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返事の中までKUONです。

  1. くおんの万葉集
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貴族の若い兄ちゃん

前回の記事の終わりでは、愛妾を若くして失った大伴家持の、悲傷のうたである長歌をご紹介しました。

短歌は五七五七七の調べで詠まれます。基本的に三十一文字。

長歌とは、文字通り長い歌。五音 七音の句を三回以上繰り返し(昨日のうたはそうなっています)、最後に七音の句を添える形式の、これも短歌と同じく、和歌です。

今日いまから記す「反歌」と呼ばれるものは、反対の反でなく、長歌の後に詠み添える短歌をいいます。

かえしうた。以下です。


  時はしもいつもあらむを心痛くい去(ゆ)く我妹(わぎも)か若き子置きて(467)

  出で行かす道知らませば予め妹を留めむ塞(せき)も置かましを(468)

  妹が見し屋戸に花咲く時は経ぬ吾(あ)が泣く涙いまだ干なくに(469)


どんな状況でか、死んで行った我妹=わぎも=家持のカノジョだって、心残りで辛かったんです、「若き子」置きて。

幼い子を残しての死だったのです。

あなたが出て行く・・行ってしまう道を、知っていたなら、あらかじめあなたをとどめ置く=行かせたりしないための=塞を、作っておいたものを。

あなたが眺めた(元気だったころにその花を植えた)屋戸=住まい=に、花が咲いた。時が経過した。私の涙は今も乾かないでいるのに。

・・・家持、かなしく詠んでいます。

もっと詠みました。以下です。

―悲緒(かなしみ)息(や)まずてまたよめる歌五首

  かくのみにありけるものを妹も吾(あれ)も千歳のごとく恃みたりけり(470)

  家離りいます我妹を留みかね山隠つれ心神(こころど)もなし(471)

  世間し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍(しぬ)ひかねつも(472)

  佐保山に棚引く霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし(473)

  昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子が奥津城と思(も)へば愛(は)しき佐保山(474)



数だけを言うなら、慣れていればうたはつくれます。家持もそうだったでしょう。

うたを詠む、気持ちを形にするって、ちょっと、デトックスみたいな効果もあると思う。

いきなり私事ですが。娘夫婦が、少し前、ドラゴン アッシュのライブに出かけ、喜んでよれよれになって帰宅しました。

古谷 一行の息子、と言う言い方は失礼かな、ケンジさんはもう長くの大スターさん、その方たちのステージを観に行って、一緒にうたうわ席のまま踊るわ、久しぶりの大興奮、明日仕事できるやろかと言いつつニタついている二人でした。二人ともがファン。

二十年くらいむかしに、初めてラップという音楽を聞いた時。

これ、和歌の長歌だよね、どんどん積み重ねて行く言葉、リズム、韻を踏みながら。

・・・と感じたのでした。

家持は沢山うたをつくれる人だった。

幼い子を置いて逝かねばならなかった自分の女を、愛しんで悲しんで詠んだ。

その子のその後は、全く知られていません。子を持った気分にはなれなかったのか。

愛妾だった女の奥津城・・墓は、佐保山につくったようです。

自宅に近い、いつでも詣りに行けるあたりだったでしょうか。


でも、家持は、けっこうほどなく、死んだ女の前に通っていた「坂上大嬢」との関わりを取り戻そうとうごき始めたのであり。

大嬢は、家持のカノジョのことを知らなかった訳もなく。

すぐにはハイハイと寄り添えなかったと思います。と、今夜は、このあたりまで。


貴族の若い兄ちゃん。何をするにも心脅えは無かったのかも。

うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒く偲ひつるかも(465)

