KUONのブログへようこそ。

ブログタイトル変えました。中身は変わらずKUONです。

荒唐無稽です。




両陛下が、フィリピン訪問の際に世話になった関係者の方々330人を集めてお茶会を催されたと。

日本国首相安倍総理大臣も、招かれてしまっておられたとのこと。お忙しいのにねと思いました。

美智子さんは黒い左胸に刺繍のあると見えるロングドレス、刺繍に被さるブローチもつけて、陛下の前に立って笑顔。

そりゃあまあ、義理や何やとおありなのだろうが。無事に帰って無事に済ませたのはわかっているのですから、いちいち新調のドレスおまといになって、茶会しなくてもいいんじゃん。330人って内容どんな方々なんだかな。

無駄なこと省いて、生きるお金の行方ってあるの、ご存じないか、自愛一途でいらして。

予算すべて使い切らなあかん、て、春の工事ラッシュの内幕みたいな皇室でなくてもいいんじゃん。少しは本気で「心をお寄せあそばせよ」。

派手なことお好きなのねミテコさま。とか、大変にがにがしく、ワヤワヤと取り巻かれて嬉しそうな、マダム然としたあのお方を、横目で眺めたKUONでした。



どうでもいい記事にも、やはり、毒舌吐きたくなったのです。

皇太子ご夫妻はやはり愛子さまをオランダにとお考えのようです。病気療養の初期にオランダを静養のため旅行され、 2014年10月に11年ぶりに雅子さまが出席された宮中晩餐会はオランダの国王夫妻を迎えるものでしたから、同国は大変縁が深い。
加えて、雅子さまの父である小和田恒さんは、国際司法裁判所判事の要職にあり、妻・優美子さんとともにオランダで暮らしています。 雅子さまにとっては、何かあったときでも小和田夫妻がいるということに、大いに安心して愛子さまを送り出せるのではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者)

 愛子さまの短期留学が今夏に実現するのに、追い風となる前例もできた。
昨年11月、絢子さまは大学院の海外研修プログラムのため、スウェーデンへ8日間の私的旅行をされた。

「皇族方の私的な海外訪問は、これまで『閣議報告』が必要とされてきました。
しかしこのときは“皇族方の海外渡航が増加している”という理由から、報告が見送られたのです」(皇室記者)

 今年1月、眞子さまは大学院の学位証書を受け取るためにイギリスを訪問されたが、このときにも閣議報告は行われなかった。

「閣議報告を行わないというのは、平たくいうと宮内庁や外務省の書類作成や申し送りといった事務手続きが減るということ。
煩雑な事務処理を職員に強いることがなくなるため、皇族方の心情としても、海外訪問へのハードルが下がることにつながると思います。 すべての私的訪問で、閣議報告がなくなるかといえばケースバイケースですが、こと短い訪問では今後報告は行われない流れになるでしょう。 愛子さまのオランダ留学実現へのシナリオも完成しつつあると思います」(前出・宮内庁関係者)

 この夏、14才の愛子さまが、大きな転機を迎えるかもしれない。

※女性セブン2016年3月10日号


ほんとうに、下らない。はじめの

>~とお考えのようです。

嘘でしょう。お考えにって。まともな脳みそありそうに見えないのに、そんなことだけ「お考えになる」か。誰が考えるんですか、なぜですか、何のためですか、問うてみたとてコダマは帰らぬわ。

とか、突っ込んで行くと虚しさつのるのみ、このごとき阿呆な夫婦を「はるの宮」と設定されているわれらが国民(のKUONは一人よ)のかなしみ(アホらしさ)増すばかりなる。

先日のナルヒト氏の会見の最後にこのことが語られて、いや、読み上げられていましたが、いつかは分からない、として、さすが断定は避けていた。断定しなかったが、さっそくこうして、記事になった。させたのか?。

思うことは沢山ありますが。

大きな疑問。

愛子さんが、皇太子の娘さんなのは事実で、それなら、なぜ、その内親王を、クーデターが起こって身の安全を確保しなくちゃならないのでもあるまいし。

御所に住み、親の膝元に育てられていて、専属の係も複数人いて予算もふんだんに注がれていて、かつ、聞くところによれば非常に優秀だという。

皇族のお約束の娯楽、テニスだって、おもうさまとプレイしていると報じられる。母親のスカートつかんでいないと何もできないお子さんでない証拠に、友達と、遊行施設に行って楽しく遊ぶことだっておできになる。

遊ぶ云々は一種の「家風」であらしゃりましょう、それはどうとして。

なんで、なぜ、内親王愛子さまを、オランダだかどこかにいる(と書いてある)、母親の、実家の、祖父母の手元に、預けなければならないか。

まさこさまとやらは、すべっても転んでも皇太子妃殿下・・・と日本人は思い込んでいる、しかし、多くの王室では、彼女は「皇太子のツマ」であって。妃殿下とは認定されない、ということですね。おまけに言えば皇后さんもそうなのだと。

始めは「まさか」でした。でも、ヒデンカとしては始めのお子さんを流産する前に強行訪問したベルギーの老舗のレストランの、訪問ゲストの名を示したプレートには、まさこさんは、日本のプリンスの妻であるにすぎない扱い。これは知っていた。これ間違いなのなら、どこかが黙っていませんでしょ。

海外のプレスも当たり前に知っていて、事実をキャプションにしています。

皇后さんは「みちこ しょうだ」。他いろいろ。

先日のフィリピンでの美智子さんへの扱いは、至極妥当なものだったのでした。


わたしKUONは、世界の王室大好きな子どもでした。そういう時代でもありました。ミッチーブームもあって。でも実は、イギリスの王室の話にドキドキしていたんです。

知識、自分なりに膨大だった気がします。王妃と呼ばれることの難しさは、なんでだろ???の疑問符付で、雑知識となって積み重なっていたのでした。

イランのファラ王妃が、お子さんを授からなくて王室を追われたことなども、読んでいました。

王、もしくは嗣子のツマが「妃」であるか「パートナー」であるかの線引きは、国にもよりますが厳しいものが現存するようです。「貴賤婚」・・これ本当は、私の感覚では、好きでない言葉です、が・・には、シビア。公人であるからには、シビアでないと守れないものがある。

結婚自体は許可されても、式に親が出られないような話はざらにある、チャーさんの愛するあの方は、愛していても「妻」のまま。納得ずくではあるでしょうが。

長々脱線しております。戻ります。


現・皇太子のツマの父親は、随分あれこれ読みましたが、言われるように、三代前すら不明な人物。その妻は、世界的な公害企業の、終生名誉会長だった男の娘。

そのこと自体の評価は今はおくとして。

感情論で言えば、あのまさこを育て、皇室に押し込んだヤカラのもとへなどとんでもない。大変なことになるのは明白。実際、あのひとたちが、外国にいるとしても。永住ではないでしょう。帰ってくる、いつかは、どこへ?。今いると言われる東宮御所へ?ン滞在する理由も権利もありません。食費、納めているんですか。まさか。

ご高齢ですし。いきなり走り出す孫を、つかまえさせるなんて、なんと雅子さん、親不幸な。内親王の親としては無責任な。

現実論で言えば、内親王を、なんで、一般人である家へ渡す。ここです。くるっているのか。


東宮家の内親王である愛子さん(そうですよね?)を、記事通りに言えば、その人たちに託すなど論外でしょう。

何をバカなことを、とびっくりします。

荒唐無稽。理解不能。馬鹿なこと。


私は愛子さんの存在の仕方に疑問を持ち続けています。

おかしな言い方ですが、ここで言われている愛子さま、が、どんな愛子さま、なのか、考え方はあるのでしょう。

どんな愛子さんでも、どの愛子さんでも、あり得ざるべき話です。

おそらく実行になどは移行しない話と思いつつ。



少し下がって考えて。

まことに、親御さんが、一人娘さんを、外国にいる母方の両親に頼って、託す。

というなら。

そういう話は、あって不思議ではない。親がどんな親かなど、とやかく言われることも無いでしょう。

でもその前に、そういうこともどんなことも、自分たちの思考や力や責任で以て、出来得る立場に。

一般の親が、子どもにそうさせるように、自然にできるような夫婦になってから、好きなようにして下さいよ、とは、言う。

今のままでは出来ないですよ。何をアホなことを。

皇太子でなくなり、まさこさま、でなくなってから、なさい。廃太子、廃妃、が、成ってから。

わかったか。

とか、言いたい。

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明治の雪また二・二六の雪




  うすずみのゆめの中なるさくら花あるひはうつつよりも匂ふを

斎藤 史のうた。史、と呼びつけにするには畏れ多い歌人なのですが、様、でもさん、でもないでしょうし、斎藤史、と書きます。

始めてこの桜のうたを知った時、こんなうたを詠みたい、と口走った私に、〇ちゃんなら詠める、詠んでや。と、温かい笑顔を下さったのが、うたの師でした。大きく励まして下さったのです。妙なけんそんしないでお言葉頂こう、いっしょけんめい詠もう、とおもったのでした。

