いいな。
少しずつ読んでいる本の話です。
いつもは読まないタイプの本です。みすず書房の、タイトルは「死を生きた人びと」著者は「小堀鷗一郎」。
新聞の書評で知って、読みたい。とすぐさま注文してしまいました。この春に出た、新しい本です。けっこういつもは、中古の本を買っているのですが。
定年までを外科医として、大学病院や国立医療機関に勤めておられた著者が、
「たまたま退職する同僚に依頼されて、彼が長期間にわたって個人的に担当していた寝たきりの患者二名を引き継ぐ形で訪問した」
こんな形で始められて、
「現役時代四十年間は在宅医療の存在を知らなかったことになる」
この方の患者数が、飛躍的に増えて行った、と。そんな始まり方です。
「外科医としてすごした四十年間を一言で表現するならば、「救命・治癒・延命の日々であった」と書かれています。
その四十年以降のことを、書いておられます。ただ「生かす」ためだった医師の日々、以降を。
中身の濃い本で、なかなかすらりとは読み進めません。
書評で紹介されていた部分、66ページの「事例25」・・・<好きな酒を自由に飲みたい>
・・・引用するに気をかねてしまうのですが、少し。
76歳男性の場合。
「初めての診療訪問時は、ひどく痩せて腹水がたまり、食事もほとんど取れていなかった。本人の第一声は好きな酒が自由に飲みたいということであったので、その場で好きなだけ飲んでよい、と許可した。介護する妻はヘビースモーカーだったが、これも」
喫煙自由とした、とあります。いつでも飲めるようにニッカウヰスキーのプラスチックボトルに吸い口をつけたものを枕元に置くようになって患者は、食欲も一時的にではあったが旺盛となり、ウナギや寿司の弁当の空箱が山積みとなった、と。
最後を迎えるまでの二か月間、訪問しては褥瘡の処置をするのが(妻の吸うたばこの濛々たる煙の中での)、唯一の医療行為だったと書いておられます。
以下の部分は、67ページ、三行めからの引用です。
ある日ふと思いついて、昔、患者から贈られたジョニーウォーカーの青ラベル(当時黒ラベルよりもさらに高級と先輩に教えられて長年保存していた)を彼に進呈しようと、箱を抱えて彼の病床に持って行った。彼は非常に喜んですぐ味見をすることになったが、なにぶん年月を経た品だったので、コルク栓は劣化していた。手近に栓抜きもないので、スプーンの柄で長時間かかってコルクを取り除き、大量のコルク屑と一緒に乾杯した。彼は嬉しさのあまり」
もうすぐ生まれるお孫さんに、この医師の名前をつけると言い張リ、医師の方では、患者さんと自分の名の組み合わせに、との提案をされた、だが、その提案は
「母となる娘に即座に却下された」
とあります。この娘さんのリアルも、とてもよくわかります。
年齢や立場、それ以外のそれぞれの感覚で、このドクターは評価されるのでしょうが、私は、こんなお医者さんいいな、こんな風に最後、診ていただきたいな、と。強い憧れを抱いたのです。
ラストの「即座に却下された」の書き方も、硬質なユーモアがあって、さすが。
さすが。
小堀鷗一郎。お名前を見て、ピンとくる方には、来るか。
軍医であり文豪であった、森鷗外。その二番目の娘は嫁いで小堀杏奴(あんぬ)となり・・・小堀杏奴は随筆家・・・、男の子を成してなんとまあ「鷗一郎」と名付けられたのですね。どれだけ父親の好きな娘さんでいらしたやら。そして
少し前になにやかや私が書いていた、森茉莉さんは、この方の「伯母さま」になられます。私のことはどうでもいいが、
森鷗外、おそるべし。と、感じもしました。
それを省いて読んでも、「人はなぜ死ぬのか、どうやって死ねばいいのか」などということを、かなり本気に考えないではいられなくなっている私には、安心と勇気をもたらしてくれる一冊でもありました。
人は、何のために生きているのか。ちょっと、自由に、考えられました。
いつもは読まないタイプの本です。みすず書房の、タイトルは「死を生きた人びと」著者は「小堀鷗一郎」。
新聞の書評で知って、読みたい。とすぐさま注文してしまいました。この春に出た、新しい本です。けっこういつもは、中古の本を買っているのですが。
定年までを外科医として、大学病院や国立医療機関に勤めておられた著者が、
「たまたま退職する同僚に依頼されて、彼が長期間にわたって個人的に担当していた寝たきりの患者二名を引き継ぐ形で訪問した」
こんな形で始められて、
「現役時代四十年間は在宅医療の存在を知らなかったことになる」
この方の患者数が、飛躍的に増えて行った、と。そんな始まり方です。
「外科医としてすごした四十年間を一言で表現するならば、「救命・治癒・延命の日々であった」と書かれています。
その四十年以降のことを、書いておられます。ただ「生かす」ためだった医師の日々、以降を。
中身の濃い本で、なかなかすらりとは読み進めません。
書評で紹介されていた部分、66ページの「事例25」・・・<好きな酒を自由に飲みたい>
・・・引用するに気をかねてしまうのですが、少し。
76歳男性の場合。
