KUONのブログへようこそ。

ブログタイトル変えました。中身は変わらずKUONです。

雪がしろくて


避難所のすべて閉ざさる そんなのがまだあったのと言ふ人もゐる

春が来ればもはや3年ブルーシートと白き袋とばかり増えゆく

帰阪する人らと落ち合ふP・Aに浪江の雪の重さ聞きをり

楢葉から大阪へ帰る半年ぶり子はもう歩くとそそくさとT氏

律儀にも並べる仮設住宅の一つ一つの窓のともしび

自が家へもう還らない帰れない 今日見れば新しき仏壇が有る

若い頃は田んぼ仕事がイヤだった罰あたったとYさんは泣く

原発事故の後アカギレが無くなった 仮設に暮らすIさんが見せる

餅ついた上がって食べよと呼ぶ声に膝にて這ひこみ手袋を脱ぐ

コート脱ぎマフラーを取り迎え呉るる笑顔の温さに鼻水拭ふ

「だいどこが狭いし缶の小豆だよ」おおぶりの椀に善哉美味し

一斗搗きの餅の味など語りゐしYさんが不意にすまんなと言ふ 

土間に搗く餅ももうもうと立つ湯気も夫、息子も全部が消えた

それらしき慰撫の言葉を持たざれば炬燵に共に生姜湯を呑む

いいかげんに離縁してやればいいのにと 詳しく知らねば妃を庇ふ

しんしんと夜は更け雪は降り続けまだ帰るなとお茶を替えたまふ

「考えずおれば何とか過ぎてゆく 死ぬまでこれもいいか」って そんな・・・

あまりにも雪が白くてどす黒きものらの話をしそびれました



ぶじに帰って来ました。

優しいお言葉をありがとうございました。また、明日・・・。







 

スポンサーサイト

行って来ます。

こんばんは。

秋篠宮妃殿下 紀子さまは、眞子さま、佳子さまとお揃いで「オペラ座の怪人」のミュージカルをご覧になったとか。

とても美しいお三方で、客席も華やいですてきな一夜だったそうです。

今日は皇室のお餅つきで、秋篠宮家の皆様も総出で。

皇太子さんは愛子さんと二人で先に入られ、皇太子さんは車の窓を開けてお手振りをしながら皇居へ入られたそうです。

人気の無いのを気にしておられるのだそうです。

雅子さんは一人で、一番後から入ったそうです。

餅つきが終わってから、とか、書いてあるサイトがありましたが、本当のところは私にはわかりません。

でも、そう言われてしまう人なんだよね、とは、納得します。


明日から30日まで留守します。

福島へ行って、雅子さんのことも、いっぱい、しゃべって来ようと思います。

神話の昔のめおとのごとき。

朝から出ていて、帰ったら冬休み中の孫息子・6年生が、ぼおっとテレビに向かっていた。

「あべしゅしょうがやすくにじんじゃにおまいりとか言ってるよ」

と言う。

えっ?と、ぐるぐる巻きのマフラー、外そうとして焦って首しまりそうになりながら、神官さまに導かれて参拝される安倍総理大臣のお姿を拝しておりました。

政治家にアタマを下げたことなど今まで無かった。

でも、ありがとうございます、と、総理大臣に向かってアタマ下げておりました。思わず、テレビにアタマ下げてた。

坊は驚いて、ばあちゃんなんでお辞儀してんの、と、世界中で一番澄みとおってキラキラと輝く美しい瞳で(KUON比:個人によって感想は異なります)嬉し涙さえにじませる祖母さんを見つめる。

うん、そうだね。

「ばあちゃんはこの頃、なんだか心が沈んで、どうにもならんことを思いつめて、体も心もがっちがちに硬化してしまっていたのだが・・・ううう。

黙ってしっかり励んでおられる首相のお姿を見て感動して、てへぺろ、泣いちゃったわあ」

どははあ。この機会に「安倍首相」「靖国神社」の漢字表記を教えるべく、振り向いたら、野球と焼き肉と友達にしかこの世の関心を持たぬ男児は既に、消えておりました。

今夜教える。ふっふっ。



このような子どもがこの先、生きて行く世のリーダーが、信頼され有言実行の方でいて下さいますように、と願います。

皇室らしい皇室が、存在していて下さいますように。強く願います。


先日の陛下の初めて公開されたという動画によって、陛下と首相が、二人で向き合って話をされる機会が「あるんだ~」と、熱く思ったわたくし。

とても安心させてもらった場面でした。

sarahさんに教わった知識によりますと、わが国の天皇陛下が、ご在位中に傘寿をお迎えになるのはめずらしいこと。、

記録が確かな推古天皇以降では、在位中に傘寿を迎えたのは昭和天皇だけ。

陛下は後水尾(ごみずのお)天皇(第108代)に次いで、

長寿歴代3位の陽成(ようぜい)天皇(第57代)と並ばれる」


そうです。ともかく、大きな病も癒えられて、両陛下揃ってご公務に邁進されること、でもお疲れで大変だろうこと、まとめて言えばやっぱり「素晴らしいこと嬉しいことありがたいこと」である中でお迎えの祝福の日にも、並んでお立ちの奉祝の場で、国旗を打ち振ってお喜びの人々の前で、何をくっちゃべることがあるのか、締まらないほどけきった顔でヘラヘラふにょふにょ、しゃべっておったあの人たち。