私は、さまざまの(と言ってもいいと思います)賞をいただいたりして来ましたが、身近な人に褒めてもらったことは殆どありませんでした。私の書くものを大切にしてくれたのは他人ばかりでした。

私が何か書いたり評価を受けたりすることは、子ども時代の親にとっては絶対的に喜べないことだったし、はっきりと道をふさいでくれましたし(私は反抗したけど、、養家も一時捨てたけど、白旗掲げて戻ったのでした)結婚後の親にとってもそうでした。

短歌の大きな賞を受けても、うたを勧めた当人が、隠そうとした。無視を通そうともしました。周囲の、他の頑張っている人たちが傷つく、という理由で。

私が、どれだけでもうたを作れるということが、真面目に学んでいる他の方を傷つける。うただけが生きがいの人かていてはるのや。ウチのヨメさんのあんたが賞などもらっても、表だって喜んでやる訳にはゆかない。そういう理屈でありました。師が庇って下さいましたが、

他の諸事でもそういうやり方には慣れていたから、ハイハイわかりましたよ、と。お腹の中ではそう、表向きには、はいわかりました、と。(同じか(笑))。平気で、どれだけでも、何かを作れるはずは無かろう。と、これは胸中のみで。

結果的に、中途半端に、中心にいる人間の家族だからそこそこに、目立たないように、慎ましい形で「うたに向かって行くこと」なんかできません。ザックリやめろと言われる方がマシ。とばかりに、止めてしまった。ワガママだとか思いあがっているとかアンタのためやないか、とか。その他あれこれ、山盛りの言葉をもって引き止められましたが、本気で決めたら戻れません。戻りませんでした。

私は、うたが、本当に、好きでした。始めたらムキになりますがいいでしょうか、と、断って、始めたのでもあったし。

可愛がって下さり、本気で指導してくださった師とも、結果的にお会いできなくなりましたが、短いハガキを一葉下さり、今もそれは、大事なもの入れの中に、しまってあります。古い万年筆とか口紅の空箱とか片方だけのカフスとか、の中に。



斎藤史のうた。アトランダムに。

  白うさぎ雪の山より出(い)でて来て殺されたれば眼を開き居り

  遠い春湖(うみ)に沈みしみづからに祭りの笛を吹いて逢ひにゆく 

  おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は 

  野の中にすがたゆたけき一樹あり風も月日も枝に抱きて

  情緒過剰の人といささかずれてゐて我はうなぎを食はむと思ふ

  壁かげにマッチをすれば浮きいでてわが前も壁 まうしろも壁 

  春にまぎれて眠るといへど獣園の檻に生まれて豹に故郷なし

  手を振ってあの人もこの人もゆくものか我に追ひつけぬ黄なる軍列

  思ひ草繁きが中の忘れ草いづれむかしと呼ばれゆくべし

  今日よりは妻と呼ばれてわれの娘(こ)が群衆の中に没しゆきたり

  背負ひ切れぬ夕日の重さ膝折れらばすなはち野辺のひとくれの土

  埋葬の白欲りすれば夜の雪、町荒涼となるまでを降れ

  まこと今なにか亡びてゆくなればひたすらに沁む花のくれなゐ

  盲ひたる母の眼裏に沁みてゐし明治の雪また二・二六の雪

  死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも



1909年生まれ、2002年没。27歳だった1936年、二・二六事件起こる。

歌人であり陸軍少将だった父・斎藤瀏は事件に連座して禁固五年の刑を受ける。

幼なじみだったり父を通しての知人だった青年将校たちの多くが刑死した。

  白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすを磨いて待たう  


愛を受けて育ち若山牧水を知って17歳でうたを始め、↑ のようなモダンなうたをうたっていた斎藤史。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     二月二十六日、事あり。友等、父、その事に関わる。

   濁流だだくりゆうだと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ

     五月二十日、章子生る。同二十九日、

     父反乱幇助の故を以て衛戌刑務所に拘置せらる。

  小さくていのち頼りなき子を抱きかへりし家にすでに父はなし

  暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた


     九月十七日。仮出獄を許されて、父かへる。

  吹きさらされて居るといふともこの野にはすかんぽの花地しばりの花

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 昭和20年3月、長野県に疎開。

父・斎藤瀏、昭和28年(1953年)死去。74歳。

  稚(をさな)のごとわれのかひなに倚 らしめてはげしき生も終わらむとしつ   史  

  明治大正昭和三代を夢とせば楽しき夢かわが見たりけり              瀏


 
 二・二六事件への思いは、生涯のテーマであり、くりかえし詠まれています。

わたしKUONは、本当にいろんなことに疎くて、わからないことが多過ぎるほどあります。近所付き合いのタダシイ方法から歴史の本の読み方まで。

斎藤史(呼び捨ては難しいです)のうたは、この先もずっと読んで行くと思います。

好きな歌人のうた、として、この件についての斎藤史のうた=うったえ=を、以下に置かせていただきます。

 捨て皇子(みこ)をあはれと謡ふ遠むかし 捨て皇軍をいかにうたはむ
 位階勲功剥奪あとの父の世といづれも老はさびしかりけむ
 奉勅命令とは何なりし伝はらず 途中に消えて責任者無し
 知らぬうちに叛乱の名を負はされしわが皇軍の蹶起部隊は
 幻の命令の行方聞く手段(てだて)さへあらず 弁護人持たぬ軍法会議
 死刑を含む千四百八十三名思はざる罪名をもて処刑されたり
 殺傷は許すべきことならねども<叛乱>と言ひ出ししは誰
 敗戦にまぎらして<叛乱>の語を消去せし国家(くに)のなしたるごま化しも見き


二・二六とは何かと、語り得るほどの知識も見識も持っていません。

ただ、そのような大きな「事件」の当事者の一員の家族として生きた一人の女性の、うたが、私は好きで。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・この部分には、はじめ書いた時、1997年の皇居歌会始儀に、召人としてあがった斎藤史に、今上天皇が

「お父上は、瀏さんですね」

と声をかけられたのを、「昭和天皇が」と、間違えて書いてしまっていたのでした。

教えて下さる方がいらして、訂正することができました。

本当に、ありがとうございます。ここからですがお礼を申し上げます。気をつけますが、こういう時はまたよろしくお願い申し上げます!。

よほど斎藤史が好きなKUON、2013年の2月の15日にも書いています。いま判りました。(笑)。

陛下が斎藤史に、と教えて下さったのは、今は亡きわが師です。うたに厳しく人に優しく、一直線に生きられた、皇室に対しては沈黙を保っておられた方でいらっしゃいました。


      うすずみのゆめの中なるさくら花あるひはうつつよりも匂ふを

いいうただなあ・・・。
  

次ぐをもて家とす。



一度だけ、奈良・興福寺の薪能(たきぎのう)を見る機会がありました。

屋外で、かがり火の燃える中での能です。

鼓の音がぽーんっと響き、そこからは幽玄の世界、なじみの薄かった古典芸能の世界に、引きこまれて行きました。

能を完成させたのは、世阿弥(ぜあみ)。

1400年、37歳の時に

「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」

など父の遺訓をまとめた能楽論書『風姿花伝(花伝書)』を著しました。

風姿花伝は、芸術の、技術論ではなく精神を論じた書であって、このような書物は世界にも殆ど例がないと言われます。

素敵なことばがいっぱい、ここにはあるのですけど、

今日はどうしても、この「花伝書」の最後の言葉を、どうしても、読んでみたく思いました。


「家、家にあらず。次ぐ(継ぐ)をもて家とす」

この意味は、

「家というものは、血筋だけで繋がるものではない。その道を伝える(に足る)者がいてこそ、家と呼べる」

ということでしょうか。

皇太子のあまりに実の無い、まともなひととさえ思えない会見文の内容に、ぐったりした身には、実感としてしみる言葉でした。

秘するが花、とか言っても、な~んでもいっぱいいっぱいに盛り盛りのあのひとたちには、わっかんねえだろな。

嘘でも偽物でも借りものでも、なんでも来い、のあの「跡継ぎ」にはな。

目立たなきゃ負けなのよ、キリっ、みたいな、あのひとにも、なあ。



とりあえず「全文」。




 皇太子さまが56歳の誕生日に合わせて行った記者会見の全文は次の通り。


 <記者>この1年を振り返り、印象に残った公務や社会、皇室の出来事についてお聞かせください。

 皇太子さま この1年を振り返ると、5月の口永良部島新岳での噴火や、9月の台風18号等による茨城県、栃木県、宮城県での豪雨など、引き続き数多くの自然災害が発生しました。海外に目を向けても、史上最大規模と言われたエル・ニーニョ現象の影響もあり、世界各地で多くの洪水や干ばつが発生したほか、ネパールや台湾では大地震が起こるなど、人々に甚大な被害を及ぼしました。このような自然災害によって被害に遭われた方々のご苦労はいかばかりかと思うと、大変心が痛みます。犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。

