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返事の中までKUONです。

  1. 今の思い
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気持ちいい。

この件で記事を書くのは今日で終わりにしようと考えます。少しだけ言い足りなかったことを書きます。

淀んだ顔で出て来た日大の学長さん。何やかやと言うてはりました。一人で会見した学生さんについても、わかった風なことを仰りながら、なにもわかっていなかった。中で気になったのが、彼には気の毒なことをした、とかそういうひとごと感満載の感じで

@就職のこともうまく行くように考えてあげる。

それ。体質、そういう。

力のあるお立場だからそれが言えるのでしょう、そういうことを求めて傍に寄る人々もおそらく、いや絶対、沢山。しかし、あの学生さんは、そんなこと言ってもらって、ぜんぜん嬉しくもありがたくも無いと思います。彼を「いい」として、きちんと目の見えている方々は、ちゃあんと見ていたと思う。あの学長が、就職のことも、など要らんこと言って「あいつ、うまくやったな」と妬むヤカラは沢山いるはず。ほんとに、要らんことし言えなかった、情けない「上層部」の、一。

もう一つ。ホントかそうでないか、メディアがしきりに煽ろうとしていたこと。就職活動している学生に影響、とか。日大生であることが恥ずかしい、とか。へえ、そうなんだ~アホと違うか、と。

日大は、たまたまこんなこともあったけど、普通にいい大学でしょう。企業の面接官にしたって、目の見えている人、そうでない人、いろいろおられて、見たいことは見るでしょう、見ようのない相手なら見られないでしょう、企業自体がどの程度か、学生自体がどんな程度か。わざわざ、困っちゃってますよ~、とか。本気か。ワタシがもしも、もしもそんなことを望める立場なら、あの、単独会見の学生さんは「ほしい」人材。日大なのが恥ずかしい~、なんぞと、この時に言ってしまっているような人は、要らないな~。ミジンコのタワゴトです(笑)。

と、思った。

以下、関西学院大学のこの学生さんも、すてきな若者と思いました。

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 アメリカンフットボールの日本大と関西学院大の定期戦で日大の守備選手が関学大クオーターバック(QB)に悪質なタックルをして負傷させた問題で、全治3週間のけがをした関学大QB(19)が27日、大阪・エキスポフラッシュフィールドであった関大戦に出場した後、取材に応じた。報道陣との主なやりとりは以下の通り。
     
――試合を振り返って
 「けがの不安はあったんですけど、けがはあまり意識せずにやった。(けがで)練習できなかった時に頭を整理して、今まで通りプレーしようと思ってやりました。しっかり相手のディフェンスも見れて、落ち着いてプレーできた」

――後半からの出場はいつ言われた
 「3日か4日前くらいに先輩QBから、『後半からいくかもしれないから準備しておいて』と言われました。思いっきりやろうという気持ちでした」

――日大守備選手の謝罪を受けての感想は
 「直接謝罪を受けたときに、すごい心苦しいというか、すごい可哀想というふうに感じました」

――日大守備選手への思いは
 「会見で『フットボールする権利ない』って言ってたんですけど、それは違う。フットボールの選手として戻って、グラウンドでルール内でプレーして勝負できたらいいなって思っています」

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拍手。拍手。ありがとうございました。





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  1. 今の思い
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やっぱり思うこと 1

そんなに大騒ぎするようなことではない、との意見もあるようで、そうなのかも知れませんが、私には気になること。

もう少し書かせていただきます。

今回の「加害学生」、Kさんとします。高校二年からアメフを始めて、熱中していたと語っていました。野球やサッカーと比べると、アメフはメジャーなスポーツでなく、子どもの頃から、というパターンはほぼ無いと思われます、他のスポーツをしていてそして、ということだったのかも。それが去年は日本一になっている日大の有力選手になっており、全日本の選手にも選出されていた。

恵まれた選手だったのですね、普通に考えて。才能も努力も周囲の支えもあったのでしょう。今回のことの「とかげのしっぽ」に、と目されるIコーチには、高校の時から教えを受けていた、と。