秋篠宮家のお三方の周囲の気は、きりりと張りつめていた。気高い空気が見えました。

あまりにもなナルマサの姿に、ものすごく疲れた感を感じ、一時的な・・・急性突発性鬱、みたいな気持ちになっておりましたが。

安倍首相ありがとうございます。100パーセント支持では無いですが(夫人のことは置いても)あなた様しかおいでになりません。

今日の夕刊では首相の靖国参拝を報じ「中韓の反発必至」と、でか文字でうたっておる。

黙らんか。

反発するとあっちは言うに決まっている。それはよかった、と、言う訳がないじゃないか。

反発したからどうだというのか。

あえて喧嘩は望まない、あえて仲悪くならんでいい。が、強いられての自虐はもうごめん。

「日本は(中国や韓国に)悪いひどいことをしたから、永遠に謝り続けなければならない」

これが、小和田恒や小沢などの唱える日本ハンディキャップ国家論、なのだそうです。

もういいです、それはもういい。

日本を取り戻そう、取り戻す、と激務に就かれた首相。

卑屈で舐められ放題で、なのにすっきりすることさえ無いおかしな史観は抜けて、日本の国らしくやって行きたい。

幸いなことに、神様の思召しでか。

清潔で質素で限りなく豊かなものを感じさせて下さるご夫妻がいらっしゃる。

天と地。陽と陰。神話の昔のめおとのごとき秋篠宮同妃両殿下。

冴え冴えと気高いものをお感じ申し上げております。


・・・少し、気持ちが晴れて来ました。

なんだか論旨が不安定だけど、実感なんです。


お返事は、も少し情緒が安定してから…明日はだいじょぶ、ゆっくりと書かせて下さいませ。

秘密の方も、知らなかったこと、教えて下さって。感想書きますね。

メールで下さったお方さま。

気のせいか、絡まれている気がします。メールで文面や内容が表に出なくて、しかもあの内容ですと私にはどうすることも出来ません。

よろしければ、表へ来て下さった方が・・・お願いはあえてしませんけど・・・私の気持ちで、あなた様に迎えるように思います。








引き止めませんから。どうぞ。解放。

「むつかしいと思うことも沢山あるし、辛いことも在ります。いつになったら慣れるのか見当もつきません。(中略)時には八方ふさがりのような気持ちになることもあります。」

皇后陛下・美智子さまが昭和35年、ご結婚一年目の感想を問われてのお答えだそうです。

けっこうはっきりと仰っているのに改めて驚きました。

皇后陛下はほんとうに大変な中を通って来られ、胞状奇胎などの試練をも受けられた。しかしご実家のお母さまは

「皇室に差し上げたもので、もう正田のものではございません」

と、見舞う事さえ遠慮されたと。

今週の週刊新潮からの拾い読みです。

フランスの有名な雑誌が、雅子サンを被害者のごとく書いたと、これは目新しい話ではありません。

雅子妃をああだこうだ、何々、菊の玉座の囚人、ですと、ちゃんちゃらおかしいわ。あっち向いては、センス無いだの何だの(ここにはあえて書きませんが)好きな放題、あざけっている相手を。

まあいいわ。

「(略)外国メディアからは、日本の皇室はある意味、閉鎖的で不可思議な存在になっているのです。」

それで全く、構わないと思う。日本には日本の流儀がございます。

新潮は、小和田恒氏が、大層積極的にけっこう激烈に「うちの娘を皇室に」と売り込んでいたことを、書いている。部分的にはどこかの受け売りみたいではあるが「恒の野心・野望・ごり押し」に触れているし。雅子さんが実家離れできないで、実家の皆さんとお遊びのことも書いている。

あれやこれや書かれているけど、今週の新潮は、少し前の論調に戻しています。事情はさまざまおありなのでしょ、あっちへ傾きこっちへ傾く。商業誌だし。

西尾幹二氏の「指摘」なんかも載せています。

最後のとこをちょっと長くなりますが書き写します。


週刊新潮1月2・9日新年特大号より。

「しかしながら、ヨーロッパの王室と違い、わが日本の皇室には、なによりも‘無私‘を体現されて来た伝統があるのだ。」

とあって、評論家の西尾幹二氏(皇太子殿下、ご退位なさいませ、を提言された方)がこう指摘する、と。

「国民に無私の祈りを捧げる‘祭祀王‘としての役割が、天皇陛下を天皇陛下たらしめている所以です。皇室は権威主義からは最も離れた、無私の象徴なのです。ですが、今なお要職に就き、頻繁に雅子さまに会う小和田恒さんは、無私の精神とはほど遠い方。雅子さまが、皇室を息苦しく感じるのは、そんな父親から少なからず影響を受けているからで、美智子さまも紀子さまも乗り越えられていることをしっかり踏まえていただきたいのです」


