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  1. ことばのたのしみ
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星屑


  世のなかに光も立てず星屑の落ちては消ゆるあはれ星屑

                           伊藤左千夫

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  1. 今の思い
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気持ちいい。

この件で記事を書くのは今日で終わりにしようと考えます。少しだけ言い足りなかったことを書きます。

淀んだ顔で出て来た日大の学長さん。何やかやと言うてはりました。一人で会見した学生さんについても、わかった風なことを仰りながら、なにもわかっていなかった。中で気になったのが、彼には気の毒なことをした、とかそういうひとごと感満載の感じで

@就職のこともうまく行くように考えてあげる。

それ。体質、そういう。

力のあるお立場だからそれが言えるのでしょう、そういうことを求めて傍に寄る人々もおそらく、いや絶対、沢山。しかし、あの学生さんは、そんなこと言ってもらって、ぜんぜん嬉しくもありがたくも無いと思います。彼を「いい」として、きちんと目の見えている方々は、ちゃあんと見ていたと思う。あの学長が、就職のことも、など要らんこと言って「あいつ、うまくやったな」と妬むヤカラは沢山いるはず。ほんとに、要らんことし言えなかった、情けない「上層部」の、一。

もう一つ。ホントかそうでないか、メディアがしきりに煽ろうとしていたこと。就職活動している学生に影響、とか。日大生であることが恥ずかしい、とか。へえ、そうなんだ~アホと違うか、と。

日大は、たまたまこんなこともあったけど、普通にいい大学でしょう。企業の面接官にしたって、目の見えている人、そうでない人、いろいろおられて、見たいことは見るでしょう、見ようのない相手なら見られないでしょう、企業自体がどの程度か、学生自体がどんな程度か。わざわざ、困っちゃってますよ~、とか。本気か。ワタシがもしも、もしもそんなことを望める立場なら、あの、単独会見の学生さんは「ほしい」人材。日大なのが恥ずかしい~、なんぞと、この時に言ってしまっているような人は、要らないな~。ミジンコのタワゴトです(笑)。

と、思った。

以下、関西学院大学のこの学生さんも、すてきな若者と思いました。

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 アメリカンフットボールの日本大と関西学院大の定期戦で日大の守備選手が関学大クオーターバック(QB)に悪質なタックルをして負傷させた問題で、全治3週間のけがをした関学大QB(19)が27日、大阪・エキスポフラッシュフィールドであった関大戦に出場した後、取材に応じた。報道陣との主なやりとりは以下の通り。
     
――試合を振り返って
 「けがの不安はあったんですけど、けがはあまり意識せずにやった。(けがで)練習できなかった時に頭を整理して、今まで通りプレーしようと思ってやりました。しっかり相手のディフェンスも見れて、落ち着いてプレーできた」

――後半からの出場はいつ言われた
 「3日か4日前くらいに先輩QBから、『後半からいくかもしれないから準備しておいて』と言われました。思いっきりやろうという気持ちでした」

――日大守備選手の謝罪を受けての感想は
 「直接謝罪を受けたときに、すごい心苦しいというか、すごい可哀想というふうに感じました」

――日大守備選手への思いは
 「会見で『フットボールする権利ない』って言ってたんですけど、それは違う。フットボールの選手として戻って、グラウンドでルール内でプレーして勝負できたらいいなって思っています」

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拍手。拍手。ありがとうございました。







  1. おそろしいこと。
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宮川選手の会見全文

日大の「加害選手」の」5月22日の会見全文」を以下に引かせていただきます。)読んでもらいやすいようにと、途中で行を空けたりしてしまいましたが、ご容赦ください。

* * *

宮川選手:まず最初に、本件によりケガをさせてしまった関西学院大学のアメリカンフットボール部のクオーターバックの選手、およびそのご家族、関西学院大学アメリカンフットボールとその関係者の皆様に対し、大きな被害と多大なるご迷惑をおかけしたことを深く反省しております。本当に申し訳ございませんでした(深く頭を下げる)。

 試合の日までに至った経緯について、試合の3日前の5月3日から話させていただきます。
 今年度の試合は本件までに、4月22日、4月29日の2回行われています。そのいずれについても、私はスターティングメンバーで出場しました。5月3日の実戦形式の練習でプレーが悪かったということでコーチから練習を外されました。これまで同じことはありませんでしたが、この頃は監督・コーチから「やる気がたりない」「闘志がたりない」という指摘を受けるようになっていたので、このプレーをきっかけに外されたのだと思います。
 そのあと、全体のハドルの中で監督から「宮川なんかはやる気があるのかないのかわからないので、そういうヤツは試合に出さない。辞めていい」。井上コーチからは「お前が変わらない限り、練習にも試合にも出さない」と言われました。

■内田監督から「日本代表に行っちゃダメだ」と言われた
 5月4日、練習前に監督から「日本代表に行っちゃダメだよ」と、当時選抜されていた今年6月に中国で開催される第3回アメリカンフットボール大学世界選手権大会の日本代表を辞退するように言われました。監督に理由を確認することはとてもできず、「わかりました」と答えました。この日は、今年度はじめて全体で行われたディフェンシンギーの日でした。未経験の1年生がいたので、副キャプテンがタックルをして、私が受ける形をメニューをやって見せるために、私がダミーを持ちました。するとコーチから「なぜ最初にダミーを持つんだ」と言われて、グラウンド10周を走らされました。
 その日の実践練習は、練習前に井上コーチに確認したところ、「宮川は出さない」と言われて外されました。5月5日、この日も実践練習を外されていました。練習を井上コーチから「監督にお前をどうしたら試合に出せるかを聞いたら、相手のクォーターバックを1プレー目でつぶせば出してやると言われた。『クォーターバックを潰しにいくんで、僕を使ってください』と監督に言いにいけ」と言われました。

 続けて井上コーチから、「相手のクォーターバックとは知り合いなのか」「関学との定期戦がなくなってもいいだろう」「相手のクォーターバックがケガをして、秋の試合に出られなかったら、こっちの得だろう。これは本当にやらなくてはいけないぞ」と念をおされ、髪型を坊主にしてこいと指示されました。
 ポジションの先輩から、井上コーチに宮川にはアラインはどこでもいいから、1プレー目からクォーターバックを潰せと言っておけ」と言われた旨を告げられました。相手を潰すくらいの強い気持ちでやってこいという意味ではなく、本当にやらなくてはいけないのだと思い、追い詰められて悩みました。

 5月6日、いろいろ悩みましたが、これからの大学でのフットボールでここでやらなければ後がないと思って試合会場に向かいました。試合のメンバー表に、私の名前はありませんでした。

■コーチとの会話は同じポジションの選手も聞いている
 その後の試合前のポジション練習時に、井上コーチに確認したところ、「今行って来い」と言われたので、私は監督に対して直接「相手のクオーターバックを潰しにいくので使ってください」と伝えました。監督からは「やらなきゃ意味ないよ」と言われました。戻った私は井上コーチに監督と話をしたこと、監督から「やらなきゃ意味ないよ」と言われたことを伝え、さらに井上コーチに対して、「リードをしないでクオーターバックに突っ込みますよ」と確認しました。井上コーチからは「思いっきり行ってこい」と言われました。このことは同じポジションの人間は聞いていたと思います。

 その後、試合前の整列の時に井上コーチが近づいてきて「『できませんでした』じゃすまされないぞ。わかってるな」と念を押されました。本件直後は何も考えられない状態でした。そのため、相手のクォーターバックがケガをして代わったことにも気づいていませんでした。ふだんの試合でこんなことはありえません。本件で問題になっている1プレー目の反則行為の後、2プレー目が終わり、コーチに呼ばれてサイドラインに戻った時に「井上コーチからキャリアに行け」と言われましたが、さんざんクォーターバックを潰せと指示されていたので、井上コーチの発言の意味が理解できず、再びパスをしてボールを持っていない状態の相手チームのクォーターバックにタックルをして倒し、2回目の反則を取られました。