「初めての診療訪問時は、ひどく痩せて腹水がたまり、食事もほとんど取れていなかった。本人の第一声は好きな酒が自由に飲みたいということであったので、その場で好きなだけ飲んでよい、と許可した。介護する妻はヘビースモーカーだったが、これも」
喫煙自由とした、とあります。いつでも飲めるようにニッカウヰスキーのプラスチックボトルに吸い口をつけたものを枕元に置くようになって患者は、食欲も一時的にではあったが旺盛となり、ウナギや寿司の弁当の空箱が山積みとなった、と。
最後を迎えるまでの二か月間、訪問しては褥瘡の処置をするのが(妻の吸うたばこの濛々たる煙の中での)、唯一の医療行為だったと書いておられます。
以下の部分は、67ページ、三行めからの引用です。
ある日ふと思いついて、昔、患者から贈られたジョニーウォーカーの青ラベル(当時黒ラベルよりもさらに高級と先輩に教えられて長年保存していた)を彼に進呈しようと、箱を抱えて彼の病床に持って行った。彼は非常に喜んですぐ味見をすることになったが、なにぶん年月を経た品だったので、コルク栓は劣化していた。手近に栓抜きもないので、スプーンの柄で長時間かかってコルクを取り除き、大量のコルク屑と一緒に乾杯した。彼は嬉しさのあまり」
もうすぐ生まれるお孫さんに、この医師の名前をつけると言い張リ、医師の方では、患者さんと自分の名の組み合わせに、との提案をされた、だが、その提案は
「母となる娘に即座に却下された」
とあります。この娘さんのリアルも、とてもよくわかります。
年齢や立場、それ以外のそれぞれの感覚で、このドクターは評価されるのでしょうが、私は、こんなお医者さんいいな、こんな風に最後、診ていただきたいな、と。強い憧れを抱いたのです。
ラストの「即座に却下された」の書き方も、硬質なユーモアがあって、さすが。
さすが。
小堀鷗一郎。お名前を見て、ピンとくる方には、来るか。
軍医であり文豪であった、森鷗外。その二番目の娘は嫁いで小堀杏奴(あんぬ)となり・・・小堀杏奴は随筆家・・・、男の子を成してなんとまあ「鷗一郎」と名付けられたのですね。どれだけ父親の好きな娘さんでいらしたやら。そして
少し前になにやかや私が書いていた、森茉莉さんは、この方の「伯母さま」になられます。私のことはどうでもいいが、
森鷗外、おそるべし。と、感じもしました。
それを省いて読んでも、「人はなぜ死ぬのか、どうやって死ねばいいのか」などということを、かなり本気に考えないではいられなくなっている私には、安心と勇気をもたらしてくれる一冊でもありました。
人は、何のために生きているのか。ちょっと、自由に、考えられました。
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あのビール
いろんな方といろんなところで、主に昼食を共にしている。仕事の延長のこともあり、私的なお付き合いの場合もある。
さいきん行ってよかったのは、神戸の居留地のオリエンタルホテルと、最寄りの駅の近くの居酒屋のランチ・タイムだった。
オリエンタルホテルには予約なしで行って、メイン・ダイニングは無理だが、予約フリーの方なら、と受けてくれて、実際、狭かったが、友人と二人、席に就けた。この友人はものすごい方向音痴で、私は、自分よりすごい方向音痴が存在するなどと、、何度会っても理解できず。その日は、スマホで探しておいてくれたグリルに、なんとか二人たどり着いたものの、あまりに思うところと「違う」ということで、中へ入らず逃げたのだった。予約はまだだったので、ご迷惑はかけておりません、念のため。
友人いわく、その店は口コミというものが「よかった」そうなのだが、友人、尚いわく、自分で書いている口コミもあるのよ、と。へえ、知りませんでした。ブログにもそれは、当てはまるらしい。ふええ。
そのオリエンタル・ホテルは、日本最古のホテル、なのだそうだ。もう一つの方は港のそばにあり、長女がそこで、結婚時のすてきな写真を撮っていた。正確には、撮ってもらった。
タイのオリエンタルは、世界一の、との評価なそうで(今もそうなのか?)随分むかしに、品数豊富のランチを何度か食べた。白人のウェイターが、とても丁寧な態度だった。待たせていた現地人の運転手のことは、目に入らない態度だった。ヒトと思っていないのね。私は日本生まれ、日本育ちのふつうの日本人なので、だからなのか、あちらでは普通のそういうことが、身に添わない。あまりにも落差のある態度の前では、居心地が悪いのです。ついに馴染めないうちに、東南アジアの国々へ旅する日々は、終わってしまった。
この友人とは、ずいぶん以前から神戸のお洒落なホテルやレストランあちこち、フラフラと歴訪して来た仲。お互いここのホテルは初めて。道路からの眺めさすが重厚、一歩足を踏み入れれば好みのほの暗さで、スタッフのどの一人も躾がいい感じ(わたしに躾のことなど言えない自覚はあるので、さらりと書いておく)、ごく普通のランチのメニューの一つを頼んだ。