そうはいっても、この一首はすばらしいと思います。世の無常を底の方で知っている、感じている。そんなあたりが。






  1. くおんの万葉集
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小松が下に立ち嘆くかも


君に恋ひいたもすべなみ 楢山の小松が下に立ち嘆くかも

  きみにこひ いたもすべなみ ならやまの こまつがしたに たちなげくかも

                                          539



昨日に続き、笠郎女のうた。

大伴家持の邸宅跡は、今では春になると桜並木がみごとに美しい佐保川あたり。平城宮跡の外側。長屋王の邸宅跡もこのあたりです。

長屋王の邸宅跡には「そごう」ができ、そのそごうはいけなくなってイトーヨーカドーが後に入り、そのヨーカドーも、もうすぐなくなるとか。

地図の読めないワタシが書くとどうしようもない(すみません)、そこからすこし離れて佐保姫伝説のある狭岡神社の参道に、上記のうたの歌碑が建っています。

・・・あなたが恋しくてどうしようもなくて、ならやまの、小松の下に、立って、わたしは嘆いています。

そういううたです。

楢山は奈良山であるとして・・奈良の、北の方の山、ですね。楢の木がうたにする時に目についたのかな。そして「小松の下」というのは、そういう名前の松や地名があるのでなく。木の下に立って、待つ。

「小松」と「待つ」とをかけてあって、とにかく待った、待っていたのよ、ということでしょう。

思い詰めて。期待して期待破れて、待つ。ただ、ただ、待っていたのか。

電話もスマホも無い時代、(おそらく)人目を忍ぶ、人目はばかる乞いであったから、誰かに伝言をたのむのも難しく。

それでも恋のさなかでもあって、男の方にも同じ程度の「気」がある時期や状況なら。

いついつどこで、と、約束をして、それを違えずに行けば会える、ともなるのですが。

女性の気持ちは逸っていても。この場合、相手はそうでないので。

郎女の方が、約束も何もしていなくて、でも会いたい一心で、ただ、待ち続けることだってあったのでしょう。

今日はきっとあの人は中へあがるはず、このあたりを通るはず、で、ここにいれば会えるはず。

そんな思いで待ったかも知れず。

対して男は、通りがかろうとして、そこに、一途な目をした女が立ち尽くしていれば。

うわあ嬉しい、たったと走ってぎゅううう、ハグ、とかなってくれればいいけれど。

うひゃ。いる。どんだけ待っているのだろう、約束していないし、この頃は、会うと、気持ちが離れたのかとかもっとこちらを見て、とかの押し問答ばかりで。コワイ顔するしすねるし膨れるしイヤミ言うし。。

正直、楽しくないんだよね~。

などの思いが駆け巡って、その場をそーっと離れて、違う道から。とか。

気が削がれたから、あっちのあのコのとこへ行っちゃお、とか。

そんな風な具合だったのかも知れません。男の身は、やはり、自由です。


笠郎女は、そんなに身分の高くない家の娘、からだを使ってキリキリと働いていた女性だったような。

家持は名家の息子で。少納言だったりして、いわゆるエリートでした。政治的には苦しい立場でもあった・・ごめんなさい、こっちの観点からは詳しくないのです、家持に関してはただ、ただ、和歌の血筋の良さの方から見てしまっています私。

二十歳は越えていたのでしょうか、互いに。

ふたり。

どういうことでか知り合って、付き合いが始まって、女性の方からの思いが勝って多くのうたが生まれて。

男の方はそんな、積極的でもなかった、としか考えられないのです、こういったことのバランスは、絶体と言えるくらい、片側に傾くものであって。

思ふにし死にするものにあらませば千たびぞ我は死に還らまし

   おもふにし しにするものに あらませば ちたびぞわれは しにかへらまし

                                       603


恋が苦しくて死んでしまうようなことがあるなら。恋で死ぬようなことがあるならば。

わたしは、千度でも死ぬでしょう、この叶わぬ恋の苦しさに。何度でも、千度でも。

・・・

家持の付き合った女性にはうたの才能のある女性も何人もいました、その中で最も才能のあったのは、この笠郎女、というのが定説になっています。家持自身がそれをわかっていて、彼女のうたを二十九首も万葉集に入れているのです、才能は認めていた・・・別れて後のことではありますが。

歌才に恵まれた笠郎女は、とうぜん、自分のうたの演出もしたと考えます。しようと思わなくてもしてしまう、それも、表現する人間の特質だと思っています。数年間のことだった家持とのことが、本当に、終わってしまって。