 3回目の反則は、相手に引っ張られて尻もちをついたあと、相手のオフェンスの方に行こうとした際に、正面から向かってきた相手選手を突いた行為に対して取られました。この反則は、「相手がつかんできてもおとなしすぎる」などとコーチから指摘されていましたし、「やる気がない」として外されていたので、向かってきた相手選手にやられっぱなしにできないと思って、意識的に行った行為でした。
 退場になり、テントに戻った後、事の重大さに気づき、泣いていたところ、井上コーチから見られていました。試合後、スタメンと4年生が集められたハドルの時に、監督から「コイツのは自分がやらせた。コイツが成長してくれるんならそれでいい。相手のことを考える必要はない」という話がありました。

■コーチから言われた「優しすぎるところがダメなんだ」
 その後、着替えて全員が集まるハドルでも、監督から「周りに聞かれたら、俺がやらせたんだと言え」という話がありました。井上コーチから、私が退場になった後、DLの上級生リーダーが、私に相手クォーターバックにケガをさせる役割をさせたことをすまなく思って、自分にもやらせてほしいと申し出たという話を紹介して、その上級生は「自分にもやらせてくれ言ったぞ。お前にそれは言えるのか。お前のそういうところが足りないと言っているんだ」と言われ、退場後に泣いていたことについても「優しすぎるところがダメなんだ。相手に悪いと思ったんやろ」と責められました。

 5月8日、井上コーチから午後5時ごろにグラウンドに呼び出されました。私がグラウンドのクラブハウスで待っていると先輩が来て、私の様子を心配してくれました。先輩に「もうアメフトはできない」と伝えると、先輩は「そうだよな」と応じてくれました。

 その後、学生のスタッフが来て、監督が待っているコーチ部屋に行くように言われました。当初コーチ部屋は監督一人でした。私と監督が話し始めると、遅れて井上コーチと鈴木コーチが来て、監督との話を聞いていました。私が監督に対し、「もうフットボールはできない」と言うと、監督は「お前の罰はあの時、退場になってお前の処罰は終わっているんだからいい。世間は監督を叩きたいだけでお前じゃない。気にするな」と言われました。その後、監督は練習に出ていったので、井上コーチと鈴木コーチの3人で話をしました。
 当然、二人のコーチからは事実関係の確認はなく、「お前が辞める必要はないだろう。向こうとの試合がなくなろうと別にいいだろう」という話をして、退部を申し出た私を引き留めようとしました。しかし、私としてはこんなプレーをしてアメフトを続けることはとても考えられませんでした。

 5月9日、森ヘッドコーチから三軒茶屋のキャンパスに呼び出されて「辞めるべきじゃない。フットボールで返していくしかない。監督が厳しく言ったことを、そのままお前に伝えたコーチに責任がある」と言われました。

■[被害者への謝罪したいと伝えたら、内田監督が「今はやめてほしい」
 5月11日、前日の謝罪文公表を受けて、こちらから井上コーチに連絡をして、本部にある監督の部屋で、監督と井上コーチ、私と両親で面会しました。父から、個人的にでも「相手方選手と家族に謝りに行きたい」と申し入れたところ、監督からは「今はやめてほしい」と言われました。
 父から、監督・コーチから選手に対して対戦校のクオーターバックにケガを負わせろと指示を出し、選手はそれに従っただけである旨の公表を求め、そのメモを先方に渡しましたが、公表できないと断られました。面会の後、井上コーチから父に連絡があり、理由の説明もなく「関学アメフト部の監督に謝りに行く」と言われました。父がアポイントを取ってほしい旨を求め、アポイントを取ろうとしたようですが「先方から断れた」と連絡がありました。しかし、夜中に再度井上コーチから父に連絡があり、「謝りに行く。息子さんを行かせてください」と言われて、関西学院大学に行くことになりました。

 5月12日、謝罪のために私と井上コーチと関西学院大学を訪れましたが、再度先方から面会を断られたため、関学アメフト部の監督にお会いすることはできませんでした。

 5月14日、井上コーチから父に連絡があり「三軒茶屋のキャンパスに来てほしい」と呼び出され、父と二人で訪問しました。その日はその後、私と父が関東学生アメリカンフットボール連盟の技術委員会で聞き取り調査をうけました。

 5月16日、私は日本大学本部の体育局にチームの幹部とともに呼ばれましたが、先方はどう出てくるかわからない不安が強く、体調もよくなかったため、私は行きませんでした。

 5月18日に、私と父で関学アメフト部クォーターバックの選手およびご両親を訪問し、直接謝罪の意を伝えました。
 最後に、本件はたとえ監督やコーチに指示されたとしても、私自身が「やらない」という判断ができずに、指示に従って反則行為をしてしまったことが原因であり、その結果、相手選手に卑劣な行為でケガを負わせてしまったことについて、退場になった後から今まで思い悩み、反省してきました。そして、真実を明らかにすることが償いの第一歩だとして、決意して、この陳述書を書きました。相手選手、そのご家族、関西学院大学アメリカンフットボール部はもちろん、私の行為によって大きなご迷惑をおかけした関係者のみなさまにあらためて深くお詫び申し上げます。本当に申し訳ございませんでした。



  1. 今の思い
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やっぱり思うこと 1

そんなに大騒ぎするようなことではない、との意見もあるようで、そうなのかも知れませんが、私には気になること。

もう少し書かせていただきます。

今回の「加害学生」、Kさんとします。高校二年からアメフを始めて、熱中していたと語っていました。野球やサッカーと比べると、アメフはメジャーなスポーツでなく、子どもの頃から、というパターンはほぼ無いと思われます、他のスポーツをしていてそして、ということだったのかも。それが去年は日本一になっている日大の有力選手になっており、全日本の選手にも選出されていた。

恵まれた選手だったのですね、普通に考えて。才能も努力も周囲の支えもあったのでしょう。今回のことの「とかげのしっぽ」に、と目されるIコーチには、高校の時から教えを受けていた、と。

一般的に、スポーツ推薦で進学した選手は、恵まれている部分とプレッシャーになる部分があるようです。恵まれているのは、学力のみでの進学でなく、一生懸命打ち込んで来た特技によって(たとえば)大学に進めること。もう、好きなことばっかりに夢中になっていられる。しかし、受け入れてくれた学校に、当たり前ですが貢献しなければならない。

問題のこの定期戦。相手は「宿敵」関西学院。その

スタメンから外される。なぜ、とは、一学生の立場では問えない、問える学校もあるのだろうが、Kさんには問えなかった。げんざい入院してしまっている元・監督は、なにせ、日本一を達成し得る実力のある監督。

今回は否定的な面ばかりが出ている感がありますが、並みや大抵では、常に日本一を目指し続けるチームの監督はつとまらない。

それだけでない、マンモス大学日大の、上の方の理事でもある。理事長、T氏の後任とされている権力者であり、かつ、人事権を握っているお方。その引きで、Iコーチも、日大の職員になれたのだと。Iコーチは、監督にアタマ、あがりませんよね、フツーに考えて。事実、就職して監督のもとに就いて最初の仕事が、タバコ買いに、だったそうで。本人は否定しているとつたわりますが、若い頃に、アブナイ映像作品に出ていて、そのこともウヤムヤにしてもらった恩義がある・・いま30歳。

学生・Kさんは、一人で出て来て謝罪をした、当時の監督コーチに命じられたこと、おそらく目の前が真っ暗になるような尋常でないことを、やってしまった。やりました、自分はやった、と、明言した。無防備な相手方の選手にタックルかませ、それだけでない二度目、三度目、反則行為を犯してしまった。なぜ一度目の直後に審判は止めなかったかと、笛は聞こえなかったかと、おおよそ感情的な質問の多かったメディアの中にも、初歩的で肝心な質問を投げた方もいたようです、Kさんはおそらく普通に本当のことを答えた。