ふかふかのパンが最初に出て来て、溶かしバターたっぷり、私は、日ごろ控えているが、美味しいバターが大好き、嬉しくてムフフと、いただきました。前菜ちょっぴりでも綺麗、サラダの生ハムが美味しかった。パスタは二種類とって、分け分けしていただいた。たぶん私の方が沢山、食べた。
デザート、コーヒーと出て、二千円に満たないお支払。どこで食べようか、迷った時には、ホテルはいいと改めて思った。
水をサーブされるグラスが、濃紺の足付きのもので。このデザインは、舅が誘われて乗ったタイの合弁企業・・いっときは800人ほどの人が吹きガラスで大量のガラス製品をつくっていた頃の、もの。・・と、酷似している。よく見かけはする。あちらの経営陣は華僑で、もの知らずのお人よしの日本人などうまいことやられてしまった(こちら側からの印象です)、あの頃の。夫がずっと、タイに張り付いて技術提供していた頃の・・・今は知らない、おそらく今は、ベトナムあたりで作っているか・・100円ショップで同じようなものが売られるようになって、いろんな齟齬があらわれて、なんとか出資金引き揚げて撤退したのだった・・・などと、思いを投げてしまう、グラスなのであった。違うかもしれない。ここでこれを言うのは筋違いだが、大きな時代の渦がそうさせたのでもあっただろうが、本物のガラス吹き職人さんの生きる場所が、どんどん、無くなっていった時代を、見た。
二階建ての倉庫いっぱいに溢れていた、素晴らしい吹きガラス製品の山を、埃まみれになって探させてくれたUのおっちゃん。もう今は、亡くなっているのだろうな。
話がどんどん流れてとめどの無い、KUONのへたれブログ。
海鮮丼、味噌汁付きで580円。上海鮮丼が980円。生きのいいネタが山盛り。美味しいもの大好きで、よく知っている食いしん坊の若い友人と一緒に行って、「ワタシここへ通いますわ!」と言わしめた、身近にある居酒屋の昼営業のごっそう。
なにせお刺身が絶品、あんどチープ。絶対イケる、喜んでくれはる、と、お誘いしたのが大外れ、その人は、ゆっくりとお酒を飲みたい方向のお方。ザワザワの居酒屋はお気に召さなんだ、なんてことも、ありまして。
私は下戸。酒のことはわからん、どっちでもいい人種なのだ、と、改めて思ったり。
なんだかわけがわからない記事になった感じ。でも、飲めるといいだろうな、楽しいだろうな、と、感じることもあります。
熊本へ人を訪ねていった時、円卓を囲んで食べた時に、グラス半分ほどもらって、のんでみたビール。エビスの、黒ビール、なるものだったと記憶する。小さな黒っぽい瓶だった?。
美味しかった。あれ。。探したりもしたが、再会できないでいる。本気で探せばあるのでせうか。
もう一度、あのビール、飲んでみたいなどと、思うなり。
さいきん行ってよかったのは、神戸の居留地のオリエンタルホテルと、最寄りの駅の近くの居酒屋のランチ・タイムだった。
オリエンタルホテルには予約なしで行って、メイン・ダイニングは無理だが、予約フリーの方なら、と受けてくれて、実際、狭かったが、友人と二人、席に就けた。この友人はものすごい方向音痴で、私は、自分よりすごい方向音痴が存在するなどと、、何度会っても理解できず。その日は、スマホで探しておいてくれたグリルに、なんとか二人たどり着いたものの、あまりに思うところと「違う」ということで、中へ入らず逃げたのだった。予約はまだだったので、ご迷惑はかけておりません、念のため。
友人いわく、その店は口コミというものが「よかった」そうなのだが、友人、尚いわく、自分で書いている口コミもあるのよ、と。へえ、知りませんでした。ブログにもそれは、当てはまるらしい。ふええ。
そのオリエンタル・ホテルは、日本最古のホテル、なのだそうだ。もう一つの方は港のそばにあり、長女がそこで、結婚時のすてきな写真を撮っていた。正確には、撮ってもらった。
タイのオリエンタルは、世界一の、との評価なそうで(今もそうなのか?)随分むかしに、品数豊富のランチを何度か食べた。白人のウェイターが、とても丁寧な態度だった。待たせていた現地人の運転手のことは、目に入らない態度だった。ヒトと思っていないのね。私は日本生まれ、日本育ちのふつうの日本人なので、だからなのか、あちらでは普通のそういうことが、身に添わない。あまりにも落差のある態度の前では、居心地が悪いのです。ついに馴染めないうちに、東南アジアの国々へ旅する日々は、終わってしまった。
この友人とは、ずいぶん以前から神戸のお洒落なホテルやレストランあちこち、フラフラと歴訪して来た仲。お互いここのホテルは初めて。道路からの眺めさすが重厚、一歩足を踏み入れれば好みのほの暗さで、スタッフのどの一人も躾がいい感じ(わたしに躾のことなど言えない自覚はあるので、さらりと書いておく)、ごく普通のランチのメニューの一つを頼んだ。
ふかふかのパンが最初に出て来て、溶かしバターたっぷり、私は、日ごろ控えているが、美味しいバターが大好き、嬉しくてムフフと、いただきました。前菜ちょっぴりでも綺麗、サラダの生ハムが美味しかった。パスタは二種類とって、分け分けしていただいた。たぶん私の方が沢山、食べた。
