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KUONの久遠

Author:KUONの久遠
・・・・・

やはり赤い口紅が好き。


ものすごく唐突ですが、私、口紅(だけ)はシャネルよ。(笑)。

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KUONの久遠

Author:KUONの久遠
・・・・・

やはり赤い口紅が好き。


ものすごく唐突ですが、私、口紅(だけ)はシャネルよ。(笑)。


最近、朝のテレビを眺めることが多くなっています。

2PMの公開録音(録画?すみません)のニュースがぱっと出て、おお、テギョン君、と、顔がゆるんだ。

その次に、細野大臣の顔が出た。なんだかよくわからない、とにかく、大飯原発は再稼働するんだけんね、反対したってダメなんだもんね、ケーザイが立ち行かんのよ、動かさないで行ったバヤイ、とか、そーゆー気持ちのことを、述べておられる気がした。こーゆー感じの文体を、一時期、昭和軽薄体、とか呼びましたね。糸井重里さん、南伸坊さん、椎名誠さん。

文体は「軽い」が、ご自分の書くこと書く内容に、しっかり責任持ってる方々ですがな。中身どっしりですがな。

福島のことが、何もどうにもなっていないのに、と、考え過ぎてワケわからなくなっていることを、また考えて、ああ私はヘイワですね、遅い目のコーヒーをいただいて、銀行へ、支払行脚の旅に出ました。

今月もなんとか、よそ様にご迷惑かけず終わりそうで、感謝どす。


やさいさん。

私も同感です。東京電力は、本社を移転すればいい。いま、線量が高くて、住むことも売ることも出来ない土地が、ものすごく広範囲に、できている。日本人のメンタリティには、とっても強い力を持つはずの土地が、住むも売るも叶わぬザマにおとしめられている。。どんなにお辛いことかと、想像しきれません。しかし、住めない土地は、現実に出ている。

そこへ、移って、周囲も全部、買ってもらう。

電気料金を値上げするぞするぞと脅して、それには、夏はともかく冬のボーナスに充てる分も予算に組み込まれているとか、はっはっは、笑ってしまいました私。びっくりしますよ~~~。

それは、社員さんには気の毒だが・・・本当は気の毒と思わない、東電社員が気の毒なら、被災地のお一人お一人はどうなるんだ。

東電が買い集めた土地に、震災瓦礫も何も、全部、埋める。コンクリートの基礎材にする。いま、お名前はすぐ出せませんが(最近、ものすごくもの忘れがひどいのですわ)、ある県ののトップの方が、そうすればいいのだ、それには、まだ、瓦礫が足りないくらいだ、と、おっしゃっていたし。

放射性物質に汚染されたものは、集めておくのが、国際的な常識であり決まりと聞きます。拡散させてはいけません。絶対に絶対に、いけません!。絆とかお互い様とか、そういう話ではないです。ないんです!。

集める。まとめる。地中、何千メートルだか、掘って、とにかくそこへ、全部全部埋める。数百年経てば、ほぼ、自然界のものと折り合いがつく程度になるでしょう。それを、中間処理場というんです。

想像できない遥かな先の話ですが、そうする以外、無いと、聞いた。私もそう思う。

東電には、それをしていただきたい。

小出先生が、そういうものは全て、東電の施設から出た東電のものだから、持ち主に返したい、返させて欲しいと言っておられました。これは、以前も書いたけど、でも、東電近くのゴルフ場が、汚染されて、営業できなくなったとの訴訟には「それは、無私物なので、東電は保障できない」と、判決が出ていましたね。

上の方では、何もかも全部、裏でつながっているから。

大きいところは、負けないの。ずっとそうだった。

お客さんにソンさせた、と、ホリエモンなんて、若造のバックも持たない社長さんは、今、実刑受けてるし。

別に堀江氏を庇う気も無いが、バックの無いものは潰される、あの巨大スーパーも、あの政治家も。

あれだけの大事故を起こした当時の、その企業の社長が、何の責任も追及されず、億とかいう退職金を、しゃあしゃあと受け取って、のうのうといる、それって、私の考えでは、めっちゃくちゃ、おかしい。

東電社員の冬のボーナスに充てる金を、一般の家庭、人の支払う電気料金の値上げ分に組み込む、その一点だけとっても、おかしい、おかし過ぎる。

・・・元・社長氏、退職後の天下りがパーになって、お気の毒、なんて意見もあったな。

お気の毒と、思いますか?。

物事って、角度が変われば、立場が変われば、抱く感想も感慨も違って来るのは、まあ、そうなのですが、清水・元社長が、ご自分で、チッ、やばい時に社長やってたもんだぜ、とか思うのは勝手ですが、それは違うぞ。違うぞ。

海江田さんも枝野さんも菅さんも、あの時はこうだった、ああだった、何が足りなかった、自分は頑張った、とか、国会であれこれ、言うておられましたが、あの方たちは、当事者でないものね。元、になったら、もう関係なくなるもんね。

清水・元・社長。あの方を呼んで、何をどう言い訳、自己弁護されたとて、めちゃくちゃにされてしまった、あまりにも膨大なあらゆるものが、どうなるとも思えないが、せめて飢えてかつえて死んで行った、あの牛たちの鎮魂のためにも、国会に呼んで欲しい。

予定二時間なんて言わないで、いろんな疑問を呈するアタマとココロのある人もあつめて、しっかり、しゃべらせて欲しい。それを、中継して欲しいと思う。

でもね。本当に悪いのは、東京電力ではない。

ええと、なんとか言う名のお役所です。この頃、すぐに、ものを忘れます。

お役人、官僚が、今までずっとずっと、悪かったのです。で、これも、誰も出て来ず、誰も責任取らない。

東電が国営になったら、また、新しい利権が発生しまくるんだろうな・・・。


やさいさん。なんか、お父様が、すぐにでもどうなる、みたいな思いに、勝手にとらわれて、申し訳なかったです。

おわびに、というのもナンですが、善き伴侶と共に、退院の日のハンチングを選んでおられた・・・とかの、ほほえましくホっとするエピソードから、一首、捧げさせて下さいね。


    ハンチング小粋にかぶり退院の八十二歳 抜ける青空

うちの母親、よく寝込んでいました。小学生時代は基本的に母子二人の暮らしで、げっそりと寝込んでいる母が、ひどいこと承知で書きますが、イヤでした。他にもいろいろなことがあったが、もっと夢のある日々が欲しいとか、思っていました。ぶらぶら病・・・そうですね。苦しかったでしょうね、当時の母は。心身ともに。
元気な時は、人の世話ばかりしていました。これがいずれ、あんたに返るんだ、とか言って。


えまさん。ご心配かけてしまいましたね。

ともかく私は、こういう時、妙に観察癖が強くなるというサガでして。放射能に、実際やられたらどうなるか、と、見ていてしまったのですわ。見ざるを得なかったし。

放射能について、知識もそれなりにあり、冷静に見ていたつもりの人間が、灯台もと暗しというか。

採取場所、状態、そういったことを、いつもかなりきちんと把握してきていたのが、それに限って、気がゆるんでいたというか。魔が入ったというか。

詳しくは言えませんが、とにかくものすごいシロモノであったのを、ひと月も、身近に置いていたのですね。

ガイガー(機械)は出張中で、だから、ぴーぴーとも鳴ってくれなくて。

全てが、このようになるように、ドジな方向へ進んでいた気がします。

症状はきつかったですが、収まって来ていますし(最悪の時よりは、ですけど)すぐにどうこうはならないでしょう。言い続けているように、私達のように六十を過ぎているような者は、新陳代謝も活発でなくなっているし、細胞も、居眠りしながら、思い出したように分裂する、くらいの感じだと、考えています。

うちら夫婦は、あとそれなりに、行けばいいのです。

若い人、幼い子らは、そういう訳には行きません。細胞分裂が活発ですと、内側に、外側にいる放射性物質と、チカっとなり易い。放射能は、遺伝子DNAの二重らせんをカットして、変異を起こさせるヤなやつです。

遺伝子の順番をくるわせもします。それで、本来の形と違うようになったり、癌などという変化を起こさせたり。

そういうものが、あちらこちらへ動き回っています。そのことを、今回、すごく感じた。本当は、とても特別に、慎重に動かさなければいけない・・危険なものが、普通の宅配便で、届いたのです、うちに、今回は。

