今日も元気でいましょうね^^

返事の中までKUONです。

明日は出て来られる?またこたま。

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スペインのグスタフ国王の第一王女。ヴィクトリア王太子が来日されたのですね。

来月とか.。先日、いいかげんなことを書きました、申し訳ないことでした。

歴史の長い王国の王女さまの、美しいカーティシー。入り込んだ家の歴史は確かに長いけれど、なんだかわけのわからない存在に成り果てておられる皇后さんの、この左手は何。

挨拶くらい、普通になさっていただきたい。なあ。

ご夫君はダニエル殿下。

なれそめは2002年。拒食症を患ったヴィクトリア王女は、妹王女の勧めで、スポーツトレーナーをつけた。そのスポーツジムの経営者が、ダニエル氏であった。

平民出身の彼は、そして、1980年以来、男女を問わず長子相続になった王国の、第一王女の相手として・・未来の女王の夫として認められる為に、粉骨努力。

2008年の夏にはドロットニングホルム宮殿の一角に引っ越して(むかしむかし、モニカ・ビッテイという大変個性的な女優さんが出ていた映画の一本に、「スウェーデンの城」と言うのがありました。タイトルに魅かれた、けど、見ることはできなかった・・・

一日4時間ともそれ以上とも、スウェーデンの歴史、英語、マナーをみっちり学ばれ、外見的にも、知的に見えるかっちりタイプのメガネをかけ、(王室が望んだと言われる)ブランドの衣服を身に着け、高級車を使うようにして、と、とても頑張られたのだそうです。

意識して、あるべき姿の型にご自分を合わせられたということか。

で、2009年2月24日、正式に婚約が承認されたという、おとぎ話のような・・話はここで終わらない。

腎臓疾患をもっておられたダニエル氏は、この数か月後には、移植手術を受けられました

そんなこんなも乗り越え、ダニエル殿下になられ(このあたりはほとんど受け売りなのですが)、

披露宴での英語とスウェーデン語を交えた7分間のスピーチは感動ものだったと聞き及びます。

ヴィクトリア王女に対する尊敬を明確に表され、
王女の優しさに惹かれたエピソード(ヴィクトリア王女は、中国での公務で一ヶ月会えない時に、30通もの手紙を箱にいれて置いていかれた)を流暢に話したと。
スピーチの最後は、結婚出来て嬉しくて仕方がなく、とても興奮気味だったそうなのですが。

参列された欧州の王太子妃の多くが、感動の涙を流しておられたとも。

当時は独身だったモナコのアルベール大公は、淡々とされていた、とも。(笑)

記者が『愛とは何ですか?』と、王太子ヴィクトリアに訊ねた時に、答えは、

「自分よりも相手を思うとき、そこにあるのが愛です」

だったそうな。

その王女さまが、王女、王子を授かられてご夫君とも変わらず睦まじく。

今、日本においでになっておられる、ということみたいです。

私は子ども時代、王室マニアみたいな子どもでありまして、この王女さまの父上が、ブロンドの髪の貴公子だったことも記憶しています。

今日、いささか甘味の過ぎる、かつて子どもだった私が信じたがったような、とろんとろんの記事を書いてしまいましたが。

ダニエル殿下の一途さ、打たれるものがあります。

ヨーロッパの各王室の集まりの中でも、いつも堂々としたお姿です。



まさこさんのことだって、三代前がどうとか事実にせよ、どんな風に入り込んで来たにせよ。

あの方なりの真摯な姿が、見えれば、少なくともこんにちのような言われ方はされていない。

せめて普通に、ヒトらしくいらしたら、と思います。

人と人を比較してはいけない、される方は傷つく。それはホント、正論です。でもね。

一人の国賓に対して、おそらく機会は一度。その挨拶が、かくまでも無様では、どうしようもない。

まさこさんはダメです。皇室の人として公の場に出られるひとではありません。

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眞子さまのカーティシー。

いくら本来は日本の挨拶でなかった、と言っても。実際、こうして美しくしておられます、お相手にいささかの失礼でもありません。

誇らしい。と、申し上げたいです。


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おととし、まさこさまも園遊会に! とて、十何年ぶり、ぶりぶり、と大騒ぎだった園遊会、この写真が物語っておりますごとく。