デザート、コーヒーと出て、二千円に満たないお支払。どこで食べようか、迷った時には、ホテルはいいと改めて思った。
水をサーブされるグラスが、濃紺の足付きのもので。このデザインは、舅が誘われて乗ったタイの合弁企業・・いっときは800人ほどの人が吹きガラスで大量のガラス製品をつくっていた頃の、もの。・・と、酷似している。よく見かけはする。あちらの経営陣は華僑で、もの知らずのお人よしの日本人などうまいことやられてしまった(こちら側からの印象です)、あの頃の。夫がずっと、タイに張り付いて技術提供していた頃の・・・今は知らない、おそらく今は、ベトナムあたりで作っているか・・100円ショップで同じようなものが売られるようになって、いろんな齟齬があらわれて、なんとか出資金引き揚げて撤退したのだった・・・などと、思いを投げてしまう、グラスなのであった。違うかもしれない。ここでこれを言うのは筋違いだが、大きな時代の渦がそうさせたのでもあっただろうが、本物のガラス吹き職人さんの生きる場所が、どんどん、無くなっていった時代を、見た。
二階建ての倉庫いっぱいに溢れていた、素晴らしい吹きガラス製品の山を、埃まみれになって探させてくれたUのおっちゃん。もう今は、亡くなっているのだろうな。
話がどんどん流れてとめどの無い、KUONのへたれブログ。
海鮮丼、味噌汁付きで580円。上海鮮丼が980円。生きのいいネタが山盛り。美味しいもの大好きで、よく知っている食いしん坊の若い友人と一緒に行って、「ワタシここへ通いますわ!」と言わしめた、身近にある居酒屋の昼営業のごっそう。
なにせお刺身が絶品、あんどチープ。絶対イケる、喜んでくれはる、と、お誘いしたのが大外れ、その人は、ゆっくりとお酒を飲みたい方向のお方。ザワザワの居酒屋はお気に召さなんだ、なんてことも、ありまして。
私は下戸。酒のことはわからん、どっちでもいい人種なのだ、と、改めて思ったり。
なんだかわけがわからない記事になった感じ。でも、飲めるといいだろうな、楽しいだろうな、と、感じることもあります。
熊本へ人を訪ねていった時、円卓を囲んで食べた時に、グラス半分ほどもらって、のんでみたビール。エビスの、黒ビール、なるものだったと記憶する。小さな黒っぽい瓶だった?。
美味しかった。あれ。。探したりもしたが、再会できないでいる。本気で探せばあるのでせうか。
もう一度、あのビール、飲んでみたいなどと、思うなり。
抱かれながら思った
母の日だそうです。
海の中には母がある。苺の中にも母がいる。母は、「毒」の中にもおりますな~
森茉莉の息子 山田亨
「「鴎外が茉莉を愛し、茉莉が父鴎外を愛したように、
僕は父山田珠樹に愛されて育ち、そして今でも父を愛している。
父が僕を可愛がった理由の一つは、僕の容貌が茉莉と似ていたためだと思う。
その反面茉莉と似ているためか、僕は継母からひどく嫌われた。
父はフランス文学者だったが、茉莉が指摘したごとく本質的には明治の男だったようだ。
自己の再婚に際し、親戚・知人の全員に
「亨の母親が森茉莉だということを絶対口にしないように」と頼んだという。
したがって僕は、母茉莉のことを父の死まで知らなかった。
父の葬式の後、「亨、僕たち二人の母親は、森鴎外の長女である森茉莉という人だ」
と兄から言われたが、突然のことで実感がわかなかった。
茉莉は当時まだ作家として世に出ていなかったので、
僕は叔母である小堀杏奴の著書や雑誌を書店で購入するようになった。
そして杏奴と文通するようになり、終戦後のある日叔母から
「亨ちゃん、御馳走するからうちにいらしゃい」という手紙をもらった。
当日玄関で叔母が「亨ちゃんには知らせなかったけれど、茉莉を呼んであるの」と言った。
部屋に入ると僕によく似た女性がいて、「亨」と言って僕を抱きしめて激しく泣いた。
母親というのは子供を抱きしめるんだなと、抱かれながら思った。
僕は継母から一度も抱かれた記憶がなかったからだ。
父に抱かれた記憶は何度もあるのに。
茉莉の死後、兄から茉莉の形見分けを任された。
僕が著作権継承者代表であったため、手元に置いて考えた。
これらの物は僕に所属する物ではなく、母のファンに所属すべき物だろうと。
そこで、鴎外の遺品すべてを文京区立鴎外記念本郷図書館に寄付した。
僕の死後は、伯父森於菟にならい茉莉のすべての遺品を、本郷図書館と
津和野の森鴎外記念館とベルリンのフンボルト大学所属鴎外記念館に寄付することにした。
そして、それぞれの担当者に僕の意思を伝えた。
最後に、母の作品を愛して下さった方々に深い感謝を捧げたい。」
この「山田亨(とおる)」氏は、森茉莉が婚家に置いて出奔したとき、まだ幼かった次男である。上記のように実母について知らされず育った。母に似ている自分を、父は愛し、継母はその故にこの少年を嫌ったという。
文中の「叔母・小堀杏奴(あんぬ)」は。茉莉の妹。鴎外の個性的な子どもたちのうち、もっとも「普通」に近いと評された。何冊か本を出している。