 今年の3月には、東日本大震災が発生して5年になります。昨年10月、雅子とともに、福島県を2年ぶりに訪問し、復興の進ちょく状況を見る機会を得ましたが、復興の道のりはまだ長く続いていると改めて実感いたしました。一方で、風評に負けず質の高い野菜を生産し販売網を拡大しているいわき市の農産品会社の方や、震災発生後、故郷を離れ、住む場所を転々とするなど苦労した若い人たちを中心に、震災前よりも一層輝く福島県を創り出そうとしている人々の姿を実際にこの目で見て、大変うれしく、そして心強く思いました。引き続き、雅子とともに、被災者お一人一人の悲しみやご苦労に思いを寄せ、厳しい環境の下で暮らす被災者の健康とお幸せを祈りながら、被災地の復興に永く心を寄せていきたいと思っております。

 また、昨年は先の大戦終結後70年という節目の年でした。1年を通して、国内外で先の大戦に関する様々な事業が催され、戦争を経験した人も、そうでない人も、改めて戦争の悲惨さと平和の尊さを考える機会になったものと思います。

 天皇皇后両陛下には、昨年4月のパラオ共和国ご訪問に引き続き、先月はフィリピン共和国をご訪問になり、先の戦争で命を落とされた方々を、心を込めて慰霊なさいました。そうしたお姿を、雅子と愛子とともに拝見し、両陛下の平和を思うお気持ちの深さに改めて感銘を受けるとともに、そのお心を私たち次の世代がしっかり受け継いでいかなければならないということについての心構えを新たに致しました。

 私自身も、雅子と愛子と一緒に、7月そして8月に、戦後70年に関連した特別企画展などを訪れました。そこでは、戦争の記憶を風化させることなく、次の世代、さらにその次の世代に語り継いでいくべく、様々な展示や講演などが行われておりましたが、改めて過去の歴史を学び、戦争に至った背景や、戦時中の惨禍、戦後の荒廃から立ち直る上での人々の並々ならぬ努力についての理解を深め、そして平和の意義について真摯(しんし)に考えるよい機会となりました。

 そのほか、この1年の国内外の動きの中で印象に残ったことをお話しいたしますと、国内では、少子高齢化など社会の構造変化が進む中で、様々な社会問題が報じられるのを見るたびに、心が痛みます。他方で、昨年8月に、山口県で開催された第23回世界スカウトジャンボリーに参加し、155か国・地域から集まった3万4000名余りの若者たちが国籍や信仰を越えて交流する姿を見て、心強く思いました。こうした未来を担う青少年をはじめ、すべての人々が安心して暮らせる社会を、一人一人が協力して作っていくことが、とても重要な時代になっていると思います。

 また、海外の出来事に関しては、テロや貧困、難民の増加などの問題が大きな影を落としており、このような問題の解決に向けて、国際社会が協力していくことが求められていると思います。そうした中で、昨年9月に国連で2030年を見据えた「持続可能な開発目標」が、また、12月には、テロに見舞われた後のパリにおいて、2020年以降の地球温暖化対策の枠組みをまとめた「パリ協定」が採択されたことを喜ばしく思います。気候変動対策や環境保全、貧困の問題などは、引き続き人類が一致して取り組むべき課題であり、今後、持続可能な社会の実現に向けて、各国が協力していくことが求められていると思います。

 一方で、うれしい出来事もございました。学術関係では、大村智博士が生理学・医学部門で、また、梶田隆章博士が物理学部門で、それぞれノーベル賞を受賞されました。また、それに先立つ11月には、国産初のジェット旅客機が初飛行を遂げました。ちなみに、私自身、小学校6年生の時に、生まれて初めて乗った飛行機が戦後初の国産のYS11機でした。12月には、理化学研究所のチームが、113番目となる新たな元素を発見したことが、国際学会によって認定されました。これらは、日本の科学技術が、基礎研究から応用に至るまで、引き続き世界の第一線にあるということの証であり、これから学術の道に進もうと考えている若い人たちにとって大きな励みになったと思います。

 また、スポーツの分野で、日本の男子ラグビーチームのワールドカップでの活躍や女子のラグビーも見事にオリンピックの出場権を獲得したことも本当によかったと思いますし、今後の活躍を楽しみにしています。

 皇室の出来事では、昨年は三笠宮殿下が百寿を、また、常陸宮殿下が傘寿を、ともにお健やかにお迎えになられましたことを、心よりお喜び申し上げております。これからも末永いご健康を心からお祈りいたします。

 最後に、私が、近年かかわっている水問題について、一言触れておきたいと思います。

 私は、ご縁があって、2007年から国連水と衛生に関する諮問委員会(UNSGAB)の名誉総裁を務めており、同諮問委員会の会合をはじめ世界水フォーラムなどの国際会議に出席し講演するなどの活動をしてまいりました。昨年末、同諮問委員会が、その最終報告書を国連事務総長に提出する機会に、私もニューヨークを訪れ、国連本部で開かれた第2回国連水と災害特別会合において基調講演を行うとともに、同諮問委員会の最終会合に出席し、名誉総裁としての任期を終えました。昨年、国連は新たな開発目標、「持続可能な開発目標」を採択しましたが、この目標に従って、国際社会が協調して、すべての人々の安全な水と衛生施設へのアクセスが実現されるよう、取組が進められることを期待しておりますし、私自身、そのために可能な貢献を引き続き行ってまいりたいと思います。

 あわせて、近年頻発している、異常気象に伴う豪雨災害や将来も起こりうる地震津波災害に備える意味でも、防災の観点から、水災害の問題へも引き続き取り組んでいきたいと思っております。

 <記者>ご家族についてお伺いします。雅子さまはこの1年、トンガでの戴冠式出席や月に2度の地方訪問、12年ぶりの園遊会へのご出席など、着実に活動の幅を広げられました。殿下が感じられた雅子さまの変化や現在のご体調についてお聞かせください。4月に学習院女子中等科3年生となる愛子さまは今何に関心を持ち、高校進学やその先の将来に向けてご家族でどのような話をされていますでしょうか。成長を実感するエピソードや女性皇族としての今後に寄せられる思いについてもお聞かせください。

 皇太子さま 雅子は、治療を続ける中で、体調に気を付けながら、公私にわたってできる限りの務めを果たそうと努力を続けてきております。かねてより公的活動に対して強い責任感を持っておりましたが、少しずつ活動の幅を広げていく中で、依然波はあるものの、体調についても、それに見合う形で少しずつ回復してきているように感じております。そして、その結果、トンガ国への訪問、福島県と鹿児島県への続けての地方訪問、秋の園遊会への出席など、活動の幅を一歩一歩広げられてきているものと受け止めております。また、東宮御所内での公的な行事にも可能な限り出席し、公私ともに、私を支えてくれるのと同時に、愛子の日々の生活やその成長に心を配ってくれていることをうれしく思っております。

 このように、雅子は確かに快方に向かっておりますが、引き続き焦らず慎重に、少しずつ活動の幅を広げていってほしいと思っております。国民の皆様には、これまで温かいお気持ちを寄せていただいておりますことに改めて心より感謝の気持ちをお伝えいたしますとともに、引き続き雅子の回復を温かく見守っていただければ有り難く思います。