10メートルだったか15だったか20メートルだったか。とにかく、招待客の皆さまに挨拶する当然コトバなど出すはずもなく。

三笠の山をどうにか下りて、必死でこうして、お帰り用に待機させていた車を頼りにタタタタタ。

冷たい視線が遠慮なく突き刺さって、と見えたのは、こちらのみだったか、本人は、こうしてムニュ、と理解不能の(わかっているんだけどね・どうしていいのかわからない笑みモドキ)笑いを残して、去って行った。

・・・いつも気になっています。

向かって左側の男性。めがねをかけておられる。

この方に注目しておるのですが、いつもこんなお顔。晩餐会の時も陛下の背後で。先日まさこが、異国の王妃さまに「ぶ〇ゅ」とやらかしてしまった時も。見えているけど見ておりません、のお顔でした。

ぜんぶわかっていて、この人たちに仕えておられる構図ですね。まあ大変。と、お察し申しあげたら、同情は不要。と、おことばが返って来そうです。

この時のナルさまは、おずぼんに「おしっこの漏れの広がっておられたナルたまでした。

またこたま。

明日の園遊会には、くおんのへたれブログの読者さんのお一人の、お身内のご夫妻も、お招きにあずかっておられるとのこと。

奥さまは「目利き」でいらっしゃるそうな。

どんな風に、東宮の妃殿下をご覧になって、ご報告下さるか。

読者様と同じくらい楽しみに、待たせていただいちゃうわ~~~。

心してお振る舞いあそばせよ。

そんなことできるくらいなら。はは。

もう寝た? 明日、出て来られる? ん?





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須崎の海は、キラキラ、でせうか。絶壁も、おあり?

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臨時専用列車で。


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幼いころの「正田美智子」ちゃんだそうです。

「愛子内親王」さんの祖母上だそうです。

子ども時代は「ぜっぺき」でなくて。いつから後頭部用具が必要になられたのでしょうか。

賢そうで可愛らしくもあって。こんな(向かって右上)、西洋人形みたいなお子さんが、無理してイヤイヤ皇室へ嫁いであげて、はちじゅっさい過ぎたら、基本の「つとめ」である「神さまのこと」には出られないお病気でも、外国へ行ったり、そこで人払いしてあれこれ企んでみたり(成否はどうでも)。そんなワケのわからんお人になられるとは。

計画通りか。

先日は孫娘さんの義務教育の終った日。ひとつきの間に10数キロも体重を取り戻されるなんて、まさに「東宮マジック」。なかなかこうはゆかなさそう。人は風船でないのにね。コマではあっても。

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髪,(おじじさまと違って)シャンプーできてるし。

やっほー、ご挨拶してきま~す。

首は、痩せこけてた「愛子さん」の首のようだ・・・鼻は、ふたたび、おっきくなったのかな?。

で。春だから~。なのか?

↓ こおんな表情がでて来られたのね、「愛子さん」。

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くおんにはやっぱり、わかりません。

この笑顔の主、どなた??。


・・・・ま、とにかく。

うまく行ったから(自己評価限りなく高し)ミテコさん、ナルちゃんと並んで、音楽鑑賞をたのしまれたそうで。おめでたいこと。

24日からは、須崎の御用邸で、春の静養に入られるのですね。めでたしめでたし。まことけっこうなご身分でいらして。

ホントに結構な。ね。

長男さんたちは、スキーですよね。脚のおれ無さそうな「愛子さん」を、みつくろって同行されるのですよね。

あ、そうだ、

「愛子さん」の頬っぺたに入れられた(らしい)何とかいう(ヒアルロンさん?)、何日くらい持ちますか。

あ。失礼。おばばさまなら、そういう方面のこと、ヘタな一般人などよりよほど、お詳しいかと思ってしまいまして。

高校の入学式にはまた、どんなサイズの愛孫さまでいらっしゃるのかしら。

ほっぺが急に厚くなって、喋りにくそうだったなあ、あのお嬢さん。

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ミジンコくおんは、お可哀想だなあと、思ってしまっています。可哀想なんて、失礼千万なコトバと知っていつつ。

まあとにかく、須崎の春の海は、きれいでしょうね、キラキラ光ってね。

めでたし。あー、めでたし。

わたしを、すっごくイヤミな性格にして下さって。めでたし・・・めでたし?。



卒業式前夜



明日は愛子さんの中学校卒業式。

三年前の春、小学校を卒業する愛子さんは、両親にはさまれて、ニコニコしておられました。



・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3年前のブログより ・・・・・・・・・・・・・・・・・


