今日も元気でいましょうね^^

返事の中までKUONです。

[私たちも疲れてしまったわ」





現・今上夫妻の唯一の合同歌集「ともしび」について、読後感など少し。

唯一、とわざわざ書くのは、今上の御製は、歌会始の儀や、国内外への訪問の折のおうたの他には出されていないし、また、およそ30年前のこの「ともしび」以外には、まとめられていない、ということと。

美智子さんの方には、解説などを添えて、そのおうたの魅力を書かないでいられない方々が何人もおられたりして、何冊もの歌集が世に出ている、という事実の、比較のような感じです。

長くうたっている歌手が新曲を出すと、今までのものもまとめてアルバムとして売り出すので、一枚のCDの、新曲のほかは全ていつも、同じ歌。そういう感じで、何冊もの歌集は存在します。

おうた自体はどれも、すばらしいものであります。

歌集のみならず美智子さんには、写真集やら「お言葉」集やらが、いっぱい出版されています。初期のそういった本の中に、

(婚約が定まって)「もう、オカチにも行けないわね」

「一人の男に深く愛されると女って強くなるものよ」


などの名言が散りばめられている。まだいろいろありますが、今ここでは思い出せません。コーヒー飲みながら読んでいて噴いてしまった、という表現が、よく使われますが、ああいった「ちょっと待ってよ」感に満ち満ちた、いま思えば「すごいこと言うてはるわ~」な語録。

少し方向の違う方へ独り歩きした感のある「美智子さん語録」もあるようですが、「一人の男に深く愛されると」云々、それはそうなのでしょうが、皇太子を「一人の男」と言い放っていた、当時のあの方に、今更ながら奇異な、とんでもない御令嬢だったもんだ、の感を否めないKUONです。

皇太子は「一人の男」呼ばわりの方でした。

まあ、それを認め、いっそ、はなしたてるがごとき「世紀のロマンス」だったってことか。

天まで思い上がった娘さんだったようです。一般的には「たしなめる」役割であろう「お母さま」は、この深窓の令嬢に対しては、機能しなかったようです。

天皇家を「あちら様」呼ばわりして。

天皇を(皇室を)敬うようには育てなかった。


と、言い放ったお母さまでいらした。


話が前へ進みません。…急がないのでかまわないのですが。

今日、テレビで偶然「8月8日の陛下のお言葉」について報じているシーンをみました。

陛下と皇后が映っていて、皇后は、陛下の前へズイと出て、陛下を傍に置いて、誰やら国民の方と、喋っていました。

この無作法が、違和感なく(あるのか?(笑))通っているのが、現在の皇室なのですね。

「お言葉」など、要りませんが。

私は。

腹が立って、あるいは、あまりものバカバカしさに、備えて、血圧は安定方向に調整しておきましょう。

本気にはしなくても浅墓な感じにムカついた

「美智子さまは旧友に私たちも疲れてしまったわと言っておられる」。

バカな話ですが(週刊誌ネタです)、あの夫婦はまさに、私たち、と、アルミ箔よりかる~く、夫人に呼ばれてしまう夫婦なのですね。

・・・・戻ります。


ぜひ書きたいと願っていたこと、忘れないうちに、書かせておいてもらいます。

昭和の天皇陛下は、厳密な意味では、皇后陛下のおうたを、一首しか詠んでおられません。

表へ出されているだけで1000首に近い御製をのこされた陛下にして、こうです。

そのおうた。

   わが庭のそぞろ歩きも楽しからず

   わざわひ多き今の世を思へば

                    昭和57年


共にお歳を重ねられ、おもわ穏やかに、うるわしい老ご夫妻とお見受けした、晩年の両陛下。

良子、良宮と、お慈しみになられた皇后さまを、お詠みの(と、されています。ご一緒での散策か、もはや叶わずなられての、胸に想われながらの「共に」でいらしたか)。

これが、ただ一首とされているようです。

今夜はここまでとさせていただきます。


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キサキの願いだった


豪華な歌集を一冊、机の上に置いて、何週間かたちました。

金文字で「ともしび」と示された、ハードカバー、堅牢な箱入りの歌集です。定価は3000円。

知人関係に寄贈されたり、図書館の蔵書に加えられたり、の本の一冊でしょう。

長く短歌を続けて来て、何かの機会に自費出版されたとか。

子どもたちがお金を出し合って、100冊あるいは200冊、印刷されて、いずれ黄泉への道ずれに、と、真摯に生きた著者が胸に抱きしめる一冊、だとか。

歌集というものが世に出回る経緯は、さまざまと思います。

個人歌集。一人の人のうたの中から選ばれて編まれた、歌集が、やはり多いようです。

同じ結社・・・短歌のグループ・・・の人びとが、数ページずつ分け合って、お金を出し合っての、合同歌集。

名のある歌人さんの歌集は、配られるよりは買われることが多いでしょう。


私の机の上にある歌集「ともしび」は、夫と妻の合同歌集です。

珍しい夫婦の歌集です。

なぜ珍しいか。

私の考えで言えば、たとえば実生活で仲のいい夫婦でも、同じ「うたの道」を共にあるく二人でも、作風、作品は、個々人のもの、相手に入り込まれたくない部分も確固としてあって、ということでないかと。


