、あるいは来て、飲んで、酔っ払う。そして母を相手に、ぐだぐだと文句を言い始め、時に暴れ出し、時に母を殴って肋骨を折って入院させ、耳も殴って長く通院させ、私の(自分の息子より「5」の多い)通知表を引き破って練炭火鉢にかざして燃やし、そして教科書を持ち去って返さなかった。

オバサンの夫は、長く肺結核で入院していた。オバサンは女の身で、夫の代わりに建具屋を切りまわさなければならなかった。住み込みの「若い衆」が4人おり、私より幾つか年上の息子が2人いた。

オバサンは、仕事が済むとご飯を作って食べさせなければならなかった。くったくたに疲れた(のだろう)、で、ビールを飲む。飲んで酔って来る。アタマの中はさまざまな悩みで満タンだ。入院費用のこと、給料のこと、成績の悪い子どものこと。金策がうまく行かない時もあったらしい。手形決済とかって、大変だったらしい。

母が、泣きつかれてお金を融通した、何度も貸してあげた。返すときにオバサンは、なぜか、腹が立ったらしい。返したくないこともあったらしい。返さないまま次を頼む時、ココロが傷ついたらしい。オバサンは斜め向かいに住む信者であった、だから、教会へは行く権利があると断じ、怒りやなんやで膨れ上がった体を、運んで来るようになった。

来れば、母は、悩みの無い顔して、娘(私)の服など、しゃーっとミシンで縫っている。自分の苦労なんか、こいつには解っておらん。

オバサンは暴れた。飲酒中にも微かに残っていた「理性」が、オバサンに知らせていたのだろう、若い衆の前で醜態をさらしてはならぬ、わが子の目に酔っぱらいの姿を見せてはならぬ。

・・・母は、人あしらいのうまくない人でした。

父がいた間にも、正しい人でした、許さない人でした。おそらくそうだったのでしょう、オバサンに対しても、そうでした。

ごちゃぐちゃぶつぶつ言いたがる、初めは聞いて欲しい、から始まる、飲んだオバサンの言うことに、背中をまっすぐに立てて伸ばして、反論していました。時に説教を。オバサンが求めていたのは「正しさ」でなく、共感、だったでしょう。

解って、だったでしょう。ハラハラと私は、オバサンと母の、噛み合わない場面の、その場に、黙って同席しておりました。

突然オバサンは雄叫びを挙げ、コップを投げる。母を叩く・・・母はとりあえず逃げる、私にも声をかける

「○○子、逃げやあ~~~」

絶叫である日もありました。オバサンは私を、なじることはあっても、していたドリルをぶん投げることはあっても、殴りはしませんでした。私はオバサンに水を汲んで来て、差し出します。

黙って飲む日もあれば、ぷいっと顔をそむける時もあれば、いきなり笑顔を向けて。

「すまんな」

と言った日もありました。オバサンを、好きとは思えなかった。

爆発しないタイプのグチグチグチ・・・が、果てしなく続く夜もあり、癇性に目を据えて黙りこくっている母の前で、どうじゃこうじゃと弱気にごちゃ言うてるオバサン。出て行ってろと言われて、建物と板塀の間に身をひそめて、ぼ~~っと、している時もあった。

板塀は、互い違いに板の組まれたタイプで、隙間から外がよく見えます。

よその家では、平和に灯りが灯っていて、一緒に学校へ行っているレイコちゃんが、きゃはは、と笑っている声なども届きます。私は一人で、そこにいました。

感情は、動いていたのか、どうだったか。

母はもっと、ひとの気持ちがわかればいいのに、と、はっきり考えていた記憶はあります。

オバサンなんか、どうかなればいいのに、とも、思った。思いながら、自分は、オバサンの性格の方だな、とも考えは跳び。

寒かった。冬は寒かったし、夏は暑く、蚊にさされてぽこぽこになった。

刀、の思い出を書いて、今日は止めることにします。

わが家には日本刀がありました。届けてあったかどうか、昭和30年代の記憶です。

本物の日本刀があった。絶対に触ってはいけないと言われていて、隠してありました。一対と言うかどういうか、長いのと短いのがありました。

それをある日、全身、酔いと憤怒で真っ赤になったオバサンが、出せ、と迫った。

日本刀どこだ、知っているなら出せ、と。母はあの日は、逃げて行っていた気がします。

知らない、と、私は答えた。知っていたけど、そう言いました。

オバサンの顔が、赤く膨れ上がって、ダッと足は畳を蹴って、中庭に向いた硝子戸の内側にいつも置いてあるミシンのあたりから、掴んで来た。裁ちばさみを。

私の肩を後ろからがしっと抱え込んでオバサンは言いました。ころすぞ、と。

おばさんの右手にある、刃先が開いてそれが私の右の首筋をはさむ形になっている、裁ちばさみが、よく切れる方だ、と私は、思いました。2つある長い方が、切れる方。短い方はナマクラ。