ずっとこのお方は、ぶれておられません。

そして新潮の今週号は、こんな風に締めてはります。

「雅子さまは、11年ぶりの海外公務となるオランダ訪問を果たされ、あるいは被災者の激励のために東北3県にも赴き、全国障害者スポーツ大会の開会式にも出席された。」

・・・この記者さん、皮肉を平気でさりげなくしゃらっと書いてて「いい」と思う。

「大勢の人々の前にお出ましになる機会が増え、療養生活10年にして回復の兆しもみられるという。」

・・・うへへ。お上手。イヤミが。

「しかし、西欧メディアが言うところの、雅子さまが囚われているものは、皇室ではなく、他ならぬ「小和田家」なのかもしれない。

その呪縛が解けない限り、いつまで経っても苦難の日々が去らないのではないだろうか。」


ブラヴォ、記者さん。

ちゃあんと、わかっているんですよね、皆さま、マスゴミ、とか言われながら。

んで、誰もが思うことです。

囚人とか。エライこと言うてくれますね~小和田さん。

誰も、あの、出た出た・出る出る・詐欺の常習者を、いつまでもとらえておいて欲しいなんて望んでおりませんよ。

皇居のバルコニーのお手振りには、ぱんぱんまんの丸い顔とお腹と晒して出て来た。

あのドレス10年目です。10年着回ししてたって、質素とか倹約とか感じません。どうでもいいお金は湯水のごとく遣い、人前に妃として出て来るかっこうは、これなんじゃ、の悲惨さ。

その後の座っての食事会には出た、海外の行使大使などをお呼びしての会は欠席。テレビには映らないし。

英語、喋れないし。

あのお方をとらえておく必要も理由も無いでしょ、むしろ、一刻も早い釈放、解放、こそが願いです。

どうぞどうぞ、出ていらしてください、自由な外へ、窮屈な皇室など抜けて。

明日にでもどうぞ。

皆が喜んで、大きな花火打ち上げて祝う様子を、どこかのバルコニーからご覧になるがよろしい。

日本には、菊の玉座の囚人、なんてものはおりません。

いぎたない、身の決着さえ自分でつけられない、みっともない〇〇もどきは、まだ、いるみたいです。


皇后陛下のことをもっと書きたかったのに、イヤさがあまって黙っておられず、雅なんとかという、名前負けしている人のことを書いてしまいました。

下方に置いて失礼は承知ですが、この中の稲の刈取りのシーンにも雅どんはおらず。

愛子さんは、刈取りってチクチクするのに、半そでのシャツ姿。




絡む。イヴ。




ワイングラスに(・・・)しゃぱしゃぱしゃぱとシャンパンを注いで。

淡いオリーブ色の液体、小さなまん丸いプクプクの無数の泡たち。

卓上には背の高い低いカラフルな幾本かの蝋燭。いっちょまえのシチュエーション。

冷やした小エビやアボカドやアスパラガスのサラダ、チーズ、お定まりのチキンやBLT生春巻き。一番好きな艶消しの銀色のフォークで、ゆっくりと口に運びながら、ただいっぱいのシャンパンで、酔っ払ったのですか私。


お腹の奥の方から、ふつふつ、湧いてくる何か、これって、泣き上戸っていうのか、怒っているのか、やっぱり「悲しい」ってそういうものか。


そこを超えては仰れない。

それ以上は口にお出しになれない、お出しになってはいけない。

ご不自由な・・・などとは畏れ多くて言えないことです、つまりそういうお立場。

そのお立場を、精いっぱい、生きて下さっている。

これからも皆のために祈って行きたいと。

皆の幸を願って行くつもりだと。

そんな、こころもるいせんも熱く潰れてしまいそうなお言葉を下さって、

そして、

天皇は孤独、だと。

孤独だと、天皇というものは。

そしてそして、皇后は、と。

皇后が、そんなわたしを支え。

寄り添い。

一緒に、今まで、と、おねぎらいになって・・・・つまりどうか、と、願われるのです。

皇后をこれ以上、責めないでやって欲しいと、

いっしょけんめい来たのです、あまり責めないでやってくれないか、と。

そんなお気持ちなのです、きっと。

おそらく。

・・・


陛下。

民のこころにあるのは、片思い、そんな思い。

民の思いの半ばを占めたのは、片思い、そんな思い。

届かない思い、

返らない思い。

触れて頂きたかったのは、そちらでなかった・・・

違います、いいえ、お分かりなのですね、そんなことはもちろん。

最もお苦しいのはどなたか。なのかも。

わかっていますとも、わたしどもにしても。

・・・誰も、あの者らを、どうすることも?