だから逆に、そういうものではないのだ、と、頭から疑わなかった。どこにも起こり得ることです。

そこのところを、あまりにも無責任に放置してあることに、じりじりします。

どうするつもりやねん、と。

とまれ、うちのぢいさんは、しんどい、腕が痛い(利き腕でないのはラッキー)咳が苦しい、とかぼやきつつ、ヒマがあったらごろんごろんとしています、自由時間はすべて眠りに捧げておりますが、こういうのを見ていると、人間も動物の一種なんだなああ、と、深く納得します。

どんどん飲んで、眠って、ひたすら休んで、自分で癒す。

全部が癒えなくても仕方がない。

ぼちぼち、ゆっくりなんとか最後まで行ければいいと思っています。そうなるでしょう。

えまさん、もう心配して下さらないでいいの、なんとか、ぼちぼち、行きます。

ありがとうね。













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やさいさんが、ご自分のブログで、今は血液の癌・・・白血病を患っておられるというお父上のことを、書いておられた。

膀胱癌、胃癌をのり超えて来て、いま、ひろしまで原爆症と呼ばれる、白血病だという。

やさいさんは、被爆者であられるお父上の娘さんで、いわゆる被曝二世といわれる立場の方だ。当人も子も、そのことを、口に出すのを、はばかる時代が長くあり、ついに黙したままこの世を去った人も多くいるし(私の母も)、二世であることを隠したい人も沢山いた。いる。

私の記憶の中にも、そのあたりの事情、当時はわからなかったことが、後にわかったという事象がいくつもあって。

市内で被曝して、ひどいケロイドのあった優しいおば(母のいとこ)については以前に書いたが、家へ遊びに来ていたおばと、連れだっていった銭湯で、初めて、被爆者を見る人の目、というものを見たのは、十歳の頃でもあったか。

胸から腕に、ひきつれのあるおばと、湯ぶねに近づいて行くと、湯に沈んでいたオバサンが、いきなり立ち上がった。ばばっと出て、なんでっと、とか、意味の知れない憤りの言葉を残して、出て行かれた。

おばは、ゆったりとした性格の人で、銭湯の帰り道、みかん水を飲ませてくれて、ゆっくり帰りながら、言っていた。

「だ~れが、あいたくて、ピカにあったか、な~あ」。

もう慣れていて、怒りでもなく、唄うような調子だった。

四十代で亡くなったおばは、生涯「アメリカ嫌い」で「反戦論者」だった。

白血病で亡くなった。

・・・私より十一も年が上で、反対を押し切って学生結婚をして、ものすごく貧乏をしていた、長姉の住むアパートへ、初めて一人で訪ねて行ったのは、中学一年生の時。

六畳間が一つあるきりで、小さな板の間が台所、お風呂があったか無かったか、記憶に無いが、とにかく、そんな小さなアパートで姉は、露文中退の夫と、シアワセそうに暮らしていた。

お金も無いのに、なんとかサラダとかのしゃれた食べ物を出してくれ、ネスカフェというインスタント・コーヒーを、甘いアイス・コーヒーにして飲ませてくれた。

お隣の奥さんは、ヒバクシャだと、話していた。姉たちと同じ広さの部屋で、二段ベッドを入れて小学生の子ども二人をそこで寝かせるようにしていたのだが、病いがちになっているお母さんが、ほとんど、ベッドを使っているという話題だった。

だるくて、だるくて、時々、とんでもない熱が出て、家のこともできないらしくて、と、姉は、練乳の缶を逆さにして、コップに白いミルクを貯めながら、言っていたのを覚えている。
姉も次姉も、被曝する以前の母から生まれている。

その後、その奥さんは亡くなったと聞いた。だんなさんが、死ぬ前にだけ、体を伸ばして、足を延ばして寝かせてやれた、病院で、と、泣かれたそうだ。

ヒバクシャ、という言葉は、なぜか、声をひそめる感じで発音されていた。

ホーシャノーはうつる、と、言われていた。それで、多くの人が苦しんだ。

・・・今までは、被曝、は、過去のものだった。

被曝された方々は、少しずつ、時の流れの中に吸われて消えてゆく存在だった。

そのうちに、無くなってしまうかもしれないことだった。

去年の事故があって、再び、被爆者、が、増える。

原子爆弾の被曝と、今回の事故機からの被曝は、同じこととしては語れないかも知れない。

低線量被曝については、これから、詳しいことを、知って行くのだ、皆は。

まだ、こういう目に遭った人はいない。大雑把な言い方だが、いなかった。

どうなって行くものかは、わからない。

ただ、どういう条件の中からも、生き抜く人は生き抜くし、早くに去ってしまわれる方は、残念だが、そう。

やさいさんは、無口で優しくすてきで大好きなお父上が、病んでおられるので、さまざまな思いがおありだと思う。ご当人が口に出されないことを、私がずけずけ書くのもナンだが、別れの迫っているいま、なんとも言えない気もちでおられるだろう。

私は、八年前に亡くした母の最晩年について、悔やんでも悔やみきれない思いを抱き続けているようで、思い出すと、本当に、ずっきーんと胸が痛む。母を、みすてた、母を、きちんとみつめられなかった、悔やまれる思いが、山盛りにある。ああするしかなかった、ああしかできなかった、一番たいへんなことが重なっていたもの、と、自分に言い訳しても、そんなのダメだ、自分で通らない。自分を責めるしか無い。

母は、体を抜けて一気に自由になった魂で、飛んで来て、私の心を慰めてくれたけれど。

あの不思議な一瞬に、私は、救われているけれど。


どうぞ、存分に、おとうさんとの限られた残された時を、温めて下さいと、願っています。















こんばんは。

sarahさんはじめ、ご心配をおかけしてしまいました。心配して下さるのわかっているのですが、やはり書いておきたいと考えまして。

去年の三月のあの日からと限定してみても、地震、津波、原発事故、風評被害。不条理と理不尽に満ち満ちております。人というものは、特に平和な歳月に慣れて暮らしている多くは、まさか自分に、納得できない何かが降りかかって来るとは、想わないでいることが多いのではないでしょうか。

中学生くらいのお子が、携帯を眺めながら、信号も確認しないで、片手でふらふらと自転車を操っている姿を見かけると、一言、コワイばあちゃんになって言ってあげようかと思うことがある。

あんたを、撥ねてしまう方が迷惑や~っと怒鳴ってやりたい。

ハンドルの上に漫画雑誌を広げて、どうも本を鑑賞しながら運転している若いヤツを見ると、ナンバー記憶しておいてけーさつにチクってやろうかと思う。

・・・と、まあ、すぐに脱線するのでありますが。

自分が仕事で扱っているものに「やられた」なぞ、本当は、恥ずかしくて大きな声では言えないことです。

慎重に対するべきものです。

しかし、やられる時は、やられちゃう。臍を(へそ、でなく、ほぞ、ですねこの場合)噛んで悔しがっても後の祭りです。

私は、日常の暮らしにしても、たとえば何かを「書く」にしても、自分の「家族」という生臭い存在そのものとして語ったり記したりということが、基本的には好みではない。

しかし、このたびのマイ・ハズバンドの件については、自分自身意外なココロの動き、というものがあります。

一番大きなそれは、あ~、本当なんだ、来ちゃったんだ~、という、感じ。

人様に、ご注意を、とか呼びかけていた身が、あ~、あ~、やっちゃって~、という感じ。夫自身もそうだと思います。

今日、現在のところでは、しんどいとかいうより、体が、特にのどや胸やお腹が「ヘンな感じ」だと申しております。

冷たく、酢っぱい麺などは、食べられるようになっています。ただ、ぼ~~~~~としています。魂(というものが、お前のダンナにあるのか~などは、この際、おっしゃらないでください、私には、そんな高級なもの無くても、彼にはあると思うものであります)、その魂が、十分の一くらいは確実に、どっか行っている気がします。集中の対極、放心、拡散状態、というか。

テレビで、昨日、福島の四号機の初公開のがらがら建屋を、一緒に見ていまして、夫は、いま、その方が楽なのであまり言葉を発しないのですが、私が、あれこれめちゃな突っ込みを入れまくっているのを、にやにやと聞いていた。