この週の週刊新潮には、愛子さんの「発語」についての記事があります。さっき買って来て、まだ読んでおりません。
「学習院初等科」卒業式に「宮内庁記者」と激しい冷戦

   「愛子さま」お言葉の機会を断固拒否した「雅子妃」


です。「ライバル誌」の文春の方は

天皇皇后「伊勢ご参拝」の最中 雅子さま 奥滋賀スキー旅行

です。ついでにもう一冊、女性自身誌は、

超秀才! 愛子さま‘卒業レポで綴られた「天皇の役割‘「宮中の結婚」肉声

ですと。

アゲか、皮肉か。どっちなのかなあ。何年も同じことしてるんやなあと思う。

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愛子さんに何か言って欲しかった記者に向けた、当日のまさこさんの「笑顔」。


記者たちの目の前で雅子さんは、また、愛子さんを背後からどついた。右足の位置が変わるくらい。背中が反り返ったくらい.。

父親は、あれこれガードしたにも関わらず、隙をついて発された記者からの質問に動揺した証拠に、いつもの、ポケットあたりでの両手パタパタ。これって、茶番、いや定番?・・・

白昼、伝統ある学校の門前で、東宮という位置においでのご一家の、猿芝居。愛子さんに罪は無い、と、思う。



動画は、うまい具合に処理がなされています。が、動画の方がよく見えることもあります。)

けれど、愛子さんにしても、自由に使えるお金が1年で5000万円超という、公人なのです。

口、開けっ放し。

唇の両側にヨダレガたまって・・・と、私も他で書いていますね。

思えば辛いことと、お思いのあたりが、おられるように、これは、邪推? 。

これを書くために改めて読んで、われながら疑問だった ↑ の部分。

思い起こせば当時、私は、こうごうさんが、雅子さんが愛子さんに対する態度の荒っぽさに、胸を痛めておられると。

そんな風に考えていたのですね。

めでたかった。やられていました。


結果的に愛子さんは

「ありがとうございます」

「楽しみにしています」

と、話されました。

私は、愛子さんは、懸命に「しよう」とされていたと思います。

オランダから帰国した両親を迎えた時も。

トンガから帰った両親を迎えた時も。

3年前の春も。

ヨダレを垂らしていたとか。アジガドゴゼマス、と聞こえたとか。確かにそうではありましたが。

国民の方が認めない、笑った、恥じた、と言う以前に、親の方がわが娘を受け入れられなかった、否定した、恥じた。そうなのだったと思います。

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オランダにて。

手の甲の「笑え」のツボを押されて、懸命に笑っている愛子さん。

こうして育てられました。


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3年前の春の愛子さんと、今年2月の「愛子さん」。

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もう一つ。

宮内庁は18日、皇太子ご夫妻の長女愛子さま(12)の学習院初等科卒業式に合わせ、愛子さまが初等科の卒業記念文集「桜愛集」に寄せられた作文を公表した。活字化されたもので、昨年7月に学習院沼津游泳(ゆうえい)場(静岡県沼津市)で行われた6年生の水泳行事「沼津海浜教育」に参加した際の思い出がつづられている。

全文は次の通り(表記は原文通り)。


大きな力を与えてくれた沼津の海               敬宮愛子

 不安な気持ちを抱きつつも、きっと楽しい思い出が作れると言われて出かけた沼津でしたが、初日から練習は厳しく、海に入りたくないと思う時も少なくありませんでした。ただ楽しかったのは、友達との生活と食事、お風呂でした。
 しかし、足の着かない海で泳いで、初めて気持ち良いと感じる日が来ました。三日目に行ったプレ距離泳の時でした。プレの日は、波もなく、太陽が照りつける中での距離泳となりました。海に入るまでは、五百メートルも泳げる訳がないと諦めていましたが、泳いでいるうちに、体の力が抜け、楽しく泳げるようになりました。五百メートルを泳ぎ切ると、海が好きになり、海に入るのが楽しみになっていました。
 迎えた本番の五日目は、潮の流れが少しあり、泳ぎにくいと感じましたが、前日に一キロ泳や二キロ泳を終えた人たちの「頑張れー」という応援の声が聞こえる度に、不思議と力が湧いてきました。無事に泳ぎ切り、みんなと喜びながら頂いた氷砂糖の甘い味は格別でした。
 沼津での生活は、私に諦めないことの大切さを教えてくれ、大きな自信を与えてくれました。沼津の海は、私にとって忘れられない記念の海。六年間の中で、私がいちばん成長できたと感じられる素晴らしい思い出になっています。