 愛子については、中学2年生になって、交友関係も更に広がり、日々充実した学校生活を楽しんでおります。学業の方では、学年が進むにつれ、質的にも量的にも難しさを増しているようで、こちらの面でも忙しくしているように見受けられます。戦後70年に関しての様々な企画には、自ら大きな関心を持ち、関連の展示などを一緒に見学した後には、新聞記事やテレビの特集番組などを色々調べるなどして学校の課題にも熱心に取り組む姿を見て、中学生としての自覚がいっそう高まってきたように思います。また、沼津の臨海学校では、約3キロの遠泳を泳ぎ切るなど、水泳は目覚ましく上達したようです。少しずつではありますが、公的な場に出ることも増えてきていると思います。自分自身を振り返ってみても、その一回一回の機会を大切にして、自身の幅を広げていってほしいと思います。

 高校進学を含め将来のことについては、愛子本人の希望をなるべく尊重してまいりたいと思っておりますが、今後周りの皆様から色々と教えていただきながら、様々な経験を積み、自分の望む道をしっかり歩んでいってほしいと思います。そして、その過程で皇族の務めについても理解を深めてくれればと願っております。

 <記者>天皇陛下は82歳の誕生日の記者会見で「年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました」と率直に明かされました。このご発言をどのように受け止められましたか。皇后さまは強いストレスが原因とみられる心筋虚血の症状が認められ、経過観察が続いています。こどもの日と敬老の日にちなんだ訪問はお子さま方が引き継がれましたが、お忙しい毎日を送られる両陛下の現在のご体調や今後のご活動のあり方についてのお考えをお聞かせください。

 皇太子さま 両陛下におかれては、長きにわたり、国民の幸せを願い、国民と苦楽をともにされながら、様々なお務めを果たされ、毎日とてもお忙しく過ごしておられます。両陛下のご健康をご案じしつつ、どうかご無理をなさらず、末永くお元気でいらっしゃることを心から願っております。私としては、両陛下のお気持ちを十分踏まえながら、少しでもお役に立つことがあれば喜んでお力になりたいと思います。昨年から、こどもの日と敬老の日にちなんでの施設訪問を秋篠宮とともに受け継がせていただきましたが、両陛下は、こうしたお仕事の一つ一つを心から大切にされて取り組まれてきましたので、そうした両陛下のお気持ちに思いを致しながら、できる限りお手伝いをしてまいりたいと思います。

 <記者>東日本大震災から間もなく5年となります。殿下はこれまで雅子さまと共に何度も被災地に足を運び、昨年も福島県を訪問されました。被災者との触れ合いで感じられたことや復興の現状への思い、また今後どのような形で被災地と関わり続けていかれたいか、お聞かせください。

 皇太子さま 東日本大震災から、今年の3月で5年になります。改めて震災で亡くなられた方々に深く哀悼の意を表しますとともに、被災された多くの方々に心からお見舞いを申し上げます。私も雅子とともに、これまで被災地を度々訪問しておりますが、多くの方々が依然として厳しい環境の中で暮らしておられることに心が痛みます。いまだ復興の道は半ばであり、一日も早く被災された方々の生活が改善し、安心できる暮らしを取り戻されることを願っております。

 それと同時に、訪問するたびに、少しずつではありますが、復興が着実に進んでいるのを目の当たりにするのも事実です。特に、昨年も福島県広野町にあるふたば未来学園で高校生とお話をいたしましたが、若い世代の方々のお話を聞くたびに、自分たちが地域の復興とさらなる発展にどのように貢献できるかということについて、しっかりとした将来を見据えた考えを持ち、前向きに取り組んでいる姿が印象深く、とても心強く思いました。

 私としても、雅子とともに、被災者一人一人の悲しみやご苦労に思いを寄せ、厳しい環境の下で暮らす被災者の健康と幸せを祈りながら、被災地の復興に永く心を寄せていきたいと思っておりますし、また折を見ながら被災地への訪問を続けてまいりたいと思っております。

 <記者>昨年は戦後70年の節目の年でした。両陛下は国内外で慰霊の旅を重ねられ、殿下は雅子さまや愛子さまとともに戦争に関する展示に足を運び、戦争体験者の話に耳を傾けられました。これらのことを通じて、改めて感じられたことをお聞かせください。ご家族で戦争についてどのような話をされ、両陛下の平和への思いをどのように引き継いでいきたいとお考えでしょうか。ご覧になった御文庫附属庫やお聞きになった玉音放送の原盤の感想も併せてお聞かせください。

 皇太子さま 戦後70年という節目の年に、先の大戦に関する様々な展示やお話を見聞きし、戦争によって日本を含む世界の各国で多くの尊い人命が失われ、さらに多くの方々が大変つらく悲しい思いをされたことを再認識し、大変痛ましく思うとともに、改めて戦争の悲惨さと平和の尊さに深く思いを致しました。そして、歴史の教訓に学び、このような痛ましい戦争が二度と起こらないようにしなければならないとの思いを強く致しました。

 天皇皇后両陛下には、昨年4月には、ご訪問になったパラオ共和国で、また、先月はフィリピン共和国において、国籍を問わず先の戦争で命を落とされた方々に対して、心を込めて慰霊をなさるとともに、平和への強い思いをそのお姿で世界にお示しになりました。私たちも、そうした両陛下の平和を思うお気持ちをしっかりと受け継いでまいりたいと思っておりますし、また、私たちのみならず、多くの方々が両陛下のご訪問を通じて、先の戦争についての理解を深められたのではないかと思います。私自身、昭和40年以降、毎年のように、夏の軽井沢で、両陛下とご一緒に沖縄豆記者の皆さんにお会いしたり、戦後引き揚げてきた方々が入植した軽井沢にほど近い大日向の開拓地を両陛下とご一緒に何度か訪れるなど、戦争の歴史を学び、そして、両陛下のお気持ちに直接触れてきております。また、両陛下からは折に触れて、私たち家族そろって、疎開のお話など、戦時中のことについてうかがう機会があり、愛子にとってもとても有り難いことと思っております。

 御文庫附属庫や玉音放送録音原盤の話については、その場所を実際に拝見したり、玉音放送録音原盤で昭和天皇の肉声をはっきりうかがうことが出来、深い感慨を覚えました。戦争を知らずに、平和の恩恵を生まれたときから享受してきた私たちの世代としては、各種の展示や講演、書物、映像など、過去の経験に少しでも触れる機会を通じて、戦争の悲惨さ、非人道性を常に記憶にとどめ、戦争で亡くなられた方々への慰霊に努めるとともに、戦争の惨禍を再び繰り返すことなく、平和を愛する心を育んでいくことが大切だと思います。そして、そうした努力を次世代にも受け継いでいくことが重要だと思います。

 同時に、世界では、いまだに紛争が続いている地域がいくつもあります。そのような紛争の惨禍が終結し、いつの日か世界全体に平和が訪れることを願っております。

 <記者>先ほどのお話の中で御文庫附属庫の中に入られたときのこと、また、玉音放送をお聞きになったときのことについて触れられていました。実際に御文庫附属庫に入られたときのですね、第一印象、どのようなものをご覧になって、どうお感じになったのかという点と、あと昭和天皇のお声をお聞きになったときのですね、実際にどのようなお気持ちになったのか、その点についてお尋ねしたいと思います。

 皇太子さま 私は御文庫附属庫に入ったのは初めての機会で、本当に貴重な機会を与えていただいたと、感謝しております。まず入りまして、ここが非常に重要な役割を果たした場所であるということを改めて実感し、そしていろいろ絵などに描かれ、頭の脳裏にあるその情景と、今自分が見ている情景とを重ね合わせて、その当時は一体どのような感じであったのだろうかと、あれこれ想像を巡らせました。昭和天皇がここに座っておられたことなどを伺って、その当時にタイムスリップしたような深い感慨を覚えました。録音原盤については、例えばニュースなどでは度々うかがっておりますけれども、今回本当に原盤を実際に拝見して、そしてその原盤からの音を、昭和天皇の声をうかがうことができたということに本当に深い感慨を覚えた次第です。

 <記者>愛子さまのことでお尋ねします。先ほど愛子さまに関連して、ご自身の幅を広げていってほしいということを聞きました。殿下は、今の愛子さまと同じ14歳だった昭和49年にオーストラリアにホームステイをされました。ご自身の体験を踏まえながら、愛子さまの海外体験についてのお考えをお聞かせ願えればと思います。

