さようなら
むかし親しかったひとのお葬式に行って来ました。
幼い娘を二人育てながら、毎日のようにバスで六つ向こうの夫の実家に通っていたころ。姑はひんぱんに旅行に出かける人で、その留守の日が私のフリーの日でした。彼女は、私と同じ年頃の子を三人持つお母さんでした。
私の家でときどき、コーヒーを飲みました。近くに喫茶店もありましたが、私の三十代だった当時、昼間に喫茶店でお茶のみトークする主婦は珍しかったのです。当時は私の嗅覚も鋭敏だった、ちょっと贅沢する気分で、カリカリとミルを回して挽きたての豆で淹れてのコーヒーは、美味しかった。
二人とも母親ではあったのですが、多くの場合子どもや夫の話でなくて、婚家の愚痴やワルクチでもなくて、自分のことばかり喋っていました。会話と言うのでなく、互いに、同じ場所にはいつつ、自分の世界にどっぷりしていた感じ。性格のいい加減さのホドが、たまたま、合っていたというか。彼女は、彫金に夢中な人でした。
彼女の夫さんが若い女性に走り、彼女とお子たちが引っ越しをし、私も仕事に没頭して行って、距離は遠くなりました。
彼女の次男くんが「お母さん知りませんか」といきなり尋ねて来たり、長男さんが高校を止めてしまったと風の噂が流れて来たり、気にはなっていながら、自分のことで精いっぱいの私でした。
大男の髭面の白人と歩いていた彼女が、遠くから私を見つけて、ひらひらと手を振るのを、無視したこともありました。彼女の末っ子の娘さんも高校を止めたと聞いた直後のことで。
ぐうぜんどこかで出会うと、必ず「また電話するわ、番号変わっていないね?」と言いました。ふつうの笑顔でそう言いました。
電話がかかって来たことは無く、私もかけませんでした。最後に会った時・・・スーパーマーケットの雑誌コーナーで立ち読みしていた彼女が、
「また電話するね、聞かせたいことあるんだ」
と言った時、私は、
「かけてくれなくていいよ、聞きたいことも無いわ」
と、応じていました。彼女の前歯が一本半欠けていて、ほっそりときれいな人だったのですが、社会保険もかけていないし年金もかけていない、あんなもの、と笑っていた言葉が、不意に思い出されて、無性にその時の笑顔に嫌悪感を抱いた。そうだったと思います。
訃報は、彼女の元・夫さんからもたらされました。
元・夫さんが中心になっての小さなお葬式。
若い女性との再婚を解消して、今は、長男さんの家族と暮らしていると。長男さんの奥さんは、私にも愛想のいい笑顔を向けて来るひとでした。よかったなと何となく、思いました。次男さんは葬式に帰って来ず、もう奈良には帰らない、家族は無い、とのことです。純ブンガクを目指しているらしい。娘さんはぼちゃぽちゃの女の子をおんぶ紐でおぶっていて、シングルマザーだと自己紹介してくれました。
シングルマザーと言う呼称は、私には未だ馴染めないものだなどと、その場で口にするほど私は誠実でないです。
彼女は死にました、最後の別れに来てやってくれますか。と電話で突然誘われた時、考えました。
葬式に行って、その場で見るものを、批判したり否定したりバカにするためには、行かないでおこうと。行ってはいけないと。
長い間にちらちらとではあるがいろいろ聞かされた彼女のこと、子どもさんたちのこと、私の気持ちにそぐわないことが多かった、それは仕方がない。私は彼女のように自分第一には来なかったと思う、それは事実と思うけど。
もしかして自分は、私は、彼女より「マシ」に生きたのかも知れないとおもっているならその感覚は、きっと、傲慢。
・・・時々彼女とコーヒーを愉しんだ時間、私は、せいせいと勝手なことを喋ってたのしかった、気にしないで喋り散らしていた、それは本当のことだった。あの時期の私に、彼女は、たいせつな友だちだった。
そしてただ、私より早く旅立った彼女を、悼みたいと思った。胸痛く願った、やっぱりそれは悲しいことだろう、その思いだけで、行きました。
小さなお葬式でした。
元・夫さんは古びた美貌を(そのお顔が自慢のひとだったのです)ゆがめて立っておられました。東京の、いいとこのボンだとのことでしたが、今でもやはりボン、のようでした。いささか変わった思想のもと、来られた人のようです。
夫さんも子どもさんも配偶者も孫さんも、悲しんで泣いておられました。彼女との永別を、悲しむ人だけが、お葬式に集っていたのです。私は、泣くだろうと予想して行ったのでしたが、涙は出ませんでした。
元・夫さんがしがみついて来るのから身をかわし(私はこのオトコがきらいでした)、長男さんがハンカチも持たず泣いているので(奥さんはまったく意に介せず泣きながら双子の面倒を見ていて)新しいのを持って行ったハンカチを、結局二枚とも差し出しており、娘さんは、喫煙できるスペースに私を誘って、子どもをおんぶしたまま美味しそうに煙草を吸い、目から涙を流しながら
「おばちゃんとこで頂いた煮込みうどん、いつも美味しかった、お好み焼きも美味しかった、おにぎりも美味しかった、お世話になりましたね、子どもの頃は」