・・・。

以前の、大縄跳びの作文だか詩だったかの中に「達成感があった」という部分があって。

暗然たる思いを抱いた、あの時と同じ感覚。

本人が書いた、本人の「感想」ではない。

と、私は断じることだってできるけど、ここでは「私はそう感じた」と、記しておくことにしよう。

ここまでやるか~。やってるんだよね。

かつて、愛子さんは、学校でのプールの授業をすべて、休んでおられた。見学だった。

その頃の理由は「水のきらめきが怖い」だったか「揺らめきがこわい」だったかでした。

内心、愛子さんは詩人か、と、感じたわたし。

プールなんか休んでも、どっちにせよ進級も進学もできるお方。その詩心をお伸ばしになって、とか、今に思えばお人よしなことを勝手に考えておりました。

何がどれが本当なのか、さっぱり理解しがたいご一家です。はっきりわかっていることは、嘘を重ねていると、にっちもさっちも行かなくなるよね、ってこと。

私も大嘘つきです。だから多少はわかる気がする、でも、あの家の嘘は、せこくて、場当たり的で、アホみたいに未熟な、人をバカにしている嘘。嘘のオトシマエを、自分で引き受ける覚悟の無い嘘。

どこまで行くのかしら、どこまで行けるつもりなのかしら。

...この作文、書かれたのは「敬宮愛子」さん。その後に「内親王」がついていない。

同じ条件の秋篠宮家の眞子さまの時には

「秋篠宮眞子内親王」

と、表記されているのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3年前も私は、嘘ばかり重ねていると、にっちもさっちも行かなくなるなどと書いていたのですね。

本当のことですもの。

いまではもう、単なる嘘で納まりがつかなくなっているかと思います。


愛子さん、ご卒業おめでとうございます。と、普通に言えたら。

など、思います。




不敬なおはなし(笑)。


こんにちは。明日はこうたいしさんの誕生日です。国旗かかげませんよ、わたし。

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4月10日にご結婚されたお母さまが、2月の23日にお産みなされた皇子さま。

電光石火の早業で、皇子をあげられました。おめでたいことでした・・よね。

この写真を撮ったのは、結婚前から特別に正田邸にフリーパスにての出入りを許され、深窓のご令嬢だと言われた美智子嬢の私室にも出入りを許され、美智子嬢の、皇室へとつぐ日のためのドレス姿を撮ったり。

なんでだかハンカチかぶったんだ、と言い訳してるマリア様みたいなベールかぶった写真を撮ったり。

皇室へ向かう日の、ミンクのショールを肩にして家族にいとまを告げる美智子嬢を、正田さんチの二階から、蔭ながら見送った男性。

朝日新聞の記者だった佐伯某氏が、これを、これも、撮影されたのです。

2月の終わりの寒い日に、車の窓を全開に開け放ち、ミテ子さまは、胸に抱いたお子を、お撮らせあそばした。

佐伯某さんに。

お付の女官さんのお顔つき。

いま見れば、なりたての母。と言うよりおんな・・・おんなおんなした表情の、もしかして、この時にはお狐さんも憑いたりしていたように見えまする、ミテコさん。

あかんぼをのぞきこむかのごとく、うふふ私はこの子の母よ、アピールのすごいミテコさん。

女官の牧野さんは、寒風のなか、窓を開けたりするのには反対でいらした。

皇太子の御子に何かあったらいけません。そうですよね。

この牧野さまは、美智子さんのなすことなさぬこと気になさり、忠告なさり助言なさり、そんなことしたから、

ものすっごく、当時の皇太子に、怒られてしまわれたのでした。

マンガにあります。


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この漫画家さん。他のシーンでは、

これ誰や・・・こうたいし。

これ誰なん・・・まさこ。

みたいな場面も描いておられるようで、まさこを指して「あの自信に満ちた美しさ」としている場面も、有名なようですが。(よう、ようばかりでごめんあそばせ、文月きょうこさん、という漫画家さんです)。