下げられて号泣していたと伝えられます。その場にいて異変を感じたカメラマンの方が、その、全体像は見えないが、泣いているKさんの写真を撮っていました。

元監督、「Kはよくやった」と言っている。

Kさんは「認めてもらった」のか。代表にはなるな、と言われたことは反故になったのか。そんなどころの話ではなかったのですね。

Kさんのタックルの画像は拡散され、ものすごい批判が集まった。Kさんは元・監督に、こんなことになっている、と相談した。めったに口をきく機会など得られない、雲上人の監督様に。元・監督は、おおよそ次のようなことを口にした、と。

「お前はあの場で反則の罰を受けている。お前の罰は、あれで済んでいる。ネットは監督をたたきたいだけだから」

もう気にするな、と、言ったそうです。

こう聞けば、監督いいじゃん、と、思いそう。しかしKさんは

気にしないではいられない、ともかくまず、スポーツマンとしての自責の念があった。したくないことをしてしまった自分に対するどうしようもない苦しさ。

相手の選手に謝りたい、と申し入れた。それは止められたとか、隠されたとか、ここ、私にはもう少しわかりきっていません。二転三転した話のようです。

後から言えば、K選手は、謝罪ができていたのです。相手方の本人と、ご両親と会って。自分の方の両親も同席。ここで、二十歳になっている男性の、こういった場に、親御さんが同道ということに、違和感を覚える方もおられるようです。

そのあたりは私には判断できませんが、学生スポーツの世界の「父母会」は存在するのであって。今回も、日大の方の父母会が、動き出す模様。

親といえど、現実にはなかなか、監督という立場のひとに、思い切ったことなど言えない。選手も言えない。絶対言えません。

ある方から秘密コメントで、

「そんなにおかしい監督などには、皆できちんと抗議して、それで皆で干されても仕方ないのにね」

という意見もありますよ、と教えていただいた・・・黙っているのがダメなのでは、との趣旨らしい。

まあ、何をどう考えるかは個々人の自由です、が、私は、それは通らないよね現実には、と、思いました。

だからこういうことも起きる。そうですねきっと。でも、私が、養父のことなど持ち出して書いたのは、私が子供だった時代も今も、きっと、強烈な力というものの、恐ろしさは変わっていないんだ、と。いい悪いではない。そういう世界がある、あってしまうんだ、と。

いいと言っているのではありません。

今になって「Kくんは真摯に自分の思いを語った」などと、認める体を装って実は「事実でない」と、これも否定して見せた学長。

今はコメントを差し控える」を多発、入院中の元・監督を擁護するような発言があったのも、立場上、現段階では仕方のないこと・・とは、私は感じません。

ひとごと。自分は知らなかったこと、関わり合いになりたくないこと、今はハッキリモノを言えないとわかって下さいよ~、と。全くご自身は痛んでいない、何より、顔が悪すぎる。いわゆる「いい顔」の学長さんではない。

仕方がないと言えばそうなのか?。

学校に不祥事があったり。法令違反があったりしたら。私学への助成金は不交付になる。

税金からのおカネが、学校に流れて来なくなる。日大の場合、年間80億円。くわしくはわすれていて申し訳ないですが、不交付になるのが80億円でも、あそこは年間、たしか1800億円?予算がある。そんな大したことではない・・・ことは、無いと、考えます。その助成金は、予算として、イタダけるものとして、計算されているはずのおカネです。

・・・書き始めたら長く長くなりました。もうすぐ午前三時です。

後はまた、書かせていただきます。

被害を受けた関学の学生さん、全治三週間のケガを負ってしまわれたのですが、回復に向かっておられるようで、それは本当によかったなあ、と。あの独特のユニフォームを着けて、また試合にも出られるようで、なによりと思います。その程度のことで済んで何よりと思います。

・・・娘ムコさんの一人が、関学でスポーツしていました。

しょっちゅうは会えませんが、会えて、言うてた。

「アメフは丸刈りでやるスポーツやないし。甲子園野球やのうて、甲子園ボウルやからなあ。」

「あのこ、よう、アタマ丸めて来たな、必死やったんやろな、かわいそうに、丸坊主なんかイヤやったやろに。」

と、そういう方向からの感想を述べていました。

「せやけど、監督かコーチか知らんけど、罰とか恥かかせとかで、アタマ丸めさせたんやろけど。あのアタマすら、上のモンの厭らしさを際立たせる結果になってしもた、思うなぁ。」

などと。

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昨年の優勝の時のとある記事です。

12月17日(日)、アメリカンフットボールの大学日本一を決める第72回甲子園ボウル(阪神甲子園球場)において、東日本代表として3年ぶりの出場となった本学は、西日本代表の関西学院大学に23対17で勝利。1990年以来、27年ぶり21度目、関東勢としても11年ぶりの大学日本一に輝きました。

甲子園ボウルでは3年ぶり29回目となる「赤(本学)と青(関学大)」の宿命の対決となったこの試合、関学が試合開始早々にTDを奪って先制。しかし、1年生ながらエースナンバー「10」を背負うQB林大希選手が積極的なランを見せるなど次第にペースを握り、12分36秒に同じ1年生のWR林裕嗣選手へ39ヤードのロングパスを決めて反撃を開始。さらに前半終了間際に1年生のRB宋旻宰が16ヤードのTDランを決め逆転。後半に入っても着実に点を重ねた本学は、2連覇を狙う関学の反撃を1TDに抑えて見事に優勝を飾りました。


勝利の瞬間
試合後のインタビューでは、「ウチの選手を、本当に誇りに思う。27年もかかってしまい申しわけない」と、こみあげる思いに言葉をつまらせることもあった内田正人監督。チーム再建を託されて2季ぶりの監督復帰でしたが、恩師である故篠竹幹夫元監督の“教え”を継承した指導が実を結び、監督として甲子園ボウル初勝利となりました。

また、この試合の最優秀選手に選ばれたQB林大希選手は、同時に年間最優秀選手(ミルズ杯)にも選出され、どちらも1年生では史上初となる快挙となりました。

昨年のリーグ戦4位から、大学日本一へ。まさに不死鳥のごとく蘇ったフェニックスは、新春1月3日(水)に行われる第71回ライスボウル(日本選手権)に進出し、「富士通フロンティアーズ」と日本一を目指して激突します。

内田正人監督
[内田正人監督]
27年ぶりの優勝というのは、僕が篠竹監督のもとでコーチをやっていた時が最後。やはり長かった。関学・立命の壁が高く、関東でも法政や慶応・早稲田が非常に強くなってきていたので非常に苦しかったです。
当初は甲子園ボウルだとか関東制覇だとか言えなかったし、関学に比べると我々はエリート集団ではないので、1試合1試合勝って選手に自信をもたせていくしかなかった。
ただ、僕がやっているのは、篠竹監督がやっていたことをアレンジしてきただけ。1年生がこれだけ大きな舞台で活躍できたのは、短期間に大学で通用するように育てあげたコーチたちの手腕だと思います。今日の戦い方も、コーチたちが組み立てた練習に基づいたプラン通りの展開でした。学生とコーチがほんとによくやってくれたと思うし、彼らを誇りに思っています。




  1. 今の思い
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追い詰められて

昨日は用で大阪まで出かけていて、帰宅を焦って(四時までに帰らねば、の必要がありました)タクシーに乗ったら、いきなり

「日大の子、出て来ましたね」

と。旧知のヒトのように話しかけられた。あ、出て来はりましたか。と応じたワタシ。

運転手さんは概要を話してくれ、大人があかん、間違っていると怒り、ついでに安倍首相の「なっとらん」具合を語り、他のせくはら・ぱわはら・とにかく馬鹿としか思えない=サイテー男たちの最低具合を論じ、降りるのに一番いい場所で降ろしてくれて、「また乗って下さいや」とにっこり、去って行かれました。所要時間12分。