と言ってくれた。私は自分の子どもに食べさせるので作ったものを彼女の子どもたちにも出していた記憶しか無く、
「あなたのお母さんのリンゴのパイは美味しかったよ、どしっと重くて美味しかったわ」
思い出のリンゴとクルミのパイの話をしました。本当に極上の味だった、私はパイやケーキを、よう焼かん主婦でした。道具を買って何度か作っても続かなかった。
彼女の娘は、
自分は、毎日、子どもに食べものを作る親になろうと思って結婚したのだけどね。
と、何とも言えない悲しい目を、むき出しに見せました。
「年に一度や二度ご自慢のパイもいいけど。毎日ちゃんとごはんを、って、ずっと思ってて。そうなりたかったけど、結婚さえ続けられなかった、親と同じになっちゃった、お母さんのこと嫌いだったのに、いっしょ、あの人と一緒なんだって」
ぼろぼろと涙を流し続けるのを、どうしてあげることもできませんでした。
よくわかる。目の前で泣いている女の子(わたしにはそう見えました)の気持ちが、とてもよくわかりました、でも、何も、どうもしてあげられないのでした。
お葬式の帰り、奈良に来たら必ず寄る古本の店に寄りました。
空腹だったし、坐ってゆっくり冷たい飲み物を飲みたかった、でも、古本屋に入ってしまいました。
何か選びたいという気分も無いまま、本の背中を眺めていました。のろのろと、読むかどうかわからない数冊を、適当に取り出して、レジに持って行って。
気付きました。この店には、過去ずっと、来るたびにビートルズがかかっていた。いつもビートルズでした。
その日は・・昨日は、そうでなくて。オルゴールの曲が流れていました。先客がお金を払って何か喋りこんでいて・・あ、と気が付きました。
オルゴールの、この曲、知ってる、よく知っている、ミスチルだ。
ミスター・チルドレン。「抱きしめたい」だ。
あのボーカリストの、あの独特の声が脳裏に浮かんで来ました。
あの歌、好きだった。ミスチルの「抱きしめたい」。
彼女とは関係ない、もう遠くなっていた時期に聞いていただけ、今日、お骨になった・・いまなっているのかな、あの彼女とは関係のない歌、だけど。
どうしよう、こらえていたのでもないのに、涙が、激しく溢れ出して。
どうしてだろう、涙が止まらなくなってしまった。
さようなら、あすこさん。さようならだったんだね。
幼い娘を二人育てながら、毎日のようにバスで六つ向こうの夫の実家に通っていたころ。姑はひんぱんに旅行に出かける人で、その留守の日が私のフリーの日でした。彼女は、私と同じ年頃の子を三人持つお母さんでした。
私の家でときどき、コーヒーを飲みました。近くに喫茶店もありましたが、私の三十代だった当時、昼間に喫茶店でお茶のみトークする主婦は珍しかったのです。当時は私の嗅覚も鋭敏だった、ちょっと贅沢する気分で、カリカリとミルを回して挽きたての豆で淹れてのコーヒーは、美味しかった。
二人とも母親ではあったのですが、多くの場合子どもや夫の話でなくて、婚家の愚痴やワルクチでもなくて、自分のことばかり喋っていました。会話と言うのでなく、互いに、同じ場所にはいつつ、自分の世界にどっぷりしていた感じ。性格のいい加減さのホドが、たまたま、合っていたというか。彼女は、彫金に夢中な人でした。
彼女の夫さんが若い女性に走り、彼女とお子たちが引っ越しをし、私も仕事に没頭して行って、距離は遠くなりました。
彼女の次男くんが「お母さん知りませんか」といきなり尋ねて来たり、長男さんが高校を止めてしまったと風の噂が流れて来たり、気にはなっていながら、自分のことで精いっぱいの私でした。
大男の髭面の白人と歩いていた彼女が、遠くから私を見つけて、ひらひらと手を振るのを、無視したこともありました。彼女の末っ子の娘さんも高校を止めたと聞いた直後のことで。
ぐうぜんどこかで出会うと、必ず「また電話するわ、番号変わっていないね?」と言いました。ふつうの笑顔でそう言いました。
電話がかかって来たことは無く、私もかけませんでした。最後に会った時・・・スーパーマーケットの雑誌コーナーで立ち読みしていた彼女が、
「また電話するね、聞かせたいことあるんだ」
と言った時、私は、
「かけてくれなくていいよ、聞きたいことも無いわ」
と、応じていました。彼女の前歯が一本半欠けていて、ほっそりときれいな人だったのですが、社会保険もかけていないし年金もかけていない、あんなもの、と笑っていた言葉が、不意に思い出されて、無性にその時の笑顔に嫌悪感を抱いた。そうだったと思います。
訃報は、彼女の元・夫さんからもたらされました。
元・夫さんが中心になっての小さなお葬式。
若い女性との再婚を解消して、今は、長男さんの家族と暮らしていると。長男さんの奥さんは、私にも愛想のいい笑顔を向けて来るひとでした。よかったなと何となく、思いました。次男さんは葬式に帰って来ず、もう奈良には帰らない、家族は無い、とのことです。純ブンガクを目指しているらしい。娘さんはぼちゃぽちゃの女の子をおんぶ紐でおぶっていて、シングルマザーだと自己紹介してくれました。