どうすることもできないのですか。

どうすることもできないのですね。

・・・グチ上戸なのでしょうか私、傷ついてるみたいな気持ち、

泣き上戸なのか、ものすごく悔しい感覚、

待つしかないのでしょうか、

汚濁の沼ヘドロの中へ、あの者どもを操る{あれ}が、先に、どぶどぼと

ずぶずぶと、

沈んで行くその時を、日を、待っているしかないのでしょうか。


絡み上戸です。きっとそうです。

明日は酔いじみたこのもやもやは晴れているでしょうか。

新たなもやもやは湧き出てきますねおそらく。



イブの夜には、この曲を聴きます。

「ありがとう」・・・。




「国民の幸せを祈りつつ、努めていきたいと思います」 ご会見全文


■ご会見全文

 --80年を振り返って特に印象に残っている出来事や、傘寿を迎えられたご感想、これからの人生をどのように歩もうとされているのかお聞かせ下さい

 「80年の道のりを振り返って、特に印象に残っている出来事という質問ですが、やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです。私が学齢に達した時には中国との戦争が始まっており、その翌年の12月8日から、中国のほかに新たに米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましい限りです。

 戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。戦後60年を超す歳月を経、今日、日本には東日本大震災のような大きな災害に対しても、人と人との絆(きずな)を大切にし、冷静に事に対処し、復興に向かって尽力する人々が育っていることを、本当に心強く思っています。


 傘寿を迎える私が、これまでに日本を支え、今も各地で様々に我が国の向上、発展に尽くしている人々に日々感謝の気持ちを持って過ごせることを幸せなことと思っています。既に80年の人生を歩み、これからの歩みという問いにやや戸惑っていますが、年齢による制約を受け入れつつ、できる限り役割を果たしていきたいと思っています。

 80年にわたる私の人生には、昭和天皇を始めとし、多くの人々とのつながりや出会いがあり、直接間接に、様々な教えを受けました。宮内庁、皇宮警察という組織の世話にもなり、大勢の誠意ある人々がこれまで支えてくれたことに感謝しています。

 天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。

 これからも日々国民の幸せを祈りつつ、努めていきたいと思います」

 --現在のご体調と、ご公務の引き継ぎについて、どのようにお考えかお聞かせ下さい

 「『こどもの日』と『敬老の日』にちなんで、平成4年から毎年、子どもや老人の施設を訪問してきましたが、再来年からこの施設訪問を若い世代に譲ることにしました。始めた当時は2人とも50代でしたが、再来年になると、皇后も私も80代になります。子どもとは余りに年齢差ができてしまいましたし、老人とはほぼ同年配になります。再来年になると皇太子は50代半ばになり、私どもがこの施設訪問を始めた年代に近くなります。したがって再来年からは若い世代に譲ることが望ましいと考えたわけです。この引継ぎは体調とは関係ありません。

 負担の軽減に関する引継ぎについては、昨年の記者会見でお話ししたように、今のところしばらくはこのままでいきたいと思っています」

 --今年は五輪招致活動をめぐる動きなど皇室の活動と政治との関わりについての論議が多く見られましたが、皇室の立場と活動について、どのようにお考えかお聞かせ下さい

 「日本国憲法には『天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。』と規定されています。この条項を遵守することを念頭において、私は天皇としての活動を律しています。

 しかし、質問にあった五輪招致活動のように、主旨がはっきりうたってあればともかく、問題によっては、国政に関与するのかどうか、判断の難しい場合もあります。そのような場合はできる限り客観的に、また法律的に、考えられる立場にある宮内庁長官や参与の意見を聴くことにしています。今度の場合、参与も宮内庁長官始め関係者も、この問題が国政に関与するかどうか一生懸命考えてくれました。今後とも憲法を遵守する立場に立って、事に当たっていくつもりです」

    ◇

 --53年ぶりとなったインド公式訪問のご感想をお聞かせ下さい

 「この度のインドの訪問は、インドとの国交60周年という節目の年に当たっておりましてインドを訪問したわけです。

 インドを初めて訪問しましたのは当時のプラサド大統領が日本を国賓として訪問されたことに対する答訪として、昭和天皇の名代として訪問したわけです。当時は、まだ国事行為の臨時代行に関する法律のない時代でしたから、私が天皇の名代として行くことになったわけです。



 当時のことを思い起こしますと、まだインドが独立して間もない頃、プラサド大統領は初代の大統領でしたし、これからの国造りに励んでいるところだったと思います。ラダクリシュナン副大統領は後に大統領になられました。それからネルー首相と、世界的に思想家としても知られた人たちでしたし、その時のインドの訪問は振り返っても意義あるものだったと思います。

 そして、私にはそれまでヨーロッパと中国の歴史などは割合に本を読んだりしていましたが、その間に横たわる地域の歴史というものは本も少なく、余り知られないことが多かったわけです。この訪問によって両地域の中間に当たる国々の歴史を知る機会に恵まれたと思います。

 今度のインドの訪問は、前の訪問の経験がありますので、ある程度、インドに対しては知識を持っていましたが、一方で、日本への関心など非常に関心や交流が深くなっているということを感じました。

 ネルー大学での日本語のディスカッションなど日本語だけで非常に立派なディスカッションだったように思います。また、公園で会ったインドの少年が、地域の環境問題を一生懸命に考えている姿も心に残るものでした。