年間に浴びていい、とされて来た被曝線量に、二時間で達してしまう現場から、燃料を取り出すと言う。
細野・男前との噂あり・大臣が発言しておられた。細野大臣がつけておられたようなマスクを、作業員はきっと、していないと思う、作業する時は。
誰がそれをやるんじゃ~、と私は喚いていた記憶がございます。でも、誰かが、多くの方々が、現実にいろいろ、しておられるのも事実なのです。

もうすぐ、四号機では、まだ使っていなかった燃料棒を試験的に取り出してみる、というのですが、問題は、細野氏が「来年やる」と、言っておられた、使用済み燃料棒の方ですわ。使用済みといっても、ガスボンベを使い終わった後のような、とりあえずは空っぽ、という状態ではない。全くない。まだ、めっちゃくちゃ、危険な「ブツ」です。

それがしかも、笑いごとではないが笑えてしまいました、すみません、取り出して、どこへやるか、決まっていないのだって。

どこへやるか、決まっていないものを、出す、とおっしゃるのは、来年は、ご自分が現職の原発担当相でないことが、お分かりになっていてのことだろうか。

・・・ってなことを、わめきまくっていたら、ぼ~~~っとしている夫が、すこうし、笑っておりました。

先日ここへ記しました、国のお金で除染する、と言っておきながら、53市町村の、ただの一か所にも承認のおりていない「除染」、それはおそらく、夏が過ぎてからのことだね、と、教えてくれたのは、わが夫ですわ。

今回のことで再確認したのは、わかっていない人々が、ああだこうだとしているので、どこへ、何が、どう運ばれているかわからないこと。

身近なところに、ものすごいものが積み上げられ、放置されているかもしれない(かも、ではないのですが)。



・・・やはり、熱くなってしまいました。

ただ、私は、それがどうした、という気分があります。

確かに、放射能。でも。

支配されてたまるか。こころつぶされてたまるか。うちの場合など、本当に大したことではない。家を家族を未来を失ってしまわれた方々・・・などと、言い始めて比べると不遜になる気がしますので、自分の気分だけ書きます、そんなものに負けない、と、普通に、思います。

やられても、やられきらないよ、ふふ、って感じですか。強がりでなく、実感。と思います。

まだ、どうにかなってもらうわけにはゆきません。いきなり個人的発言。

さらん。愛だけの問題ではない。

私が、路頭に迷う。これ、大きな問題です。負けているわけにはゆかんのです。

症状が、収まって来ているので言えるセリフでしょうか。そんなことないと思う。

病気であってはならない、お金は沢山なければふしあわせだ、とか、そういうことに思いが行くと、もしかして、落ち込まなければならなくなっちゃうかもしれません。

これは、ずっと感じていることですが、そこそこでいい、と思えるものがあって、とりあえず、今くらいでいい、というものもある。絶対こうあって欲しい、というものも、もちろんある。

それが、この年になって、自分のことがいささかわかるので、無理なく、まあ、これくらいなら、今はいいじゃん、という気分があるのです・・・と、思います。


ほんとに、心配でなくはないが、これではうちら、どうにかならないドンマイ、という、確信が、あるので。

今日は、元気で、おりました。多分、明日も。

ご心配をおかけしました、すみません、でなく、ありがとうございます。











入院していても無駄だ。自分で原因はわかっているし、医者の言う「これでなければあれだろう」と言う、パターン化された「病人の病気の原因」の一つに組み込まれて分類される意味がわからないし、と、夫は、退院してしまいました。

・・・やめておこうと考えた話を、書ける部分だけ書きます。

放射能は恐ろしいのです。そのことだけでも、わかっていただきたい。本当に、おそろしいのです。

それを、ほぼ、放置し、見ないふりをし、忘れかけようとしているのが、わが国です。

激しい症状に生命の危機さえ予感した、こういう、夫のような人間も、あらわれて来ています。

どうか、これを読んで下さる皆様、新たに、認識して下さい。放射能は恐ろしい。と。

わかって下さい、今、本当に、放射能がじわじわしていると。



危険なものに触れる仕事で、収入を得て暮らしている部分の大きい我が家です。

業務上の守秘義務は、守ろうと思いますが、まず。

夫は、十年以上前、関東地方のあるダムの周辺のヒ素汚染の程度の調査を、国の機関から請負い、当時はまともな施設も無く換気すら不十分だった、掘立小屋のような「実験室」で、正規の仕事時間の過ぎた後に、単独で実験を続けました。

レポートをまとめあげて、提出して・・・以後のことは、いずれあらたに書こうと思います。

ダムを管轄するお役所のトップの方は、

「私はあと半年で定年を迎えます。この報告書にあるようなことが表へ出たら、無事にその日を迎えられません。定められた手続きでお支払いはします、これでこれに関する件は終わりです」

と、提出しておいた報告書に、目をくれようともしなかった。

上へ行く報告書は、別のものが、別の誰かによって作り上げられて、その件は、文字通り終わった。

そんなことは、珍しくもなんともない。当たり前にまかり通っていることで、昨日、今日と、新聞の一面に出ているように(新聞もこういうことを、出すようになりました、世の中の風向きを読んで)、これはこうしておきましょうね、と、自分たちの側の利益、便宜、その他どういうかは知りませんが、国民のことなど、知っちゃいない。自分たちに都合のいい方、何かを、ごまかそうとしておられたらしいですね。

その問題を論ずるには私はあまりにも無知、無力、非力ですが、夫のことは事実であるので、これは言えます。

ものものしい手続きを経て運び込まれた、ダム周辺の土壌、水。

調べ続けた後に、夫は、倒れました。

劣悪な条件下でしか実験を行えなかったのは、向こうの責任ではありません。

長年仲の悪かった夫の両親、夫の父の子を二人も生んだ女性、それに対抗したくて、せっかく、学校を出て後、研究職につきたかった、父母の確執を離れたかった夫を、泣いて脅して父親の会社に入れて、乗っ取られまいと頑張った夫の母、それをあざ笑うように、私の夫をことさらに冷遇した、義父の愛人の専務。

そんな、韓国ドラマみたいにめんどくさい人間関係の中で、夫は、必要以上に待遇の悪い状況に文句言わず、実験も、黙々とこなし、で、倒れた。

顔は黒ずんで、頭はふらふらで、食べられない。医者へ行こうと言っても聞かない、少しのヒマがあれば横になって寝ている。検査して何かが出たら、仕事が出来なくなるので、イヤだったのだと思います。

私は、とにかく、何でも飲ませた。水、お茶、スポーツ飲料。寝ているのを引きずり起こして、だばだばに水分を与え続けました。

愛知県から、20キログラムの、商品を詰めた箱を50箱。1トンの注文をいただきました。

運送屋へ頼めば・・・円、レンタカーを借りて自分らで運べば・・・円。約30000円、差額が出ます。

私は、運送屋に頼もうと思ったが、夫は、自分らで行こうといいました。30000円の差額は、当時の私達には超のつく大金でした。

2トントラックは、よく揺れてくれました。着いたら頭がぼあ~となっていました。

夫は、私よりもっと、ぼおっとなっている。樹の陰になっているところに運転席が来るように車を停めてもらい、20キロの段ボール箱を、一つずつ、おろしました。

8月だったか。暑かった。重かった。

現場にいた若いお兄さんが、見かねたのか、幾つか下ろしてくれました。中年の男性がお兄さんを呼び、向こうの方で何かを言っていたようで、私は、黙々と、必死で、計50箱、おろしました。

体を使って仕事をする人は、自分の体をいとわなければなりません。無駄に疲れては、自分のことに差し障りが出て来る。中年の方はきっと、人のいい若者に、そのセオリーを教えたのでしょう。