一般的に、スポーツ推薦で進学した選手は、恵まれている部分とプレッシャーになる部分があるようです。恵まれているのは、学力のみでの進学でなく、一生懸命打ち込んで来た特技によって(たとえば)大学に進めること。もう、好きなことばっかりに夢中になっていられる。しかし、受け入れてくれた学校に、当たり前ですが貢献しなければならない。

問題のこの定期戦。相手は「宿敵」関西学院。その

スタメンから外される。なぜ、とは、一学生の立場では問えない、問える学校もあるのだろうが、Kさんには問えなかった。げんざい入院してしまっている元・監督は、なにせ、日本一を達成し得る実力のある監督。

今回は否定的な面ばかりが出ている感がありますが、並みや大抵では、常に日本一を目指し続けるチームの監督はつとまらない。

それだけでない、マンモス大学日大の、上の方の理事でもある。理事長、T氏の後任とされている権力者であり、かつ、人事権を握っているお方。その引きで、Iコーチも、日大の職員になれたのだと。Iコーチは、監督にアタマ、あがりませんよね、フツーに考えて。事実、就職して監督のもとに就いて最初の仕事が、タバコ買いに、だったそうで。本人は否定しているとつたわりますが、若い頃に、アブナイ映像作品に出ていて、そのこともウヤムヤにしてもらった恩義がある・・いま30歳。

学生・Kさんは、一人で出て来て謝罪をした、当時の監督コーチに命じられたこと、おそらく目の前が真っ暗になるような尋常でないことを、やってしまった。やりました、自分はやった、と、明言した。無防備な相手方の選手にタックルかませ、それだけでない二度目、三度目、反則行為を犯してしまった。なぜ一度目の直後に審判は止めなかったかと、笛は聞こえなかったかと、おおよそ感情的な質問の多かったメディアの中にも、初歩的で肝心な質問を投げた方もいたようです、Kさんはおそらく普通に本当のことを答えた。

下げられて号泣していたと伝えられます。その場にいて異変を感じたカメラマンの方が、その、全体像は見えないが、泣いているKさんの写真を撮っていました。

元監督、「Kはよくやった」と言っている。

Kさんは「認めてもらった」のか。代表にはなるな、と言われたことは反故になったのか。そんなどころの話ではなかったのですね。

Kさんのタックルの画像は拡散され、ものすごい批判が集まった。Kさんは元・監督に、こんなことになっている、と相談した。めったに口をきく機会など得られない、雲上人の監督様に。元・監督は、おおよそ次のようなことを口にした、と。

「お前はあの場で反則の罰を受けている。お前の罰は、あれで済んでいる。ネットは監督をたたきたいだけだから」

もう気にするな、と、言ったそうです。

こう聞けば、監督いいじゃん、と、思いそう。しかしKさんは

気にしないではいられない、ともかくまず、スポーツマンとしての自責の念があった。したくないことをしてしまった自分に対するどうしようもない苦しさ。

相手の選手に謝りたい、と申し入れた。それは止められたとか、隠されたとか、ここ、私にはもう少しわかりきっていません。二転三転した話のようです。

後から言えば、K選手は、謝罪ができていたのです。相手方の本人と、ご両親と会って。自分の方の両親も同席。ここで、二十歳になっている男性の、こういった場に、親御さんが同道ということに、違和感を覚える方もおられるようです。

そのあたりは私には判断できませんが、学生スポーツの世界の「父母会」は存在するのであって。今回も、日大の方の父母会が、動き出す模様。

親といえど、現実にはなかなか、監督という立場のひとに、思い切ったことなど言えない。選手も言えない。絶対言えません。

ある方から秘密コメントで、

「そんなにおかしい監督などには、皆できちんと抗議して、それで皆で干されても仕方ないのにね」

という意見もありますよ、と教えていただいた・・・黙っているのがダメなのでは、との趣旨らしい。

まあ、何をどう考えるかは個々人の自由です、が、私は、それは通らないよね現実には、と、思いました。

だからこういうことも起きる。そうですねきっと。でも、私が、養父のことなど持ち出して書いたのは、私が子供だった時代も今も、きっと、強烈な力というものの、恐ろしさは変わっていないんだ、と。いい悪いではない。そういう世界がある、あってしまうんだ、と。