この場面で牧野女官を叱りつけているのは今上。今上を諭しておられるのは、浜尾氏ですね。

浜尾さんのように、きちんと意見する方がおられた、古き良き時代の皇室を偲ばせるシーンだと思います。(だと思うのであります)

牧野女官は、辞めさせられたのでした、確かそうでした。

>美智子に敬意を払って彼女を助けるのがあなたの役目

二度とあの人を悲しませないように


ですと。

今上さん。あなたやっぱり、ダメダメじゃん。

美智子さん、どんな顔してどんな声出して、カワイソウナワタシ、を訴えられたのでしょう。

★牧野純子女官長を叱りつける夫
河原敏明著「美智子妃」より
浜尾侍従とは正反対の形で去っていったのが、牧野女官長であった。 時日からいえば浜尾より2年前の44年四月だが、同僚ではなく皇太子の覚えが悪くて退任に追い込まれる形となったのである。 就任して10年目、女官長は80歳前後まで勤めるのが通例だが、このときまだ68才だった。 敢えて書くが、美智子妃には真に、目の上のコブガがとれた思いだったろう。 牧野自身も、いまさら平民出のお妃の召使頭になるのは誇りが許さなかったが、常磐会等のつよい要請を受けて御所入りしたのであった。 もっとはっきり言えば、東宮妃が美智子様に決まって、かねがね、 「宮中には独特のしきたりがあり、元皇族、華族の方でなくては、とてもつとまりません」と言い続けてきた手前、 怒りも露わだった松平信子とその姉の梨本伊都子の鍋島本家の二姉妹が、分家の出の牧野純子を強く推薦したのだ。だから正式に決まったとき、 これで美智子妃に手綱をかけられる と常磐会の面々は優雅に喝采を交わした。 初めから美智子妃のお目付役の一面があったのである。 彼女はその任務を忠実に果たしただけかも知れない。元々格別に気丈な性格であり、美智子妃に対して何かにつけて厳しかった。 「私達に涙はお見せにならなかったが、ずいぶん悔しい思いをされたことは確かです」と 元側近の一人が遠慮がちにいう。 そんな牧野を明敏な皇太子が見過ごすはずはなかった。 「皇太子さまは牧野さんをいつもしかりつけていました。美智子妃への理解が足りない、意地悪をする、 改良することに反対する、というようなことでした。お叱りの回数が年ごとに多く、かつ強くなりました」


河原氏、いろんな見方もされておられますが、かつては ↑ のごとくも書いておられたのでした。

>明敏な皇太子・

ううむ。こういう時は、こう書かないとあかんかったのでしょうかしら。妻に泣きつかれ操られ妻のコトバ以外に聞く耳持たぬ、お優しい、だか阿房だか、初めからそうであって、ついには「生前退位」なんてことまで。

・・・こういうなかから派生した皇太子・ナルちゃん。

明日、何を、しら~~っと仰るか、ちょっと楽しみです。わたし意地悪って公言していてよかったです(笑)。

あるじがバカだと忠臣は去るしかない。去らせられた、というのが本当でしょうか。で、残るのは、

荒涼たる不毛の荒野。豪壮たる御所といえど。

でも。ナルさん難産で、20分も呼吸が出なくて云々と言われておられますが。20分も呼吸できなかったら死んでしまう、と、素朴に思いますし。

帝王切開術など、それこそ辿ればローマのシーザーの時代から存在する手術。

皇太子妃の御身にメスを入れたらなんじゃらと緒論あったとも聞き及びますが。

男系固持のお家ならば、母体よりもお子が優先と考えられます。いい悪いの話ではありません。とにかく、そうなのです。

生まれた時から全くからだ動かすことも無く、なよなよと柳腰にお育ちあそばして。

運動不足で難産になるといけないからと、身ごもられたお姫さまが、お箸を手にして、床にまかれた大豆をお拾い、とか。

美智子さんは、そんな時代の女性でなくお姫さまでも無く。

出会いはテニス、がっしりとした頑丈そうな下半身の美智子さん、なんでそこまで難産でいらした。まあ。お産のことはそうなってみないとわからない。とも言います。もちろん存じておりmす、こんなこと言うのは、ワタシが意地悪だからでしょう。