文中、最後に近く「伯父・森於菟(おっと・おと)とあるのは、鴎外の初めの妻との間に生まれた長男。茉莉たち三人の子の母である二度目の妻は、この子を邪険に扱った。鴎外の母親がこの子を守って育てた。この長男は突拍子もない人ではなかった、その伯父にならって山田亨は、遺品などを寄付するにいたった、ということだ。
「熊井明子が森茉莉をモデルにした短編小説、タイトルは「薔薇が香るとき」。
「今もあるかしら、団子坂に菊見煎餅の店。わたし、新婚のころ、谷中の清水町に住んでいたから、お客が来ると女中に買いにやらせたの。大正の初めごろのことよ」
物語はそんな樹里のお喋りで始まる。
この中で、息子との再会と別れについての樹里の印象深い言葉がある。
「わたしは、自分を押し通すために子どもを捨てた、親きょうだいも傷つけた。本音で生きるために。だから、これから先、何をするにしても自分を偽ることだけはすまい、とね。そういうものは、子どもと一緒に婚家に置いてきたのだから」
あるいはまた、こんな言葉。
「絶対に母性なんてもののためには生きられないエゴイスト。だったら、誤解されようが何だろうが、わたしにとって価値のある綺麗なもの、興味の持てるもの、好きなものについて書こう、と思ったの。わたしは善悪なんてどうでもいいし、道徳なんて知らないから、とても妹みたいに悟りすました顔はできない」
何ものにも捕らわれない童女のような老作家」と称えられる森茉莉の、「その」部分に迫る描写。ただし言葉そのものは、茉莉本人のものではない。この著者が描いた「森茉莉のことば」である。
である。が、が、実際これは森茉莉の「本当」の中の一部であり、他者が何を言うことでもない。
この茉莉が、成人して会うことになった次男坊を、抱いて、泣いた。それも茉莉の本当だろう。
息子は、
部屋に入ると僕によく似た女性がいて、「亨」と言って僕を抱きしめて激しく泣いた。
母親というのは子供を抱きしめるんだなと、抱かれながら思った。
僕は継母から一度も抱かれた記憶がなかったからだ。
父に抱かれた記憶は何度もあるのに。
こう書いている。この部分を読むたび、言い知れない辛さに満たされる。こんなに冷静に息子は、自分を抱いて激しく泣く母親を、見つめている。
森茉莉の涙、これも、本当だろう。
鴎外の末っ子、森茉莉の弟である類(るい)は、家族の中の裏話もあからさまに書いてしまった人、その書いた中に、
ここに引用はできないが、内容をつまめば
長男のジャク(本当は漢字・爵)が、電球を取り換えてくれた、立ったままつけられるようにしてくれた、と、訪れた弟に、喜んで語ったと。
この世で一番好きな長男、ジャクに。
次男の亨は・・・?。
蛇足ながら晩年の茉莉は、息子、二人ともに、それなりに世話になっていた。最後の棲み処も探してもらっていた。
「毒」の中にも「母」はある。
・・・・・ 森茉莉のあれこれに関しては「直球感想文」さんからお借りしたり学ばせてもらったりしました。ありがとうございました。
海の中には母がある。苺の中にも母がいる。母は、「毒」の中にもおりますな~
森茉莉の息子 山田亨
「「鴎外が茉莉を愛し、茉莉が父鴎外を愛したように、
僕は父山田珠樹に愛されて育ち、そして今でも父を愛している。
父が僕を可愛がった理由の一つは、僕の容貌が茉莉と似ていたためだと思う。
その反面茉莉と似ているためか、僕は継母からひどく嫌われた。
父はフランス文学者だったが、茉莉が指摘したごとく本質的には明治の男だったようだ。
自己の再婚に際し、親戚・知人の全員に
「亨の母親が森茉莉だということを絶対口にしないように」と頼んだという。
したがって僕は、母茉莉のことを父の死まで知らなかった。
父の葬式の後、「亨、僕たち二人の母親は、森鴎外の長女である森茉莉という人だ」
と兄から言われたが、突然のことで実感がわかなかった。
茉莉は当時まだ作家として世に出ていなかったので、
僕は叔母である小堀杏奴の著書や雑誌を書店で購入するようになった。
そして杏奴と文通するようになり、終戦後のある日叔母から
「亨ちゃん、御馳走するからうちにいらしゃい」という手紙をもらった。
当日玄関で叔母が「亨ちゃんには知らせなかったけれど、茉莉を呼んであるの」と言った。
部屋に入ると僕によく似た女性がいて、「亨」と言って僕を抱きしめて激しく泣いた。
母親というのは子供を抱きしめるんだなと、抱かれながら思った。
僕は継母から一度も抱かれた記憶がなかったからだ。
父に抱かれた記憶は何度もあるのに。
茉莉の死後、兄から茉莉の形見分けを任された。
僕が著作権継承者代表であったため、手元に置いて考えた。
これらの物は僕に所属する物ではなく、母のファンに所属すべき物だろうと。
そこで、鴎外の遺品すべてを文京区立鴎外記念本郷図書館に寄付した。
僕の死後は、伯父森於菟にならい茉莉のすべての遺品を、本郷図書館と
津和野の森鴎外記念館とベルリンのフンボルト大学所属鴎外記念館に寄付することにした。
そして、それぞれの担当者に僕の意思を伝えた。
最後に、母の作品を愛して下さった方々に深い感謝を捧げたい。」