シングルマザーと言う呼称は、私には未だ馴染めないものだなどと、その場で口にするほど私は誠実でないです。
彼女は死にました、最後の別れに来てやってくれますか。と電話で突然誘われた時、考えました。
葬式に行って、その場で見るものを、批判したり否定したりバカにするためには、行かないでおこうと。行ってはいけないと。
長い間にちらちらとではあるがいろいろ聞かされた彼女のこと、子どもさんたちのこと、私の気持ちにそぐわないことが多かった、それは仕方がない。私は彼女のように自分第一には来なかったと思う、それは事実と思うけど。
もしかして自分は、私は、彼女より「マシ」に生きたのかも知れないとおもっているならその感覚は、きっと、傲慢。
・・・時々彼女とコーヒーを愉しんだ時間、私は、せいせいと勝手なことを喋ってたのしかった、気にしないで喋り散らしていた、それは本当のことだった。あの時期の私に、彼女は、たいせつな友だちだった。
そしてただ、私より早く旅立った彼女を、悼みたいと思った。胸痛く願った、やっぱりそれは悲しいことだろう、その思いだけで、行きました。
小さなお葬式でした。
元・夫さんは古びた美貌を(そのお顔が自慢のひとだったのです)ゆがめて立っておられました。東京の、いいとこのボンだとのことでしたが、今でもやはりボン、のようでした。いささか変わった思想のもと、来られた人のようです。
夫さんも子どもさんも配偶者も孫さんも、悲しんで泣いておられました。彼女との永別を、悲しむ人だけが、お葬式に集っていたのです。私は、泣くだろうと予想して行ったのでしたが、涙は出ませんでした。
元・夫さんがしがみついて来るのから身をかわし(私はこのオトコがきらいでした)、長男さんがハンカチも持たず泣いているので(奥さんはまったく意に介せず泣きながら双子の面倒を見ていて)新しいのを持って行ったハンカチを、結局二枚とも差し出しており、娘さんは、喫煙できるスペースに私を誘って、子どもをおんぶしたまま美味しそうに煙草を吸い、目から涙を流しながら
「おばちゃんとこで頂いた煮込みうどん、いつも美味しかった、お好み焼きも美味しかった、おにぎりも美味しかった、お世話になりましたね、子どもの頃は」
と言ってくれた。私は自分の子どもに食べさせるので作ったものを彼女の子どもたちにも出していた記憶しか無く、
「あなたのお母さんのリンゴのパイは美味しかったよ、どしっと重くて美味しかったわ」
思い出のリンゴとクルミのパイの話をしました。本当に極上の味だった、私はパイやケーキを、よう焼かん主婦でした。道具を買って何度か作っても続かなかった。
彼女の娘は、
自分は、毎日、子どもに食べものを作る親になろうと思って結婚したのだけどね。
と、何とも言えない悲しい目を、むき出しに見せました。
「年に一度や二度ご自慢のパイもいいけど。毎日ちゃんとごはんを、って、ずっと思ってて。そうなりたかったけど、結婚さえ続けられなかった、親と同じになっちゃった、お母さんのこと嫌いだったのに、いっしょ、あの人と一緒なんだって」
ぼろぼろと涙を流し続けるのを、どうしてあげることもできませんでした。
よくわかる。目の前で泣いている女の子(わたしにはそう見えました)の気持ちが、とてもよくわかりました、でも、何も、どうもしてあげられないのでした。
お葬式の帰り、奈良に来たら必ず寄る古本の店に寄りました。
空腹だったし、坐ってゆっくり冷たい飲み物を飲みたかった、でも、古本屋に入ってしまいました。
何か選びたいという気分も無いまま、本の背中を眺めていました。のろのろと、読むかどうかわからない数冊を、適当に取り出して、レジに持って行って。
気付きました。この店には、過去ずっと、来るたびにビートルズがかかっていた。いつもビートルズでした。
その日は・・昨日は、そうでなくて。オルゴールの曲が流れていました。先客がお金を払って何か喋りこんでいて・・あ、と気が付きました。
オルゴールの、この曲、知ってる、よく知っている、ミスチルだ。
ミスター・チルドレン。「抱きしめたい」だ。
あのボーカリストの、あの独特の声が脳裏に浮かんで来ました。
あの歌、好きだった。ミスチルの「抱きしめたい」。
彼女とは関係ない、もう遠くなっていた時期に聞いていただけ、今日、お骨になった・・いまなっているのかな、あの彼女とは関係のない歌、だけど。
どうしよう、こらえていたのでもないのに、涙が、激しく溢れ出して。
どうしてだろう、涙が止まらなくなってしまった。
さようなら、あすこさん。さようならだったんだね。
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テレビで。
いま流れていたテレビで、来月8日、内定、記者会見、相手の仕事都合で土曜日に、とか。