帰りは、サービスエリアで休み休み(休ませ休ませ)、長い時間をかけて、ざばざばと水分を補給しながらの岐路でした。

また、毎日毎日、夫は、帰宅すれば眠っていました。1か月以上、眠り男でした。本当によく、眠っていました。

手や脚は、軽くしびれつづけています。長い付き合いになると思います。

それでも・・・復活したのです、あの夏は。私は、ヒ素の中毒だったと言い、夫は、今でもたっぷり残っていると言います。

ヒ素はしかし、夫一人のことで済みます。焼いたらしまいや。夫は、そうも、言います。私も、骨が真っ黒けやね、きっと、と、返します。


このたびは、放射能、だったと、確信しています。

おかげで、今は、エアコンも備わり、換気扇も回る実験室で、それを仕事の中核として、実験や開発をできるようになっています。

周囲のお引き立てのおかげと感謝しています。

そこへ、この春、塩水をかぶっただけだ、という説明の、土壌や、タンクに入った汚れた水が運び込まれ、積み上げられ夫は、それを背中に、仕事をし、コーヒーを飲み、「愛妻弁当」を食しておりました。

運び込む「ぶつ」は、素性だけは明らかにして欲しい、と、今まで、しつこく、頼み続けて来ていました。自衛の手段を講じる必要があります。

それが、5月の初めあたりから、夫の咳が異様なものになって来た。

汚い話ですみませんが、痰に鮮血が混じる。鼻血もでる。

ゴールド免許を誇って来たのに、年齢のせいかどうか、つまらない軽い物損事故を、つづけて起こした。

そういう日々のある日、当該物を運び込んで来たところから、それらをすぐに、送り返してくれ、緊急に、との、依頼が来ました。

家へ帰って来て、今日、全部、送り返したよ、と、笑って話していました。

へえ、と受けながら私は、妙な胸騒ぎにとらわれていました。

この後は、あえて省略します。簡単に言えば、夫の背中の後ろに、ほぼ1か月の間、積み上げられて、夫が、塩水をかぶっただけのものとして相対していた土壌と水は、某所で採取された、とんでもなく高線量の、放射性汚染物だったのです。

大手のゼネコンといっても、放射能に詳しい人はほとんどいません。

日本中にだって、本当にわかっていて、机上の論でなく、現実に対処するべきものとして、現場でレクチャーしたり、アドバイスしたりできる人は、皆無に等しいのが現状と思います。皆さん、本当のところはわからないまま、さまざま作業をしておられる。除染をしている、という方々の姿を、テレビで見たりすると、大げさでなく慄然とします。あまりにも、無防備で。

それで、今、日本中に、無防備に、無防御に、目に見えず聞こえず匂わない、最強、最悪の毒物が、ひろまり、運ばれ、何の手も打たれずにいます。これは現実だと思います。

・・・夫の、死ぬかと思われる激しい咳、咳いても咳いても出てくれず、粘着質に胸にとどまって呼吸を阻害し、文字通り、血を吐きながらの咳、痰、呼吸。熱は上下動して安定せず、息が苦しくて、寝ることも起きていることも出来ない、空を掻き毟るように、呼吸を求める。
関節痛、しびれ、筋肉の痙攣、声は出なくなって、顔はすすにまみれたようにどす黒くなった。

医者は、のどに炎症が起きている、と言いました。その通り。わかるのは、それだけ。放射能にやられた、と、言っても、笑われるのが現状。誰も信じません。

どうして、奈良で?。

持ち込んだところに、文句言えないの?。

・・・現実的ではありません。わからないんです。

今、わかっているのは、放射性ヨウ素と甲状腺異常とに、関連があるらしい、という、ただその一点です。それだけは、国際的に今は、認められている。甲状腺の問題だけは。

他は、誰にどんなことが起きても、苦しんでも、わからない、の闇の中です。その闇を、強固に保って、認めまいとする大きな力が現実にある。

私のように、じりじりと、危ない、危険だ、と、感じ続けて来た一人でも本当に「放射能にやられた」のかどうかを、確かめるすべは無いのです。夫の場合、かなり激しく急性に症状が出たので、疑いを持ちやすい、ということはあるでしょう。

広島、長崎の原爆では、爆発的な被曝で、犠牲者が膨大に出た。

過去の話ではありません。

67年を経た今でも、苦しみ続けておられる方がいる。ご本人だけではない。その、子どもさんも。連鎖しての苦しみ、悲しみ。

福島の場合は、低線量の被曝、ということで、即死者が続出するパターンでなかったので、ゆるく受け止められているのかも知れませんが。

人によって計算や分量はさまざま、しかし、信頼できる科学者と私は思っている小出助教は、今回では、広島の、400倍から500倍の放射性物質が飛散した、と言っておられる。

今朝の新聞に、これも初めて出た数字、東電の推定量として、放出量は、90万テラベクレルであったと。ゼロが何個並ぶか、ちょっと(すごく)わからないですけど、これは、事故のすぐ後に、アメリカが試算して出した数字に似ており、わが国では今まで、もちろん、もっともっと少ない数で出されていました。

隠して、いいことがあったのでしょうか。

・・・点滴を、じゃんじゃんしてもらい、私は、夫は水も飲めないとオーバーに告げて、軽い軽い、水みたいな点滴を、いっぱい、してもらいました。

どうすることも出来ない。体の中にあるものを、できるだけ早く、出したい。考えることはそれだけ。出来ることも、多分それだけ。点滴の液の中には、ややこしいものは無かったと思う。

症状が存在するだけで、原因不明、としか、言いようのない中に、夫は、いた、いるのです。

・・・放射性物質の多少の量が、自分の夫の体から出たとて、それはほんの一部で、夫の中には、放射能が残る。死ぬまで消えない。それが、あまり悪さをしないように、だましだまし、行く以外に、すでに方法は、ありません。覚悟はありました、その方面の実験を始めた時から。

少しでも、幼い孫どもと接触の機会が減るように、夫は、早く早くと、自宅と離れた事務所を借りたがったのかもしれないな、と、思います。夫には、何かいろいろ、わかっていた。

少しでも遠くなる。これは有効です。というより、そうするのも、しないよりマシ、かな。現実に生活というものをする中で。

・・・夫から出ていった放射能は、水に混じり何かに混じり、つまり、たとえば半減期が29年と言うセシウム137ならば、長い間、絶対に消えないで・・・目の前から消しても、絶対にどこかに残り続けて・・・つまり、濃縮されてゆく。

いま、放射能を食べてくれるバクテリアも無い、事故の後の状態のままの福一の原子炉には、ふたもされていない。

冷却をし続けているということは、中に水を入れて、汚染水を作り続けているということです。

がれきの問題は難しく、私などには触れようも無いのですが、基準値以下、と言う、数字のトリックを、恐ろしく思います。

水とカルピスとで考えると、イメージし易い。

カルピスを1とする。水が9。

足して加えて、10、の、おいしいカルピス。

その10の中には、そのままでは飲めないくらい「濃い」原液が入っています。

少しの量の高線量のものと、ほとんど問題にならない量の多くのもの。混ぜて、半分に割って測れば、基準はクリアするかも知れないが。

高線量のものが、そこにある、という事実を、打ち消す理屈にはなりません。


脱線しましたが、夫はもう、仕事に行っています。口には出さないが、相当体はきついと思います。

ほとんどしゃべりません。黙っている方が楽なのでしょう。

マッサージ椅子に座って、ぼおっとテレビを見ています。

朝になると、仕事に行きます。誰への不満も口に出しません。自分のすること、させてもらえることを、黙々と一生懸命にして行くだけ。そういう考えのようです。

この人と結婚して、私は、人間もどきになれた、なれていると、年とって来てからは、ますます、感じています。

病気と寿命は別物。一途な、世の片隅の一・科学者が、なんとか、し遂げたい仕事を、し続けていられるようにと、願っています。

やりかけていることを、したいのでしょう。して欲しいです。

応援するしか、私には、方法がありません。

・・・月曜日まで、ブログは、休ませていただきます。

ちょっと、保養に、なんちゃって





今夜も忘れられない人々のことを綴らせていただくつもりですが、先に、いま、感じていること。

海江田万里さんと細野豪志さんが呼び出されて公に語られたこと、中でも、とうに知られていたことですが、福一の事故後、東電の元・社長さんが、現場からの社員の全員撤退を考えられたこと。これに世の中があまり反応されないのが、私は不思議。みごろしにされそうになったのに。
置き去りにされるところだったのに。
東電は、そんなこと無かったと否定している。このことが、こわいです。