いいと言っているのではありません。

今になって「Kくんは真摯に自分の思いを語った」などと、認める体を装って実は「事実でない」と、これも否定して見せた学長。

今はコメントを差し控える」を多発、入院中の元・監督を擁護するような発言があったのも、立場上、現段階では仕方のないこと・・とは、私は感じません。

ひとごと。自分は知らなかったこと、関わり合いになりたくないこと、今はハッキリモノを言えないとわかって下さいよ~、と。全くご自身は痛んでいない、何より、顔が悪すぎる。いわゆる「いい顔」の学長さんではない。

仕方がないと言えばそうなのか?。

学校に不祥事があったり。法令違反があったりしたら。私学への助成金は不交付になる。

税金からのおカネが、学校に流れて来なくなる。日大の場合、年間80億円。くわしくはわすれていて申し訳ないですが、不交付になるのが80億円でも、あそこは年間、たしか1800億円?予算がある。そんな大したことではない・・・ことは、無いと、考えます。その助成金は、予算として、イタダけるものとして、計算されているはずのおカネです。

・・・書き始めたら長く長くなりました。もうすぐ午前三時です。

後はまた、書かせていただきます。

被害を受けた関学の学生さん、全治三週間のケガを負ってしまわれたのですが、回復に向かっておられるようで、それは本当によかったなあ、と。あの独特のユニフォームを着けて、また試合にも出られるようで、なによりと思います。その程度のことで済んで何よりと思います。

・・・娘ムコさんの一人が、関学でスポーツしていました。

しょっちゅうは会えませんが、会えて、言うてた。

「アメフは丸刈りでやるスポーツやないし。甲子園野球やのうて、甲子園ボウルやからなあ。」

「あのこ、よう、アタマ丸めて来たな、必死やったんやろな、かわいそうに、丸坊主なんかイヤやったやろに。」

と、そういう方向からの感想を述べていました。

「せやけど、監督かコーチか知らんけど、罰とか恥かかせとかで、アタマ丸めさせたんやろけど。あのアタマすら、上のモンの厭らしさを際立たせる結果になってしもた、思うなぁ。」

などと。

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昨年の優勝の時のとある記事です。

12月17日(日)、アメリカンフットボールの大学日本一を決める第72回甲子園ボウル(阪神甲子園球場)において、東日本代表として3年ぶりの出場となった本学は、西日本代表の関西学院大学に23対17で勝利。1990年以来、27年ぶり21度目、関東勢としても11年ぶりの大学日本一に輝きました。

甲子園ボウルでは3年ぶり29回目となる「赤(本学)と青(関学大)」の宿命の対決となったこの試合、関学が試合開始早々にTDを奪って先制。しかし、1年生ながらエースナンバー「10」を背負うQB林大希選手が積極的なランを見せるなど次第にペースを握り、12分36秒に同じ1年生のWR林裕嗣選手へ39ヤードのロングパスを決めて反撃を開始。さらに前半終了間際に1年生のRB宋旻宰が16ヤードのTDランを決め逆転。後半に入っても着実に点を重ねた本学は、2連覇を狙う関学の反撃を1TDに抑えて見事に優勝を飾りました。


勝利の瞬間
試合後のインタビューでは、「ウチの選手を、本当に誇りに思う。27年もかかってしまい申しわけない」と、こみあげる思いに言葉をつまらせることもあった内田正人監督。チーム再建を託されて2季ぶりの監督復帰でしたが、恩師である故篠竹幹夫元監督の“教え”を継承した指導が実を結び、監督として甲子園ボウル初勝利となりました。

また、この試合の最優秀選手に選ばれたQB林大希選手は、同時に年間最優秀選手(ミルズ杯)にも選出され、どちらも1年生では史上初となる快挙となりました。

昨年のリーグ戦4位から、大学日本一へ。まさに不死鳥のごとく蘇ったフェニックスは、新春1月3日(水)に行われる第71回ライスボウル(日本選手権)に進出し、「富士通フロンティアーズ」と日本一を目指して激突します。