後付けで言えば、香淳さまの霊祭へ向かわれる車中の眞子さまの口元にふと、感じておりました。本当なんだ、と。本当なんだと。
ヒンシュクかうかもだけど。そうなんだ、ダメなんだ、本当なんだ、と思い知った。私に理解納得祝福できなくてもね。
後付けで言えば、香淳さまの霊祭へ向かわれる車中の眞子さまの口元にふと、感じておりました。本当なんだ、と。本当なんだと。
ヒンシュクかうかもだけど。そうなんだ、ダメなんだ、本当なんだ、と思い知った。私に理解納得祝福できなくてもね。
こう出ておいでになりました 追加画像あります
拒食症・・から、奇跡のご回復。
頬、ふっくらされましたね~。医学界の奇跡ではないですか、このレベル。

宮内庁が出して来た画像の「白い骨子ちゃん」はいずこ。ひと月前でしたが。

海外のメディアもびっくり、こーごーさんのたいじょうほうしんもご快癒なさいますかな。
さすがのご皇室、神がかったことをなさいます。
お声もしっかりお出しなさいました。
どこやらでは早速、声紋を調べ始められるとか。
上の前歯のカーヴが違うと思います。
民よ黙れ、東宮家の奇跡にひれ伏せよ。と。
今宵は祝杯をおあげになるか。
「愛子」さん、今日の写真のうちでも、脚の細さが目立っている三人横並び、歩いている一枚の背景には、幼い頃からずっとついておられた、このところ見かけられなかった「はくしょん」さんの姿が見えます。この写真だけ、頬がほっそり見えますね。

同じ日、同じ親(・・・)なのに、この「愛子さん」は、頬っぺたの肉が少し少なめな気がします。
制服の中身も、がっぱがぱな気がします。
ナルさんは自信たっぷりにお見うけします。自信たっぷりのナルさんて、つくづく、あほうに見えます、すごいわ。常に増してアホウ度アップに見えますから~。
まさこは・・・あ、写っていますね。笑ってるわ。ふうん。スカートの丈。
これで、数日内には春スキーに旅立つことがお出来になりますね。慶賀。慶賀。
本当に、今日を無事(あ・・・)終えられて、おめでとうございます、っと。
地獄へ落ちてくださいね、本日はどうも、お疲れさんでやんした。
◆宮内庁は22日、皇太子ご夫妻の長女愛子さま(15)が学習院女子中等科を卒業されるのに合わせ、愛子さまが卒業記念文集に寄せた作文を公表した。
「世界の平和を願って」との題で、昨年5月の修学旅行で広島市を訪れた際に感じたことや、平和への思いがつづられている。
全文は次の通り(表記は原文通り)。
世界の平和を願って 敬宮 愛子
卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。雲一つない澄み渡った空がそこにあった。家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれること…なんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう。青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。このように私の意識が大きく変わったのは、中三の五月に修学旅行で広島を訪れてからである。
原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった。そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。
最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった。
その二週間後、アメリカのオバマ大統領も広島を訪問され、「共に、平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と説いた。オバマ大統領は、自らの手で折った二羽の折り鶴に、その思いを込めて、平和記念資料館にそっと置いていかれたそうだ。私たちも皆で折ってつなげた千羽鶴を手向けた。私たちの千羽鶴の他、この地を訪れた多くの人々が捧げた千羽鶴、世界中から届けられた千羽鶴、沢山の折り鶴を見たときに、皆の思いは一つであることに改めて気づかされた。
平和記念公園の中で、ずっと燃え続けている「平和の灯」。これには、核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けようという願いが込められている。この灯は、平和のシンボルとして様々な行事で採火されている。原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。
平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々「平和」「平和」と口に出して言う。しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。
