FC2ブログ

KUONのブログへようこそ。

返事の中までKUONです。

  1. 怒っていること
  2. tb: 0
  3. cm: 2
  4. [ edit ]

無理か。

「両陛下が10月に熊本県へ 水俣初訪問、慰霊碑に供花

>>>宮内庁は26日、天皇、皇后両陛下が全国豊かな海づくり大会の式典出席などのため、
10月26~28日の日程で熊本県を訪問されると発表した。水俣病発生の地で、
稚魚の放流会場となる水俣市を初めて訪れ、水俣病慰霊の碑に供花したり、市立水俣病
資料館で患者らから話を聞いたりする予定。

宮内庁によると、26日午後に特別機で熊本県入り。合志市の国立ハンセン病療養所 「菊池恵楓園」を訪れ、入所者を慰問。全国13カ所の国立療養所のうち11カ所目の 訪問となる。

27日は水俣市のエコパーク水俣で稚魚を放流。水俣病資料館では患者の現状などの
話を聞き、患者や家族と懇談する。<<

とのことです。

水俣病患者の代表の方たちが
「是非、両殿下が水俣にいらして患者に会って欲しい
患者たちの励みになると思うから」

と、以前から言っておられるのですが、東宮夫婦は腰をあげず。。

秋篠宮両殿下は水俣市にも訪問して献花されているし、今年6月には水俣市と交流があり同じ被害にあわれたスロベニアイドリア市を訪問しておられます。

熊本県水俣市。不知火湾に面した豊かだった漁業の村の、その海へ無制限に排出された有機水銀がもたらした、国内最大最悪の公害病の一つが、水俣病です。

水俣病と、雅子妃の実家・小和田家(正確には母方の実家の江頭家)との関わりについて引用しようとすると、大変なことになります。大変はイヤではないが、小さな本を一冊、ここで書くわけに行かず、解っていただきやすいあたりを、引用して、一緒にフガーっと怒っていただけたらなあ、と、考えます。

なお、水俣病は過去の問題、病気、災害、などでなく、継続した問題でもある。

今年、東宮夫婦が強硬決行した「オランダ行き」。その当日に、水俣病の被害者の方々への、裁判所からの答えが得ていたのでした。

東宮妃・雅子さまは、小和田恒氏と、旧姓・江頭優美子氏との間の長女です。優美子氏は、以下の江頭豊の一人娘。


以下、できればお読みくださいね。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

江頭豊の責任:

1.水俣病の原因が工場にあると知りながら稼働し続けた。

水俣病の原因がアセトアルデヒドの製造工程から出る有機水銀である事は、チッソ社内では周知の事実であったし、熊本大学により、それが証明されても、設備を稼働し続けた。水俣病だけだと良く解らないが、新潟水俣病の年表を加えてみると、非常に良く理解できるのだが、江頭豊が社長に就任した翌月、1965・01・10、新潟水俣病の発生企業、昭和電工がアセトアルデヒドの生産を停止、製造工程図は消却、プラントは撤去してしまった。これは昭和電工が「水俣病の発生原因はアセトアルデヒドのプラントから出る有機水銀である」と認識していた事を示している。しかし、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド製造設備の運転を停止したのは1968・05・18であり、新潟の水俣病患者が昭和電工を新潟地方裁判所に告訴し、「公害対策基本法」が成立した翌年であり、昭和電工がプラントを撤去、製造工程図を消却してから3年半後だった。

2.患者や家族に謝罪したが補償に応じようとはしなかった。

水俣病が公害病の認定を受け、江頭社長は1968・09・27から患者家族に詫びて回るが、具体的な補償案を出さないため、厚生省が調停にのりだした(1969・02)のである。しかし、厚生省は患者側に「この補償処理委員会の結論には一切異議なく従う」との確約書提出を求め、患者側は一任派と自主交渉派に分裂した。困窮のどん底に置かれている患者と家族には、卑劣極まりない態度と言われてもやむを得ないだろう。