 皇太子さま 私自身、愛子と同い年に、オーストラリアを訪問し、そこでホームステイなども経験し、オーストラリア人の家族の方とご一緒にしばらく過ごすことができたことは、私自身にとっても大変貴重な財産となっております。やはり中学生の頃に海外に行くことができたということは、私自身も大変有り難いことであったと思っておりますし、また短期間ではありますけれども、海外から日本という国を見る機会にもなったのではないかと思います。愛子については、小さいときにオランダに行ってはおりますけれども、今後も何らかの形で海外に行く機会があれば、自分自身の視野を広めることにもなりますし、やはり若いときにそういったことを体験しておくことはとても大切なのではないかと思っております。今、具体的にいつという計画は特にございませんけれども。



ひたむきに真面目に。ですって。




明日2月23日は、皇太子さまの誕生日です。56歳におなりになるとか。

今上陛下が天皇になったと同じ年齢の皇太子さん。

読みながら恥ずかしかった女性セブン誌のグラビアに踊る文字が、

ひたむきに、真面目に56年

真面目。なるほど。


呑むは呑んでも表向き、酒の失敗は無いとされる。でも、

シラフでおしっこ洩らしては、おられます。明日も、漏れるのは病気のせい、の発表は無いと思われる。

問題の大きなやつは、そこでないですし。


打つ。バクチはかつて、でっかいのを一度。まさこと結婚したこと。

わけ分からない内に、新郎の場まで運ばれていた、というのが実感なのではないか。

おくさんは欲しかったのですよね、それはわかる。


買う。一般的な意味で「買った」「遊んだ」は無い様子ですが、物欲しげな青年から物欲しげな熟年に移行されたのは事実です。


ひたむきに、真面目に56年生きて、ひたすら恥ずかしいヒトもどきにご成長あそばしてます。


女性週刊誌の見開き2ページ、その中に


>結婚23年、療養生活12年―「‘ご体調上向き‘は、皇太子さまの努力の結実」

>皇太子さま (55)

皇太子妃 雅子さま (52)へ

ぶれない信念

「好きなことを自由に」


とか書かれてます。くだらなさ過ぎて、書き起こしをする気力が今は萎えています。

二人で出て行って下さい。二人とも、要りません。

カツ丼やラーメンやオムライスなどに、メガ盛り、テラ盛り、とかあって、そういう破壊的な画像を見るのが密かに好きだったりします。

馬鹿にも、メガ、や、テラ、があるんですね。


去年の会見でこの〇〇は、ツマについて

「治療を続ける中で、体調をその都度整えながら、公私にわたってできる限りの活動をするための努力を続けています」

記事の中ですら、例年とほとんど変わらず、と記されている、

明日は何を言う。


一人娘さんをどうした。

親に否定された娘さんは、この日々どうしておられますか、まさこのことなどどうでもいい、今ではもう本当にどうでもいい、愛子さんの今、それを、知りとうございます、殿下。



愛子さんじゃない。



先ほど、部屋の中のテレビが

「皇室のこころ」

とかいう番組を流していました。

目は向けていませんでしたが、耳は聞こえていてしまいました。

内容もナレーションの声も、ネコナデ声の番組でした。

途中で部屋を出てしまいました。

・・いろいろ、おっしゃっておられますが。

お孫さんのこと、いかがなのでしょう。

一般家庭の、単なる長男夫婦の子、でないのが、愛子さんなのですが。


先日、ディズニーシーに、SP20人に取り巻かれて「お友達と」行って遊んだと報じられる愛子さん。

学校の試験休みを利用して、とかなんとか。しかしあれは、どう見ても、

愛子さんじゃない。

今更、みたいですが、恥ずかしいことに、何か頭につけてパーッと笑っておられる小さな写真を見ていて、すぐには気づきませんでした。

気付いて、今更ながら愕然です。

別人や。しんじん ではない。

ディズニーシーで上目遣いの(卑しい)顔で手を振っているあれは、

鼻の先長い、顎の発達した、何より目つきが愛子さんでない邪悪なものを発している、ひどく若い女性です。愛子さんではありません。

鼻の先は単に成長したのか、顎は母親に似て伸びて来たのか、だとしても、目つきが違います。

笑って横に延びている唇の形も、違います。

掲示板にのっている写真は見ていました、影子というには違い過ぎるな、この者は、やる気満々だな・・・恐ろしい。

と。感じていました。

トンマな私、です。で、

この目つきと顎の「愛子さま」は、今年はじめ、ナルヒト氏とマサコの間にはさまれて(つまり愛子さん仕様で)、両陛下に挨拶に行ったというそれと、同じ者に、わたしには見えます。

両陛下に、会ったのですね、あれは。お辞儀もちゃんと出来たのかな。

会えば、自分の孫の顔くらいは、まあ普通にわかると私には思われますが。

とは言え、ふた親が「これが愛子です」と、一緒にクルマに乗っているんだから。

あれで親だと言うなら、ですが、実際に、あれら両親が、それらしく、はさんでね。連れて行っていた。

愛子さんは、どうしておられるのでしょうか。


。。。コメントをいっぱいありがとうございます。

明日、ゆっくり、お返事させていただきたいと考えています。




上の動画の1分7秒あたりからあっという間なのですが、誕生間もなく陛下から贈られた「御地赤」。一般の七五三にあたる着袴の儀の際に着けられる衣裳で、これも愛子さんは、お地赤を付けているのはリハーサルの場面のみ。

内親王は盤台から飛ぶ儀式はなされないとのことといえ、次の場面では、この御地赤でないテラテラした衣装を着けた姿でカメラの前に現れておられました。雅子さんはそして、上等の光沢のものとはいえ、スーツ姿で。

着袴の儀は「なかった」とされ、それまで「敬宮」とお呼びだった両陛下が「愛子」と呼ぶようになられた・・・とは、改めて書くまでも無く知られたことです。どうしても書いておきたくなってしまうのです。

異様なことですから。

で。夫婦に挟まれて乗っている少女(というにおいは感じにくいのですが)が、私の目には、シーで上目遣いの笑顔のそれと、同一のように思われます。

私の感じでは、愛子さんでない者が、陛下より内親王に賜るものである地赤を付けている。

と、いうことなのです。

私が間違いなのなら、その方がすっきりします。おぞましいことだもの。


下の動画は、これも、目つきに違和感があった場面です。

初めて見た時は、

「愛子さん、どれだけクスリを盛られているんだろう・・・」

と、見ました。

尋常な目つきではないと、やはり思います。






着袴の儀で着るのは御地赤ではないです。 >最初に陛下から贈られるお着物は白です。
悠仁さまも賢所参拝(何の儀でしたっけ?一般でいうお宮参り)と一歳のお誕生日の時にお召しです。
三歳の時に内親王は陛下より御地赤を賜ります。
親王は黒のお着物でした。
その後、成長に合わせて、親が御地赤を作りますので、ダミー子が来ている着物は陛下から贈られたものでは無い筈です。
(御地赤もどきかも・・・)
着袴の儀のお着物と袴も陛下から贈られますが、マスコミの前に出てきた時は本来の着物ではなかったですね。
その上、賢所へ参拝したという報道もなかったですね。


KUONの記事の誤りについて正しいことを教えて下さいました。↑ の緑色の文字です。

ありがとうございます。

お浄めと申してはナンですが、末尾で申し訳ないですが、悠仁さまの動画を貼らせていただきます。



動画の中の愛子さん・何度でも。




平成13年。2001年の12月1日にお生まれになった愛子さん。

2004年の動画があります。愛子さん、三歳。



動画の1分13秒からが、軽井沢に一か月こもっていたまさこさんと共に帰京した愛子さんが、ハーピストの方のハープを、叩いておられる場面です。

この時のこのワンピースは、沖縄豆記者さんたちの前に、皇太子に手をひかれて「愛子さまはじめてのご公務」と出てこられた時と、同じワンピ―スと言われています。しかし中身が違います。沖縄のお子さんたちの前に出てきた愛子さんは、この愛子さんではないと思われます。