 そういう面で、これからインドとの交流、また、インドそのものの発展というものに大きな期待が持たれるのではないかという感じを受けた旅でした」



きょう、80歳の誕生日を迎え、このようにして皆さんの祝意を受けることに、深く感謝します。今年もあとわずかになりました。喜ばしいこと、心の痛むこと、さまざまなことのあった1年でした。東日本大震災の復興がいまだその途上にある中で、今年は大きな台風が大島を襲い、また、少なからぬ地方が風水害の被害に苦しみました。このような中で、東日本の被災地には、厳しい冬が訪れようとしています。私どもは、これからも被災者のことを思いつつ、国民皆の幸せを願って、過ごしていくつもりです。来(きた)る年が、皆さんにとり、良い年であるよう、心から祈っています。ありがとう。

今夜また・・・。

今朝の思いを。

平成25年12月23日。

天皇陛下 お誕生日おめでとうございます。

お健やかに いついつまでものご長寿をお祈り申し上げます。

心よりお願い申し上げます。



精神性の欠片も持たず育もうとしなかった不敬不遜不逞の輩が、なるべくしてなる結果を。まさに迎えますように。

このごとき悪しき言を発する自らをしっかりと自覚しつつ、あの者どもを否定します。

微小なるミジンコなる身、それでも全身にミジンコの誇りを帯びて、あれらを否定します。

ご皇室の弥栄を。

今こそ思う。

私は日本人です 。

力んでいて恥ずかしいですが、今朝の思いを。

は?。

「愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか  女性皇太子の誕生」

とかの本が出るらしい。宣伝になったりするのはイヤだけど、黙っていられません。

「天皇」がどんなお立場で何をなさって日々をどうお暮らしになられるか、わかって言っていますか。

初めの「 から〆の 」まで。意味わかりません。

天皇になってどうするんですか。何するんですか。どう生きさせるんですか、愛子さんを。

・・・幻冬舎。初めの頃は意欲的ないい本、作って出していたのに。

ううう、血圧あがってます、水素水がぶがぶ飲んで、抑えながら、犬みたいにううって唸っております。

「でんでんむしのかなしみ」

少し引用をさせて頂きます。

「私の子供の時代は,戦争による疎開生活をはさみながらも,年長者の手に護られた,比較的平穏なものであったと思います。そのような中でも,度重なる生活環境の変化は,子供には負担であり,私は時に周囲との関係に不安を覚えたり,なかなか折り合いのつかない自分自身との関係に,疲れてしまったりしていたことを覚えています。

そのような時,何冊かの本が身近にあったことが,どんなに自分を楽しませ,励まし,個々の問題を解かないまでも,自分を歩き続けさせてくれたか。私の限られた経験が,果たして何かのお役に立つものかと心配ですが,思い出すままにお話をしてみたいと思います。

まだ小さな子供であった時に,一匹のでんでん虫の話を聞かせてもらったことがありました。不確かな記憶ですので,今,恐らくはそのお話の元はこれではないかと思われる,新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」にそってお話いたします。そのでんでん虫は,ある日突然,自分の背中の殻に,悲しみが一杯つまっていることに気付き,友達を訪(たず)ね,もう生きていけないのではないか,と自分の背負っている不幸を話します。友達のでんでん虫は,それはあなただけではない,私の背中の殻にも,悲しみは一杯つまっている,と答えます。小さなでんでん虫は,別の友達,又別の友達と訪ねて行き,同じことを話すのですが,どの友達からも返って来る答は同じでした。そして,でんでん虫はやっと,悲しみは誰でも持っているのだ,ということに気付きます。自分だけではないのだ。私は,私の悲しみをこらえていかなければならない。この話は,このでんでん虫が,もうなげくのをやめたところで終っています。

あの頃,私は幾つくらいだったのでしょう。母や,母の父である祖父,叔父や叔母たちが本を読んだりお話をしてくれたのは,私が小学校の2年くらいまででしたから,4歳から7歳くらいまでの間であったと思います。その頃,私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。だからでしょう。最後になげくのをやめた,と知った時,簡単にああよかった,と思いました。それだけのことで,特にこのことにつき,じっと思いをめぐらせたということでもなかったのです。

しかし,この話は,その後何度となく,思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。殻一杯になる程の悲しみということと,ある日突然そのことに気付き,もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが,私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。少し大きくなると,はじめて聞いた時のように,「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。生きていくということは,楽なことではないのだという,何とはない不安を感じることもありました。それでも,私は,この話が決して嫌いではありませんでした。

私が小学校に入る頃に戦争が始まりました。昭和16年(1941年)のことです。四学年に進級する頃には戦況が悪くなり,生徒達はそれぞれに縁故を求め,又は学校集団として,田舎に疎開していきました。私の家では父と兄が東京に残り,私は妹と弟と共に,母につれられて海辺に,山に,住居を移し,3度目の疎開先で終戦を迎えました。

度重なる移居と転校は子供には負担であり,異なる風土,習慣,方言の中での生活には,戸惑いを覚えることも少なくありませんでしたが,田舎での生活は,時に病気がちだった私をすっかり健康にし,私は蚕を飼ったり,草刈りをしたり,時にはゲンノショーコとカラマツ草を,それぞれ干して4キロずつ供出するという,宿題のノルマにも挑戦しました。8キロの干草は手では持ちきれず,母が背中に負わせてくれ,学校まで運びました。牛乳が手に入らなくなり,母は幼い弟のために山羊を飼い,その世話と乳しぼりを私にまかせてくれました。