石牟礼道子『苦界浄土』あとがき:チッソ側はゼロ回答をもってこれにうそぶいている。第三者機関あっせんに、再び互助会が依頼した寺本熊本県知事に、江頭社長は「チッソとしては34年暮れの見舞金契約は有効、補償交渉はチッソの好意で行われており・・・「公正な審判に服する」というならとにかく、恐るべき厚顔無恥、わたくしたちにこの上まだ《ことば》がありうるであろうか、とわたくしは思い沈む。 

3.謝罪した後も悪質なデマを流し患者や家族を冒涜した。

チッソ水俣支社・東平総務部長がスウェーデンのジャーナリストに答えている「端的にいうなら彼らは海に浮かんだ死んだ魚を食べたんですよ。しかし、そんなことを裁判にもちだすのは難しいです。一般の人に相手側について悪い印象を抱かせることになります。まるで動物ででもあるかのようにね。58年以後の病気の原因が、死んだ魚を食ったためなのか、水銀のためか解らんのですよ。58年以後に発病した人に限って言えば、それで補償金を貰えるなんて、有り難く思って貰いたいものです」(原田正純 『水俣病』p218、1971・07の話、詳しくは水俣病事件)、自らの責任をごまかし、患者や家族に対するこの侮辱、何たる傲慢であろうか。

4.患者や報道カメラマンを暴力集団に襲撃させた。 (会長時代)

千葉県の五井工場に抗議に訪れた「自主交渉派」の水俣病の被害者やユージン・スミスら取材陣をチッソは暴力集団に襲わせた(1972・01・07)、ユージン・スミスは片目を失明するほどの重傷を負わされたのに告訴せず、時間とエネルギーを写真に向け、6年後に負傷からの後遺症が元になり、死亡した・・・スミスの志とそれを暴力で封じようとした人達の心根、対照的である。


江頭豊と小和田家:

水俣病は行政(通産省)の関与も強く、厚生省より通産省の方に力があったため、厚生省の意向もなかなか通じなかった。(*1958・06 国会で厚生省環境衛生部長が水俣病はチッソの排水が原因と答弁、通産省にチッソに対する指導を要請するが、拒否されてしまった)

江頭豊が社長に就任した1964年当時の日本興業銀行と言えば「飛ぶ取り落とす」勢いだったと思われる。それが大問題を抱えた企業の社長になると言うのは通常なら考えられず、余程の理由があったに違いないと思われる。

1.江頭豊はエリート軍人(江頭安太郎・海軍中将)の息子、妻・寿々子もエリート軍人(山屋
  他人・海軍大将&連合艦隊司令長官)の末娘だ。患者や家族との交渉には精神力が要
  求されるし、家に訪問されるかも判らないから、これ以上の適任はない。

2.娘婿は外務省のエリートだ、官僚との折衝もやりやすいだろう。
  小和田恒は後に外務次官になるが、入省後7~8年すれば出世するのは大体判る。

日本興業銀行としては、これ以上の適任はなく、通産省も(国家レベルか?)バックアップしただろう事は想像できる、これをうかがわせるのは江頭豊の社長就任、退任にあわせた小和田恒の動きであり、この↓ようになる。

1963・12・09 小和田恒夫妻に長女生まれる。母・優美子25、父・恒31
1964・12    江頭豊、新日本窒素社長に就任する。
1965 夏   小和田恒、モスクワに赴任する。
1968 夏    小和田恒、ワシントンに赴任する。
1970・11・28 株主総会に患者が乗り込む。
1971・02    小和田恒、海外勤務から帰国する。
1971・07    江頭豊、会長に退任する。(小和田恒の家族と同居する?)
1976      この頃、小和田恒は福田赳夫内閣総理大臣の秘書官だった。