前回の「餓鬼の後に・・・」の一首で爆発した郎女。

恋しい男の気持ちは、どう激しく詠んでみても、郎女の方には来てくれなかった。つれなかった男は、つれない二首を、贈ってはくれました(今はそれを引きません)。で。

私感ですが。郎女の気持ちは案外、最後は、すっきりさっぱりではなかったか、と。

あ~あ、終わった、しんどかったぁ。恋なんぞすると疲れ果てるわ、消耗するわ、眠れなかったからお肌も荒れてしまった、あの男は通ってくれなかったし。あ~あ、淋しくない訳ではないけど。さびしいけど。胸、痛いけど。

もう。もうもう、どきどきハラハラ、朝も夜もあの人のことばかり、考えて暮らすことも無くなったんだわぁ。

思いは痛みになって残っても。やり切りました郎女さん。

新しい何かに、向かって行けたのではないか…など思うのは、すでに恋するに現役でない今のKUONだから、なのかもしれません(笑)。

・・・

すこし郎女から離れて、若い日の、みずみずしい若者・家持のうたを、一首。

   ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも

       ふりさけて みかづきみれば ひとめみし ひとのまよびき おもほゆるかも

                                     994


ふりあおいで空に光る三日月を見れば。

一目、あの時に見た。あの人のあの。

ほっそりと美しかった眉が思われます。美しいひとでした。

・・・おおどかな、清廉ないろけのある一首と思います。




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相思はぬ人を思ふは


相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後に額づくがごと

   あいおもはぬ ひとをおもふは おほでらの がきのしりへに ぬかづくがごと

                                608  笠郎女 (かさのいらつめ)

思ってもくれないひとを思うなんて、大寺の餓鬼像を後ろから拝むようなものだわ。

こういううたです。うたの前には「こんなにも私があなたを思っているのに」という思いがあり、ああそれなのに、思いを返してくれないあなたを思い続けるなんてアホらし、もう腹立った、それってつまり、どうでもいいような意味フメーなあんな、餓鬼の像を、しかも後ろから、きったないおシリの方から拝むみたいなものよ、きーっ。

こういう感じでしょうか。ブチ切れています、郎女(いらつめ)さん。


・・・今日は、但馬皇女、穂積皇子の後ですので、歳の離れた異母弟にツマの一人をさらわれてしまった(初めからそんなつもりもあったがあれこれあって単に取られちゃった感じになった)、但馬皇女の夫、穂積皇子の長兄であった「高市皇子」について書くのかなワタシ、という雰囲気だったのですが。

急遽変更。

万葉集の中でもファンが多く、共感する女性も多いこの一首、1300年も前の恨み節を取り上げることになりました。

郎女を怒らせた・・・あまりにも悲しみの大きかった恋が激怒に至ってしまった、この相手の男性は、大伴家持。

万葉集の編纂者、大歌人でもある、家持です。

家持には十数人のおんながいた。うたがのこっていたりうたに詠まれたりしただけでこの数(多分)。表に現れていない女性たちは、別の話になります。よね。

この郎女は、その中の一人です。一人で、一気に24首ものうたを取り上げてもらっている女流歌人でもあります。そんな例は実は、他にありません。

集全体では29首も取り上げられている、有数の万葉歌人なのです、彼女は。

ひとりのひとを、恋しい恋しいとひたすらに思い詰め、すぐれたうたに詠みあげていった若い女性。


なんで今回、いきなりこの「餓鬼のしりへに」について書いているのか。

成り行きです、言ってみれば。

私の住まいにほど近く、タクシーなら1000円でお釣りの来るあたりに、京都や橿原神宮方面へ出かける時に利用する小さな駅があります。

その小さな駅に、昨日か一昨日だったか、京都から帰って来た私は出迎えを頼んでおり、早めについた迎えの者は、駐車場に車を停めて、店の中に入って小物を買っていた(やたらリアルですが)。私は、待つ間そうだと思いついて、まさしく「そこ」にある、万葉歌人の歌碑を、久しぶりに眺めたのでした。

フツーにそこに存在していて、近所の人や通勤通学に駅を諒する人々は、見向きもしない。観光客のうちでも、興味のある少数の人以外は気づきもしない、笠郎女の歌碑。自然石にうたが彫られています。