何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。
そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。
「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から願っている。
生前ご退位・・・数年以内に? 追記あります。
・宮内庁のHPでは、この、NHKがかました「生前退位」には触れられていなくて、
{信任状捧呈式の際の馬車列}
のこと・・・7月20日の・・・が、一番新しい「お知らせ」になっています。
宮内庁はこの件で、時々「文春」誌にするように、宮内庁が発表もしとらんのに、勝手に出したよね、アンタら、とか、
推移を見守りたいと思います・・・たまにはこういう風にキメてみませう。・・・でもここ、これで、キマってるのか?
冒頭に置きましたが、この部分、追記です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天皇陛下 「生前退位」の意向示される
7月13日 19時00
天皇陛下が、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示されていることが分かりました。数年内の譲位を望まれているということで、天皇陛下自身が広く内外にお気持ちを表わす方向で調整が進められています。
天皇陛下は、82歳と高齢となった今も、憲法に規定された国事行為をはじめ数多くの公務を続けられています。そうしたなか、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示されていることが分かりました。
天皇陛下は、「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」と考え、今後、年を重ねていくなかで、大きく公務を減らしたり代役を立てたりして天皇の位にとどまることは望まれていないということです。こうした意向は、皇后さまをはじめ皇太子さまや秋篠宮さまも受け入れられているということです。
天皇陛下は、数年内の譲位を望まれているということで、天皇陛下自身が広く内外にお気持ちを表わす方向で調整が進められています。
これについて関係者の1人は、「天皇陛下は、象徴としての立場から直接的な表現は避けられるかもしれないが、ご自身のお気持ちがにじみ出たものになるだろう」と話しています。
海外では、3年前、皇室とも親交の深いオランダの女王やローマ法王などが相次いで退位を表明して注目を集めました。
日本でも、昭和天皇まで124代の天皇のうち、半数近くが生前に皇位を譲っていますが、明治時代以降、天皇の譲位はなくされ、江戸時代後期の光格天皇を最後におよそ200年間、譲位は行われていません。
皇室制度を定めた「皇室典範」に天皇の退位の規定はなく、天皇陛下の意向は、皇室典範の改正なども含めた国民的な議論につながっていくものとみられます。
天皇陛下 象徴としての歩み
天皇陛下は、今の憲法のもとで初めて即位し、以来、象徴として望ましい天皇の在り方を求め続けられてきました。
平成元年の即位にあたっての記者会見では、「憲法に定められた天皇の在り方を念頭に置き、天皇の務めを果たしていきたい」としたうえで、「現代にふさわしい皇室の在り方を求めていきたい」と述べられました。
平成3年、長崎の雲仙・普賢岳の噴火災害では、そうした天皇陛下の考えが目に見える形で示されました。皇后さまとともに被災地を訪れ、避難所の板張りの床に膝をついて、被災者一人一人に同じ目の高さで話しかけられたのです。その後も、阪神・淡路大震災や東日本大震災など、大規模な災害が起きるたびに被災地を訪れ、被災した人たちに心を寄せられてきました。また、障害者や高齢者の施設を訪れるなど、社会で弱い立場にある人たちに寄り添われてきました。
こうした活動について天皇陛下は、平成11年、即位10年に際しての記者会見で、「障害者や高齢者、災害を受けた人々、あるいは社会や人々のために尽くしている人々に心を寄せていくことは、私どもの大切な務めである」と述べられました。そして、のちに、「天皇の務めには日本国憲法によって定められた国事行為のほかに、天皇の象徴という立場から見て、公的に関わることがふさわしいと考えられる象徴的な行為という務めがあると考えられます」と話されました。
こうした務めについて、天皇陛下は、「戦後に始められたものが多く、平成になってから始められたものも少なくありません。社会が変化している今日、新たな社会の要請に応えていくことは大切なことと考えています」と述べられていました。
天皇陛下は、「昔に比べ、公務の量が非常に増加していることは事実です」としながらも、「国と国民のために尽くすことが天皇の務めである」として、数多くの公務を一つ一つ大切に務められてきました。