バスの都合がいいので、こちらへ来てからあまりタクシーを使わなくなっているのですが。ランチ一回分くらいのオカネがかかりますし。

で。今これを書き始めている朝の10時過ぎまでに、およその映像は見ました。

どなたの感想もほぼ同じでないかと思われます。あの二十歳の男の子が、可哀そうでたまりません。鍛えられた大きなカラダの青年ですが、私には「男のこ」。立派な態度、誠実な物言い、お辞儀の仕方も美しい。

もうずいぶん以前に、今は指導者になっておられる柔道の井上康生選手のお辞儀が、美しくて感動しまして。

昨日の日大選手のお辞儀も、武骨ながらいいお辞儀だな、と、見とれました。あれがこの国の正しいお辞儀です。両手をちまちましながらのあの、あの方の・・あ、脱線しそう、元に戻ります。

名も顔もどうどうと正面から晒しての謝罪、事実の説明。若者の気持ちを思うと、なんとも言い難い思いが胸の中に溢れています、立派です。

この世に「if・・もしも」は、無いけれど。

日大のあの監督その他にとっての「if」と、追い詰められてやってしまった、しかし自分がやったことではある、と語った彼の「if」は、一致しなくて、合致しなくて、思い上がった傲慢な大人たちは、まさか、このような[if」を想定していなかったでしょう。

自分たちが「追い詰められる」考えは、無かったはず。


私が十代の子どもだった頃。

養父の家で、養父を訪ねて来た沢山の人たちの中に、いまの日大のアメフの監督のような人もあれこれいた気がします。いました。表向きは一つの総合学園の理事というのみであった養父は、実は他にもいっぱい、いろんな顔やな立場を持っていて。いろんな人が出入りして、いろいろな話をしていました。以前も書いたことありますが、子沢山の学者の宮さまは、すました顔でおいでになり、すました顔で退出された。ご自分ではお金などには触れられません、当然のこと。来て、帰るだけです。何かの用は果たされたのでしょう、で、済めば来て、お茶を出されても召し上がることは無く、すっとお帰りになられる。それでコトは片付いたのでした。

学校も抱えていたし、それが発展したなんとか協会、などというものの、どう言うのか、幾つもの顔であった養父でした。

スポーツという名の下でケガしたりさせられたり、それで体が壊れて第一線から退かざるを得なくなったり、大学のみならず高校スポーツの世界でも、練習でなく学寮でのいじめの結果、命を落とした生徒もいた、当時はそういうことは表に出ませんでした。新聞にも出ずテレビも報じませんでした。でも私は、ああ、あれは、と、ひそかに知ってしまっていることもありました。幼く半端な知りようではありましたが。

知るな見るな語るな、ではありましたが、私は残念なことに、、そういうことに、びんびんと傾いて行く神経を持ってしまっていて、養父は私のような子は好きでなく、もっとおっとりと、とろーんと、アイスクリームやリボンのことを考えている女の子が好きだった。ひねくれていた私でしたが、なんとか養父に認められたい、優しい顔を向けてもらいたい気持ちはありました、ので、好かれていないことは、悲しく惨めなことでした。そんなことを、今更思っても言っても、どうしようもないことではありますが。

昨日会見した日大の選手は、本当に立派でした。そして、かわいそうでたまりません。どんなに勇気が要ったかと思います。自分の人生の大きな岐路であることを、漠然とは、少しくらいは「わかって」いて、その不安もあったでしょうし、とにかくとにかく。

関学の方の監督さんが、コトの内容に憤怒しながらも、彼の態度を称えておられたこと。ケガをさせられてしまった側の親子さんも、彼の謝罪を「うなずく形で」受け入れて下さったことも知り、ものすごく祖母ちゃん視線の感覚で、ああよかったなあ、ありがとうございます、なんぞと。

むかし風なら、もしかして、あの選手にすべてオッかぶせられて、おしまい、にされたかもしれないと思うと。

一人の、とてもまっとうな日本の若者が、追い詰められた結果は「潰されて」幕引き、だったかもしれないのに、と。

学生が、一人で、弁護士はそばにいたとはいえ、出て来て、あんな大勢の前で懸命に話した。おかしなことでした、それも。

それが。

結論の出ない思いで、そんなことを、ゆらゆらと、考えていました。




  1. 今の思い
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秀樹さん。

朝丘雪路さん亡くなったと。

「雨が止んだら」という歌、大好きです。若かった私が心底しみじみ、毎日、ラヂオから流れるあの歌声を聴いていた、歌詞に涙腺ゆるんでいました。

星由里子さんも、私は、あの加山氏方面の明るさやセイシュンのありようなどに遠く存在していて(青春は暗いものであらねばならぬ,、の思い込みが強烈であった)、映画とか見たことも無いのですが、先日も健康コーヒーのCMにゆったりと出演しておられるの観て、きれいでおんなの人らしくて立派なもんやなあ、と、感心していました。

夫さんに、最後の呼吸困難の時は抱き抱えられるようにしてもらって、と今朝読んで。よかったなあ、全うされたんだなあ、立派だなあ、と、このところ「立派」なんぞというフレーズが、私の持ち言葉になっているようです。

数日前に珍しく長々と見ていたテレビ画面で、郷ひろみを見て。

やたら御大ぶって(と見えた)やたら消息通ぶって(と見えた)やたら気さくなボク、ぶって(とも見えた)人を立てることを知らない司会者役(で、すごく唄いたがっていた)の五木 ひろしの傍らで、郷さん、とても繊細な人なのがわかりました。もう一人画面の中にいた布施 明さんも、豊かな感じが出ていて、しかも歌、超絶うまいし、感じよかった。いっとき、歌、ずれずれ崩しの危険ゾーンにはまっていたのに、きちんと唄う当たり前路線に戻しておられるの立派。

どなたにしても私は私生活には関心ない、表現者として出して来るものがよければ何をしておられようが、との考えです。郷さんは、全くすれていないのが見えました。体系維持も声量変わらずも立派、と思って見ていました。郷ひろみのファンだった時代は一切ないのですが。内緒で言えば、新曲がヒットするか否かは、私にはわかりませんが。

残って行く人は、違う。

・・なんぞと。こんな番組また見たいわね、とか思っていた日に、西城秀樹さんの訃報を聞きました。

秀樹。ヒデキは、私ではなく、私の長姉の救い主でした。

十一歳としの違う私の姉は、あの当時、下は保育園から上は中学生の四人の子どもを抱えて。

親の許さない学生駆け落ち結婚の結果、まだ生後半年だったいちばん下の子も軌道に乗り始めていた小さな会社も振り捨てて、姉の夫は、買ったばかりの車の助手席に事務の女性を乗せて、遁走。

あれこれあって、伯父の家の離れの二間に、姉と四人の子たちは身を寄せて。住むところをそうして授かったのは幸運でしたが、姉の生活は大変でした。伯父は、姉の母にも(私の母でもある)姉の妹二人にも(次姉とワタシ)、いっさい経済的な援助をすることならぬと厳命して、自分も猛反対したあげくに行ってしまい、四人の子を手元に置くことだけを条件に離婚することになった姉を、自分のところへ引き取ってくれたのでした。

姉の生活の大変さは、書けば長くなります。とにかく、子どもたちを食べさせて、学校へ行かせて、風呂に入れて寝かせて。宿題は各自の責任でする、と叩き込んで。夕方少しだけ早めに帰宅できる託児所の仕事に通っていました。いちばん幼かった末っ子の甥は、違う保育所へ行っていました。

姉と姉の家族の楽しみはテレビでした。昭和4年代から50年代、そういう家庭は普通に多かったと思います。

テレビが家族みんなの楽しみであり得た時代だったのですよね。歌謡番組、ドラマ、花盛りでした。

姉のごひいきは西城秀樹、ヒデキ~っでした。欠かさず漏らさず見ていました。当時のテレビは(よそは知らず姉宅のテレビジョンには)、その時を捉えて、必死で、しっかりと、見るだけ。そんなテレビでした。