スポーツしてた方なら大丈夫、という見方も、あの方をいれられるにあたって、おそらく、あったのかとも想われますが。

皇室に入って、全方向から苛められてたストレスのせい、だったのか、これも。

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美智子さん?? 頑健そうでいらっしゃる。

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とても小柄でいらっしゃる。


食べもののこと


父親が死んで長姉は高校の寮に入っていた、次姉は、ウチで預かる、と強行してくれた父方の叔母夫婦の家で暮らしていた。

母親と二人暮らしだった子ども時代、あんなこんなはあったものの、鍵っ子になっていておやつの買い食いはけっこうし放題でした。住まいは名古屋のお城の見えるあたり、町中で、それなりに美味しいものも食べさせてもらっていました。母の里の伯父が、戦中もそうだったように、自転車で何時間もかけて、米も野菜もおそらくは祖母に託されたお金も、運んでくれていたのでした。

中学にあがるのを機に、養父の家に引き取られました。

しょっちゅう到来物のある家で、食料タンスには乾物が積み上げられていたし、牛肉も大きな鯛もメロンも、明治屋の缶詰も届きました。私も受け取っていたので知っていました。

食事は寝たきりの親奥さんと、在宅する時は養父と、私より三つ上の長女のHちゃんが、親奥さんの寝間の隣りでお膳でとっていました。

養父の妻は、姑と夫と長女の食べ物は、欠かさず整えていました。親奥さんには朝はバタートースト、昼は煮魚を毎日つけ、魚は、そのたびにお金をもらって買いに行く。御用聞きも来ていたけれど、養母は魚は、自分で買いに出かけていました。

息抜きだったのでしょう。遅いと言って呼び鈴を鳴らして、親奥さんがよく怒っていました。

私より一つ上のそこの長男、二つ下の次女、そして養母は・・・何を食べていたのでしょう、深い記憶がありません。自分の日常食べていたものの記憶も。あまり無い。

ヒトの出入りの多い、来客も絶えずある(以前も書きましたが、宮さまが来られたことも一度ならず・・・学者さんでいらした、その講義や講演のお礼、ひっそりとお渡ししたのでしょう)その家の、財布は、親奥さんがしっかりと握ったままだったのです。いま思うとむごい話です。

大学の柔道部の学生が来るのですき焼きを食わせる、と、飛んで帰って来ていきなり養父が言いつけ、ネギだ豆腐だとおおわらわ、急遽私が肉を買いに。どれくらい買えばいいのか。肉屋で相談して、すき焼きならこれくらいあれば、と、1キロ買って帰って、巨体揃い、十数人の前に、1キロの肉・・・あの時のバツの悪さは、忘れられません。

一人で1キロくらい、食べそうな詰襟の大男たちが・・・。私は中学生だったので。

養父はそこここの学生たちに肉をふるまうのが大好きで、木津川の河原で数十人でのバーベキューも、毎年、何組分か、していました。

養父は旧い家の親孝行の一人息子。できのいいお姉ちゃんが三人、いいとこへ嫁っておられて、運転手つきの車で時々、オカアチャンのお顔を見に、おいでになられた。立派な奥さま方でした、どなたも。姉妹そろっておいでの時は、仕出し屋が届けて来る料理をご一緒しておられた。

長女さんだけはその輪の中。優しい、いい方でした、いまもお幸せです。でも、自分がたべられるものが、弟、妹には無いと言う事には、無頓着だったような。

養母は、養父の女身内さんの中では、無休、無給の、気の利かない女中以下、の存在でした。お手伝いさん、などというきれいごとの言葉では言えません。何度も実家へ帰って、また戻って、の不毛の歳月の後に、諦めの後に私は、養母のお世話になるようになったのでした。

私の立場は、ひとことで言うと、微妙。

おば様方は、私には、それなりの気を配って下さっていた。チョコを下さったりローンのハンカチを下さったり。死んだ父への慮りだったのではありました。詳しく書くのは難しいことなので省略。

一人でおあがり、と、折り曲がって詰められたウナギの重を下さったこともあった・・・でも。

私は、一家のなかで長女さんとは違うグループ・・・その家の当主である養父の、長男であるKちゃんと、末っ子で誰にも見向きもされない次女のYちゃんと同じ群に普段は属していて、上(笑)から下がって来る、焼きプリンの空き缶やどこやら亭の折詰弁当などの残骸を、ただ珍しく見ていたばかり。12歳からの話です。

折詰の中には、紅白の飾り切りを施されたかまぼこや何やらの揚げ物などが、しおれて残ったりしていました。

養母は私に、よかったら食べや、と言いました。長男と次女には言いませんでした。私は「けっこうです」といいました。養母はそのまま引いて、結局かまぼこやフライは捨てられたのかどうか。