天皇陛下の負担軽減が課題に
天皇陛下が、一つ一つの公務に精力的に取り組まれるなかで、年齢に応じた負担の軽減が大きな課題となってきました。
平成21年1月、宮内庁は、前の月に75歳になられた天皇陛下の負担軽減策を発表しました。心身のストレスによる胃や十二指腸の炎症が見られたためで、天皇陛下は、式典での「おことば」の多くを取り止め、宮中祭祀も減らされるなどしました。さらに、3年後には「狭心症」と診断されて、心臓の冠動脈のバイパス手術を受けられます。宮内庁は、天皇陛下が高齢であることや、前立腺がんの手術後、注射を続けている治療薬の副作用など、不安材料を挙げたうえで、さらなる負担軽減の必要性を強調しました。
一方で、天皇陛下は、退院から僅か1週間後に東日本大震災の犠牲者の追悼式に出席されました。その年、79歳の誕生日を前にした記者会見では、負担の軽減について尋ねられ、「公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので、十分に考えてしなくてはいけません。今のところしばらくはこのままでいきたい」と述べられました。天皇陛下は、天皇の公務について、公平に行われることが大切だとして、大きく変えられようとはせず、宮内庁による見直しも行事の内容や日程を工夫するにとどまり、負担軽減は思うように進んでいません。
そうしたなか、82歳の誕生日を前にした去年暮れの記者会見で、天皇陛下は、「年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました」と率直に老いや間違いを認め、「少しでもそのようなことのないようにしていくつもりです」と述べられました。
宮内庁は、ことし5月には、天皇皇后両陛下の年齢にふさわしい公務の在り方を考え、両陛下の公務の一部を取りやめると発表しました。公務の全体的な見直しが行われたのは7年ぶりでしたが、関係者によりますと、当初、宮内庁が示した大幅な削減案に天皇陛下が難色を示され、見直しはごく小規模なものにとどまったということです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これから、詳しく読みます。


ミテコさん、動きゃあたか。
よたよたの年寄り馬のお尻に一閃、ムチくれやあたか。
何がどうでも、次代はこの皇太子、ナルヒトに決まっとるぎゃあ、の宣戦布告か。
国がどうなっても、カンケイにゃあんだもんな、ミテコさん。
ちほう、明らかになってまった、壊れかけのマリオネット・ダンナより、頼れるもんは、息子か。
どたわけだなあ、ミテコさん。
目が見えんか。
自分の欲にくらんでまったら、見えるもんも見えんようになる、いうことか。
さん、は、、要らんか。
可愛ええ惣領息子に、
まあちょっとだで、待っとりゃあよ、えか。
たあけらしい。
ここへ来て天皇の、数年後の生前退位ちゃあ、みんなをたあけだと思っとる、いうこったでな。
何が何でもナルちゃんだで。そーゆーこったろ。
出来そこにゃあの、「徳」にも「仁」にも縁なき息子、そんなもんに、てれんてれんに見惚れとらんと、早あこと、
「退位」させたってちょ、その、皇太子と呼ばれる男を。
退位は、まず、東宮だろう。
東宮をこそ、ただちに、退位させたりゃあ。
皇太子ナルヒト氏の退位を。廃位でもいい。
捨扶持あたえるくらいは、目をつむります。
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プロフィール
Author:KUONの久遠
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四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。
海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる
明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。
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プロフィール
Author:KUONの久遠
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四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。
海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる
明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。
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