何と言う「偶然の一致?」だろうか、江頭豊の社長就任のほぼ半年後、小和田恒はモスクワに赴任し、その後ワシントンに赴任、71年2月に帰国するや、5ヶ月後の7月(*この間に新築したのだろうか?)には、江頭豊は会長に退任、その後、娘の家族と同居し始めるのである。


江頭・小和田家=ユージン・スミス=上村智子をめぐる因縁?
2004・08になり「SilkRoad/4444」でgoogleをかけて見ると、「あるスレッド」のログに「ちなみに雅子妃のお輿入れをしたのはセンコー運輸(昔の日窒の運送部)」と言う投稿(No-295)があった。

センコー(株)の「沿革」には、1946(S21)年7月設立とされているが、設立の経緯は記載されていない、宮崎県を基盤にして生まれ発展したと書いてある。四季報を見るとセンコー(株)<9069>の大株主は、旭化成(9・5%)、積水化学(6・0)、積水ハウスであり、旭化成も積水化学も日本窒素肥料から生まれた企業(*積水化学<4204>の大株主に旭化成(5・7%)が入っているので旭化成が兄貴分になる?)である。四季報の株主構成から見れば、センコー(株)の発祥は「日本窒素肥料」関連の運輸を担当していた部門が独立した可能性が高いと考えられた。

センコー(株)の旧社名は「扇興運輸」だと「沿革」にあるため、googleで「扇興運輸*水俣」を検索すると、2個hitした。1個は「水俣病患者とともに-日吉フミ子の闘いの記録」(a)だ、もうひとつは国会の議事録「参議院-会議録-第041回」(b)である。

a)から解ったのは、1)上村智子の父親・上村好夫は智子が生まれた(1956(S31)年←智子の水俣病患者認定はS38年)の翌年(S32)に「扇興運輸」に就職し、1994(H06)年(60歳=定年?)まで勤務していた、と言うことである。

b)からは、1962(S37)の参議院「社会労働委員会」において「新日本窒素株式会社における労働争議に関する件」が、議論されているが、ここで解ることは、2)警察庁警備局長・三輪良雄が、扇興運輸を「新日本窒素=現・チッソ」の「下請け業者」であるとしている。また、3)最大時には熊本県警の警察官(1800名)の約2/3(1180名)が動員され、鹿児島県と宮崎県にも応援(200名)を依頼するような新日本窒素(株)の大規模な労働争議があったが、港湾労働者が会社側に立ち、ピケラインを突破した、4)扇興運輸の食堂と事務所は100名の警察官が宿泊できるほど広かった、ことなどが理解できる。

警察庁警備局長・三輪良雄の答弁で興味があるのは、鹿児島県と、宮崎県に応援を依頼していることである。単に熊本県の警察官の人員不足を補うためのものか、会社側が子会社・扇興運輸の社員をストライキ対策に使っていることを受けたものなのか、考えさせられる。

患者達やユージン・スミスに暴力をふるった者達の正体は?
自主交渉派の患者達やユージン・スミスを襲撃した集団については、社員、暴力団、右翼などの説があるが、チッソ経営陣の意を汲んでいるのは明かである。しかし、立場が異なるとは言え、同じ水俣に住む(悲惨な)患者達に暴力を振るう社員や暴力集団がそんなに多数いるだろうか?と言う疑問を持つ。また、その「暴力集団」は千葉県の五井工場にも現れ、ユージン・スミスと患者が襲われている。少し考えると、1)暴力を振るったのが社員なら顔を知られているし、表面化すれば大問題になる、2)社外の右翼や暴力集団なら多年に渡り多人数を確保しておく費用が膨大になる、3)そのような社外の暴力集団を千葉県まで行かせるとなると費用などが大変だ・・・これらの問題をどのように解決したのかが私の疑問だった。しかし、チッソの工場の間を海上や陸路を使い自由に行き交い、水俣市に住む患者達に顔を知られていない、かつ、会社側が意のままに動かせる集団がいたことを知り、疑問が解けた(特に海上を行き来する集団は陸にあがる時間が少ないため、例え事件を起こしても警察の捜査も及びにくいと思う)ように感じたのだが、検証したわけではないため何とも言えないのは言うまでもない。