この歌集は、二度目に書きますが、夫と妻のうたが、本の前半と後半に分けられる形の、合同歌集。

退職金で、とか、初めての年金で、とかでなく(こういう方も多いようです)、子どもたちの贈り物でもなく、皇族さんがお使いになるお金、元は税金、によって、作られています。

昭和の時代の皇太子と、その妃が、編んだ、歌集です。あ、編集は、宮内庁東宮職、です。

企画は神社本庁。

集の終わりに「刊行のことば」があります。内容は


・皇太子同妃両殿下は、御成婚二十五周年を迎えた。

・この年は同時に、天皇皇后両陛下の御大婚六十年の佳年にもあたる。

・神々に仕える私どもは(後述します)皇室の重なる慶事をお喜び申し上げる。

・両殿下の御歌集を、お祝いの記念として刊行できないか。

・と、宮内庁東宮職に御相談、幸いにも聴き届けられた。

・宮内庁より、原稿が整ったとの連絡を受け、出版作業の準備を進めてきた。

・時あたかも天皇陛下御在位六十年の奉祝行事が盛り上がった時期であり、まことに時を得た出版となった、ことに、感激と喜びを感じており・・・


云々と、あります。

   昭和六十一年十二月、の、この「刊行のことば」は、

神社本庁統理  徳川宗敬  さま? 氏?  ・・(・なんとお呼びすればいいのか、失礼な書きようと思いますが、わかりません)が、お記しになられたようです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今日は、前書きだけのようになりましたが、何とも不思議でなりません。

和歌の家の話ならともかく。

皇室の話です。

結婚25周年の記念として、御歌の本を出そう。一番はじめのページには、昭和二十年の、終戦の年の、少年の日の(当時の)皇太子のうたが置かれています。

いちばん最後は、昭和六十一年の一首。

琉歌がはさまれて、

美智子さんのうたは、初めが、昭和35年の歌、皇族になった翌年から、最後はやはり、昭和六十一年。


この時点では、昭和天皇の全歌集などは、出版されていません。

歌の世界で生きているのでもない皇族が、なぜ、銀婚記念の歌集を出すか。

りっぱな御製をたくさんお遺しの、昭和帝を差し置いて。という感想も持ちます。

今上陛下は、昭和の天皇さまのようには、たくさんの御歌を読んではおられない。

不敬な言い方をすれば、この時点で歌集を持たれる、皇族としての必然性は、無かったと思われます。

いっぽしりぞいて、時代が時代なので、記録をたくさん残される・・・そういう考え方をするにしても。

天皇のうたならば、歴史的な意味、なんてものもあるでしょう。

が。

皇太子の妻である美智子さんが、歌集を出す理由は、ほぼ、かんぜんに、無い気がします。


徳川統理さまの「刊行のことば」も、不思議なもので。

昭和天皇の御在位六十年。

何より、

昭和の両陛下の御大婚六十年。

その記念に、なんで。息子さん(と、うた自慢のその夫人)の、歌集を、出そうとか、なるか。

とても不思議。

この当時、昭和の天皇陛下は八十有余歳、お歳を召されて、お体もお弱りであらせられました。

病床に臥せってしまわれた前年の、昭和六十二年には、


(皇太子に国事行為の臨時代行をゆだねられる)