必死で姉は、ヒデキを見ていました。子どもたちに自己流の説明、演説をしかけ、番組都合によっては食事の時間を前後させ(ヒデキに関してだけ許される家庭内特殊事情)、文句は言わせない。

これでお母ちゃんは、元気で楽しくいられるのよ、ヒデキだけは見せてもらうわよ。」

子どもたちも、文句言わず。叔母である私が、そういう時の懐柔策として姉に渡しておく、皆の好きなお菓子とか。いつもは許可されない炭酸飲料とか。そういった奥の手を駆使しつつ、三十代で四人の子のお母ちゃんとしてのみ生きていた姉の日々は、過ぎていたのでした。

順番に記すと、長女はいささかシビアに母親を眺め、自分は、ヒデキでない方へ関心を寄せていた。横溝正史とか。長男は、私が与えたフォークギターを飽かずさわりまくるようになっており、母親がヒデキさま没頭中は、うるさいと叱られるから、弦の下にタオルを敷いてテレビに最も遠い場所でコード進行をまさぐっていた。二番目と年の離れた次女は、いつもは自分に回ってこない「お母ちゃんの傍」の位置を、そんな時は確保できるのが嬉しくて、可愛く口をいっぱいに開けて母と一緒に「ジュウリィイイイ」と叫んでいました。ドラマの中での「ヒデキの祖母ちゃん」のあの、超・有名なシーンのことです。末っ子の次男坊は、小学校低学年の頃から、ひとりでもくもくと「ものを考えている」子どもでした。そのままずっと考え続け、定時制高校から遅れて大学に入り、学習塾も家庭教師も縁のないまま黙って頑張りぬいて、人より遅れて司法試験に受かりました。母親は男性問題いっさい無しで走り抜けたし、母親の「オトモダチ」からガッコ行く費用やら誕生日にテーコクほてるでご馳走になるやら、そういうこと無しで。先日会った時に

「あのパラリーガル、どうよ」

と言ったら、ああ、と笑って。ああ、ねえ。と、笑っているばかりなのであった(笑)。

姉は最終的に長女のもとに身を寄せて、共働きの夫婦の助っ人として(私の初めての姪にあたるその)娘の、ここも男女二人ずつの四人の子を、祖母として手塩にかけました。四人ともぜんぶ、大学を出て、結婚しています。姉はいま、78歳になりました。ときどきお菓子など送ると、お礼の電話がかかり、その電話はたいへん長いものになるので、電話苦手のワタシは覚悟を決めて相手する感じになります。

昨日は私が電話しました。姉は喜んでくれました。とりとめのない話をして、不意に姉が、〇っちゃん(私)は、と言い出しました。

「あの歌が好きだったねえ」

西城秀樹の「ブーツを脱いで朝食を」という歌のことです。その歌を、私も、好きでした。

「ブルー・スカイ・ブルーも好きだったね、〇っちゃん」

確かにそうでした。私は胸の詰まって来る思いでした。確かに私も、西城秀樹のそれらの、甘いハスキーな声の良さの発揮された歌が好きでした・・・しかし。姉は、自分は全部好きだから一曲だけは選べないのかも知れませんが。

若くて時に思いやりのない妹だったであろう私の、昔の好きだった歌のことなど、覚えていて。話を振ってくれて、私は寂しいだろう、と、慮ってくれたのでした。姉妹とはいえ、父の早世などあれこれあって、一緒に育たなかったし、いろんなことがあった、世間一般の姉妹のようには過ごせない時代の方が多かった、でも。

父が生きていた幼い頃、その日は家風呂が使えなかったのだと思います。長姉と次姉と私と、三人で銭湯へ行って。

帰りに、曲がり角にあった店へ、連れて入ってくれた。

ラムネや駄菓子やお好み焼き(おもんじゃ、と呼んでいました)、鉄板の傍に大きな鍋に串刺しのこんにゃくやごぼう天や、豪勢の極みの茹で卵が、逆さまに突っ込んであって、ぐつぐつ煮えていて。店のおばあさんが、こんにゃくを抜き出して、傍らの手拭い(だったのだと思う、実は現代の基準に照らして言えば、雑菌まみれの雑巾、というしろものだったと思う)に、ぱんぱんと叩きつけて水分を落とし(やはり雑菌まみれの・・以下、略、それでもその食べ物は嬉しいものでした)鍋の真ん中の容器に煮えたぎっている甘味噌にどぷんとつけて慌てて取り出し(想像されるの正解、味噌が余分について減らないように細心の努力を)はい、と手渡してくれる・・母は一度も連れて行ってくれなかったその店に、おそらく父にもらったのであろうお小遣いでもって、連れて行ってくれた姉。みかん水も飲ませてくれた。私の洗って濡れた髪を、耳にかけて

「ヘップバーン」

と笑った姉。お好み焼き屋の鉄板の横の壁に「ローマの休日」の、オードリー・ヘップバーンの、アン王女の姿の切り抜きが、貼り付けてあったのでした。

店主はおばあさんでしたが・・・。とにかく。

姉は父のお気に入りの長女でした。当時はすでに、学寮のある高校へ入っていて、家にはいつもはいなかった。たまに帰ってきての、大盤振る舞いだったのだと、後で気づきました。春に高校へ入り、夏に帰省、そして

それからほどなく、十一月に死んだのでした、私たち姉妹三人の父は。

・・・苦労の盛りの時期、激しい物言いをし、母に辛く当たり、自分優先の態度が、苦労知らずでのほほんとしていた私の目に余って、姉だとはいえ好きだとはとうてい思い得なかった時期のけっこう長かった姉。

いまは、本当に、穏やかに暮らしています。娘夫婦と三人の暮らし、何もないとは言えない、とうぜん、いろんなことが、大きく小さくあるのは、当たり前のことと思います。でも、いまは平穏に暮らす姉。

カセットテープに歌を採ることができるようになった頃、懸命にヒデキ・テープを作っていた。

いい子だ、いい子だ、と言っていた。昨日も、ヒデキ頑張ったんだねえ、と、感慨深げでした。一人で追悼特集になる自分用の何か、せっせと制作しているのだと思います。

西城秀樹さん、どうもありがとうございました。

あなたの歌や、ドラマで見せる姿や、いろんな場面。激しさ優しさ、独特のセクシーも。私の姉は、大変だった時期を、秀樹さんに救われたのだと言っています。文字通り、そうだったと思います。姉の頑張りを、今だからきちんと私も見られます。ヒデキさんに感謝します。

ありがとうございました。



  1. みんなのうた
  2. tb: 0
  3. cm: 5
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五月。皐月の「みんなのうた」