二か月のタイムラグがあるとはいえ、体格がまるで違います。よく喋ったと、その場にいた記者さんの一人が言っておられますし、年より大きな子に見えた、とも。

同じワンピースに見えますが、金魚の位置が違う、と検証された方がおありです。何より、もう一度言いますが、着ているお子さんが違います。皇太子は、一人娘でないお子さんの手を引いて、公の場にあらわれたと考えられます。

この時の動画は宮内庁が発信していましたが、ほどなく消えてしまいました。今は動画では見られません。

東宮家の内親王の、初めての、貴重なご公務の動画を、なぜ、宮内庁は消したのでしょうか。


1分50秒から始まるのが、いわゆる「うずらちゃん動画」です。

絵本を読む愛子さんを、皇太子が撮影したという触れ込みで、世に出されました。

かなり以前から、撮影場所はどこだろう(御所にしては背景が庶民的過ぎる(失礼ながら)。皇太子の声は入っているが、童女の読んでいる内容とは合致していない。童女の絵本とナルヒト氏の発する言葉に齟齬があります。

愛子さん(だという)いとけないお子は「パパはぁ?」と、見上げていますが、この時のこのお子の「パパ」は、ナルヒト氏ではないですね。

何より、こんなにもすらすらと(舌足らずですがそれすら可愛い)、愛子さんは、本を、音読できる方だっただろうか。

何かをかぶせたようなおかっぱ頭で、にこっと笑ったお顔も可愛い、この子は、しかし、一体、どなた?

どこの、誰?

愛子さんではないでしょう。


愛子さんでなくてもいいのです、三つで本を読めるお子さんばかりでは無い、ゆっくりだっていいのですし、でも、どうしてこの子を、愛子さんだと偽って、出して来た?。

6分過ぎたあたりの、リトミックに通っているとの紹介で出て来る画像、三枚ある最後の、赤いスパッツに無地のシャツのまさこさんに抱かれているお子は、愛子さんかもしれません。

やはり赤いスパッツでも、真ん中の画像、花模様のシャツで足をひらいて大きく口を開けて笑っている「愛子さん」設定のお子は、愛子さんでないと私は見ています。


2006年の愛子さん。

オランダへ両親に連れられて「静養」に出かけた折の愛子さん。

4分04秒あたりから、思い切り母親に、握られた手の、合谷と呼ばれる親指と人差し指の延長線の点を、押されています。

いわゆる「笑え笑えのツボ」、です。

からだをくねらせながら、いっしょうけんめい笑顔を作っておられます。

懸命の作り笑顔の愛子さんです。




動画の他の部分でも、両親だという東宮夫婦に囲まれながら、愛子さんの視線は、まるで親の方に向けられていません。

まさこさんの、子のそばにい慣れている雰囲気いっさい感じられない体のぎごちなさ。このように固い母親、珍しいと思います。

愛子さんのはずれてばかりの視線の向き、皇太子のにかにかと・・何なのでしょう、これ。


4分55秒~、悠仁親王殿下のお生まれの際に「お見舞い」に伴われた愛子さんが映っています。

しゃきっとした姿勢でいるのが難しいお子さんなのは、想定済みとして。

愛子さんのこの時の、カメラを向けている側の人びとへの口の動きは

「やめろよ~」

なのだと、はじめ読んだ時は、いたいたしく感じました。

幼いながら、ご病気だというお母さまを気遣っての、精いっぱいの「愛子さんの抗議」なのだと、感じたりもしたのでした。

お人よしでした、わたし。でも。


・・・今日の記事の内容は、さんざんに広まってること、よく知られたものであって、め新しいことは何も無いと思います。

冷静に、いま、明らかになって来ている「皇室内の嘘」を気持ちの基本に置いて動画を眺めてみると、どんな三文芝居が繰り広げられて来ていたか、虚しいくらい、わかります。

異常な世界を、真綿でくるんで甘言を弄して見せつけている動画です。

これにとどまらず、以後も、愛子さんの動画では、スキー場で、一瞬にして髪の長さや流し方が変わったり、身長が伸縮したり

最近の(数年前からもずっとでした、見るたび感じの代わるお子さんだとぼんやり思っていたのでしたが)、

画像によって目つきの鋭さが変わったり、顎が丸くなったり割れたり、鼻先は丸かったり、にゅい~んと伸びていたり。




学習院の初等科の卒業式、中等科の入学式での愛子さんは、東宮家のお子様の愛子さんだと、思っています。



溢れる思ひ。



              
          大伯皇女・考

                                 


  うつそみの人なるわれや明日よりは二上山を弟背(いろせ)と吾が見む

                                     万葉集巻二・165




弟は死んだ。天武帝の皇子・大津は、謀反の名のもと死に追いやられた。二十四歳。ただ一人の同腹の弟だった。

母がみまかった時は、五歳の幼さだった。私が伊勢の斎王となり、離れて暮らすようになっても、

「文武にすぐれ眉目浄らか、性は明るく人望あり」

など聞くだに嬉しい誇らしい弟だった。

たまさかに大津の消息を伝えて来る都からの風を、どんなに私は、待ちわびたことだろう。

その大津。私の弟が、十幾年ぶりに、夜陰に乗じて会いに来たのは、あれは、今に思えば,死の、何日前のことだったか。

斎宮という立場に置かれた人間の日常など、ああこうと語ってみたところで、余人に理解されるものでもあるまい。

私もそして、余の世界のことは知らぬ。

神に仕える身といえど 私は神を見たことは無い。

十三の歳に移されてより幾星霜。私には無為の朝であり夜であった。

二十六歳までを私は、いわば薄明に目を慣らしながらゆるゆると長らえていたようなもの。

胸に手を当てればそこにある身のうちの音のように、その名を思うそれだけが、わが身の生きのことわりであった弟。大津。ただ一人の、大津。

二つ違いの弟の突然の来訪は、空に耀ようあまたの星のうち最も大きな、最も光鋭い一つが、目くらますがごとく降ってきたようなものだった。

仰いでわかる背の丈も思わず指が触れんと延びた頬の粗さもむんむんと放たれているわが生に知らざる匂いも。

大津は、私の知らない世界のすべてと思われた。

忍びつつも朗らかに声は明るく、腕の力は強かった。涙の粒はわが肩に、熱く重かったのだ。

誰も二人の籠るあたりに近づかなかった。

見えなくとも常はそこここにある、密かな息遣いのおんなたちの気配も、消えていた。

息苦しかった。すぐに慣れてしまった。そばに大津のいることに。

朝を告げる鶏鳴さえ聞かなかった。短かすぎる夜だった。

やまとへ。

帰さねばならぬ弟の、もう見えなくなっている後ろ姿をいつまでも見送りながら私は、おそらくは逃れ得まい弟の酷い運命を思い、のがれる気持ちを見せずに発って行った胸の内を思って。

しとどの朝露に濡れながら、立ち続けた。

立ち続けるしか、なかったのだった。

既に母も父も亡い。皇女とはいえ私は、無力な一人の女に過ぎなかった。


  百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ


これが、弟・大津皇子の辞世である。

・・そんなに邪魔だったのか、そんなにも、邪魔だったのだね、わたしが。

さみしい笑顔を浮かべた弟の姿が、私には見える。

私には、甘えに甘えた弟だった。

幼かった日々も。

最後の、ただ一度の、あの、訣れの夜も。

しかし一人で逝ったのではない。見て来たように伝える者が、私にも、いた。

弟の妻・山辺は、いよよと知るや裳裾ひるがえし髪を振り乱し、はだしで駆け駈けて夫の死に殉じた。

ひとり行く秋山はどんなにか越え難かろうと、あの日わたしは弟のために泣いたものだが、死をまでも分ちあう、若くこころ結ばれた夫婦が相たずさえての旅ならば、黄泉への道も、寂しいばかりのものでもあるまい。

私は、まみえたことも無いのであっても、弟の妃に、よくぞ、と、手を合わせたい思いがする。と同時に、山辺のようには生きも死にも叶わぬわたしの命とは、いったい何なのだろうという気も、する。

私は伊勢より大和へ戻され、大津皇子の葬られた二上山を、いまは。朝に夕に仰ぐ。

幼くて離され、成年となった姿で私の前に現れた弟は、そのただ一夜を限りに、手の届かないところへ行ってしまった。

二上は美しい。暮れて行く峰を、朝日にきらめく峰を、もうどれだけ、眺めて来たか。

山でさえ、雄岳雌岳と睦まじい姿であるものを、茫々といのち残されたこの身に、この先、幾つの季節を越さねばならないのだろうか。

一人で、私は。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たいへん寒いので事務所にこもって室内整理に励んでおりました。ちょっとお茶など、のひまに万葉集を開いたりして、やはり私が気になるのは、天武天皇の皇子・大津皇子と、姉の大伯皇女のこと。