教科書以外にほとんど読む本のなかったこの時代に,たまに父が東京から持ってきてくれる本は,どんなに嬉しかったか。冊数が少ないので,惜しみ惜しみ読みました。そのような中の1冊に,今,題を覚えていないのですが,子供のために書かれた日本の神話伝説の本がありました。日本の歴史の曙のようなこの時代を物語る神話や伝説は,どちらも8世紀に記された2冊の本,古事記と日本書紀に記されていますから,恐らくはそうした本から,子供向けに再話されたものだったのでしょう。

父がどのような気持ちからその本を選んだのか,寡黙な父から,その時も,その後もきいたことはありません。しかしこれは,今考えると,本当によい贈り物であったと思います。なぜなら,それから間もなく戦争が終わり,米軍の占領下に置かれた日本では,教育の方針が大巾に変わり,その後は歴史教育の中から,神話や伝説は全く削除されてしまったからです。

私は,自分が子供であったためか,民族の子供時代のようなこの太古の物語を,大変面白く読みました。今思うのですが,一国の神話や伝説は,正確な史実ではないかもしれませんが,不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると,それぞれの国や地域の人々が,どのような自然観や生死観を持っていたか,何を尊び,何を恐れたか,どのような想像力を持っていたか等が,うっすらとですが感じられます。

父がくれた神話伝説の本は,私に,個々の家族以外にも,民族の共通の祖先があることを教えたという意味で,私に一つの根っこのようなものを与えてくれました。本というものは,時に子供に安定の根を与え,時にどこにでも飛んでいける翼を与えてくれるもののようです。もっとも,この時の根っこは,かすかに自分の帰属を知ったという程のもので,それ以後,これが自己確立という大きな根に少しずつ育っていく上の,ほんの第一段階に過ぎないものではあったのですが。

又,これはずっと後になって認識したことなのですが,この本は,日本の物語の原型ともいうべきものを私に示してくれました。やがてはその広大な裾野に,児童文学が生まれる力強い原型です。そしてこの原型との子供時代の出会いは,その後私が異国を知ろうとする時に,何よりもまず,その国の物語を知りたいと思うきっかけを作ってくれました。私にとり,フィンランドは第一にカレワラの国であり,アイルランドはオシーンやリヤの子供達の国,インドはラマヤナやジャータカの国,メキシコはポポル・ブフの国です。これだけがその国の全てでないことは勿論ですが,他国に親しみをもつ上で,これは大層楽しい入口ではないかと思っています。

2,30年程前から,「国際化」「地球化」という言葉をよくきくようになりました。しかしこうしたことは,ごく初歩的な形で,もう何十年――もしかしたら100年以上も前から――子供の世界では本を通じ,ゆるやかに始まっていたといえないでしょうか。1996年の「子供の本の日」のためにIBBYが作ったポスターには,世界の家々を象徴する沢山の屋根を見おろす上空に,ぷっかりと浮かんで,楽しげに本をよんでいる一人の少年が描かれていました。遠く離れた世界のあちこちの国で,子供達はもう何年も何年も前から,同じ物語を共有し,同じ物語の主人公に親しんで来たのです。

父のくれた古代の物語の中で,一つ忘れられない話がありました。

年代の確定出来ない,6世紀以前の一人の皇子の物語です。倭建御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれるこの皇子は,父天皇の命を受け,遠隔の反乱の地に赴いては,これを平定して凱旋するのですが,あたかもその皇子の力を恐れているかのように,天皇は新たな任務を命じ,皇子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き,皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。途中,海が荒れ,皇子の船は航路を閉ざされます。この時,付き添っていた后,弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は,自分が海に入り海神のいかりを鎮めるので,皇子はその使命を遂行し覆奏してほしい,と云い入水し,皇子の船を目的地に向かわせます。この時,弟橘は,美しい別れの歌を歌います。

さねさし相武(さがむ)の小野(をの)に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも

このしばらく前,建(たける)と弟橘(おとたちばな)とは,広い枯れ野を通っていた時に,敵の謀(はかりごと)に会って草に火を放たれ,燃える火に追われて逃げまどい,九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は,「あの時,燃えさかる火の中で,私の安否を気遣って下さった君よ」という,危急の折に皇子の示した,優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持を歌ったものです。

悲しい「いけにえ」の物語は,それまでも幾つかは知っていました。しかし,この物語の犠牲は,少し違っていました。弟橘の言動には,何と表現したらよいか,建と任務を分かち合うような,どこか意志的なものが感じられ,弟橘の歌は――私は今,それが子供向けに現代語に直されていたのか,原文のまま解説が付されていたのか思い出すことが出来ないのですが――あまりにも美しいものに思われました。「いけにえ」という酷(むご)い運命を,進んで自らに受け入れながら,恐らくはこれまでの人生で,最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに,感銘という以上に,強い衝撃を受けました。はっきりとした言葉にならないまでも,愛と犠牲という二つのものが,私の中で最も近いものとして,むしろ一つのものとして感じられた,不思議な経験であったと思います。