五月も「みんなのうた」へのお呼びかけにこたえて下さり、ありがとうございました。

うたは、うったえ。

   なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ      「梁塵秘抄」


まとめさせていただきます。

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     KUON の詠める

・シャツを干す向うに青き海の見ゆ両手だらりとしてしばし視る

・洗濯物干し了へて見る沖に早やヨットいっぱいに風はらみをり

・そこまでは行けないけれど 快晴の沖のヨットの白を眩しむ


     Nちゃん の詠める

新緑の
葛城山に
見降ろすは
大和 難波津
古代の遺跡

お揃いの
靴を並べる
葛城の尾根
躑躅 鶯
君と二人

登山せじ
十代の日に
決めたるを
君と登りし
山の数々

伊吹山
ふたり初めて
登りしは
をとめ十九
君も若くて

山道を
手を引き引かれ
バカップル
三十余年をかく過ぎ来たり

脚上げて
息整えて
頑張れよー
歩けるうちは
連れもて遊ぼ


     まめはな の詠める

・仏壇にひっそり鎮まる桃の実の産毛震えりろうそくの灯に

・りんご剥くくるくる落ちゆく皮の上(え)を少女が独り駆け降りてゆく


     白萩 の詠める

一面の揺れる稲苗に鯉泳ぐ立夏の空をひたと目指して

厄祓い終えて心は清々し雲なき空もひときわ青く

五月晴れ飛沫きらめき船進む十分間の短かき旅よ

雨の中神苑は緑滴れり「言の葉の庭」もかくありけるか

母と見る色打掛の絹の波「やっぱり赤の古典柄だわ」

指に咲くダイヤモンドの煌めきは見ても見飽きぬ約束の証


     パール の詠める

☆朝戸風闇の心もため息も
 連れて吹き抜け朝日の中に

☆いざ行かん私の化粧楯と鉾
 強く息吐き戦闘開始

☆あまた立ち五百余年の時空(とき)超えて
 この城址に我れ立つ不思議   

☆亡友は風 藤の香りに誘われて
 居たね一緒に肩に背中に

☆淡き陽が藤棚の色映し出す
 きらりきらりと香るむらさき

☆鏡台の奥にそっと居た小瓶
 香り芳し想い出遠く

★触れさせてならぬ輩に触れられて
 姫のオーラは無残に曇る


     アルジェリマン の詠める

痩せた兵追い詰め撃ったる境界を笑ってまたぐ肥えたラスボス

黒ずんだボール嗅ぐ犬の背に白きハリエンジュ落つ校庭の外

犬の背を越える高さのハルジオン揺れる野の道 雨の翌日

ハルジオン終わりて次はヒメジョオンいずれも強し帰化の草なり

苔むした石碑の回り小判草 その名を知りて野の草いとし

小判草 生まれは欧州舶来の鑑賞の草 野に揺れており

あと五羽は先に行ったか カルガモは二羽で沼田をすいと進めり

今月もわからんちんの電話あり 説明虚し のの字ぐるぐる


     かりそめ の詠める

*悠然と赤信号で道草の揚羽の翅の喪の色をして

*揚羽蝶赤信号を翔(か)けぬける付き従へば天上界か

*触れたきは夏の朝空触れたれば乱れ心の鎮まりゆかむ

*大けやき若葉に日差し透き通る幼子われにやはらかく笑む

*少女らの制服縞のワンピース帽の護謨紐首にまとはせ


〈ヤンゴン・2013年〉

*人々の祈り込めたる金箔のパゴダの風に剥がれ飛ぶとふ

*ミャンマーのガイド地獄を恐るると美しき顔ゆがめつつ言ふ

*ミャンマーの家族の夕べ寺詣で仕事帰りの父をまじへて

*アウンサンスーチーの顔ティーシャツにオバマの笑みと並びてありぬ

*ヤンゴンに浮島のあり浮島に寺院ありたり風の涼しき

*水かけ祭済みし直後に到着す街あちこちに花とけだるさ


     おてもやん の詠める

○母の日の箱の中身はキーケース紺地に金の兎の刺繍


     かげろう の詠める

「おとうちゃん」小さな声でよんでみる遠い空のそのまたむこうへ

斑鳩の金色佛はほほえみてわれの心を撫で慰むる


     温泉郷 の詠める

パクチーに白い花咲くかわいくて食べられません食用だけど

おじぎそうの種蒔きながら蘇る実家の庭の葉の感触よ

三条の寿司屋は外人ばかりなり葵祭があしただったか

葵祭みることもなく生活す電車が混んで迷惑至極

来年の今ごろはもう平成じゃないのねきっと混乱するわ


     こぶ の詠める

・「お兄さん」みたいな先生少しずつ
 心のドアに光差し込む

・阿波の国の小さき寺の大師堂
 多国籍語の般若心経


     たまき の詠める

潮騒は
わたくしに問う
あまたある
悲しみの波の
どれを選ぶや


     天蚕 の詠める

 風穴の 白き冷風を われは抱き 逆縁なりし 息子を偲ぶ

 山の春 足元に寄る トカゲにも 逝きし子の名で呼びかけており


     わすれんぼ の詠める

寺山がありやと問うた祖国という 人をし守る殻が溶けゆく 

福島の汚染土国の隅々に ばら撒かんとする悪意のありて

巨大なる悪意を前に何もせず 何事もなしと暮らす我らは

靴喰らえ靴舐めよとかネタニヤフ 日本総督出迎えの作法

明治より三帝眠る御陵(みささぎ)の 朝鮮なぞる形の不思議 

忽然と土噴いて出たガマガエル 土遁の術たぁこれのことかぁ

地中より現れいでし庭の主 歓迎までに我が悲鳴をば

若き日の異国の旅の第一夜 北欧の空夕暮れの青 


     アイリス@ の詠める

機関士を
務めし叔父が笑みて逝く
遠くに汽笛を聞いたと思ふ

ここのその(九十の)
叔父の掌に頭を近づけて
いい子と撫でてと
おねだりしてみた

ありがとう
さよなら叔父さん
懐かしき
昭和を背負った
最後の世代


     黒猫アビ の詠める

 ・ワイパーが激しく動くハイウェイ
  新東名を初めて走る

 ・若き日に夫と二人で旅した地
  再び夫と同じ地に立つ


     KUON の詠める

・豆ごはん炊きあがりたりきゃらぶきを添へて初夏(はつなつ)ひとりの昼餉

・微熱ありて気怠く物憂く味噌汁にたまご割入れてじゅるじゅる昼餉

・子ら遊ぶかんだかき声救急車のサイレンの音 窓の外(と)に群青色に海暮れてゆく

・この週は四通の手紙よこしたる姑(はは)の淋しさ思へど されど

・遠くより来たまひし友握手して笑顔して遠く帰りたまへり





  1. みんなのうた
  2. tb: 0
  3. cm: 8
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五月のうたのおべんきょ、ラストです。


おべんきょう続けます。この色は詠草。この色は詞書や詠み人さんからのあれこれ。この色はKUONが書いています。お名前は、この色です。

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     こぶ

   五月のうた
   今月、間に合わないかと思いましたが、やっとひねりだしました。



・「お兄さん」みたいな先生少しずつ
 心のドアに光差し込み

うたにしようとされていることは、とても明確にあらわされています。

もったいないので少し触れさせてもらいますね。最後のところ「光差し込み」は、「光差し込む」と、結ばれたらいいのでないかと思います。

「お兄さん」みたいな先生少しずつ心のドアに光差し込む」と。


・阿波の国 小さき寺の大師堂
 多国籍語の般若心経

なるほど、こういうことがあるのだと、知らなかったことを知りました。このうたも漢字が多いのもそれらしく生きています。しかしこの一首には「阿波の国の」と、「の」を入れた方がいいです。お忙しいでしょうが、少しずつでも詠んでいって下さいね。お子さん、ご自分の、記録にもなります。


     たまき

潮騒は
わたくしに問う
あまたある
悲しみの波の
どれを選ぶや

完成された世界と知りつつ、ここには触れたい。

うたい納めを「どれを選ぶや」とされるなら、「潮騒が」とされたらと思うのであります。「潮騒は」のままで行くなら、最後は、たとえば「どれ選ぶやと」になります。このままにされるのも、もちろん「〇」です。



     天蚕

   五月のうた

   親より早く旅立ってしまった長男を思い最近詠んでおります。


風穴の 白き冷風 我抱き 逆縁なりし 息子偲ぶ

もの知らずのまま齢を重ねて・・この風穴のことも、詳しくしったのは今が初めてです。

そんなことがおありになったのですね・・。

「風穴の白き冷風我が抱き逆縁なりし息子を偲ぶ」


山の春 足元寄りし トカゲにも 子の名で呼びて 話掛けらん

うたの内容に関しては、申し上げるのもはばかられます、が、せっかくの息子偲びのおうた、もったいないので少しだけ、手を入れさせてもらいますね。初句の「山の春」は、大変いいです。

「山の春足元に寄るトカゲにも子の名を呼びて話かけおり」

「山の春足元に来るトカゲをも子の名に呼ばい話かけたる」


    *風穴とは 昔 お蚕さまの卵(蚕種)を 天然の冷風で 貯蔵していた所です
  (世界遺産の荒船風穴) 例年春は白く見えないのですが 見えたので 子供が見せてくれたか と感動