お手伝いの、30歳過ぎの女性もいました。実家から仕送りがあったようで、お菓子ばかりヒミツで食べていました。トイレに籠ったら1時間は出て来ませんでした。

・・・あの頃は、麦ごはんと、たまに、養母が仕込んで作る、上等らしいけど舌につぶつぶの残る味噌の汁と、それだけはふんだんにあった到来物の漬物や佃煮と。かつお節だけを扱う店の、木箱の隅に溜まるかつお節の粉。で、主に、食事をしていたのでした。

鯛の刺身も、出る時はどどんと出たりしました。マツタケもそうでした。マツタケの佃煮のようなものを、毎食、食べることもありました。

それしか無かったのです、その時は。

ご飯とかつお節の粉しか無いことも多く、そんな時は台所に、牛肉の甘煮のしょうがの匂いが残っていました。

皆で食べるには量の少ない肉を、養母が、甘辛く煮つけていたのです。味を濃くして、少ない量でご飯がすすむおかずです。

その家の長男Kちゃんは、私とは口をきかないよう、厳しく言いつけられていました。

マチガイが起こってはいけないらしかった。

その言いつけを遵守して彼は、一緒に暮らしている私を、ほぼ完璧に無視していました。私も同様。

飛び級で東京大学を出て来た父親の後を追わねばと、毎日ベンキョウ、ベンキョウ、のKちゃんでした。

財布さえ持たせてもらえない養母は、息子に、ベンキョウ生活を支える栄養のある食べ物を、食べさせてやりたかった。

当然の話です。

私は、外で、自分で食べられるものを食べていました。外食しました。母親とは月に一度、会う機会があり、そのたびに母は私に、何か食べろ、下着も買え、と言うのでした。中学生が持つにはかなりなお金を私は、受け取っていました。

暮らしている家の中で、得られないものを「欲しい」と思う自分を、許せなかったのです。高慢ちきな女の子だった。

挫けないためには、アタマを、思いっきり上げていなければならなかったと、ずっと、自己弁護しています。

自分の家は貧しいと、母子家庭ですし親子で暮らせなくなっていたのですし、普通に思い込んでいましたが、母はお金をくれました。

自分の暮らしを切りつめて、と、これも思い込んでいましたが、そうでもなかったようで。私の母は、セーターは純毛しか着ない人だったし。靴もいいものをはいていました。母が亡くなってかなり経って、姉妹が話をしていた時、不意に、私たちは悟ったのでした。

母には、相続した遺産があったのだと。夫からでない、親からのものが、あったのだと。ずっと後から気がついた話。

父が死んで母が引っ越しをして、帰る家を持たなくなった私たち姉妹は、まったく母の言葉を信じて、嫁いで、頑張って・・・いたのでした。

姉妹もバラバラに育って、ツギハギの育ち方をしたのだと。皆、思い込んでいたのでした、父の死後、残ったものはすべて、母が、当時信仰していた宗教に、つぎ込んでしまったので・・・。

次女の制服代だけ手元に残して。と。母自身がそう、言っていた。家もお金も全部、と。事実、そうであったのですし。

遺産だの何だの、思ってみたこともない。だから、欲しいとも思ったことも無い。

「おばあちゃんは、自分で言うほど、ビンボウで苦労したわけでは、なかったんだがねえ」。

みな三人とも、けっこうなトシになってからのそんな話で爆笑したものでした。

呑気な話、でも、自分たちらしい話で、頼り癖が持てなかったことは、よかったのだと結論が出て、また、笑った・・・

脱線しました。


中学生の私は、自分の暮らす家の中での格差、というかヒエラルキーというか、微妙な差、というか。むずむずと、居心地のよくない思いでいて。

確かに微妙でした。

先に書いたウナギの話。私だけで食べろと仰るのは、大家の奥さんである、養母の小姑さま。

そんなことができるはずもなく相談します。しかし養母はそんな時、必ず、

「そう言うてはんねやったら、〇ちゃん(わたし)がいただいたらええのやで」

でも、ですからとお願いして、大人が分けて、と、私は言う。

「少しずつみんなでいただいたらどやろか」。

気取り屋の私の美意識に反する、オバちゃんみたいなセリフを云わねばならず、もうウナギはいいから、こういうシチュエーションにならずにいたい。

養母には養母の、なんとも言えないこだわりめいた気分は、当然、あったのでしたし。

私は、養父の、いわば「恩人の娘さん」みたいなことで、世話になっていたのでした。それにしては養父は、日々の暮らしの些事には頓着なく、すべてを妻に丸投げで、生活費の自由さえ与えないまま。