やっと、初めて測定されたという累積被曝量について、高くて50ミリだとか云々。それを、まあその程度で「済んでいる」ような感じで、新聞に書いてある。乳幼児の甲状腺の被曝についても。50ミリシーベルト。事故前に、日本人が一年間に被曝しても「いい」量は、1ミリシーベルトまで、だったのです。放射能の専門家は(小出助教のように)もう少し浴びても受け入れてくれ、という感じで。法律で決まっていた。
日本の法律って、すっごく軽いのですね、という気が、しきりにします。

放射能の害は、現実にあります。溢れるくらいそのことを、言いたい気持ちに、今のところブレーキをかけています。

「河北新報社」の五月二十一日の記事に<重点調査地域の除染計画、承認ゼロ 自治体「もう待てぬ」>という記事が出ています。

国の全額補助で除染を行える(それだけ被害が著しいという意味だと考えられる)はずの東北3県の53市町村に、計画を提出させて承認する、新年度早々に着手する、ということだったのが、未だに一件の承認もされていない。
3県の承認手続きは、環境省福島環境再生事務所(福島市)が行う。当初、3県の担当者は一人ずつで「問い合わせの電話さえつながらない(栗原市・佐藤市長)状態だった。

ということです。

今後どうなるのかわかりませんが。

何もかも、宙ぶらりんの気がします。また詳しく、書かせてもらいたいです。



女子閉鎖病棟 2

    ゆきちゃん

ゆきちゃん。

本来は、ゆきさん、あるいはゆきこさん、と呼ぶべき妙齢の女性だったが、二日間の休みのあと出勤して、髪ざんばらで、顔は擦り傷だらけ、拘束衣に両腕を固められて、裸足の足をジタバタと暴れていた彼女が「ゆきちゃん」だと教えられ、それでつまり、ゆきちゃん、と、呼んだ。

大変な興奮状態だった。

夜も眠らず、部屋中、廊下中を走り回り、どの部屋にも走りこんで、寝ている患者さんたちを、どっしんどっしん踏みつけて回る。八十歳を超えているタカギのおばあちゃんなど、まともに踏まれたら骨折してしまうだろう。ショックで、もっとひどい事態になるかも知れない。

それで、拘束衣を着せられた。柔道着のようなごつい、分厚い布で作られた、袖の長~い、長くて、胸の前で交差して、そのまま背中で固く結んでしまえるくらい袖の長い、体の自由を奪うことが目的の、特殊な衣服である。

眠れなくてギンギンに興奮しているゆきちゃんは、自由を奪われて怒った、怒鳴った、泣き喚いた。

どうしてこんなことするの、私が何をしたの、私だけが悪いんじゃないよ、私だって苦しかったんだよ。

ゆきちゃんの叫びは、私の胸に響いた。二十六歳。母親と二人、ある宗教団体の寮のようなところの一室に住み込んでいた。体の弱い母親は賄いの手伝いをし、ゆきちゃんは、掃除や布団の手入れや草むしりなど、いろいろな雑用をする日々で、僅かなお小遣だけをもらい、休日は月に二日。そんな中で、おとなしく、控えめに、誰ともトラブルを起こさず、暮らしていたという。カルテの入院記事にそうあった。

寮内で、誰かのお金やコンパクトや、干しておいたハンカチが無くなることが続き、ゆきちゃんだけでなく、他の人々も訊ねられたのだが、ゆきちゃんは、几帳面で潔癖なたちだったこともあり、花模様のハンカチ一枚、自分で買ったことは無い、人にもらったことも無い、もっといいかげんに生きている人もいっぱいいるのに、どうして私が、と、不満の思いを募らせて、不眠になり、疑い深くなり、ついに、疑うなら調べて下さい、とばかりに、身につけているものを、すべて脱いでしまって、走り回るようになった。

シーツなどかぶせても振り払ってしまう、食事もとらない、そんな状態のところへ、寮内の先輩の、信仰に篤いという年配の女性が、ゆきちゃんの母親に説教をした。
「あなたは、色情のことで間違いをして、人を苦しめた過去がある、それが、自分の娘のこの姿になっている」と。

ゆきちゃんの母親は、泣いて娘に、自分はそんなではなかった、酒飲み過ぎて死んだお父さんに逆らったことも無いと、訴えたらしい。

・・・このあたりの私の記述は、入院記事の内容と、いささか興奮状態から醒めていって、私にまつわりついていた時期のゆきちゃん自身の話を、総合して書いている。私の創作は当然無く、ゆきちゃんの語りを、整理して記していると、考えて下さい。

そこでゆきちゃんはきっと、心が潰れたか、はじけたか、自分のせいで、と、そこのところだけ非常に冷静に受け止めて、感じてしまい、思い詰めて、ある物を、むちゃくちゃに口の中に押し込んだ。倒れているところを発見された。

はじめ搬送されたのは内科のある病院だったそうで、胃洗浄を施され、途中で目覚めて錯乱状態となり、点滴を自分で引き抜いて医者と看護者を罵りまくったので、精神病院へ、の措置となった、とのことだった。
寮長も母親もそれを望んだらしい。

注射と薬で、強制的な眠りを与えられ、昼間もふらふらの状態で起こされていて、内服薬を、毒を飲ますのかと食ってかっかって払いのけていたゆきちゃんだったが、二週間ほどで、落ち着きを見せるようになった。

私が日勤の時は、私の担当の部屋だったせいか、へばりつくように傍にいて、話しかけて来た。

いささか話の脈絡のあやしい部分はあったが、満面の笑顔で近づいて来て、腕にぶら下がって、とにかく、話をしたいようだった。

人並みの顔立ちだったが、しきりに自分を「ぶさいく」だと言った。そうかな、可愛いよ、と、きっぱりの否定は避けて、自分の思う本当のことを伝えると、ひゃひゃ、と笑った。

好きな人はいるのか、と聞いて来たので、いたけどいない、と答えた。ゆきちゃんは、好きな人いるけど、家族と一緒にいる人なんだ、と、洩らした。

親のこと寮のこと、寮内の苦手な人のこと、その宗教の信者は、赤い色の服を着たらだめなんだよ、ということ。
お母さんは、何を言われてもうつむいて聞いて、後で泣くばかりだから、運命が明るくならないのだ、と、言ったこともあった。

本当に狭い範囲、小さな閉鎖的な社会の中で、育って暮らして来たゆきちゃんの中には、私には想像することもできない、悩みや葛藤が山積みにあるようだった。

母親は、週に一度、必ず面会に訪れた。
手作りらしい弁当を、面会室のテーブルに広げて、二人で、ひそひそ笑いながら食べていた。楽しそうだった。

ゆきちゃんの病状は落ち着いたものとなって行き、徐々に、私からも離れていった。

もう、満面の笑顔で寄って来ることは無くなり、言葉を振り掛けてくることも無くなっていった。

表情は、若い女性にしては伏し目がちな、変化の少ないものになって行った。それが、ゆきちゃん本来の「顔」であるようだった。私を見る目も、警戒の色を帯びたすっかり「よその人」を見るものになって行った。

急激な発症で、派手な入院をして来たゆきちゃんだったが、経過はとてもよく、閉鎖病棟を出て、開放病棟と呼ばれる、扉に鍵の無い、そこからパートの仕事にも出かけて行くような一階の病棟に移って行った。

私が病院を去る頃にも一階にいたが、すれ違っても、まったく関係の無い人の感じだった。

それがゆきちゃんにとって、ゆきこさんに戻った、ということだったのだろう。

私より、幾つか年上だった。

退院後の彼女について、まったく知ることは無いが、できれば幸せにいて欲しい。ごく普通に、そう思う。

たとえば娘を産むようなことがあったら、着せたいと思ったら、可愛らしい赤い服でも、着せてやれるような。

ゆきちゃんのことだけでなく、私は、宗教に壊された人間、というものを、沢山見た気がする。

壊れた人だから、宗教が必要なのだ、と、反論する人もいたが。

どちらがどうなのか、とにかく、痛ましく心を傷つけられた人を、たくさん、見た気がする。

私自身は、占いにさえ関わりたくない。神とか仏とか、人知の及ばぬ大きな存在のことは、別。そういうものを、感じているし、信じたい。

それは、太陽、というものでもいい。畏敬の対象物。謹んで何かに手を合わせる、という気持ちは私にもあるし、祈りの気持ちは強くある。教団、と言うものが、イヤなのだな、きっと。