内田正人監督
[内田正人監督]
27年ぶりの優勝というのは、僕が篠竹監督のもとでコーチをやっていた時が最後。やはり長かった。関学・立命の壁が高く、関東でも法政や慶応・早稲田が非常に強くなってきていたので非常に苦しかったです。
当初は甲子園ボウルだとか関東制覇だとか言えなかったし、関学に比べると我々はエリート集団ではないので、1試合1試合勝って選手に自信をもたせていくしかなかった。
ただ、僕がやっているのは、篠竹監督がやっていたことをアレンジしてきただけ。1年生がこれだけ大きな舞台で活躍できたのは、短期間に大学で通用するように育てあげたコーチたちの手腕だと思います。今日の戦い方も、コーチたちが組み立てた練習に基づいたプラン通りの展開でした。学生とコーチがほんとによくやってくれたと思うし、彼らを誇りに思っています。




  1. 今の思い
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追い詰められて

昨日は用で大阪まで出かけていて、帰宅を焦って(四時までに帰らねば、の必要がありました)タクシーに乗ったら、いきなり

「日大の子、出て来ましたね」

と。旧知のヒトのように話しかけられた。あ、出て来はりましたか。と応じたワタシ。

運転手さんは概要を話してくれ、大人があかん、間違っていると怒り、ついでに安倍首相の「なっとらん」具合を語り、他のせくはら・ぱわはら・とにかく馬鹿としか思えない=サイテー男たちの最低具合を論じ、降りるのに一番いい場所で降ろしてくれて、「また乗って下さいや」とにっこり、去って行かれました。所要時間12分。

バスの都合がいいので、こちらへ来てからあまりタクシーを使わなくなっているのですが。ランチ一回分くらいのオカネがかかりますし。

で。今これを書き始めている朝の10時過ぎまでに、およその映像は見ました。

どなたの感想もほぼ同じでないかと思われます。あの二十歳の男の子が、可哀そうでたまりません。鍛えられた大きなカラダの青年ですが、私には「男のこ」。立派な態度、誠実な物言い、お辞儀の仕方も美しい。

もうずいぶん以前に、今は指導者になっておられる柔道の井上康生選手のお辞儀が、美しくて感動しまして。

昨日の日大選手のお辞儀も、武骨ながらいいお辞儀だな、と、見とれました。あれがこの国の正しいお辞儀です。両手をちまちましながらのあの、あの方の・・あ、脱線しそう、元に戻ります。

名も顔もどうどうと正面から晒しての謝罪、事実の説明。若者の気持ちを思うと、なんとも言い難い思いが胸の中に溢れています、立派です。

この世に「if・・もしも」は、無いけれど。

日大のあの監督その他にとっての「if」と、追い詰められてやってしまった、しかし自分がやったことではある、と語った彼の「if」は、一致しなくて、合致しなくて、思い上がった傲慢な大人たちは、まさか、このような[if」を想定していなかったでしょう。

自分たちが「追い詰められる」考えは、無かったはず。


私が十代の子どもだった頃。

養父の家で、養父を訪ねて来た沢山の人たちの中に、いまの日大のアメフの監督のような人もあれこれいた気がします。いました。表向きは一つの総合学園の理事というのみであった養父は、実は他にもいっぱい、いろんな顔やな立場を持っていて。いろんな人が出入りして、いろいろな話をしていました。以前も書いたことありますが、子沢山の学者の宮さまは、すました顔でおいでになり、すました顔で退出された。ご自分ではお金などには触れられません、当然のこと。来て、帰るだけです。何かの用は果たされたのでしょう、で、済めば来て、お茶を出されても召し上がることは無く、すっとお帰りになられる。それでコトは片付いたのでした。

学校も抱えていたし、それが発展したなんとか協会、などというものの、どう言うのか、幾つもの顔であった養父でした。

スポーツという名の下でケガしたりさせられたり、それで体が壊れて第一線から退かざるを得なくなったり、大学のみならず高校スポーツの世界でも、練習でなく学寮でのいじめの結果、命を落とした生徒もいた、当時はそういうことは表に出ませんでした。新聞にも出ずテレビも報じませんでした。でも私は、ああ、あれは、と、ひそかに知ってしまっていることもありました。幼く半端な知りようではありましたが。