相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後に額づくがごと

   あいおもはぬ ひとをおもふは おほでらの がきのしりへに ぬかづくがごと


以前に書いたように、当時は今のように漢字ひらがなを混ぜての表記でなく。独特の万葉文字でうたは書かれ、それが読み解かれて、現在読めるうたになっている。簡単に言うとそうです。ですから、この一首も、

「。。。の後にぬかづくがごと」

になっていたり

「・・・のしりへに ぬかづくごとし」

になっていたり、します。

奈良には歌碑が多い。ものすごく多いです。

この郎女の父である? とされる「笠金村」の歌碑も奈良公園に近い方にありますし。

今日は激しい怒りのうたに触れました。

彼女は、苦しい辛い恋のさいごに、叩きつけるようにこの一首を詠み、この地を離れた。恋しい男の傍から遠ざかった、と言われています。

明日は、この郎女の、せつない、心のふるえるようなうたについて。まったく違ううたの作者でもあった彼女について、書きたいと、いま、考えました。

眠くなりました。

されば今宵は。いざ、さらば。



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恋の奴のつかみかかりて

穂積皇子(ほづみのみこ)。

673年くらいの生まれとされる。天武天皇の皇子。5番目。

母親の名や出自などを書いていると、この時代のこと大変ややこしいので(書く時には書きます!)今は、前記事の但馬皇女との関わりだけを追って行きます。

穂積皇子は、二十代の頃に、天武の第一皇子である高市皇子(たけちのみこ)の妻である但馬皇女と恋に落ち・・・歴史の上では「密通」とされた・・・その同じころに、勅命によって、近江志賀寺に派遣されました。

勅命とは、天皇の命令。逆らうことはできません。

二人の仲は堰かれてしまいました。但馬皇女のその後はどうだったのか、708年に亡くなったことだけが知られています。三十代での死だったでしょうか。

穂積皇子の方は、順調に出世を重ねました。

万葉集中の女流歌人としていちばん沢山の長歌、短歌、旋頭歌を詠み=計84首、編纂者の大伴家持の叔母でもあって実力もあった、とてもユニークなうたも遺している「大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の、初めの結婚相手でもありました。

少女そのまま、13歳で嫁いで来た彼女を、穂積皇子は大切にしたのです。

何人もの子をなし(正妃が誰であったかは不明)、孫の広河女王も万葉集に歌を載せている、社会的には、元日朝賀に「一品」に叙せられる、そんな人生を、穂積は歩んだ。

この穂積が。但馬の死して後に、その年の暮れ、冬の日に(いま書いているのと季節が合わなくて辛いですが)、昔の恋人の墓のある方をうち眺めて詠んだうた。

「悲傷流涕(ひしょうりゅうてい)して作らす歌一首、とあります。

悲傷流涕。身悶えて悲しみ、涙を流して。うたを詠んだ。

降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに

  ふるゆきは あはになふりそ よなばりの ゐかひのおかの さむからまくに


雪が、しんしんと降って降り積もって、見ているに堪えがたかったのか。

思わず心情が溢れ出たのか。

そんなたくさん降らないでくれ、雪、たくさん降らないでやってくれ、積もらないでくれ、吉隠の岡の墓の下に眠るあの人が、寒いだろうから。寒くてたまらないだろうから。

このときの穂積は、どっしりとした中年。出世の道に影もささない実力者です。

はじめて但馬皇女とまみえた時には、若く、皇子といえども周囲の目を気にし、気遣って生きる若者だった。

年を経ていま、その頬の顎の髭は硬くなり、眉間にもきびしい縦じわがある。。

・・・但馬を、一人で死なせてしまった。

まだ柔らかかった自分の頬に、ふるふると指を伸ばして来て触れた、嬉しそうに眉をひらいて笑った、あの、但馬を。

供さえ連れず。ひたに自分に会うために、経験したことの無い朝川を渡るということをなした女だった。必死だった一途だった、いっしょけんめいに、まっすぐにがむしゃらに、つんのめるように自分に向かって来た女だった、眩しかった愛おしかった、あの時。自分だってそうだった、あの日のことは忘れない、そして忘れないまま死んだのであろう、あの。いとしい但馬。