この物語は,その美しさの故に私を深くひきつけましたが,同時に,説明のつかない不安感で威圧するものでもありました。

古代ではない現代に,海を静めるためや,洪水を防ぐために,一人の人間の生命が求められるとは,まず考えられないことです。ですから,人身御供(ひとみごくう)というそのことを,私が恐れるはずはありません。しかし,弟橘の物語には,何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ,そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと,それは愛というものが,時として過酷な形をとるものなのかも知れないという,やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への,恐れであり,畏怖(いふ)であったように思います。

まだ,子供であったため,その頃は,全てをぼんやりと感じただけなのですが,こうしたよく分からない息苦しさが,物語の中の水に沈むというイメージと共に押し寄せて来て,しばらくの間,私はこの物語にずい分悩まされたのを覚えています。」



皇后陛下、美智子様が、1998年 第26回IBBYニューデリー大会に於いて、乞われてなさった基調講演の一部です。

例えは大きく飛躍しますが「火垂るの墓」も「禁じられた遊び」も「キリングフィールド」も「ジョニーは戦場へ行った」も、内容や表現方法は異なっても、そのすべてが反戦映画であるように。

美智子妃殿下のこの講演・・・書き起こしを読ませていただいての感情。

うまく言えないのですが、それは、現在の東宮ご夫妻を「否」と考える感情と、私の中では根っこは同じです。つながっています。そう思います。

現・東宮ご夫妻の廃太子・廃妃を、強く願い続けます。

「愛」も「犠牲」も、人が人に望んだり押し付けたり強要したりするものではない。そんなこと、出来はしない。しないけど、現・東宮夫婦のありようのごとく、その片鱗を見るさえ不可能、ただただ自分のことだけ、いや。自分たちのことですらもう解らなくなっている姿をのみ、見せられ続けるのは苦痛です。
夫婦は、実は互いをさえ、アイしているかどうかなんてわかってないだろう。取りあえずの共依存状態。

不毛です。

荒涼たる広大なる不毛の地に女の子が一人、立ち尽くしています。


影子ちゃん Ⅲ

影子ちゃんの記事について、けっこうな量の裏からのご訪問を受けました。

・隠したいことをわざわざ晒して何のつもり、可哀そうではないか、些細なことで攻撃するお前(わたしのことです)の性根が我慢ならん。

・まさかこんなことがあるはずがない、皇室の悪口言うな。

分類するとこの2タイプです。

@私の性根が我慢ならんとは、お気の毒ですが、このようなブログには近づいていただかないのが良策と存じます、どうぞそうなさって下さい。

@私も、ヤフオク、影子さん、こんなことがあるとは、知るまでは考えたことも無かったです。

自分の目で、よおく見て、ほんとだ・・・と、がっくりきたのです。がっくり来たのは、自分の国の、皇室という特別なところで、こんなことが起きていたんだ、という、ショックからでしたね。誰にだって嬉しいことでないに決まっています。


そんな裏からのお便りの中、匿名さん(冬の果物の名の方)から、以下のことをお知らせいただきました。

「風に色をつかせる時」というブログの中に(何度も私も拝見させていただいています、このたびは勝手なことしてすみません)、こんなことがあった、と、教えて下さったのです。

「愛子さまには、影武者がいると言われて久しいのですが、
「さすがにそこまでは。」と思われる方が多いですよね。
私も前まではそうでした。


と書きだされ、

影武者の存在が掲載された記事もあります。

『週刊新潮』2006年3月16日特大号

<特集 雅子さま「追っかけ日誌」>pp.30-31より引用

 昨年(=2005年)の2月、ご一家が同じ奥志賀で静養された際、忘れられない思い出があるというのは千葉県の主婦である。
「愛子さまの初スキーの時です。調べると、15日にマスコミ各社の撮影が予定されていました。だから、きっとその前日に練習をされると踏んで、2日前に乗り込んだんです。案の定、14日の午後3時ぐらいに、宮内庁職員に手を引かれて女の子が出てきたので、てっきり愛子さまだと思って、一生懸命、写真を撮影しました。職員が“愛子さま、お上手ー”なんて声をかけていましたしね。ところがしばらくしたら、皇太子さまが別の女の子を抱き上げて、ホテルに戻られた。よく見ると、私が撮影していた女の子と全く同じ格好をしていて、結局そちらが愛子さまでした。私は、今も、スキーの初練習を撮影されないように、宮内庁が愛子さまの影武者を用意していたに違いないと睨んでいるんですよ」

 彼女たちの狙う被写体の優先度が一、ニが雅子さまと愛子さまで、三、四がなくて五に皇太子殿下という具合だそうだ。

(略)

愛子さまは、7ヶ月もの間、世間から隠されていたのです。
紹介した沖縄の豆記者との写真も、
以前は宮内庁ホームページに掲載されていたのですが、
疑惑がささやかれるようになってからは何故か消されてしまい、
別の写真と差し替えられています。

東宮が2004年の秋に大量に発表した画像またはそのキャプ画像。(が存在する(=KUON)