子追い、子恋いのうた、よろしければ存分に詠まれ、お寄せ下さいね。


     わすれんぼ 

寺山がありやと問うた祖国という 人をし守る殻が溶けゆく 

福島の汚染土国の隅々に ばら撒かんとする悪意のありて

巨大なる悪意を前に何もせず 何事もなしと暮らす我らは

靴喰らえ靴舐めよとかネタニヤフ 日本総督出迎えの作法

前月、シンゾー氏に向けての噴出するごときうたの数々、いささか身をかわして受け止めた自分に、苦さを感じていました。うたはどう詠もうが自由。ただ、難しい。読ませていただく身としては、こころ白く平らに、とつとめたいと思いつつ、ものの言いにくさをどうしたらいいのか、ど考え込むこともあります。

「福島の汚染土国の隅々に ばら撒かんとする悪意のありて」

これは、内容としてはおそらく事実。私も仕事上、口に出せないこともあれこれ、知ってはおります、歯がゆく腹立たしく暗澹たる思いも抱えております。で、余計に、ここでお詠みになっている「悪意」の一語を、この場で読ませてもらう者として、どう捉えて、どう反応して行けばいいのか、の前で、オーバーに言えば、立ちすくむ感もある。私も、言いたいことは山盛りにありまして。

食べて応援、というコマーシャルには、本当に複雑な思いがありました・・でもそこで、ものが言えない。

誤解しないで下さいね、だから詠むな、よこすな、と申し上げているのではありません。そうではないとわかっていただきたい。

一首目の「し」の使い方など、おみごと、と拍手したい思いです。デザートだかなんだか、あの、紳士靴を容器にしたあれは、ためらいなく「無礼者」の意をぶつけたい。

わすれんぼさんはわすれんぼさん流に、思う存分にお詠みになっていただきたいです。少しだけ、自分としては不本意な身のかわし方をしてしまう時もあるんだよ、の、言い訳じみたことを、書いてしまいました。


明治より三帝眠る御陵(みささぎ)の 朝鮮なぞる形の不思議 

忽然と土噴いて出たガマガエル 土遁の術たぁこれのことか

これ。見てみたいなあ、こんな場面。いっそ、さいごのとこ、

「土遁の術たぁこれのことか」のしっぽに「小さい「ぃ」をつけて、いかがですか、「これのことかぃ」と。


地中より現れいでし庭の主 歓迎までに我が悲鳴をば

若き日の異国の旅の第一夜 北欧の空夕暮れの青

「この「青」は素敵ですね。想像してうっとりしました。想像だけでは足りないけど(笑)。 

   いつも添削・コメントありがとうございます。
   前回コメントを入れ、書き直そうと削除したらできなくてそのままに・・・
   のつもりが、実は編集機能は、反映までにわずかに時差があるのですね。
   結局削除になっておりまして、忙しくてそのままになってしまいました。

   ・寺山修二という名、懐かしく読みました。
   いま祖国の姿は当時とはずいぶん違って見えます。
   ・ 学生時代、大学の欧州ツアーに参加させてもらいました。
   その第一夜がコペンハーゲンで、タンザナイトのようなほんの少し紫みを帯びた澄んだ青い夕空が
   何時間も続き、他の景色は皆忘れても、あれだけは忘れずにおります。


寺山修司。天才であり、大嘘つきでもありました。いろんな分野に才を発揮していましたが、わたしは、歌人としての寺山修司を思いきれないでいます。


     アイリス@

ギリギリ駆け込みセーフでしょうか?

堂々の「セーフ」ですよ(笑)。

未熟者と書いて下さいましたが、私も同じ、堂々の未熟者です。ご一緒に日本語を楽しみましょう、ということですよ。


機関士を
務めし叔父が笑みて逝く
遠くに汽笛を聞いたと思ふ

ふと涙ぐんでしまうような素直なおうたです。きっと、遠くに汽笛を、聞いておられたでしょう。真面目につとめあげられたお方でしょう。

ここのその(90の)
叔父の掌に頭を近づけて
いい子と撫でてと
おねだりしてみた

で、おねだり、聞いていただけたのですね。すてきですね。ここのそ、は「九十の」と書くのがいいでしょう。

ありがとう
さよなら叔父さん
懐かしき
昭和を背負った
最後の世代

ありがとう。大好きだった叔父さん。普通で、地味で、とっても立派だった叔父さん。

「昭和を背負った最後の世代」は事実なのでしょうが、いまの私には、とてつもなく大きなこと、に思えます。

あなた様も叔父様も、すてきなこの世の縁に、結ばれておられたのですね。

おうた、続けて下さいね。



     黒猫アビ

 ・ワイパーが激しく動き高速の
  新東名を初めて走り

疾走感のあるうたに仕上がっています。ものの捉え方がうまくなって来ておられる。

惜しいので少し、触れさせて下さい。

「ワイパーが激しく動くハイウェイ新東名を初めて走る」

「高速の」は、書こうとするならここの場合「高速道路の」となってしまう。高速、だけで行ける場合もあるのですが、その後ろに「新東名」があるから、この場合。「うまく言えなくて申し訳ないです。


 ・若き日に夫と二人で旅した地
  再び夫と同じ地に立ち

すてきな旅をなさいましたね。羨ましい(笑)。45年ぶりとのことです、以前の旅からこのたびまで、さまざまなことが、おありになって。オンナ45年、ダテじゃない。

そして「再び夫と同じ地に」立たれた。ビクトリー、やんかぁ。思わず関西弁、(笑)。たどりついたモンが勝ちやぁ、頑張りぬいてここまで来たわぁ。

よっしゃよくやったぁ、と、(笑)、私も。

いちばん最後の「立ち」、「立つ」に変えて、声に出して読んでみて下さい。宿題。「ち」を「つ」にする練習、なさって下さいますか。

 45年ぶりに金沢に行き本日夜に帰宅しました。
 ぎりぎりセーフで今月のおうた間に合いました。
 ケンカもせず、楽しい旅になり身体が動き歩けるうち
 にまた旅をしたいと思います。


ぜひ、そうなさって下さいね。


     KUON

・豆ごはん炊きあがりたりきゃらぶきを添へて初夏(はつなつ)ひとりの昼餉

・微熱ありて気怠く物憂く味噌汁にたまご割入れてじゅるじゅる昼餉

・子ら遊ぶかんだかき声救急車のサイレンの音 窓の外(と)に群青色に海は暮れゆく 

・この週は四通の手紙よこしたる姑(はは)の淋しさ思へど されど

・遠くより来たまひし友握手して笑顔して遠く帰りたまへり



遅くなってしまいました。今月も、たくさんのおうたに触れてしあわせでした。

また来月、お待ち申し上げております。




  1. みんなのうた
  2. tb: 0
  3. cm: 4
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おべんきょう 4

おべんきょう続けます。この色は詠草。この色は詞書、ほか詠み人さんからのメッセージなど。この色はKUONが書いている部分。お名前はこの色です。ご挨拶は省かせていただきました、お許しを。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


     かりそめ


   今月も参加させていただけそうで、ホッとしています。
   一度休んだら二度と参加できないような気がして。



*悠然と赤信号で道草の揚羽の翅の喪の色をして

*揚羽蝶赤信号を翔(か)けぬける付き従へば天上界か

おっと危うい。見過ごしがたい危うさを秘める一首。

翅を持つ生き物は、翅を持つなりの生き方をしてもらいましょう。
われら人間は、とぼとぼとでも休み休みでも、一歩ずつ行くしかありません。いずれの身も遅かれ早かれいずれ天井の花となることわり、それはそう、今生の、現世においては、・・・そうですね。

とにかく。
毎月、欠かさず、詠草をまとめあげる。そう参りましょう。そうだそうだ(笑)。でも、しんどい時は、しばしお休みなさって、ね。他になさることも抱えておられるのでしょうし。でも毎月ね、おうたをね。しつこいKUON.。