おっと。このことに関して、私に何かを「教えてあげよう」とは、思わないでください、お願いしておきます。



sarahさん。

私が潜ったときにかけて下さったお言葉に、とっても嬉しいものがありました。

五月の初旬からおかしかったのが、夫が、詳しくは避けますが、激しい急性の症状で、入院していたのです。もしやこのまま・・・と、ビビったくらい。でもどこか、冷静なんですね、そーゆー時。
sarahさんが「私を思う」と、ひいて下さった言葉たちは、畏れ多いようなものでしたが、とっても嬉しかった。

だけどぉ。
あんな、ええもんでは、ほんとは、ないんですぅ。

・・・嬉しかったです、ありがとう。

えまさん。

実は私も、ねじれよじれのヒネクレ者なんですよ。

それで、か、だから、か。

自分は正しい、自分は立派、と、臆面も無い方の前に出ると、本当よりもっと、ひねた面をだしたくなってしまう、あほうなやつです。

なんでもいいや、トマト。リコピン酸たっぷりの美味しいトマト、作り手さんにそっくりに、まっすぐ、伸びて大きく育て!。






ここ以外に、このことを書く場所は無いと思われるので、精神病院で勤務していた数か月のあれこれを、自分式に記しておきたいです。

灰色の壁、天井、厚い鉄扉の内側にずっと、自由に出られないまま暮らしていた方々。ほとんどの方が、すでにこの世におられないでしょう。おられるとしても、私が思い出して書いて失礼になることは、無いと思います。


女子閉鎖病棟 1

   オモニ

オモニ、という言葉が、韓国の言葉で「お母さん」の意味だと知ったのは、そこで「オモニ」と出会ったのが最初だった。私が二十代初めだった昭和四十年代半ば過ぎ。韓国、というより、朝鮮の言葉、と意識した記憶がある。

S精神病院、女子閉鎖病棟、5号室。だだっ広い、廊下から直接上がる、ドアも戸も無い、何枚も畳を敷きつめてあるだけの、壁際に、くるくると巻いた各自の寝具が押し付けてあるだけの「病室」の、自分の位置に、いつもオモニは座っていた。

大工の棟梁みたいな刈り上げ頭。頭髪のカットは、月にほぼ一度、ナースとしてベテランになって、患者の髪をどうこうするにも慣れたAさんが、行う。オモニの髪型は、一番やりやすい、バリカンでの刈り上げだった。

私が勤務したのは、暑い時期だったから、オモニは毎日、綿のシャツを着替えさせてもらい、下は週に二回穿き替えるモンペだった。

朝、目覚めて、歯は自分で磨いた。顔も、つるんと撫でて洗う。そのままあぐらをかいて座る。

食事に呼ばれれば、立ち上がって、並んで、食堂の自分の定位置に座る。患者さんに薬を飲ませるのは、時に、入院して間もない患者は特に、大変なことにもなるのだが、オモニは違った。

オモニのごはんには、薬が振り掛けてある。ずっと以前からそうだという。色も変わっているし、おそらく味も、違ってしまっているのだろうが、オモニは、自分の座る席の、目の前にある食べ物を、率直に食べてしまう。

何も残さず、すべて、食べてしまう。好き嫌いは・・・あったかどうか。

オモニの感情を、推し量るのは、難しいことだった。

話しかける言葉が、どの程度通じているかが、まずわからない。オモニ、と呼ばれているのが自分だとは、理解されていたようだ。

ご飯ですよ、と言われれば、立ち上がる。入浴の時には、洗面器とタオルを見せると、手を伸ばして受け取る。

布団を敷いて、と声をかけられれば、敷き布団の端を持って、引っ張る。布団と言っても、スポンジの、へにゃへにゃのものである。週に一度、患者自身がシーツを替える。初めてそれを「布団」と教えられた時は、少なからぬカルチャー・ショックを覚えないでもなかったが、薄くて軽くて、丸洗いできるそれが、実際には便利なのだと、すぐに悟った。

布団を敷けば、寝るものとして、横になる。まっすぐに上を向いて、すぐにいびきをかき始める。

決まりきった日常のことは、条件反射のように、こなすオモニだった。楽と言えば楽な患者だった。

患者、ではなく・・・長期に、行く場無く、入院しているひと、だった。精神病者ではなかったと思う。

初めて病棟に入った日、挨拶した。新しい看護婦さんです、こんにちは、と、自分を指さして、話しかけてみた。無反応だった。顔だけは上げてくれたが、それだけだった。シワの中の小さな両目は、私に向けられたものの、何を伝えてもくれなかった。

オモニは、自分の部屋の自分の位置に、時々移動する大きな岩のように、存在していた。

作業室と称する、オセロやダイヤモンドゲームがあり、一台だけのテレビがあり、女性の下着に付ける用の小さいリボンを作ったり、レースの花の模様を、糸切りはさみで一つずつ切り離したりの「作業」をする大広間にも、足を運ばなかった。

朝、ナースが、前日の排泄の回数を聞きに回ると、必ず「一回と六回」と答えた。その時だけ、オモニは声を出した。

カルテを読むと、その二十年近くも前の、入院当時のことが、大雑把に記されていた。

N駅の裏の、戦後の闇市の名残りが色濃く残っているあたりで、背中に大怪我をして錯乱状態で泣き叫んでいるところを、保護された。がっしりとした体格で、身元を察しさせる何物を持たず、ただ、その土地の周辺の状況と着ていたものの形状から、もしやと呼びかけてみた「オモニ」という言葉に、反応したと。

年齢も名前も、履歴も、家族の有無も住処も何もわからない、おそらく朝鮮籍の女性として、オモニは、入院して来た。オモニ、という、唯一の反応をしめした呼び名が、実際の「お母さん、母親」を意味したものか、単に「オモニ」と呼びかけられていたものか、それも不明。病院は、保護された患者として受け入れただけで、わからないことは、わからないままだったのだろう。

カルテから知ったが、オモニのワッセルマン反応はプラスだった。梅毒に罹患したかどうかの、記録。梅毒は恐ろしい病気で、かかれば治療は(少なくとも当時は)難しく、伝染力が強いし、見かけが治ったようでも、血液の中に、その病気の記録が残る。性病ではあるが、脳を犯されれば、廃人になることもある。目を損なわれることもある。

オモニだけではない。他にも、特に老齢の患者に、プラスの人はけっこう多かった。
全く普通の家庭の主婦だった人にも、いた。男が・・・夫か恋人か、客という立場の誰かか・・・遊んで、その病気をもらって来て、移すのだ。そういうことが、昔は、沢山あった。

オモニはおそらく、梅毒のスピロヘータに脳を侵された人だったのだろう。

・・・先日、この病院での、患者さんのおやつの買い出しについて書いた。

あの記事は、患者さんのウワマエをはねる話だったが、今回の話は違う。

オモニに、チマ・チョゴリを着せた話だ。

月々、身よりの無い患者さんにも「お小遣い」と呼べるお金が入る。まことに微々たるものではあっても、公のお金。下着や歯磨き粉を買える程度のお金ではあった。

オモニは、おやつの注文も自分ではしない・・できなかった。ナースたちが、種類など考えて、皆がおやつを食べる時にはオモニも楽しめるように、はからっていた。

そうして使っていたけれど、徹底的に要求が無いのだから、長い間には少しずつのお金が余って来る。オモニにもしも、のことがあっても、その時には、それ用の最低限のお金が用意される。残ったら、公に返還する。他の人ならともかく、欲望と言うものを一切知らないオモニの余剰金を返すくらいなら、と。

婦長と、古株のおばちゃんナースたちが考え付いたプラン。

オモニに、チマ・チョゴリを買ってあげよう。

もしかして何か、感じてくれるかも知れない。

選抜隊が、どこにあるやも知れぬその衣類を買い物に出かけ、苦労した~、と持ち帰って来たのは、私も、本格的なそれをその時初めて見た、美しい水色の・・・もしかして一般的な言い方では「派手」な・・・民族衣装だった。