やってみやあ。名古屋弁で私は、考えた気がするのです。6年生でした。

やってみやええがね。そしたら、あんただって、ひとごろしだ。かわいいこどもにだってあえんわ。

やってみやあ。

オバサンが、やってみやあせんかったので(おやりにならなかったので)私は、こうして、昔のことを思い出して、書いたりしています。、


・・・読み返してみると、途中から文体が「・・・だ、・・・た」調から「です、ます」調に、変わってしまっています。

なんとなく、書きたくなって書きました、このままとしておきます。

初めは「アンネの日記」について書くつもり、前振りとして子ども時代に踏み込んだのでしたが。

「アンネの日記」は、小学校を卒業した私が、母と離れて養父のところへ行く、と定まった時に、持って行く本ナンバーワンとして、以後、帰ることの無かった母との住まいから持ち出した本です。




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KUONさんの子供時代垣間見させていただきました。
日頃、ブログを読ませていただきながら、KUONさんってどのような人生を過ごしてきた方なのだろうかと思っておりましたが
なかなか、なかなか。
一言で言ってしまえば「壮絶」なのでしょうが、そんなありきたりな言葉では済ませたくない子供時代を過ごされたのですね。
小学3年生で一人で病院へ通う件、涙が出そうになりました。
でも、子供をほっぽり出して他人様の世話に奔走するお母様の気持ちもなんかわかる気がする。
そうすることが巡り巡って子供のためになるんだと本気で信じ込んでいらしたのでしょう。
一見、常識では?と思われることも本人がそれを頑なに善しとしている点、我が亡き母にも通じるところがあるわと思いながら読ませていただきました。
私の母も「子供を可愛がるとロクなものにはならない」という信念の持ち主でした。
彼女のなかでは可愛がる=甘やかすっていう認識だったのだと思います。
そんなわけで、私も可愛がられたという記憶があまりありません。
私も小学校1年の頃から風邪をひいた時など近所の病院に一人で行ってました。
そんなことなども思い出し
両親の仲も良くはなかったし、他にも色々複雑な事情もあり、
普通の子供がしないような気苦労もありましたが
あーでも、さすがに私、殺されかかったことはなかったです。
その近所のおばさんはその後どうなったのでせう?
とにもかくにも小さい頃のKUONさん、よくぞ無事に生き抜いてださってありがとうございます。
そのおかげで、今こうやってKUONさんのブログにお邪魔させていただけるのですもの。

  • 2014.02.27(Thu)
  • メゾピアノ
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泣きました

淋しさや痛みを感じない様に過ごされた少女のKUONさんを想い、またそれが『自分を守る事』だったのかと思い…(泣)現代の親子関係はともすれば、友達感覚の様ですが、時代を遡れば戦時中に育った親がいて自分は高度成長期に家庭を持ち、それまでの価値観とか社会の変化で我が子に対しても接して方がわからない所もあったのかなと私の母親を思います(健在ですが)『アンネの日記』誕生日は本がプレゼントの親が小5の時にくれました、あと記憶にある本は小3の時の『ハリスおばさんパリに行く』…今思えば、本を読む母を見た事もないのに何故それを選んだのか?聞いても憶えてないでしょうが(笑)『小説ジュニア』中学のおませな同級生が持っててドキドキしながら読んだのを覚えてます。刺激の強いのが当たり前の今ではどうって事ないでしょうが当時は…ねぇ。携帯も無いゲームも無いあの頃は恋をするのもスリリングでした(笑)次男坊は携帯持たせてないので、学校の廊下でお喋りして時々一緒に下校するという母親としては微笑ましい恋バナ聞かせてくれます。
  • 2014.02.27(Thu)
  • ぽちゃこ
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本当の自分を取り戻して!