皇女は四十一年の生涯に、ただ六首しかうたを残していない。そのうたも全て、弟の大津皇子に向けたものです。

これぞ和歌、短い中に、思いのたけが溢れています。なまなまと胸に来る絶唱です。

いいなぁいいなぁと震える思いでいて、勢いで、小さい物語なども、書いてしまいました。そして、

以下に、上記一首以外の皇女のうたを、書かせておいていただきます。

万葉集の中の人びとは、天皇から防人まで。本当に生き生きと、人の思いをうたって(訴えて)おられて、すごいなあ、万葉集のある国に生まれてよかった! と、改めて何度でも喜ぶ、KUONです。


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わが背子を大和へ遣ると小夜更けて あかとき露に我が立ち濡れし(2-105)

二人行けど行きすぎ難き秋山を いかにか君が一人越えなむ(2-106)

ここまでは、男子禁制の神宮へ大津皇子がひそかにしのんで来て、翌日、帰って行った時のうた。現代の言葉に訳されているので、引用される場合も、言葉は微妙に異なっていることも多いです。万葉集のむずかしい元の文字群を、どう読み解くか、なのです。

たとえば、2-106の一首、最後の七音を、

「一人越ゆるらむ」

としてあるような。私は個人的に、字余りになるけれど(わざと字余りにすることもあります)

「いかにか君が一人越ゆるらむ」

の方が、余情があっていいなあ、などと感じています。こういうことも、うたの楽しみの一つと思います。もう、オタクの世界かも。(笑)。

原文は、以下だそうです。~だそうです、としか言いようがないのです私には。

「二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武」


そして。

以下は、ただただ、追慕している皇女さまです。



神風の伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ 君もあらなくに(2-163)


見まく欲り我がする君もあらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに(2-164)


うつせみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟背と わが見む(2-165)


磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといわなくに(2-166)



会いたい、会いたい、恋しい。

でも、あの愛しいものはもう、いない。のでした。




美智子さまの手作り餃子





60年前の「皇室記事」の続きを、せわしなく進めて行きます。「軽井沢での出会いからロマンスは仕組まれた恋である」と、ある人びとの間で意識的にささやかれているウワサがある、までを、前回、触れました。

>はっきり言おう、そのウワサにはまったく根拠がない。 

と、記事は書く。だがウワサそのものは存在する、と。スデニハジメカラハジマッテイタンダナ。

正田英三郎氏は大層苦悩した、と。

正田氏の実兄、阪大総長だった建次郎氏は、自分は苦しみの聞き役だったなど、言葉少なく語ったと。

ある親族の一人は

・親族会議は無かった、ゆえに賛否二派で争うなどありえない、と断言。

・不安なのは親族全員が不安

・まわりにとってプラスになる何ものもない

・すべての人が消極的だった

・いわば取られっぱなしになるのですから

・映画に行こう、デパートに行こうといってもそうはできなくなる

・美智子は行ったきりになるという思いは誰でもが考えることです。きっぱり。


などと仰ったのは、美智子さんに近い、女性なのかな、と、想像します。それと、

ものすごく、入内を迷惑がっていられる気もするし、

皇室って、そんな、イヤだけど行ってあげないと仕方ない、というものだったかな、と。

その、26年開設以来から美智子さんが会員だった「竹山パーティー」。26年って、十代の初めからあの方、皇后さん、会員だった? こわい顔してソシアルダンス踊ってらした写真見ましたが・・その主催者の方は、‘よき相談相手‘だったそうですが・・十代から二十代の深窓のご令嬢が、つまりは「新しい男女の出会いをつくる会」を主催するような人物に、何を相談・・・

>「売りこんだということや、‘仕組まれた‘(ここはもっと極端な表現)なんていうことは絶対にない。あくまで愛情の結晶だと思う」

と言うておられたそうです。何を根拠に「絶対」と断じ、愛情の結晶なんて言葉を遣うのでしょう。うさんくさいにもホドがあります、と感じるKUONでした。

「皇太子妃の結納金がいくらくらいだろう」

とも書いてあります。

数字も上がっていますし、三笠宮妃殿下の場合は2万坪あった土地を全部売って、とか、衣類の用意(役年間の婚約期間中、三日にあげず仮縫いがあった、など、へええ、なことも引用されています。この妃殿下(ご健在)の父君は、戦後、総てを失くされて自殺なさったのですが。妃殿下には何をもどうも、出来なかったのでしょう・・。

で。正田家はこの入内の費用をどうされる、などのこともけっこう書いてあります。私は数字に弱いので省略しますが、この記事中、納得のいったことの一つにカウントする言葉。

>元来皇族とのお付き合いは一方通行だといわれており、皇族と非皇族との縁組の場合なども非皇族側の持ち出しということで、

お子さんが生まれたり入学したりで費用がかさむし、盆暮れのつきあい、元宮家、元華族とのつきあいということになると、

と、記事には書かれています。皇族の一部は「もらう」でなく「くれたがるから受け取ってやろう」なのであり、残念ながらナルヒトさんはそっちのグループ。くれくれ皇族さん。で、他には?

私にはピーンと来ましたね。

美智子さんの「新しい皇室」「皇室改革」には、こういった面もジャスト含まれているな、と。

無駄な(と美智子さんが思う)付き合いは合理的に整理。盆暮れのご挨拶も考え直し。いじめられたと称しながら、ご親戚とのお付き合いは、とっても下手だった方。今上夫婦は、浮きあがっていました、いつも。

礼宮殿下や紀宮内親王を可愛がっておられた宮妃は、おられました。

「皇室は質素を旨とし」などと、今に思えば噴飯もの。自分たちのためにお金は使う。無駄な付き合いは避けて=自分たち、というより、自分のため以外には、お金は使わない、使いたくない、が、美智子さんの歩んできた「皇室でのワタクシ道」でなかったかと。

ひとにお金を使いたくない。この考えだったとすれば(内親王にも使いたくなかった、次男のツマ=正当な皇位継承者の妃殿下でありご母堂であられる方=にも使いたくない、いい衣裳なんかも回してあげたくない、見ていると、お金に対してさもしいひとであることが、よくわかります。

お金は、人のためにつかうものですと、教育を受けなかったのですね。

そうでしょうね。うん、うん。

もとに戻ります。その一方交通的交際を賢明なる未来の皇后の実家がどうさばくか、

>人ごとならず、何か末恐ろしい気がするなどというのはやはり貧乏市民の骨の髄までしみこんだ根性であろうか(某財界消息通談)。

ううん・・。このお方はもちろん、今は亡いお方で、そして、皇后と東宮妃、二代にわたって「非皇族」から入内したおんなが、二人が二人とも、ティアラと言うよりは、その身位の女性を象徴するような「宝冠」や、大粒のダイヤモンドの煌めく「首飾り」など。

その他のあれこれについての「疑惑」を、生前に耳にされたら、どんな感情を・・いや、初めから、何もかも、ご存じだったような気にもなります。

「人ごとならず、何か末恐ろしい」

って、もしかして違う意味だったとしても。

言い得て妙。そんな気がします。

記事はラストに向かって行きます。

一番平凡な(それだけに一番市民のききたい)心配をいうとーーとあって、

①皇太子殿下は美智子さんと婚約中にアベックで映画に行けるか

②美智子さんが作った餃子を皇太子殿下がたべることができるか

③美智子さんは、里帰りが年に何回くらい出来るか、また美智子さんの子供をお母さんの富美さんが、気さくに抱くことができるかどうか


が、それだとか。

当時の市民(一貫して「市民」と書かれ、「国民」の文字は記事中にありません)は、まこと、優しかったか呑気だったか、以下、略。

皇太子夫婦が婚約中に映画に行ったとは寡聞にしてしりませんが、里帰りはしょちゅうしておられたし、富美さんはしょっちゅう外車で御所にうかがっていたし、夫婦はけっこうテニスざんまいで、ホテルへの滞在も一度に一か月に及ぶことも多々あり。