着付けの時には、私も、その場にいさせてもらった。

全く抵抗なくオモニは、シャツを脱ぎモンペを脱ぎ、水色の、ふわ~っと裾の広がったチマ・チョゴリを身に着けて、すっくと立った。

無表情だった。

みんな、見上げて、なんとなく笑って、周囲を見回して、オモニを見上げて、ぱちぱちぱち。拍手した。

婦長も、古株さんたちも、新卒の張り切りナースも、私も、拍手した。

何事か、と見に来て、一緒に拍手している人もいたし、自分には何の関わりも無い、とばかりの、固い表情の人もいた。

オモニ。

それからほどなく私は、その病院を去ってしまったのだけれど。

あの時、どんな気持ちだったのだろう。

オモニ。私たちは、なんだか面映ゆく、なんだか嬉しくて、少し、涙ぐんでしまったりしたのだけれど。

オモニ。あの何年も後に、お棺に、入れてもらったかも知れないね、あの、美しいチマ・チョゴリ。

日本人たちの、思いつきの傲慢なんかじゃなかったよね。

本当に、着せてあげたい、着てもらいたかったの。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

yuutaさん。

早々にコメントありがとうございました。

私は、太陽を飼う、という言葉に、力を感じたのだけれど。それで書いたのですけどね。

犬と住む人、猫と住む人、ハムスターを傍に置く人。

いろいろあるのだから、月を飼いたい人がいても不思議ではないですね。


えまさん。

トマト、育てるのに夢中の可愛い(失礼)姿が想像できます。

ものを育むって、大きいことですよね。素直なえまさんのトマト、まっすぐに、お日さまに向かって、すくすく伸びろ!。

楽しんで下さいね。


tsuruさん。

向田邦子って・・・嬉し過ぎ・・・ちょうど今、向田邦子さんの一番下の妹さん、長く「ままや」を営んでおられた和子さんという方の「向田邦子の恋文」という本を読んでいるので、びっくりです。

身近にいた、大切だった、突然消えてしまったお姉さんを、惜しみ、愛おしみ、悼む内容で、生活の仕方の雑で大雑把な私は、ふむむむむ・・・と、声も無く心惹かれて、読んでおります。

この歌、そうそう、ラヂオで聴いていました。幾つの頃だったか・・・同じくらいの頃でしたか・・・ま、それは。

ラテン男の生命力旺盛な声でした。いっちょ、行くか!。







 
大物ぶって(るつもりは皆無ながら・・・)止めるの戻るのと、恥ずかしい心の揺れをあからさまに、まこと醜いありようをさらしたものと、己を嗤いつつ。

また、書かせていただきます。

金環日食、鑑賞しました。

朝、五時に起きて夫の弁当を作り、小学校へ行く孫どもの朝食を用意しておき、学校の月曜セットの確認すませ、まるでグレタ・ガルボかマレーネ・ディートリッヒ(近いところでの例えでは、タイタニック号へ乗り込む際の令嬢・ローズがかぶっていたごときなる、つば広、ものすごくつばの広い帽子を頭に乗せて、東の空を望む庭の一隅に、ディレクターズ・チェアを設置。

お茶のボトルも準備して、わが住む町はなんとか晴れている、六時十六分には、チェアの上の人となりました。

十七分。あ。

あ、あ、あ、あ、あ、あ、特別の太陽見る用グラス超しに、ぴこ、と、小さく、お日様が齧られている姿が確認できた。

どんどん欠損部分は大きくなる。あの影は月なんだ、太陽が月に隠されて行くんだ。

一人こうふんしている間に、孫ども起きて来て、やはり、あれあれ、と、不思議そうな顔になっている。

この子らが大きくなって、日食、という言葉を聞いたら、家中で一番こうふんして、見たり顔を下げて休んだり、天空の自然のショーを喜んでいたばあちゃんを、思い出すだろうか。

思い出さなくていい、こういった、めったに無いことを、楽しんだり感心したりできる、愉しめるヒトになってくれるといいなあ。

自分がたのしいものなあ。

五年生の孫息子が、作っておいたオニギリと卵焼き、二年生の孫娘が、水筒と紙コップを持って庭に出て来て、外で朝ごはん食べたいと言う。

否やは無し。

敷物ひろげて、紙コップ倒したりしながらも、欠け続けているお日様の元で、月曜日の朝食を。

沢山つくっておいたものを、いつもより旺盛に、もりもり食べておりました。この子らの母は、昨日から出張で留守。父は、出勤前で、食卓であくびしながら、見てごらんよと言うのに、そんな余裕無いと言いやがる。

ま、無理には勧めませんよばーちゃんは。

ぢいさんも出て来て、立ったままオニギリかぶりつつ、木漏れ日の影が太陽の形のまんまなんだ、とか、レクチュアしてやっておりました。

庭は今、むせるような緑が盛り上がっている季節。この家のオーナーさんは、紫色の花がお好みか、アジサイは、大きなのが、七株も八株も植わっています。私が特に好きなのは、額紫陽花。

深紅の見事な薔薇、これも、今年は沢山咲いている、純白の芍薬も、淡いピンクのバラの花も。今年は、花がいっぱい咲いてくれています。

広い庭の手入れが手にあまり、特に生垣が手におえず、そのうち庭の無いとこへ引っ越ししようなどと言い言いしつつ、たっぷりの花に囲まれた暮らしの楽しさ。

いつまでこの家に住むかはわかりませんが、幸せな季節を幾つも幾つも過ごした家として、記憶に残るのでしょうね。



橋本治さんという作家がおられます。私たちが若かったあの時代「止めてくれるなおっ母さん、背なのイチョウが泣いている」なんてフレーズが、取りざたされた才人で、ものすごく頭のいい人なのでしょうと思い、しかし、今まで接点が無く、著書もほとんど手にとっていない、という方、私にとっては。

わたし、いってしまいますが、めんくいで、そのほうめんで、ちょっと・・・ごめんあそばせ。

五月十八日の新聞に、この橋本さんのインタビューが掲載されていました。

丸まって潜っていた私に、ずううん、と、来たのでした。

長いけど、引用させていただきます。

自分には病人の繊細な神経なんて無縁だと思ってましたから、弱くなった時の視点というのが見つかったのは得したな、と思う。

あとは、老人とはこういうものだなという考え方ができるようになりました。昨年はしばらくつえが必要な生活で、外を歩いていると足が痛くてどうしようもない。

立ち止まって、ガラスに映った自分の姿を見て、「老人じゃん」なんて。

   (中略)・・・体はしんどいけど不幸だとは考えていないんですね、との問いに答えて。

「世の中、幸福と言うエサがないと先に進めないっていうのが、若干不幸な気がしますね。

自分の中に太陽を飼っている」という感じになれないのが、現代人の不幸なのかな。自分自身は何かうつろだけど、外が華やいでいるからいい、外に照明がいくらでもある、というのが現代社会の歩き方だという考えがあるような気がするんです。

それよりも、自分の中に信じられるサムシング(何か)がある、という方が、外を見ても輝いて見えるはずだし、下手に絶望もしないだろうと思います。

桜が咲いたのを見た時だけ「わーっ」て喜ぶ、というのはちょっと違う。そういう「イベント中心主義」ではなくて、自分の中にある何かが、別に大したものじゃなくても、「すごくいいもんじゃん」と外を見てくれたら勝ちだという気がしますね」。


・・・正直、よくわからない部分もあるのですが、自分の中に太陽を飼う、と言う、壮大なオコトバが、いいじゃん!!、な感じに、わたくしに届きまして。

・・・それから。

ありがとう。ありがとう。ありがとうございます。

たくさんの方の温かい思いをいただき、嬉しく恥ずかしいです。

本当に、嬉しく恥ずかしいです。

あと数日、丸まって潜っていさせてもらいます。

六十を過ぎたら「わがまま」通そうといきっていたけど。

何と言うか。

嬉しく恥ずかしいです。

ありがとう。恥ずかしいです。
去年の五月、自分のブログを立ち上げました。

三月の地震、津波、原発事故。恐ろしいことが起こり、特に福島原発の事故は、信じがたく、あってはならないものでした。

私の周りには、原子力や水や原発の基本のことに詳しい何人かがいて、時の官房長官が、テレビで、不眠不休の頑張りようで、今のところ大丈夫ですと繰り返す中、大丈夫なんかじゃない、避難される方々は、もう、故郷へ戻ることはお出来にならないだろう、事故機はコンクリートと鉛で固めてしまうしかないだろう、と、さまざま、教えてくれました。