知るな見るな語るな、ではありましたが、私は残念なことに、、そういうことに、びんびんと傾いて行く神経を持ってしまっていて、養父は私のような子は好きでなく、もっとおっとりと、とろーんと、アイスクリームやリボンのことを考えている女の子が好きだった。ひねくれていた私でしたが、なんとか養父に認められたい、優しい顔を向けてもらいたい気持ちはありました、ので、好かれていないことは、悲しく惨めなことでした。そんなことを、今更思っても言っても、どうしようもないことではありますが。

昨日会見した日大の選手は、本当に立派でした。そして、かわいそうでたまりません。どんなに勇気が要ったかと思います。自分の人生の大きな岐路であることを、漠然とは、少しくらいは「わかって」いて、その不安もあったでしょうし、とにかくとにかく。

関学の方の監督さんが、コトの内容に憤怒しながらも、彼の態度を称えておられたこと。ケガをさせられてしまった側の親子さんも、彼の謝罪を「うなずく形で」受け入れて下さったことも知り、ものすごく祖母ちゃん視線の感覚で、ああよかったなあ、ありがとうございます、なんぞと。

むかし風なら、もしかして、あの選手にすべてオッかぶせられて、おしまい、にされたかもしれないと思うと。

一人の、とてもまっとうな日本の若者が、追い詰められた結果は「潰されて」幕引き、だったかもしれないのに、と。

学生が、一人で、弁護士はそばにいたとはいえ、出て来て、あんな大勢の前で懸命に話した。おかしなことでした、それも。

それが。

結論の出ない思いで、そんなことを、ゆらゆらと、考えていました。




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秀樹さん。

朝丘雪路さん亡くなったと。

「雨が止んだら」という歌、大好きです。若かった私が心底しみじみ、毎日、ラヂオから流れるあの歌声を聴いていた、歌詞に涙腺ゆるんでいました。

星由里子さんも、私は、あの加山氏方面の明るさやセイシュンのありようなどに遠く存在していて(青春は暗いものであらねばならぬ,、の思い込みが強烈であった)、映画とか見たことも無いのですが、先日も健康コーヒーのCMにゆったりと出演しておられるの観て、きれいでおんなの人らしくて立派なもんやなあ、と、感心していました。

夫さんに、最後の呼吸困難の時は抱き抱えられるようにしてもらって、と今朝読んで。よかったなあ、全うされたんだなあ、立派だなあ、と、このところ「立派」なんぞというフレーズが、私の持ち言葉になっているようです。

数日前に珍しく長々と見ていたテレビ画面で、郷ひろみを見て。

やたら御大ぶって(と見えた)やたら消息通ぶって(と見えた)やたら気さくなボク、ぶって(とも見えた)人を立てることを知らない司会者役(で、すごく唄いたがっていた)の五木 ひろしの傍らで、郷さん、とても繊細な人なのがわかりました。もう一人画面の中にいた布施 明さんも、豊かな感じが出ていて、しかも歌、超絶うまいし、感じよかった。いっとき、歌、ずれずれ崩しの危険ゾーンにはまっていたのに、きちんと唄う当たり前路線に戻しておられるの立派。

どなたにしても私は私生活には関心ない、表現者として出して来るものがよければ何をしておられようが、との考えです。郷さんは、全くすれていないのが見えました。体系維持も声量変わらずも立派、と思って見ていました。郷ひろみのファンだった時代は一切ないのですが。内緒で言えば、新曲がヒットするか否かは、私にはわかりませんが。

残って行く人は、違う。

・・なんぞと。こんな番組また見たいわね、とか思っていた日に、西城秀樹さんの訃報を聞きました。

秀樹。ヒデキは、私ではなく、私の長姉の救い主でした。

十一歳としの違う私の姉は、あの当時、下は保育園から上は中学生の四人の子どもを抱えて。

親の許さない学生駆け落ち結婚の結果、まだ生後半年だったいちばん下の子も軌道に乗り始めていた小さな会社も振り捨てて、姉の夫は、買ったばかりの車の助手席に事務の女性を乗せて、遁走。