養母のやるせない気持ちは、中学生ながら、自分ながら、いささかは解っていたつもりでおりました。

学校に行っている間に日記帳を読まれているのも知っていました、私が、町の食堂で、一人で親子どんぶり食べていた、お好み焼き屋から出て来たと、養母に告げる人があるのも知っていました。

いろんなことが、ありました。

主婦が。

よその子を預かっていて、財布の自由も無くて、夫は母親と嫁いだお姉ちゃんたちに牛耳られていて・・・社会的には全くそんな気配も見せない成功者でしたけれど・・・同じきょうだいでありながら長女は缶のままのゴーフルを与えられている、長男は「ダイドコの子」で、幼い頃は母親である自分を庇って、夫の鉄拳の前に立ちはだかってくれた子で、体は大きくて腹減らし、叶うかぎりに美味しいものを食べさせてやりたい。

これ。当たり前のこと。

と。本ばかり読んでいた私は、なんとなく、理解していたように思います。しかも預かってやっている子(わたし)は、一人で勝手に外でごはんを食べてしまうような金を持っていた。自由な金を持たされていた。

養母は、私が高校の寮に入る時、月に一度は顔を見せにおいでと。

お友達も連れておいでと。

言っていてくれました。行けば笑いかけて、煮込みうどんを作ってくれたりしました。恩知らずなのか面倒だったのか、月に一度も行かなくなりました。せっかくの一人の休日だとの気分があったのでしょう。

どこまで信用していいのかが、まず、わかっていなかった。

・・・私は、養父の家にいる間、家の中にいる一人に、まるきり無視され続けていることが、平気でいられませんでした。

養母に日記帳を読まれていたことにも。それをなじれないことにも。日記帳の中に挟んでいた紙幣の位置が、ずれていて、足らなかった数枚が数日後に戻っているようなことも。養母はきっと、複雑な思いを沢山、味わったと思います。私のせいで。

私は素直な子でなかった、よく嘘もつきました。

外でどんぶりメシ、食べて帰って、今日は天ぷらや、ごはん沢山おあがり、と言われて、おかわりが出来なくて、

「大好きなおかずやのに、なんでやろなあ」

と、言われたりすることも。

とても、とても、平気でいられなかった。小説の新人賞に応募して入賞していたのに、聞かされていなくて、結局、賞は辞退にされていた、そんなことも。

もしかして「将来を潰された」と感じた、そのことが、いちばん、

耐えられなかった・・・早く早く自分でお金を得られるようになりたかった、自分のお金で空気を吸いたかった、気詰まりなくごはんを食べたかった、そんなこんなで。

定時性高校なら寮へ入れる。家から出られる。

ことを知って、反対されましたが、定時制高校へ進学したのでした。

寮では、皆、同じタイミングで同じものを食べられました。

大ヤカンで、火鉢で、一度にたくさんインスタントラーメン作って、ずるずるすすって食べた、八人部屋。


養父にも養母にも感謝しています。この頃は特に。思い出はいっぱい、あります。

養母も晩年は穏やかでした。

心臓を患って、食事制限も厳しく受けて、長い間の闘病生活でした。

私が中年になって、時に、美味しいものをと連れ出して、あれもこれも勧めても、ほとんど何も口にできないでおられました。

・・・・・・・・・・


もっと、食べ物のリアル、自分の中の汚いこころ、食い意地の引き起こす醜い気持ちも、書くつもりでしたが。

中途半端になってしまいました。

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「愛子さん」の痛ましい姿を見て。

内親王さんと何を比較するなどの話でなく。

食べものに絡む気持ちの底の事など、書いてみたかったのでしたが。

なかなか・・・きれいごとになってしまったかも・・・

続きをまた、書くかもしれません。

「愛子さん」は、生きていたくないのかも、と思います。理屈でない、本能のところで。

見ていられない姿です。



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やはり赤い口紅が好き。


ものすごく唐突ですが、私、口紅(だけ)はシャネルよ。(笑)。

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