慚愧の日々を送った人達

1.後任社長は「全責任は私にある」と言い、読経の日々を送った
水俣病問題において・・・全責任は社長にあると言い切ったのは、島田社長がはじめてではないだろうか。島田賢一は、昭和46年社長になり、46年10月の川本輝夫たちへの水俣病認定に際し、水俣病の疑いのある環境庁救済認定患者と水俣病認定患者は、おのずからちがう存在であって、前者への補償の義務なしと突っぱねた当事者になった。しかし、とにもかくにもチッソが、川本輝夫たちの、いわゆる新認定患者の自主交渉の要求をのむに至る背景には、この証言にみられる責任の自覚が、なんらかのかたちで入っているだろう。島田賢一は社長を退いた後、読経の日々を送ったといわれる。(明日もまた今日の如く) 

島田賢一が社長に就任した時には、もう有機水銀は排出されていなかったし、補償に応じようとしなかったのは「水俣病の疑いのある環境庁救済認定患者」である、これに対し前任の江頭豊社長は「水俣病認定患者」に対する補償に応じようとはしなかったのである。

2.細川院長は肺癌末期の病床で工場の隠蔽を証言した

企業城下町・水俣の新日本窒素付属病院・院長と言えば、住民から見れば「雲の上の人」のような存在だったと言う。水俣病の発生と同時に1956・05細川院長を中心とする現地の奇病対策委員会は精力的に疫学調査を実施、30名の患者が存在する事を調査、8月末頃には伝染病ではなく食中毒が疑わしいと判明、食中毒の原因究明を熊本大学医学部に要請した。

チッソ付属病院の細川院長は、患者公式確認の翌57年から62年までの5年間に、838匹のネコなどによる動物実験等を工場技術部と共同で行っていた。研究は熊本大学研究班の成果を追試する形で進められた。59年熊本大学の有機水銀説が出た時「会社の黒白をはっきりさせる」目的で、触媒水銀を使用する2工程(アセトアルデヒドと塩化ビニール)の廃水をネコの食餌に直接かけて実験を始めた。07・21より前者を食べさせたネコ400号が、78日後の59・10・07、水俣病を発症した。(これは1匹だけの実験だった)細川院長はこの結果を工場幹部(*工場長)に報告し、工場研究班会議59・11・30で、工場廃液で水俣病が発症することを強調したが、水俣病の原因が工場排水であると知った西田工場長は「今後の実験禁止」を言い渡した。細川院長はこの命令に逆らえなかった。

70・07・04、細川院長は水俣病裁判でこのことを証言した。肺癌で闘病中の細川は臨床尋問に応じ、証言したのである。細川はまた58年の排水口の水俣川への変更時にも、新患者を発生させることになり、人道上も許せないと反対したが、会社側が聞き入れなかったことも明らかにした。細川は3ヶ月後の70・10・13、69歳で永眠する。


3.西田工場長は葬儀もさせず、墓も作らせず、戒名もない

患者発生の1956年の翌57年、西田栄一が工場長に就任するが、3500人を越える社員を擁する企業の城下町・水俣では工場長は大きな存在だった。西田工場長は別名『西田天皇』とも言われたと言う。

a)熊本大学の有機水銀説に反論、協力するようにと言う本社の要請も拒否した。
1958・09熊本大学竹内教授、水俣病の病理所見はハンター&ラッセルにより報告された有機水銀中毒例と完全に一致すると研究班報告会で報告した。チッソ(西田工場長)が反論、対立を危惧したチッソ本社は熊本大学と協同して究明するよう要請したが工場長はこれを拒否した。