穂積皇子はまた、

家にありし櫃に鑠さし蔵めてし恋の奴のつかみかかりて

  いえにありし ひつにかぎさし をさめてし こひのやっこの つかみかかりて


このようなうたも詠んでいます。

四十二歳で薨じた穂積皇子が、晩年、宴の席で酔うと口ずさんだうた。 必ず口ずさんだといわれます。

家にあった櫃。頑丈な櫃に、押し込めて鍵をかけて抑え込んだのに。

その恋の奴が、呼びもしないのに現れ出て来て。

つかみかかるのだ、私に、この穂積に、どうしようもない恋の、奴というやつが、さ。

・・・・・・他の説もありますが。

私は、穂積を苦しめた(のか?)この、恋の奴の本体は、但馬皇女と思いたい、思っています。






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朝川わたる

万葉集とは、7世紀後半から8世紀後半にわたっての長歌、短歌ほかをまとめられた、わが国最古の歌集です。天皇・貴族から農民、防人などのうた、およそ4500首。全20巻。大伴家持(おおとものやかもち)の編纂になるといわれています。

難しいことはボチボチ行くとして、今日はまず、恋のために我を忘れた、恋に突っ走った皇女のうたに触れてみます。


人言を繁み言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

  ひとごとを しげみこちたみ おのがよに いまだわたらぬ あさかわわたる     0116


但馬皇女(たじまのひめみこ)のうたです。

天武天皇の皇女の一人。彼女が恋したのは穂積皇子(ほづみのみこ)、この皇子も天武天皇の子です。母親は違います。当時は、母親が違えば問題はなかった。

但馬皇女は人妻でした。相手はかなり年上だったとされる高市皇子(たけちのみこ)。この皇子も天皇天武の息子です。

千数百年も昔の、天皇周辺のひとびと。

大方のおひめさんは、眠ったような生活の中で、大きく心を揺さぶられることも少ないのではなかったか。名前さえとりあえずの呼び方、女性はつまりは道具、あっちからこっちへ動かされたりとつぜん尼寺へ入ることになったり。

花を愛で月を愛で、の宴が、時に催されました。日をかけて手間をかけてわくわくと周囲は用意を整えて行く、着物に香を焚きしめる、総出で一夜を愉しむための手管を尽くし・・・たって、余韻はつまり、ほどなくして色あせる。

だからこそ、カチーンと何かがはじけた時の衝撃、余波は大きくとどめようのないものではなかったか。

何をすることも無い皇女の暮らしです。

髪を梳くのも食事を口に運ぶのも人任せ。用足しですら身の周囲で済ませてしまう暮らし。

楽器に触れたりうたなどを書きちらしたり・・・だって、それに関心が向いた性格でなければ、たださらうのみ。気持ちから打ち込むものも無ければ。

そんな中で、

何より「来る」ものは、

恋でしょう。

但馬皇女は恋に落ちました。恋の思いの熱さをしりました。

会いたい、会いたい、ただあのひとに会いたい。

思い立って車のキーひっつかんで、どこ行くのどうするのと背後からのママの声なども吹っ切って、夜の街を走る、飛ばす、あの人のところへ、あの人の窓へ。

灯りが見えたら心がくがくです、膝もガクガクですが、階段なんぞは駈けあがってしまう・・・なんてのはアナログの「恋」、相思相愛だったら今なら、ぜんぶ打ち合わせて、無駄なく効率よく合理的に、会えるのかな。

ひめみこの時代の恋・・・乞い、は、そうではありませなんだ。

会う事さえままならなかった。ひめみこは、住まいの外へ出ることさえ、めったに無かったのでした。

が。

思うだけは自由、心を放つだけは自在です。実際にはどんな「逢い」を紡ぎ得たのか、一度の会いへの思いを、引き伸ばして、つないで、いっしんに但馬皇女は恋をしたのでした。