この「山田亨(とおる)」氏は、森茉莉が婚家に置いて出奔したとき、まだ幼かった次男である。上記のように実母について知らされず育った。母に似ている自分を、父は愛し、継母はその故にこの少年を嫌ったという。
文中の「叔母・小堀杏奴(あんぬ)」は。茉莉の妹。鴎外の個性的な子どもたちのうち、もっとも「普通」に近いと評された。何冊か本を出している。
文中、最後に近く「伯父・森於菟(おっと・おと)とあるのは、鴎外の初めの妻との間に生まれた長男。茉莉たち三人の子の母である二度目の妻は、この子を邪険に扱った。鴎外の母親がこの子を守って育てた。この長男は突拍子もない人ではなかった、その伯父にならって山田亨は、遺品などを寄付するにいたった、ということだ。
「熊井明子が森茉莉をモデルにした短編小説、タイトルは「薔薇が香るとき」。
「今もあるかしら、団子坂に菊見煎餅の店。わたし、新婚のころ、谷中の清水町に住んでいたから、お客が来ると女中に買いにやらせたの。大正の初めごろのことよ」
物語はそんな樹里のお喋りで始まる。
この中で、息子との再会と別れについての樹里の印象深い言葉がある。
「わたしは、自分を押し通すために子どもを捨てた、親きょうだいも傷つけた。本音で生きるために。だから、これから先、何をするにしても自分を偽ることだけはすまい、とね。そういうものは、子どもと一緒に婚家に置いてきたのだから」
あるいはまた、こんな言葉。
「絶対に母性なんてもののためには生きられないエゴイスト。だったら、誤解されようが何だろうが、わたしにとって価値のある綺麗なもの、興味の持てるもの、好きなものについて書こう、と思ったの。わたしは善悪なんてどうでもいいし、道徳なんて知らないから、とても妹みたいに悟りすました顔はできない」
何ものにも捕らわれない童女のような老作家」と称えられる森茉莉の、「その」部分に迫る描写。ただし言葉そのものは、茉莉本人のものではない。この著者が描いた「森茉莉のことば」である。
である。が、が、実際これは森茉莉の「本当」の中の一部であり、他者が何を言うことでもない。
この茉莉が、成人して会うことになった次男坊を、抱いて、泣いた。それも茉莉の本当だろう。
息子は、
部屋に入ると僕によく似た女性がいて、「亨」と言って僕を抱きしめて激しく泣いた。
母親というのは子供を抱きしめるんだなと、抱かれながら思った。
僕は継母から一度も抱かれた記憶がなかったからだ。
父に抱かれた記憶は何度もあるのに。
こう書いている。この部分を読むたび、言い知れない辛さに満たされる。こんなに冷静に息子は、自分を抱いて激しく泣く母親を、見つめている。
森茉莉の涙、これも、本当だろう。
鴎外の末っ子、森茉莉の弟である類(るい)は、家族の中の裏話もあからさまに書いてしまった人、その書いた中に、
ここに引用はできないが、内容をつまめば
長男のジャク(本当は漢字・爵)が、電球を取り換えてくれた、立ったままつけられるようにしてくれた、と、訪れた弟に、喜んで語ったと。
この世で一番好きな長男、ジャクに。
次男の亨は・・・?。
蛇足ながら晩年の茉莉は、息子、二人ともに、それなりに世話になっていた。最後の棲み処も探してもらっていた。
「毒」の中にも「母」はある。
・・・・・ 森茉莉のあれこれに関しては「直球感想文」さんからお借りしたり学ばせてもらったりしました。ありがとうございました。
青のさみしさ
今日の夕刊に出ていました。竹久夢二の学生時代の挿絵入りの冊子が発見されたと。
夢二。
わたしがかつて、十年ほどの間、営んだ小さな店の名を「ゆめじ」といいました。
漢字で書いた名前ですけれど。いまは「ゆめじ」と記させていただきます。
母の里から運び入れた階段箪笥(箱箪笥)を店の奥に据え、レジスターは置かないで旧い小箪笥をお金入れに使い、と、自分なりに使えるもので、人さまの仰る「大正浪漫」「れとろ」な店舗つくりができました。
その前から竹久夢二は好きでした。好き、というより、憧れていました。本もたくさん買いました。店の中に、夢二の絵の小額を幾つか置きました。額は、少しくらいガタガタしていても歳月を経たものを、探しては手に入れていました。グラビアや雑誌の切り抜きであっても、額がすてきですと、夢二の憂いを含んだ女性のうりざね顔が映えました。それを欲しいとおっしゃるお客さんが何人もおられましたが、それは売り物でなく。
どうしてもと日参して下さった方に、差し上げました。お金はもらえません。そのお客さんは、商品をたくさん買って下さいました。額を抱いて帰られました。
消しゴムで幾つか、知人にそれらしい判を作ってもらい、無地の袋に一枚ずつ捺して品物をお渡しすると、お客さん方は、とても喜んでくださいました。
いろいろな思い出があります。
夢二の何に惹かれたか。絵はもちろんでしたが。
夢二のうた、一首に、胸をつかまれていたのでした。
さだめなく鳥やゆくらむ青山の青のさみしさかぎりなければ
私の気持ちのなかの、青が好き、透明なものが好き、という部分に、もう長い間張り付いていて、離れない一首です。うたの師は、わかるけど感傷的に過ぎるなあ、と笑っておられた。