KUONさん、お辛い子供時代を過ごされましたね。小さい時に味わった辛さは、なかなか昇華させられないですよね。でも、KUONさんが今、昔のことを綴れるようになったのは、小さい頃の自分に与えられた悪い影響から逃れる準備を始められたからではないでしょうか?小さい頃のご自分に、今、大人になったKUONさんから、その時本当に掛けてもらう必要のあった言葉を掛けてあげてください。自分を一番大切にできるのは、その人自身です。どうか、自分で自分を育て直して、本当のご自分を引き出してあげてください。自分の本当の気持ちを一番大事にしてあげてください。そうして、KUONさんの望まれる本当の幸せを実現してください。なにもかも、そのために必要だったと思える幸せが、KUONさんに訪れますように。

メゾピアノさん。

自分のことを晒すのは、自分は平気ですが、読まされる方はどうだろうなあ、と。今までも少しずつは書いたりもしましたけど。

この時代、楽しいことだってあったのに、この方向で書くと、こんな風になります。今は、どうせならもっともっと、自分の記録として、書いちゃえ、という気もあります。先、そんな短くも無いだろうが、今が一番若いので、やれるうちに、と。

メゾピアノさんも、鬱屈した思いをお持ちになってお育ちになったのですか。

子は、親も環境もえらべませんからね。

・・・あのオバサンは、二人の息子さんの、可愛くてたまらなかった次男さんに先立たれて。長男さんの家族と、最後まで過ごされましたが、気弱になっておられて、何年振りかで会ったりすると、元気か頑張ってるか、と、声をかけて下さいました。私の結婚の時には、過分なお祝いを下さり、とまどっていると、詫びだから取っておいて欲しい、と。

結局、そのお金で、北海道民芸の整理たんすを買わせてもらい、それだけは当時から今に持ち続けている家具として、使っています。頑丈なんです、それ。ご主人は戦地で結核を患って帰られ、大変だったと思います。

続けて鬱陶しい話も書くと思いますが、読んでいただけると嬉しいです。
  • 2014.03.01(Sat)
  • KUON
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内緒コメントさま。

私も、書かれていること読んで、なんとも。

簡単に感想を書かせてもらいますが、なんとも・・・感想になってませんやん・・・。

吐き出して来て下さって。ありがとうございます。

そして、今は結果的に、すてきで、よかったな、と思います! 。
  • 2014.03.01(Sat)
  • KUON
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ぽちゃこ さん。

鬱陶しい話を、どうも・・・まだ書くんだな、続きを、これが笑。

選んだわけではないが、若い頃はなんやかんやあって。…選んだのかなあ、無意識に。私が、泣いたりすがったりしたら、無かったこともあった気がします。泣かないから憎いとか、いわれたこともあり。そう言われても、そいつの前では絶対泣けない、泣かない。可愛げの無い、強情な子でした。

可愛げは、きっと今も無いが、家族は「可愛い」と言ってくれます。極楽や~。

「小説ジュニア」では、編集者にも先輩の作家さんにもかわいがってもらいました。川上ソークンさんなど、そのうち、違う方面の「大家」になられましたが、心優しい、ほんとに優しい方でした。いろんなことあったな。笑。マル秘の話もあります、面白いこともいっぱいあった若きKUONさんでした。
  • 2014.03.01(Sat)
  • KUON
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まめはな さん。

初めまして・・・ですね、どうもありがとうございます。

いわゆる不幸自慢、みたいになりかねない話ですが、ふと、書きたくなって。

ご心配、激励、ありがたいですが、今、私はとっても幸せで、自分として生きていられる実感もあります。本当の自分とも考えますので、どうぞ、私に対するご心配は、お心から離していただきますように・・・。

お優しいお気持ち、ありがとうございました。まめはな さんも、お幸せにお元気でお暮らし下さいませ。
  • 2014.03.01(Sat)
  • KUON
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神戸、行きます!行けます。ふぶきさんのオフ会は会議室を10時~17時借りて盛り上がったそうです。皆さんと一緒に異人館巡りして『サターンの椅子』でお願い事してランチクルーズとかも楽しそう♪色んな話で盛り上がりそうですね、わくわくしちゃいます(笑)
  • 2014.03.02(Sun)
  • ぽちゃこ
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ぽちゃこ さん。

そうなんですかい?。

会議室。ふ~ん、そういう手もあるのか…どうしたらいいか、考えねばね。そーなると、昼飯とかいろいろ、どういう手ハズになるのかの?。

神戸なら、なんとかなるのか・・・いいね。好きな町です、大好き。
  • 2014.03.03(Mon)
  • KUON
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Author:KUONの久遠
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四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

 海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
 夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

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