水も空気も放射能に汚染される。何より、汚染水を海へ流出させてしまっていることは、万死に値する重い犯罪だ。取り返しがつかない。

そうも聞かされました。本当に、取り返しのつかないことに、なってしまいました。

大変なことになってしまった。

私は、自分なりに大いに慌てて、自分に出来るかもしれないことを、見つけて、当時もずっとお邪魔していた、やさいさんのブログに、活性炭が放射性ヨウ素を吸着する働きのあること、次には、ゼオライトが放射性セシウムを吸着・除去できることを、わめくように書き続け、やさいさんはもとより、やさいさんのお部屋に来られる多くの方々にご迷惑をかけ続けました。

人類が経験したことの無い大惨事であり、なにもかもにデータの無い、誰も本当にはわかっていないことを、けれど、これしかないと、言い続けていたかった。

初めから、私なぞの言うことを信じて、紹介するものを、使い始め、使い続けて下さったのが、yuutaさんでした。途中から切れてしまった気持ちは、よくわかって、黙っていました。

無理に勧めるものではないのです。初めから。

・・・yuutaさんには、苦手な電話もかけさせてもらい、相談し、力づけて頂き、不安な中、しかし黙っていられない気持ちを、その背中を、押し続けてもらいました。


最近、ずっと考えていた。

私のさせてもらうことは、もう、何も無い。私がわめくことも無い、情報は、今では行き渡っている、あとは、自分に向いた情報の方へ、各自が進んで行かれるだけ。

私の個人的に私淑する小出裕章先生は、決して、人を甘やかさない。どんなに辛い質問を受けて、お辛い思いをされようと、その場しのぎのどんなことも口から出されない。本当のことだけを、言い続けておられる。

本当のこと。それって、何だろう。時に応じて、場合に応じて、変化するようなものなのだろうか。

本当のことを言えば、傷つけてしまう相手がいる。わかっていて、目をつむり耳をふさいで、違う、違う、そんなんじゃない、と、叫びたい人が、沢山おられる。

ブログをつづりながら、泣いていたことも、よくありました。

先日。薔薇を浮かべたお風呂などと言う、平和極まりないものに触れることがあって、考えた。考えていた。



yuutaさんのブログが、今朝、完全に「無い」ものになっていました。

私は、当初のyuutaさんのように、何でもいいから知りたい、知っておきたい、と必死だった方に向けて、自分のブログ、なんて、考えてみたこともないものを、はじめました。

今度こそ自分も退け時、と、思いました。

濃密な時間を、過ごさせていただきました。

皆様、皆さん、ありがとうございました。

ひとまず、さようならと、言わせていただきます。

さようなら。ありがとう。


数十年ぶりにその前を通りかかった精神病院は、跡形も無くなっていました。車のスピードは速かったので、改築されて見覚えの無い建物を、それと見落としたのかも知れません。

とにかく、幅の広いバス通りに向いて、鉄格子の入った窓が黒くずらりと並んでいたあの光景は、失われていました。


結婚する前、自分自身がとても不安定な気持ちの状態の頃。

頼まれて、内科・精神科の看板を掲げた、とある病院に、勤めたことがありました。三か月ほど、おりましたか。

結論的には、自分の方が、中にいる患者さんがたより、よほど問題あり、という、予想通りの結果でした。自分にとっては。

しかし一応、白衣をまとって、常時カギのかけられている、女性の閉鎖病棟へ通い始めたのでした。

中で体験した、見た、聞いたことは、本当に沢山あって、話し始めるとキリが無いです。

今夜は、その中の、ほんの一つの体験談を、書いてみたいと思いました。

今日、今年初めてのスイカを、口にしましたので。

思い出して。


・・・記憶はそんなに定かではないのですが。

一週間か二週間に一度、病棟の勤務者が、二人ずつ組になって、買い物に出るのでした。

患者さんが、紙に書いて、要望箱に入れておく希望のおやつを、買いに行くのです。

書かれたものすべての要望が通るのではありません。

ロッテのチョコ一ダース、えびせんの大袋も一ダース、ミント味の何とかを五十個、などという希望は、整理されて、そこそこの量と種類に収まります。おやつは、どなたにとっても、単調な入院生活の中での、大きな楽しみです。

今はどうか、まったく私有財産の無い、とみなされている、天涯孤独と思われている、長く入院したきりの患者さんにも、入院費のほかに、おやつを楽しむことのできるお金が、回っていたようです。下着や靴下なども、こざっぱり、できていました。

裕福な家の患者さんもいて、普段着に大島を着ておられる方もいました。その大島は、住込みのAさん・・・洗濯専門のおばさん・・・が、他のいろんな洗濯物と一緒に、がんら、がんら、洗濯機で洗っていましたが・・・。

で。

スイカの思い出です。

始めは、病棟に出入りする度に、厳重に開け閉めする長い鍵ももらえず、誰かにくっついて出入りもするのが、ひと月ほどで、鍵を持たされます。

そうなると、買い物隊にも、加わるのだそうで。

その日は、私くらいの年齢の息子さんが二人いるというFさんと、買い物の一覧表を持って、私服に着替えて、外に出ました。

病棟には、四十人から五十人の患者さんがおられる。その希望の買い物は、けっこう時間や労力を要します。

しかし慣れているFさんは、てきぱきと店の人に注文し、届けてくれるよう依頼し、私は、傍で、へえええ、と、口あけて、めったに出来ない体験を噛みしめておりました。

終わった、と、小柄なFさんは、にこっと笑い、私を、喫茶店に誘うのでした。ええええ、と私。

「自分のお金は持つなと言われたから、手ぶらですよ」

言うと、うん、うん、うなずくのみでFさんは、ずんずんと、物馴れた風に近くの喫茶店へ。

・・・ワタシは実は、今より当時の方がもっと、喫茶店と言う場所が、好きでした。

コーヒーや煙草の匂いが好きでした。

席に着くとFさんが、コーヒ二つね、と、ウェイトレスに言いました。

「コーヒでいいでしょう?」

私はコーヒーが、大好きです。しかし。

あの、と、真剣にモジモジしたと思います、

「後で、お金、お返しします」

とにかくその件をきっちりさせておきたくて、申し出ました。

ああ? あ、いいの、いいの。

Fさんは、ピースに火をつけて美味しそうに煙を噴き出して、にっこり笑いました。

「さっきの買い物、患者さんは定価で買うけど、払う時は、ちょっと値引きした値段で払うの。だから、買い物の手間代に、コーヒくらいは、飲んでいいことになっているんだわ」

つまり、患者さんの払う額と、実際に支払う額の差額で、買い物隊は、労をねぎらうコーヒーを、いただく慣例なのだそうで。

私が世間知らずなのかどうなのか、あの時のコーヒーの味は。

家族を入院させているお家、医療保護を受けて入院しておられる、あの方やあの方。

その、ウワマエはねて、飲んだコーヒーであると。その思いが、こびりついて、当分離れませんでした。

スイカもそうでした。

夏の初めだったのかなあ・・・。

大きなスイカが、届けられて、婦長さんが、患者さんに見えないあたりで、さくっと切った。

よく熟れた、真っ赤なスイカでした。

勧められて口にすると、甘かった、おいしかった。

果物は、めったに食べたいと感じない自分ですが、イチゴとスイカは好きでした。

その、大きな甘いスイカは、いつも買い物をしてもらうので、と、町の青果店が持ち込んで来たものと聞きました。

それも、患者さんのウワマエの分でした。

遠い初夏の思い出の一つです。            


えまさん。

張り切って、いろいろしておられるのですね。

やさい子ちゃんや、べじ太くん、すくすく大きくしてあげて下さいね。

yuutaさんのブログのお休みは、とっても、何というか、うまく言いにくいですが、毎日行くよ、と書いて下さっていたし、またここへ来て下さるのを、ずっと待っていましょうと、思っています。

治ったから書きますが、ひどい風邪のようなものにやられていて、特に咳がひどくて、訪れていた親戚の家で、もうあんたは寝とりなさい、と、ベッドのある部屋へ追い込まれていたりして。のどが、裂けそうな感じでした。熱はいっさいカンケー無く。咳と、倦怠感。

今日はもう、なんとか元気です。

明日はもっと、元気でしょう。






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