実家に一家で帰っては、先にお子たちを返し(このお子たちは、親王さま方だったのですが)、のんびりしておられたのも、しょっちゅう。

とていうか。

なんで、どうして、突然「餃子」? 手作りの餃子を、皇太子がたべられるか? 餃子? 得意な料理は、お母さま譲りの、ギョーザでいらしたのか?。

まさこさんの特異料理「風呂吹き大根」も、みごと意表をついてくれて、さすが才媛、ユーモアのセンスもおあり、とか思って感動し(ませんでした、嘘くさい、わざとらしい)、当時の記事を斜めに読んだものでしたが。

60年前の週刊新潮、なんと無邪気に、無防備に(という意味でもなかったのか)、あまりにも唐突に、かつ堂々と、餃子の文字がありますもので。

目が点になりました。

この餃子について記事中には、

美智子さんは、つい最近まで(婚約云々までの時期)、中国の料理を習いに通っていたのだと、その方のお名前まで明らかにされている。その方は、

>もし皇太子さまが餃子がお好きなら、美智子さんのお手並みを、ぜひお見せしたい

と語ったそうで。

御所には、小さいキッチンが実際に設計されて、そこでジュースでも作る風情のエプロン姿の妃殿下の写真が公開されたのは有名な話。

餃子では無かったですね。

60年前の日本人っに、餃子って、今ほどポピュラーな食べ物だったかしら。

二十歳そこそこの深窓のご令嬢は、中華料理を習いに行くのがフツーだったかしら。

今日はもう、最後まで書いてしまうつもりでしたが、なんでとつぜんギョーザ。の疑問が、ふつふつと。

今の私は、ごくふつーに、餃子も好きですが。

皇太子は当時、単なる皇太子でしたが、いずれ即位して天皇になるお約束のお方でした。

天皇のおつとめをなさる方に、餃子の常食は、ありや、否や???。

正田家では、しょっちゅう食べておられたのかしら。

そりはなぜ。

なあぜ。

松平信子さまの、あのセリフが蘇ってまいります。

お妃教育が、どうしてもすんなりと進まなかったという、正田美智子さん。

教育係を任ぜられた信子さま(梨本宮伊都子さまとはご姉妹)は、こう、おっしゃった。

「母親が上海夫人だからよ!」

だからかどうか、ミジンコKUONには、まあ断定は、できませんけどね。





賢所を建て替える?。




現・東宮妃、雅子妃殿下に対して

「祭祀に出ない、さぼっている」

の声が大きくなって行った頃、そうではない、妃殿下は病気なのであって、サボっておられるのではない。という説を読んだことがあります。

祭祀の折りに、皇太子妃殿下が身にまとうのは十二単。髪はおすべらかし。十二単の重さはおよそ20㌔あって、すべてを付けるには2時間から3時間かかる。

皇后と東宮妃はそれが正装。宮家の妃殿下はドレスなので、負担の重さは比較しようもない、と。

お病気の妃殿下にそれは過重な負担である、ということだったのでしょうか。

皇太子妃の正装がご負担のまま、病気の実態は正式に発表されないまま、時は流れました。

そもそも、皇太子妃が祭祀に「出る」の「サボる」のと言っても。

基本、祭祀を行うのは、上御一人である天皇です。天皇のみが祭祀を行われるのです。

天皇以外の方々は、その間は、隣りの部屋で待機している。

皇后が独自にする祭祀は無い。

神事の前に皇后は、中心になってすることは何も無い。

皇后以上に皇太子妃に、行うべき「祭祀」は無い。

さぼっていると言われるのは、正しくは、他の、いろんなことなのでしょう。いろんなことは、壊滅的に、何もしていない。

何もしていない。


美智子さまが昭和54年に、
   

   新嘗(しんじゃう)のみ祭果てて還(かへ)ります

   君のみ衣(ころも)夜気(やき)冷えびえし


とお詠みになっておられます。

宮中祭祀で何より大切な新嘗祭を終えられて御所にお帰りになられた今上陛下の衣に、冷たい夜気がしみこんでいるようだ、というおうたと思います。当然、頬も御手も、凍えるごとく冷え切っておられて、の感慨ですね。

素晴らしい御歌と思います。唯一の神事を行うご夫君を、誇らしく、あるいはいたわしく感じておられるか、と。

いや。

祭祀を行う天皇が、極寒の中で、おいたわしいものかどうか。

あくまで私の感覚ですが、天皇にしか行えない祭祀を行う天皇の存在を、こうして、一人の女性の夫であるところまで降ろして来られたのが、美智子さんであると。

夫君はお幸せであったかも知れません。夫人の満足感も高揚感も。たっぷり。

上にあげた御歌を、すばらしいと同時に、これは妻の思いであるな、皇后のうたというには違和感あるな、とも、私は、感じるようになって行ったのでした。

皇后としてはこの際、何も思わず感じず、思っても感じても、こういう形のうたにはしない。

「無」で、淡々と受け止められるのが、皇后陛下のあり方でないかと。

美智子さん流の思い方でもって、祭祀を行う部屋にエアコンを設置したり、古来からの地毛でのおすべらかしを排して、後の始末が妃殿下がたに楽なように、カツラを使うことで負担軽減を図ることにつながるのだな、と、感じてしまっています。

今ではもしかしたら、祭祀の折りの天皇の御身のあちこちに、使い捨てカイロが大活躍しているのではないかと。想像してしまう。

祭祀が、行われているとして、の話です。

まさこさんに、妃のつとめのあれこれが負担なら、しなくていいのよ。

そういうことにも、なるのでしょうね。

大きなことが抜けている気がします。

徳仁氏のツマであるだけでない、お忘れなのかもしれませんが、まさこは、なんと、東宮の妃なのですけど。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


大正の、貞明皇后さまは、天皇家の祭祀に対して、とても熱心な思いの方でいらしたそうです。

おん年60歳を過ぎられて以降は

「粗相があってはならないから」

と、欠席されるようになられた。

宮中の賢所へは、今でいうトイレに行ったときに着ていた衣服ですら入れません。そういう決まりがあると、

内掌典だった高谷朝子氏の「宮中賢所物語」という本に書かれています。

読めばびっくりなことがさまざま書かれています。

体調を整えておくことの、当たり前の重要性。

そこで倒れるようなことになったら。

食べ物を吐いてしまう仕儀になったら。

取り返しがつきません。場合によっては、

賢所全体を作り替えなければならないかもしれない。

と、記されています。

現代人が思う清浄とは別物の清浄、穢れの意味の生きている場所、天皇が祭祀を行う「聖域」が、皇居、賢所、なのだとすれば。

病気なので正装できない東宮妃、伊勢へ参詣してさえ潔斎を拒んだ、なさなかったという皇太子のツマ(皇太子が引きずられたのか自分だけは潔斎したのかは私は知りませんが、参拝のカッコウは一応、三人でつけていた)が、出入りすることは、サボりが云々という問題以上に、言うに及ばずと思われます。

そして、御不浄とかつて呼ばれ、今はトイレと明るく呼ばれてはいるが、シャワー式で清潔になってはいるが、トイレに入ったままの衣装では賢所へ入るさえ、禁ぜられる。

となれば。

現・皇太子、ナルヒト氏の、時になぜか人前で、礼装の服のズボンの前が漏れて濡れてしまっている現状を思えば。

思えば。

病気なら笑えない、笑ってはならない程度の自制心を持つ者としても、皇太子のズボンの前が濡れてしまうことについては、病気の故との説明一切ない、だから。

皇太子は、おしっこが漏れてしまうような病気ではなく、おしっこがたとえ漏れていても、公式には「そんなことは無い」のです。

でも、漏れておられるのです。

で、今でも次の天皇である、との認識に変化なしです。

もしや、そこで、漏れたりしてしまわれたら。漏れないまでも、出続けの状態でいらっしゃるなら。やはりナルヒト氏は、その任にふさわない。

おしっこはそれ自体は不潔でもなんでもない、出なければ大変なことになる、人体にはとても大切なものです。

でも、やはり、賢所で漏れるのは、お立場としては「不可」だと考えざるを得ません。

漏れでも何でも、無かったことにしてしまえと。隠せば隠せるとするなら。

もうそれは、本来の意味を失っている。
それでも、ナルヒト氏を、その位置に置きますか。

今更言うことも何か虚しいのではありますが。のんびりと申しますが。

廃太子、廃妃、これしかないですよね。願いなどでなく。それしか無い。

それしか無い。





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