b)細川院長にネコ400号実験の検証を禁止した。

細川院長は838匹の猫に有機水銀化合物を与える実験をしたが、1959・07・21よりアセトアルデヒド製造工程から出る廃液を与えたネコ400号が、78日後の10・07、水俣病を発症した。細川院長はこの結果を工場幹部に報告、工場長は「今後の実験禁止」を言い渡した。西田工場長に熊本大学の有機水銀原因説に反論を命じられた技術部次長・市川正は、この「猫400号」の実験データを見解書から外した。

c)工場の排水口を変更し、被害を拡大させた。排水の摂取も禁じた。

58年の排水口の水俣川への変更時にも、新患者を発生させることになり、人道上も許せないと細川院長は反対したが、会社側(*工場長)が聞き入れなかった。工場排水を摂取することを工場側が拒否していたため、熊本大学は無機水銀が有機水銀になる問題を解決できずにいた。

d)西田工場長は退社後には慚愧の日々を送る。

1970(S35)年、西田工場長は東京に異動となった。1973・03・20熊本水俣病第1次訴訟、原告の勝訴が確定した。当時のチッソ水俣工場の工場長・西田氏はチッソと縁を切り「全責任は自分にある私を許してほしい」と自分を責め続けてこの世を去った。生前の意志により、戒名も付けられず葬儀も行われなかった。 (96 NHK-放映)


慚愧しない人と、その娘婿

江頭豊は皇太子妃の母方の祖父であり、婚姻に際し「元・チッソ会長」と紹介されたが「現・相談役」である(*今も問題企業と関わりがある)とは報道されなかった。しかし、三井PRニュース 135号(消失)の「第40回財界人洋画展」の出品者リストには「江頭豊・チッソ相談役」として出ており、INDEX(消失)を見れば、98年10月現在(皇太子の婚姻は93・06・09)でも、チッソ(株)の相談役に就いていたと解る。

補足:江頭豊の会長退任時期や現在の肩書きを知ろうと思い、チッソ本社に電話、
「江頭豊さんの事で伺いたい」と交換に告げると、緊張感が伝わり、広報につながれたので「社長に就任した時期は?」と話すと「担当者がいません」と断られた、江頭豊はチッソではタブーのようである。

社長退任後27年経っても相談役に就き続け(税金で生かされている企業から何らかの報酬を受けているのだろうか?)、画を「財界人洋画展」に出品するような悠々自適の生活を送っていることが判るが、この姿からは後任社長の島田賢一のような「慚愧」は全く感じられない。その慚愧しないひとの娘婿の人物像も、彼にぴったり?の興味あるものである。

娘婿・小和田恒の人物像

渡辺亮次郎のエッセイ : 持田健(もちだ・たけし)さんが(*03年)9月25日、都内の病院で逝去した。・・・信濃町の葬儀場に飾られた花輪の多くが外務官僚からのもの・・・生花の中には外務省外郭団体・国際問題研究所の理事長たる小和田恒氏のもあったから「そういえば小和田さんはジュネーヴェへいつ赴任するんだ」と通夜の席で話題になった。国際司法裁判所の判事とやらに選出されたからである。皇太子妃の実父だから昔なら批判ご法度なのだが、最近の世相はだからと言って口さがない。数年前、現職の小田判事を「任期途中で辞めさせてでも」と、就任工作(*小田にとっては辞任工作である)をやらせたのはひどかった(*注-1)とか「あんな顔していて、実にカネに汚い」とか「公私混同がひどい」(*注-2)とか「嫁入りに持たすタンスをえらく値切られた」という友人もいた。「そりゃお前、めでたいんだから、お前んちのほうで値切って差し上げたんだろうからいいことをしたな」とはなったが、ケチで鳴る小和田さんも他人の国際紛争ではけちはしないだろう、で落ち着きかけた。皇室の親戚がケチで何が悪い。 ところが「まだわからんぜ」と付け加える仲間が言った。「何しろ誰も鈴を付けに来ないことをいいことに国連大使に5年も居座って、まだ降りようとはしなかった。後任の佐藤行雄が3年10ヶ月できちっと辞めて、もう東京にいるよ。そんなだから、小和田さん、判事の任期(7年)に果たして何期しがみつくか、興味津々だね」と、これは後輩外交官だった。結構、口が悪い。 著者の略歴 エッセイ集リスト 