感傷的な、美しい、この一首が、とても好きなのです。
夢二。
わたしがかつて、十年ほどの間、営んだ小さな店の名を「ゆめじ」といいました。
漢字で書いた名前ですけれど。いまは「ゆめじ」と記させていただきます。
母の里から運び入れた階段箪笥(箱箪笥)を店の奥に据え、レジスターは置かないで旧い小箪笥をお金入れに使い、と、自分なりに使えるもので、人さまの仰る「大正浪漫」「れとろ」な店舗つくりができました。
その前から竹久夢二は好きでした。好き、というより、憧れていました。本もたくさん買いました。店の中に、夢二の絵の小額を幾つか置きました。額は、少しくらいガタガタしていても歳月を経たものを、探しては手に入れていました。グラビアや雑誌の切り抜きであっても、額がすてきですと、夢二の憂いを含んだ女性のうりざね顔が映えました。それを欲しいとおっしゃるお客さんが何人もおられましたが、それは売り物でなく。
どうしてもと日参して下さった方に、差し上げました。お金はもらえません。そのお客さんは、商品をたくさん買って下さいました。額を抱いて帰られました。
消しゴムで幾つか、知人にそれらしい判を作ってもらい、無地の袋に一枚ずつ捺して品物をお渡しすると、お客さん方は、とても喜んでくださいました。
いろいろな思い出があります。
夢二の何に惹かれたか。絵はもちろんでしたが。
夢二のうた、一首に、胸をつかまれていたのでした。
さだめなく鳥やゆくらむ青山の青のさみしさかぎりなければ
私の気持ちのなかの、青が好き、透明なものが好き、という部分に、もう長い間張り付いていて、離れない一首です。うたの師は、わかるけど感傷的に過ぎるなあ、と笑っておられた。
感傷的な、美しい、この一首が、とても好きなのです。
たあいないタオルの話
タオルが好きだ。
どんなタオル、と問われて、こんな、と、具体的にあげられはしないけれど。
書きやすいあたりから書くと、トイレの中には、ぽわぽわと柔らかいオリーブ色の無地のタオルと、同じく柔らかい淡い薔薇色のそれともう一枚、トイプードルみたいな濃い茶色の厚手の無地のものを、日替わりに掛けている。その日がどのタオルでも、見るたび嬉しいお気に入りのものを使っている。
風呂場のバスタオル掛けには、白地に青い鳥の模様の大判のそれを掛けている。実はこれは実用でなく、つまりは飾り。ドアを開けた時にぱっと目に付く位置に、絵画のようなデザインのそのバスタオルを、隅っこをぴしりとつまんで揃えて掛けていて、ふろ上がりには使わない・・・実際には、洗われて干されてを繰り返して、たたむ時には固く真四角にたたまれてくれるけれど・・真四角にはならず、一部がどよ~んと伸びてしまっている物もある・・濡れた肩に置くと瞬時に、水滴を引き受けてくれる、親しい友のようなバスタオルを使っている。
枕カバーはかけているけれど、その上をまた、ものすごく大きなタオルでくるんでいる。言うまでもなく、寝入るときにタオルを必要とする年齢ではない、が、頭を置くあたりが好きなタオルで覆われていると、安心なのだ。
他にも、まだ使っていない「大好きなタオル」がある。自分で買ったものもあるし、友人が、大切に集めていたタオルを、バタバタと引っ越しした私にと、送ってくれたものもある。その方が多い。タオルとひとくちに言っても奥の深いもので、一目で魅かれても手の出しにくいスゴい品もある。友人が送ってくれたタオルは、私の好きなものばかりだった。届けられた段ボール箱を、収納庫のある板張りの玄関先でさっそく開けて、出て来た美しいタオルたちを見て、私は、どんなに嬉しく、ときめいたことだったか。
台所では、ごく普通の、何かの挨拶で配られたり銀行でもらったりする、白地のタオルを使うことが多い。惜しげなく使えるのがいい。友人は、掃除にでも使ってと、そういったタオルをも潜ませてくれていた。すぐに台所で使わせてもらった。
で。お風呂の中で使うのは、私は、ぺらっぺらの、旅行に行って気軽な宿で入浴用に一人あて一枚、用意してくれているような、使い捨て扱いされてしまっているようなタオルが使いやすい。上等な、みっしり目のつまったタオルは使いにくい。それを、使用後、ぎゅううっと絞って部屋に干しておいて、持ち帰って、お風呂用にする。
ひとさまの家のことを書くのはマナー違反と思うが、私が、これはどうかなぁと感じたことを、書いてしまう。
ある方の家にお招きいただいて、最近近くなっているので、トイレをお借りした。トイレを使うたび、この頃は、なんだか感謝したいみたいな気分になる。その時も感謝して、手を洗って・・手には、自分のハンカチを使うのだが・・・中に掛けてあるタオルを見て、あ、と、思った。
こんなことを書く自分はイヤな女だな、と思うが、イヤな女であっても書きたい。
そのタオルは、知る人ぞ知る有名ブランドのタオルで、厚手で、そして、タオルの中央あたりが、くろづんでいた。
何度洗っても元の色には戻れないタオルなのだった。・・でも、ブランド(笑)。