*触れたきは夏の朝空触れたれば乱れ心の鎮まりゆかむ

そうですね。読ませていただいて。私も触れたくなった。夏の朝空。

*大けやき若葉に日差し透き通る幼子われにやはらかく笑む

*少女らの制服縞のワンピース帽の護謨紐首にまとはせ

糊のぱりっと利いた、白い襟の縞の制服。制帽の護謨・・ゴムが、かすかに汗の湿りを帯びて。

少女が少女である、たまゆら、ほんの短い期間の美しさ。初夏のどこかの坂道で、そんな少女だったかりそめさんに、すれ違ったり、してみたい・・・。


〈ヤンゴン・2013年〉

*人々の祈り込めたる金箔のパゴダの風に剥がれ飛ぶとふ

*ミャンマーのガイド地獄を恐るると美しき顔ゆがめつつ言ふ

*ミャンマーの家族の夕べ寺詣で仕事帰りの父をまじへて

*アウンサンスーチーの顔ティーシャツにオバマの笑みと並びてありぬ

*ヤンゴンに浮島のあり浮島に寺院ありたり風の涼しき

*水かけ祭済みし直後に到着す街あちこちに花とけだるさ

唐突ですが思い出しました。吉田拓郎がうたっていた「祭りのあと」という歌。拓郎の、抒情的なうた、あまり触れられなかったけど、いいものがあったと思っています。

私も、パソコンでできることは,やみくもに文字を打って行くだけといっていいようなものです。今回のようなお申し出は、今後もご遠慮なく、どんどんいただきますように。うたが良くなれば嬉しいですよね。



     おてもやん

   五月のうた


○母の日の箱の中身はキーケース紺地に金の兎の刺繍

おそらく贈り主は、社会人となられたばかりの息子さん。「兎」であることに意味がおありなのでしょう。大切に使われるのでしょうね、お母さん。お引越しはどんな具合なのでしょうね、と、個人的なことを聞いたりして(笑)。


     かげろう


   父へ
   久し振りに、参加します。


「おとうちゃん」小さな声でよんでみる遠い空のそのまたむこうへ

「お父ちゃん」のこと、大好きだったのかな。大好きなお父ちゃんだったのでしょうね。

お父ちゃんは、かげろうさんの声に、耳、すまして下さっていると思う。ぜったい。

わたし、考えてみれば「お父ちゃん」と、呼んだこと無いです。五つの歳に死に別れて。いい響きですね、「お父ちゃん」。


斑鳩の金色佛はほほえみてわれの心を撫で慰むる

奈良の、にんげんたちが支配しているところは、さまざまに変化を重ねているけれど。おかげさまで自然は、かなりそのままに残されています。50年たっていても、変わらないものは変わらないまま。

斑鳩はいいところ。離れて来た今も大好きな場所です。おうた、また、お寄せ下さいな。久しぶりって・・・そうだったかな? また、ぜひ。


   50年ぶりに奈良を訪れました。


     温泉郷

   五月のうた


パクチーに白い花咲くかわいくて食べられません食用だけど

後で「あっ」と思われての「直しておじゃれ」は、大歓迎です、今後もお申しつけ下さいね。春菊だった初めのおうたも、ふむふむ、春菊、好きなのよね~と思いながら読ませてもらっていました。

パクチーの花って白いのですね。私は香草類、とっても好意を持ってしまっています。(笑)。


おじぎそうの種蒔きながら蘇る実家の庭の葉の感触よ

おじぎそう、いいですね。今はマンション暮らしになっていますが、おじぎそうや風船カズラ、ああいうの好きで(朝顔も夕顔も)育てていました。この一首、最後の「よ」は、あれこれ、雄弁に語ってくれる役目を果たしています。

三条の寿司屋は外人ばかりなり葵祭があしただったか

葵祭みることもなく生活す電車が混んで迷惑至極

近辺で仕事をし、生活なさる方の実感でしょうね。「葵祭りがあしただったか、と、突き放した詠みぶりが、気持ちを表しておられます。今年の葵祭も無事に済んだようですね。斎王代のお役目を果たされたお嬢さん、あちらのあのお方より余程、身に添った賢い縁談をお受けになるんだろうなと。ごめんなさい、勝手なことを書いてしまいました。

来年の今ごろはもう平成じゃないのねきっと混乱するわ

ああ、そうなんですね、そういえばそうか(嫌味なKUON。)局地的に盛り上げようとしているのは感じますけど、京の葵祭りや奈良のおんまつり、などにはそれなりの存在意義みたいなものを感じても(歳時記的な意味でも)、あちらのそんなことも、シラケ果ててまともに見えないくらいな感じです。

前回の代替わりの折にはまだ、じぃーんとしたりしていた、幸せな(花畑の)私でした。自分のことばかり書いて失礼しました。





  1. みんなのうた
  2. tb: 0
  3. cm: 0
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おべんきょう 3

おべんきょう続けます。この色が詠草。うたの詞書や詠み人さんのアプローチなどは、この色。この色はKUONの書いている部分です。お名前はこの色です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


     アルジェリマン

痩せた兵追い詰め撃ったる境界を笑ってまたぐ肥えたラスボス

   北のあの三代目を字数の関係でラスボスと表現しました。
   ゲームなどで黒幕とか最後の大物みたいな存在のことを言うらしいです。


異様な画像でした。。まんま幇間顔のムン某と、その「ラスボス」三代目。あんなに太ってあんなにニタニタと、あのラインを越えてはいけなかった。過去にも多くの血が流され、今もそのままであるラインです。

・痩せた兵を懸命の兵を追い詰めて容赦なく撃つ境界ぞそこ

私もアルジェリマンさんのおうた読んで、↑ このように感じました。思い切りつっ転がしてやりたい衝動が噴きあがっていました。

  
黒ずんだボール嗅ぐ犬の背に白きハリエンジュ落つ校庭の外

犬の背を肥える高さのハルジオン揺れる野の道雨上がりの朝

↑ のうたを「揺れる野の道雨の翌日」に変えたいとのお申し出。なるほど字余りにはなっていますが、わたしは、はじめの「雨上がりの朝」の方がいいではないかと。一所懸命考えられたのはわかりますが、「雨の翌日」は、考え抜いて理屈になってしまった感があり。この一首は、はじめの方がいい気がします。

ハルジオン終わりて次はヒメジョオンいずれも強し帰化の草なり

ふた昔も前のこと。帰化植物の「せいたかあわだちそう」の跋扈に、本気で怯えました。ブタクサにすべて制覇されるかと。そうはならなかったようで・・が、ヒメジョオンも帰化草。うかうかしてはいられないのに、草花ばかりでなく国土も民心もやられています。が、奈良の市内の通りもやられています。

苔むした石碑の回り小判草 その名を知りし野の草いとし

こういう優しいうたもいいですね。もったいないので少し手を入れさせて下さい。

きちんと形を整えると、以下のようになります。

「苔むせる石碑の周りの小判草その名を知りて野の草いとし」

ニュアンス少し変えて「その名を知れば」とすると、小判草がクローズアップされて来ます。


小判草 生まれは欧州舶来の鑑賞の草 野に揺れており

「小判草 生まれは欧州舶来の鑑賞用とや 野に揺れており」

あと五羽は先に行ったか カルガモは二羽で沼田をすいと進めり

カルガモにもたったか組とゆったり組と(笑)。こういう風にものを見られるのは、うたを詠んでゆくのに、とても「いい」と思います。

今月もわからんちんの電話あり説明虚し のの字ぐるぐる

お仕事の場での一首を追加されました。

いかにも現代のうた。こういった「いまどきの人」が若い人かお年を召した方か、とにかく上から目線で堂々の「わからんちん」ぶりを、遺憾なく発揮して来るのでしょう。「のの字ぐるぐる」。ここいいです。目に見えるよう。ケンキョでありたいものじゃ、と、ため息が出ます。



・・・今宵はここまでとさせていただきます。よろしく。また明日、お目にかかりましょう。この場で。




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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

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明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

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