*注-1:これは93年(皇太子の婚礼の年)の話である、小田滋(前職は東北大学教授)は既に2期つとめており、小和田恒が外務次官の退任後に就任する予定だった(小田の就任には外務省が根回しした結果だから譲るのが当然という論理らしい)が、退任工作がひどかったので、小田が怒り、辞任しなかったと言われている。小田滋は03・02・05まで3期27年間(*彼も権力の虫?)も粘り続け、後任に小和田恒が就任した。 参考:田中良太のコラム 02・10・22、この↓記事 

仙台市名誉市民に小田滋氏と一力一夫氏 Yahooニュース 04・05・25 仙台市は04・05・24、元国際司法裁判所副所長の小田滋氏(79)と河北新報社主の一力一夫氏(78)の2人に仙台市名誉市民の称号を贈ることを内定したと発表した。小田氏は1959年に東北大法学部教授となり、国際法の研究活動や指導に従事、76年から03年までの3期27年、国際司法裁判所(ICJ)の裁判官を務めた。91年ICJ副所長に就任し、国際紛争の解決などに尽力した。75年に米国国際法学会名誉会員、94年に日本学士院会員、03年に日本国際法協会会長となり、現在は東北大名誉教授。03年には瑞宝大綬章を受章した。仙台市は「国内外における卓越した功績は、市民はもとより国民が等しく誇りとする」と評価した。(河北新報) ← 消失 (キャッシュ) 

外務省の犯罪(*注-2):業務上横領の時効は7年だが、偶然か?、小和田恒・外務次官が退任してから7年6ヶ月後の2001年3月に公金横領事件が表面化し、松尾克俊・元外務省要人外国訪問支援室長(55)が逮捕(01・03・10)された。松尾克俊がこの職にあったのは1993・10・10~99・08・16であり、その間の次官が責任を問われた。そして、2001・08・10、斎藤邦彦・国際協力事業団総裁、林貞行・駐英大使、柳井俊二・駐米大使、川島裕・事務次官の4名が更迭された。1993年8月に小和田恒の後を継いで事務次官に就任した斎藤から、林、柳井、そして99年7月に就任した川島までの歴代事務次官達であり、見事に小和田恒は、はずれ(はずされ?)ていた。

天木直人『さらば外務省』に見る小和田恒

1) 外務省のこれまでの問題、外務官僚個々人の問題や 彼らの犯罪行為を洗いざらい述べている。まあ彼らのひどさがわかるとは言え、どうにもレベルが低い話ばかりでいやになる。例えば小和田恒については、出張先で夜中「缶切りをもってこい」と要求があり、持っていくと「その缶切りを試したかい」と質問があり「試してない」と答えると、そのままドアを閉めてしまったという、ただそれだけである。いったい何?詰めの甘さを指摘されたということだし、一事が万事なのだろうが、それにしても次元の低い話だ。 http://www.google.co.jp/ (キャシュ)

KUON註・ご存じない方のために・・。小和田恒のことを、ネットなどで「缶切り」「缶キリ」と書かれているのは、このエピソードからです。

2) 浅井基文は、日米安保条約を聖域視する対米従属外交に失望し、中国課長を最後に退職した。その後まもなく『日本外交』を出版し、安保条約に全面的に依存する日本外交の危うさを訴えた。 その浅井を外務省は組織をあげて潰しにかかった。直接、浅井から聞いた話だが、退職した当時の次官であった小和田恒は「今後もし外務省に弓を引くような真似をすれば、省をあげて潰しにかかる」と、面と向かって引導を渡したという。若い外務官僚たちもこれに迎合するように、「霞ヶ関に近づけば押し返してやる」と悪態をついたという。 