・・その家の主は、トイレのタオルに似つかわしい女性だった。こう書いて、どんな女性を想像されるか、私にはわからない。
やはりタオルが好きで、大切に集めていたのであろう素敵なタオルたちを、どんな風にも使ってねと、どーんと送ってきてくれた人とは、まるで違うタイプのひとでは、ある。・・・・・性格悪いですね、わたし(笑)。
どんなタオル、と問われて、こんな、と、具体的にあげられはしないけれど。
書きやすいあたりから書くと、トイレの中には、ぽわぽわと柔らかいオリーブ色の無地のタオルと、同じく柔らかい淡い薔薇色のそれともう一枚、トイプードルみたいな濃い茶色の厚手の無地のものを、日替わりに掛けている。その日がどのタオルでも、見るたび嬉しいお気に入りのものを使っている。
風呂場のバスタオル掛けには、白地に青い鳥の模様の大判のそれを掛けている。実はこれは実用でなく、つまりは飾り。ドアを開けた時にぱっと目に付く位置に、絵画のようなデザインのそのバスタオルを、隅っこをぴしりとつまんで揃えて掛けていて、ふろ上がりには使わない・・・実際には、洗われて干されてを繰り返して、たたむ時には固く真四角にたたまれてくれるけれど・・真四角にはならず、一部がどよ~んと伸びてしまっている物もある・・濡れた肩に置くと瞬時に、水滴を引き受けてくれる、親しい友のようなバスタオルを使っている。
枕カバーはかけているけれど、その上をまた、ものすごく大きなタオルでくるんでいる。言うまでもなく、寝入るときにタオルを必要とする年齢ではない、が、頭を置くあたりが好きなタオルで覆われていると、安心なのだ。
他にも、まだ使っていない「大好きなタオル」がある。自分で買ったものもあるし、友人が、大切に集めていたタオルを、バタバタと引っ越しした私にと、送ってくれたものもある。その方が多い。タオルとひとくちに言っても奥の深いもので、一目で魅かれても手の出しにくいスゴい品もある。友人が送ってくれたタオルは、私の好きなものばかりだった。届けられた段ボール箱を、収納庫のある板張りの玄関先でさっそく開けて、出て来た美しいタオルたちを見て、私は、どんなに嬉しく、ときめいたことだったか。
台所では、ごく普通の、何かの挨拶で配られたり銀行でもらったりする、白地のタオルを使うことが多い。惜しげなく使えるのがいい。友人は、掃除にでも使ってと、そういったタオルをも潜ませてくれていた。すぐに台所で使わせてもらった。
で。お風呂の中で使うのは、私は、ぺらっぺらの、旅行に行って気軽な宿で入浴用に一人あて一枚、用意してくれているような、使い捨て扱いされてしまっているようなタオルが使いやすい。上等な、みっしり目のつまったタオルは使いにくい。それを、使用後、ぎゅううっと絞って部屋に干しておいて、持ち帰って、お風呂用にする。
ひとさまの家のことを書くのはマナー違反と思うが、私が、これはどうかなぁと感じたことを、書いてしまう。
ある方の家にお招きいただいて、最近近くなっているので、トイレをお借りした。トイレを使うたび、この頃は、なんだか感謝したいみたいな気分になる。その時も感謝して、手を洗って・・手には、自分のハンカチを使うのだが・・・中に掛けてあるタオルを見て、あ、と、思った。
こんなことを書く自分はイヤな女だな、と思うが、イヤな女であっても書きたい。
そのタオルは、知る人ぞ知る有名ブランドのタオルで、厚手で、そして、タオルの中央あたりが、くろづんでいた。
何度洗っても元の色には戻れないタオルなのだった。・・でも、ブランド(笑)。
・・その家の主は、トイレのタオルに似つかわしい女性だった。こう書いて、どんな女性を想像されるか、私にはわからない。
やはりタオルが好きで、大切に集めていたのであろう素敵なタオルたちを、どんな風にも使ってねと、どーんと送ってきてくれた人とは、まるで違うタイプのひとでは、ある。・・・・・性格悪いですね、わたし(笑)。
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プロフィール
Author:KUONの久遠
・・・・・・・・・・・・・・
四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。
海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる
明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。
・・・・・・・・・・
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海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる
明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。
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