あれこれあって、伯父の家の離れの二間に、姉と四人の子たちは身を寄せて。住むところをそうして授かったのは幸運でしたが、姉の生活は大変でした。伯父は、姉の母にも(私の母でもある)姉の妹二人にも(次姉とワタシ)、いっさい経済的な援助をすることならぬと厳命して、自分も猛反対したあげくに行ってしまい、四人の子を手元に置くことだけを条件に離婚することになった姉を、自分のところへ引き取ってくれたのでした。

姉の生活の大変さは、書けば長くなります。とにかく、子どもたちを食べさせて、学校へ行かせて、風呂に入れて寝かせて。宿題は各自の責任でする、と叩き込んで。夕方少しだけ早めに帰宅できる託児所の仕事に通っていました。いちばん幼かった末っ子の甥は、違う保育所へ行っていました。

姉と姉の家族の楽しみはテレビでした。昭和4年代から50年代、そういう家庭は普通に多かったと思います。

テレビが家族みんなの楽しみであり得た時代だったのですよね。歌謡番組、ドラマ、花盛りでした。

姉のごひいきは西城秀樹、ヒデキ~っでした。欠かさず漏らさず見ていました。当時のテレビは(よそは知らず姉宅のテレビジョンには)、その時を捉えて、必死で、しっかりと、見るだけ。そんなテレビでした。

必死で姉は、ヒデキを見ていました。子どもたちに自己流の説明、演説をしかけ、番組都合によっては食事の時間を前後させ(ヒデキに関してだけ許される家庭内特殊事情)、文句は言わせない。

これでお母ちゃんは、元気で楽しくいられるのよ、ヒデキだけは見せてもらうわよ。」

子どもたちも、文句言わず。叔母である私が、そういう時の懐柔策として姉に渡しておく、皆の好きなお菓子とか。いつもは許可されない炭酸飲料とか。そういった奥の手を駆使しつつ、三十代で四人の子のお母ちゃんとしてのみ生きていた姉の日々は、過ぎていたのでした。

順番に記すと、長女はいささかシビアに母親を眺め、自分は、ヒデキでない方へ関心を寄せていた。横溝正史とか。長男は、私が与えたフォークギターを飽かずさわりまくるようになっており、母親がヒデキさま没頭中は、うるさいと叱られるから、弦の下にタオルを敷いてテレビに最も遠い場所でコード進行をまさぐっていた。二番目と年の離れた次女は、いつもは自分に回ってこない「お母ちゃんの傍」の位置を、そんな時は確保できるのが嬉しくて、可愛く口をいっぱいに開けて母と一緒に「ジュウリィイイイ」と叫んでいました。ドラマの中での「ヒデキの祖母ちゃん」のあの、超・有名なシーンのことです。末っ子の次男坊は、小学校低学年の頃から、ひとりでもくもくと「ものを考えている」子どもでした。そのままずっと考え続け、定時制高校から遅れて大学に入り、学習塾も家庭教師も縁のないまま黙って頑張りぬいて、人より遅れて司法試験に受かりました。母親は男性問題いっさい無しで走り抜けたし、母親の「オトモダチ」からガッコ行く費用やら誕生日にテーコクほてるでご馳走になるやら、そういうこと無しで。先日会った時に

「あのパラリーガル、どうよ」

と言ったら、ああ、と笑って。ああ、ねえ。と、笑っているばかりなのであった(笑)。

姉は最終的に長女のもとに身を寄せて、共働きの夫婦の助っ人として(私の初めての姪にあたるその)娘の、ここも男女二人ずつの四人の子を、祖母として手塩にかけました。四人ともぜんぶ、大学を出て、結婚しています。姉はいま、78歳になりました。ときどきお菓子など送ると、お礼の電話がかかり、その電話はたいへん長いものになるので、電話苦手のワタシは覚悟を決めて相手する感じになります。