>企業の傲慢は今も続き、チッソ社長は慰霊祭に2度出席しただけ
チッソ社長に出席を要望へ 5月に水俣病犠牲者慰霊式 熊本日日新聞 02・03・05
02年度水俣病犠牲者慰霊式の実行委が4日、水俣市職員共済会館であり、11回目の慰霊式を水俣病公式発見の5月1日、水俣市明神の水俣メモリアルで行うことなどを決めた。委員からは式にチッソ社長の出席を求める発言が相次ぎ、実行委としてチッソに要望することになった。
各患者団体、チッソ、水俣市の各組織代表ら15人が出席。01年もチッソ社長の慰霊式出席を求めたが実現しなかった経緯もあり、「年1回、加害企業の責任者として花一輪なりと手向けるという人間性が欲しい」という意見が強く出された。これに対し、チッソ側委員は「水俣本部長が社から全権を委任され、代表として出席している。ただ要望は本社に伝える」と答えた。チッソ社長は06年に1度、慰霊式に出席している。(その後、出席した→熊本日日新聞 02・05・01 )・・・これが国民の税金で延命されている企業の社長がとっている態度であり、水俣市民、患者や家族はただ「お願いするだけ」しか手段がないのである。


ちなみに、雅子さんとお付の男性(ナルさん、と呼ばれることも)がオランダへ発った頃の日本の最高裁では、以下のごとき判決が下されていました。残念ながらごく短く、結果のみを。


「水俣病患者を認定する国の基準は妥当かどうかが争われた訴訟で最高裁は4月、要件とされてきた複数症状がなくても認定できるという判断を示した。行政の認定制度を事実上否定して改善を求めた形で、国もその検討を始めざるを得なくなった。しかし判決から1カ月たっても改善の方向性は示されていない。」

で、マサコさまです。

昨日は、両陛下の「熊本・水俣ご訪問」の報に、ぶつけるつもりがあったか無かったか、どた出をされまして。

                    

>>皇太子妃雅子さまが、26日夕方、東京都内で行われた記念式典に出席し、公務と
してはおよそ4年半ぶりに式典の壇上に上がられました。

雅子さまは皇太子さまと共に、午後5時過ぎ、東京都内のホテルを訪れ、出迎えた
関係者らに笑顔を見せられました。
当初は、皇太子さまおひとりで出席される予定でしたが、直前になって急きょ、雅子さまの出席が決まり、会場に入ると皇太子ご夫妻は大きな拍手を受けられました。

この式典は、内閣府が日本と海外の青年の交流を通じて人材育成を目指す事業の
記念式典で、ドミニカ共和国など海外から日本に招かれている若者たちも集まりました。
雅子さまは皇太子さまと共に、舞台上で着席されましたが、このような式典関係の公務
で壇上に上がられるのはおよそ4年半ぶりのことです。
雅子さまはお住まいの東宮御所での公務に出席される事も増え、また先月と今月は
2か月連続で宮城と福島の被災地をお見舞いされています<<。

妃殿下。

20年経って、まだお判りにならぬか。

公人は、スケジュールを乱してはならぬ。どたキャン、どた出、してはならぬこと。あなた以外はめったにしない。今の世の若者なら、あなたのような態度では即、職を失うレベルの反則。

もうすぐ伊勢の遷宮のことが始まる、その頃には、公務に励んでいたのでお疲れで、祭祀はお休みなの?。

皇室の一番大事は「祭祀」。台上へあがったと褒められて、にたにた笑うなんてことでは無いよ。

伊勢は、さぼりか?。出られないですね、座ることさえできないのだから。

あなたの頭上にだけ、光ならぬ他の何かが降り注ぐ?。

・・・思い付きみたいにどた出した、これが「公務」か。ふうむ。

バカを言うならタマにしろ~~~。

「公務なさる妃殿下」なら、帽子が無い、手袋の携帯もしていない、あわてて飛んで来ましたぁ~って、その身なりは認められませぬ。

いいかげんにしろ、と言っても、お薬が効いておられるようで、焦点の定まらないお目目。無理か。

出たわよ、と「画」を撮らせて、後のレセプションには出なかった



昭和の皇后陛下、香淳皇太后さまの葬儀は、マサさん「夏ばてのようなもの」で、出ず。昭和帝は「小和田さんでは国民の総意が得られない」、と、祖父でなく天皇のお立場で当時の浩宮の結婚に反対された。