耳の形が愛子さまとは違うと言われていますが、こちらがその比較画像です。
 ⇒ハープで遊ぶ愛子さまと、沖縄の豆記者と影子ちゃん。
同じ洋服なだけによく分かるというか・・・、
確かに体型が違いますよね。」




・・・2004年の愛子さんのこの動画の1分17秒くらいからが、ハープの演奏家の方と雅子さん愛子さんの映像です。豆記者さんに会った(と当時は言われた)時と同じワンピース。

会った豆記者さんたちは、2歳半だと聞いていた愛子さんより「お姉さんぽかった」「大きい感じだったと記しています。

2か月ほどのタイムラグですが、頬っぺたの肉付きがまず、まったく違います。

そして1分50秒のあたりから、これも「影子ちゃん」と云われる「うずらちゃん」映像です。とても可愛らしい声ですらすらと絵本を読む女の子。パパは、と言われて、徳仁皇太子が「~~」と答えるその内容が、影子ちゃんの絵本とまったく異なる本の、内容。合成?。

この女の子の顔・・口元が「愛子さんじゃない」と、私が自分で実際に気づいた時の衝撃。

悠仁さまの沖縄ご訪問が話題になっているので、
愛子さまも紹介しようとしたものの、
疑惑の写真しかなかったからだとは思います。(下線・KUON)。

2013年7月31日 沖縄県などから訪れた「豆記者」の子供らに声をかける皇太子さま。(雅子さま、愛子さまは欠席)=7月31日、東京・元赤坂の東宮御所(宮内庁提供)
今年も皇太子さま、お一人画像。

毎年、交流なさっていれば、
こんなことにはならなかったのではないでしょうか。
何かが違う、
そういつも思う東宮ご一家です。」


ブログ主さんは↑、深い思いを秘めて淡々と書いておられます。

「宮内庁職員に手を引かれて女の子が出てきたので、てっきり愛子さまだと思って、一生懸命、写真を撮影しました。職員が“愛子さま、お上手ー”なんて声をかけていましたしね。ところがしばらくしたら、皇太子さまが別の女の子を抱き上げて、ホテルに戻られた。よく見ると、私が撮影していた女の子と全く同じ格好をしていて、結局そちらが愛子さまでした。私は、今も、スキーの初練習を撮影されないように、宮内庁が愛子さまの影武者を用意していたに違いないと睨んでいるんですよ」

・・・上の記事中の! ! ! 部分を取り上げてみました。

宮内庁の職員さんたちにとっては、そんな珍奇なことでもない、日常的な「こと」である感じがします。

そういうことって、ありなんでしょうか。

あるのですね、あの伏魔殿では。おそろしいですわ。



昨日の記事中、朝に手を合わせ夕に手を、と、それを積み重ねていない人間に、祭祀云々がと書いたあたりを

「宗教の自由を冒涜する」と、冒涜、なんて(私もおととい書いた)言葉で文句言われてしまいました~。

一般の方には、そうかもしれません。私には、どなたかの宗教の自由に口を出す気も力も無い。

ただ、東宮家の内親王様である愛子さんを、未来の伊勢の〇〇に、とか囃すなら、まず神道の長の家の子として、基本のとこが(親のせいで)不足、だから難しいと不可能と考える、いつも思っているままに書きました。

リンクさせてもらっている「やまのこ山」さんのブログに、今は写真を消された影子ちゃんの写真があります。細かく観察されているブログです。

 | HOME |  古い記事へ »

文字サイズの変更

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

悲しいこと (67)
福島事故 (37)
未分類 (361)
ことばのたのしみ (72)
ゆれ・ふら・とーく (137)
怒っていること (33)
嬉しいこと (42)
ノンタイトル (62)
今の思い (243)
呆然となること (51)
旅のこと、とか (5)
おそれながら、なことこと (3)
あほらしいこと (89)
残念なこと (33)
虚しいこと (52)
おそれながら、なこと (70)
わははなこと (39)
茶番じゃ。なこと。 (28)
実録 (15)
美しいこと (30)
厚かましい話 (57)
おそろしいこと。 (55)
「美智子さまの恋文」より (6)
たのしいこと。 (1)
うた日記 (17)
実は実話?。 (0)
実話ぢゃないのよ実は。 (1)
戯文 (1)
戯文 ジャムのかなしみ (2)
こういうこと。 (37)
御製 (9)
ミテ子さま・考 一 (1)
ミテコさま・考 (11)
みんなのうた (14)
くおんの万葉集 (10)
くおんの万葉集・番外もあり。 (2)

ブログカウンター

プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
・・・・・


としどしに わがかなしみは ふかくして 

いよよはなやぐ いのちなりけり


      岡本かの子

             


・・・・・・・・・・・・・・・


やはり赤い口紅が好き。


ものすごく唐突ですが、私、口紅(だけ)はシャネルよ。(笑)。

プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
・・・・・


としどしに わがかなしみは ふかくして 

いよよはなやぐ いのちなりけり


      岡本かの子

             


・・・・・・・・・・・・・・・


やはり赤い口紅が好き。


ものすごく唐突ですが、私、口紅(だけ)はシャネルよ。(笑)。

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

FC2Ad

Template by たけやん