ひめみこは万葉集に、四首のうたを残しています。


秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛かりとも

  あきのたの ほむきのよれる かたよりに きみによりなな こちたかりとも

                                                     0088


秋の田んぼに稲穂が風のまにまに傾くように。あなたに寄り添っていたい、どんなに人が噂しようとも。人の言葉が痛かろうとも。あなたのそばにいたい。

この「寄りなな」の、後の「な」は、寄り添っていたい気持ちを強調する「な」です。もとのうたは「万葉仮名」と呼ばれる、すべて漢字のような形で書かれており、漢字ばかりのそれを、後世読みやすい形にしてあるのです。

だから、同じ作者の同じうたでも、微妙に違ううたになっていることも多いです。

多いですが、前述の「な」のごとく。ただ一文字で、強い気持ちを感じさせることの可能なのが、この世界なんです・・・わたし演説していますね・・・。

「寄りたし」でも同じようなものですが・・・いや、違うのです。あくまで、君に寄りな「な」寄っていたいのよ、あなたに、愛しいあなたに。こうでないと。

この頃のひめみこは、二十歳代の若い女性だったと思われます。

まっすぐに、恋する男性の方に心を吸い込まれてしまいました。

とうぜん、ひそやかに囁き交わされるようになり、声は大きくなって、二人を離さんとばかりに、穂積皇子の方が、遠くへ遣られたりのこととなり。

そうなれば募るばかりの恋心。

残されて思いふけっているばかりなのはイヤです、追いかけたい、あなたに追いついて行きたい、そんな私のために、道の辺にそちこちに、目印をつけておいて欲しい、離されてしまっているのは、苦しい辛い、どうぞ道しるべを、と切々たる一首も、ひめみこは詠んでいます。

そして。

冒頭のうたに戻ります。

人言を繁み言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

  ひとごとを しげみこちたみ おのがよに いまだわたらぬ あさかわわたる     0116


私たちに向けられる人たちの言葉。いろんな人がいろんなことを言います。そんな言葉が。声が、痛くても辛いものでも、いいえそれだからこそ諦められない、あなたに会いたい、わたし決めました、会いに行きます待っていて下さい。

ひとりで。素のままの足で、朝の川を渡ります。会いたいから行きます。

・・・但馬の皇女の、

「私の生の中でしたことの無いこと、朝の川を渡って。越えて。あなたに会いに行きます。」

こういう思いのうたなのです。

もう一つの解釈として、会いに行って、その後、帰らなければならない身、急いで「朝川渡る」であった、という感じ方もあるようです。

帰りであれば、気持ちもからだの状態も、とうぜん、違うことになりますね。

どちらだったのでしょう。

川は水の流れている場所であり、水は浸かれば濡れるものであり、そこを「渡った」というのは、大人の関係を示しているという考え方もあります。

私は、走って行って恋しい人と夜を共にして、朝日のなか、堂々と晴れやかに臆さず顔を上げて川を渡る・・・この「川」は、本来ならば仲を堰く働きをするもの、の、譬なのかもしれませんが、もうどう言われてもいいわ、のひめみこだったと考えます。

ともあれ。天武天皇の娘として生まれ育った、藤原の鎌足の孫娘でもある皇女の、恋の話。

周囲の忠告など、恋する彼女にとっては、どんな言葉も「繁み言痛み」のものでしかなかった、とも知れます。ダンナさんの立場・・・はあ、まあ、それも、はあ。

但馬皇女の夫は、この当時、太政大臣の座にあった人なのでした。

相手である穂積皇子の気持ちなどに、今日はまったく触れていませんが、ひめみこが突っ込んで行っただけでなかったことが。

彼の方にも、辛いだけの恋の果てに隠遁させ、一人ぽっちで死なしめてしまった皇女のことを、つよく思っていたことを偲ばせるうたがあります。

それも私の好きな一首で、胸を締め付けられるような男のうた、次回に書かせていただくことにします。








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プロフィール

KUONの久遠

Author:KUONの久遠
     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・

プロフィール

KUONの久遠

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     ・・・・・・・・・・・・・・

四十年以上住み慣れた奈良の地を離れ、海の近くへ越してまいりました。

海の見ゆる高層の部屋に耳遠き
夫(つま)とふたりの暮らし始むる

明確に、残生を意識します。余分なあれこれはもう要りません。
シャネルの赤いルージュは変わらず。生意気なままの私でいたい、いようと願っております。

    ・・・・・・・・・・