コメント感謝。夜、追記にて。






スポンサーサイト





  1. 2013.09.27 (金) 17:07
  2. URL
  3. モッコク
  4. [ edit ]

読み応えがありました

水俣病、私が子どもの頃は、子ども向けの漫画にも取り上げられていたし、ニュース映像も多かった覚えがあります(昭和50年頃)学校の授業でも大公害として教えていた。

でも、昭和の終わり頃には急速に報道されなくなっていったように感じていました。他にも事件、事故はありますから仕方なかったのかもしれないし、私の記憶違いだったら恥ずかしいです。

ナルさんの歳ならもっと鮮明に覚えてるはずなんで、自分の立場で江頭氏の葬式にのこのこと出席する意味が分からなかった水の総裁。
雅子さんがしでかしたことではないにせよ、止める人はいなかったのでしょうかね?と思います。

両陛下が水俣を御訪問されるそうで、この前は秋篠宮様が外遊のご感想に、水俣に触れた文章を発表されたしで、雅子さんにとっては不愉快なことこの上なしだろうけど、高窓の久子さんが脚光浴びたことも重なって、ドタ出して自分の存在感を出してやろうか、ってとこでしょうか。

江頭氏の人となりが見えてくるようですが、確か、貧乏人が食った魚がどうのと発言したんですよね、選民意識の塊の持ち主で、選民意識それ自体は持って良いと私は思っているんです、それが良い形で発揮されるのなら。
この祖父、父に関しては(優美子さんも)悪い面しか出てこない。
生育の過程で悪い気ばかり吸収してきたのだろうと想像出来ます。

あちこちで言われていることですが、優美子さんの着物とその着付け、娘のハレの日の着物姿、ちょっとだけ着付け教室に通っただけの私が見ても変でした。
昔の日本人が矜恃として身につけていた常識みたいなものが最初から欠落してる一族なんですね。

  1. 2013.09.29 (日) 11:23
  2. URL
  3. どんぐり
  4. [ edit ]

渾身の記事

有難うございます。

水俣の問題は社会の授業で習った程度の知識しかなく、東宮夫妻に疑問を持ち始めてやっと詳細を知った次第です。
恥ずかしながら、雅子さん入内の時も全く興味無く、「顔立ちのはっきりした美人」程度にしか思いませんでした。
ただ、何だか不似合いな二人、はっきり言うと雅子さんが皇太子を愛していないだろう事が、無関心の私でさえ感じとれた当時です。この感覚は今でも変わりません。

水俣ですが、今回は関わった内部の方達の様子を引用して頂き、更に勉強になりました。
「後悔」を知った人はまだ救われるのでしょうか。
後悔したからといってその人を許す事は出来ないでしょうが、知らないままの人より罪は軽くなるのでしょうか。
しでかした罪の大きさを考えると、でも組織の一員としての役割を考えると、でも未だに苦しむ方々が大勢いる事を考えると・・・。

被害に遭われた方々に思いを寄せるなんておこがましい事は言えません。当時を知らない分、心身で感じる共感というものを持ち得ません。
客観的に事実を見据え、間違った事を糾弾していく事が被害者の方々の一助になるのかも知れない、とか考えてしまいます。その大きな間違いの一つが東宮(特に雅子さん)であると。
こんな考え方をする私はどこか冷めているのかな。

 管理者にだけ表示を許可する
 

trackback


ブログカウンター

プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・