昨日は私が電話しました。姉は喜んでくれました。とりとめのない話をして、不意に姉が、〇っちゃん(私)は、と言い出しました。

「あの歌が好きだったねえ」

西城秀樹の「ブーツを脱いで朝食を」という歌のことです。その歌を、私も、好きでした。

「ブルー・スカイ・ブルーも好きだったね、〇っちゃん」

確かにそうでした。私は胸の詰まって来る思いでした。確かに私も、西城秀樹のそれらの、甘いハスキーな声の良さの発揮された歌が好きでした・・・しかし。姉は、自分は全部好きだから一曲だけは選べないのかも知れませんが。

若くて時に思いやりのない妹だったであろう私の、昔の好きだった歌のことなど、覚えていて。話を振ってくれて、私は寂しいだろう、と、慮ってくれたのでした。姉妹とはいえ、父の早世などあれこれあって、一緒に育たなかったし、いろんなことがあった、世間一般の姉妹のようには過ごせない時代の方が多かった、でも。

父が生きていた幼い頃、その日は家風呂が使えなかったのだと思います。長姉と次姉と私と、三人で銭湯へ行って。

帰りに、曲がり角にあった店へ、連れて入ってくれた。

ラムネや駄菓子やお好み焼き(おもんじゃ、と呼んでいました)、鉄板の傍に大きな鍋に串刺しのこんにゃくやごぼう天や、豪勢の極みの茹で卵が、逆さまに突っ込んであって、ぐつぐつ煮えていて。店のおばあさんが、こんにゃくを抜き出して、傍らの手拭い(だったのだと思う、実は現代の基準に照らして言えば、雑菌まみれの雑巾、というしろものだったと思う)に、ぱんぱんと叩きつけて水分を落とし(やはり雑菌まみれの・・以下、略、それでもその食べ物は嬉しいものでした)鍋の真ん中の容器に煮えたぎっている甘味噌にどぷんとつけて慌てて取り出し(想像されるの正解、味噌が余分について減らないように細心の努力を)はい、と手渡してくれる・・母は一度も連れて行ってくれなかったその店に、おそらく父にもらったのであろうお小遣いでもって、連れて行ってくれた姉。みかん水も飲ませてくれた。私の洗って濡れた髪を、耳にかけて

「ヘップバーン」

と笑った姉。お好み焼き屋の鉄板の横の壁に「ローマの休日」の、オードリー・ヘップバーンの、アン王女の姿の切り抜きが、貼り付けてあったのでした。

店主はおばあさんでしたが・・・。とにかく。

姉は父のお気に入りの長女でした。当時はすでに、学寮のある高校へ入っていて、家にはいつもはいなかった。たまに帰ってきての、大盤振る舞いだったのだと、後で気づきました。春に高校へ入り、夏に帰省、そして

それからほどなく、十一月に死んだのでした、私たち姉妹三人の父は。

・・・苦労の盛りの時期、激しい物言いをし、母に辛く当たり、自分優先の態度が、苦労知らずでのほほんとしていた私の目に余って、姉だとはいえ好きだとはとうてい思い得なかった時期のけっこう長かった姉。

いまは、本当に、穏やかに暮らしています。娘夫婦と三人の暮らし、何もないとは言えない、とうぜん、いろんなことが、大きく小さくあるのは、当たり前のことと思います。でも、いまは平穏に暮らす姉。

カセットテープに歌を採ることができるようになった頃、懸命にヒデキ・テープを作っていた。

いい子だ、いい子だ、と言っていた。昨日も、ヒデキ頑張ったんだねえ、と、感慨深げでした。一人で追悼特集になる自分用の何か、せっせと制作しているのだと思います。

西城秀樹さん、どうもありがとうございました。

あなたの歌や、ドラマで見せる姿や、いろんな場面。激しさ優しさ、独特のセクシーも。私の姉は、大変だった時期を、秀樹さんに救われたのだと言っています。文字通り、そうだったと思います。姉の頑張りを、今だからきちんと私も見られます。ヒデキさんに感謝します。

ありがとうございました。



  1. 今の思い
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風が好き

テンプレートがつぎつぎ変わり、落ち着きのないことでしたが。

とうぶん、この画面でお目にかかりたく存じます。よろしくお付き合いくださいね。





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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

プロフィール

KUONの久遠

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四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

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