 秋なかば国のつとめを東宮に ゆづりてからだやすめけるかな
 
 思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果さむつとめありしを

昭和の陛下のお気持ちの、胸にしみて痛いような御製です。


いたずらな憶測は避けることとしますが。

今日の結論。

この「ともしび」という両殿下の合同歌集は、美智子さんが、出したかった一冊だった。一人では難しかった(当時は)ので、夫君を巻き込んで、思いを果たした。

そういうことだったのではないかな。

断言は、ここでは、しませんが(笑)。

内容に、ギョギョッとなる要素の含まれた一冊です。

数日で、この歌集については話し終えたいと考えています。

退屈かもしれませんが、お付き合いいただけたら、と、思います。



昭和天皇の御製 



間があいてしまいましたが、昭和天皇さまの御製を、御崩御までを、紹介させていただきます。

命終に近い苦しいご闘病のなかにも、次なる歌会始の儀のための御製を、用意しておられました。

人びとの幸と、国の平らぎと、世界の平和を祈っておられた、

天皇陛下でいらしたのだ、と、改めて、思いました。



昭和天皇御製

 
                      参考:桜楓社発行「おほみうた」
                         創樹社発行「昭和天皇の和歌」
 
                               *は歌会始御製

 
 昭和三十七年
 
 「土」
*武蔵野の草のさまざまわが庭の 土やはらげておほしたてきつ
 
 「日本遺族会創立十五周年」
 年あまたへにけるけふものこされし うから思へばむねせまりくる
 
 「傷痍軍人のうへを思ひて」
 年あまたへにけるけふも国のため 手きずおひたるますらをを思ふ
 
 「遺族のうへを思ひて」
 国のためたふれし人の魂タマをしも つねなぐさめよあかるく生きて
 
 (福井県植樹祭)
 遠山に霞にくもる女形谷ヲナガダニ諸人とともに松の苗植う
 
 「長良川の鵜飼」
 篝火をたきつつくだる舟ぞひに 鵜は川波にたくみにくぐる
 
 「前同」
 長良川鵜飼の夜を川千鳥 河鹿の声の近くきこゆる
 
 (和歌山県巡行)
 雨にけぶる神島を見て紀伊キの国の 生みし南方熊楠をおもふ
 
 「日光小田代ケ原 二首」
 いく代へしから松林なほき幹の ひまにまじりて白樺の立つ
 
 「前同」
 から松の森のこずゑをぬきいでて 晴れたる空に男体そびゆ
 
 「桃山御陵 三首」
 陵ミササギも五十の年をへたるなり 祖父オホヂのみこころの忘れかねつも
 
 「前同」
 五十をばへにける年にまのあたり 国のさま見ていにしへおもふ
 
 「前同」
 桃山に参りしあさけつくづくと その御代を思ひむねせまりくる
 
 (新潟県沖地震)
 地震(ナヰ)にゆられ火に焼かれても越コシの民 よく堪へてここに立直りたり
 
          
 昭和三十八年
 
 「草原」
*那須の山そびえてみゆる草原に いろとりどりの野の花はさく
 
 「秋芳洞 二首」
 若き日にわが名づけたる洞穴に ふたたびは来てくだりゆかむとす
 
 「前同」
 洞穴もあかるくなれりここに住む 生物いかになりゆくらむか
 
 「笠山 三首のうち二首」
 そのむかしアダムスの来て貝とりし 児島をのぞむ沖べはるかに
 
 「前同」
 波たたぬ日本海にうかびたる 数の島影は見れどあかぬかも
 
 「二大事故(国鉄横須賀線・三井三池炭坑)」
 大いなる禍マガのしらせにかかること ふたたびなかれとただ祈るなり
 
 昭和三十九年
 
 「紙」
*世に出イダすと那須の草木の書フミ編みて 紙のたふときことも知りにき
 
 「前同」
 わが庭にかうぞの木もて毛の国の 紙のたくみは紙にすきたり
 
 「佐渡の宿」
 ほととぎすゆふべききつつこの島に いにしへ思へば胸せまりくる
 
 「おけさ丸」
 風つよき甲板にして佐渡島に わかれをしみて立ちつくしたり
 
 「昭憲皇太后をしのぶ 二首」
 わが祖母オホバは煙管手にしてうかららの 遊をやさしくみそなはしたり
 
 「前同」
 おとうとら友らつどひておほまへに 芝居したりき沼津の宮に
 
 「オリンピック東京大会」
 この度のオリンピックにわれはただ ことなきをしも祈らむとする
 
 昭和四十年
 
 「鳥」
*国のつとめはたさむとゆく道のした 堀にここだも鴨は群れたり
 
 「前同」
 草ふかき那須の原より飛びいでし せつかの声を雲間にぞきく
 
 「新幹線 二首のうち一首」
 避け得ずに運転台にあたりたる 雀のあとのまどにのこれり
 
 「鳥取県植樹祭」
 しづかなる日本海をながめつつ 大山のみねに松うゑにけり」
 
 「三朝ミササの宿 二首」
 戦タタカヒの果ててひまなきそのかみの 旅をししのぶこの室を見て
 
 「前同」
 夜の間に河鹿のこゑのひびくなり きよきながれの三朝の川に
 
 「鳥取砂丘」
 砂の丘四里もつづけりかなたなる 松のはやしに雲雀のこゑす
 
 「宍道湖 三首のうち二首」
 夕風の吹きすさむなべに白波の たつみづうみをふりさけてみつ
 
 「前同」
 湖のますあみを見ておもふかな 白魚むれてきたりしころを
 
 「岐阜国民体育大会」
 晴るる日のつづく美濃路に若人は 力のかぎりきそひけるかな
 
 飼ひなれしきんくろはじろほしはじろ 池にあそべりゆふぐれまでも
 
 「厚子病気全快」
 背のねがひ民のいのりのあつまりて うれしききみはみ病なほりぬ
 
 昭和四十一年
 
 「声」
*日日のこのわがゆく道を正さむと かくれたる人の声をもとむる
 
 「鳩 二首」
 静かなる世になれかしといのるかな 宮居の鳩のなくあさぼらけ
 
 「前同」
 国民のさちあれかしといのる朝 宮居の屋根に鳩はとまれり
 
 昭和四十二年
 
 「魚」
*わが船にとびあがりこし飛魚を さきはひとしき海を航ユきつつ
 
 「孝明天皇陵参拝 二首」
 百年のむかししのびてみささぎを をろがみをれば春雨のふる
 
 「前同」
 春ふけて雨のそぼふる池みづに かじかなくなりここ泉湧寺
 
 「牡丹」
 春ふかみゆふべの庭に牡丹花は くれなゐふかくさきいでにけり
 
 「埼玉国民体育大会 秩父宮記念館」
 おとうとをしのぶゆかりのやかたにて 秋ふかき日に柔道を見る
 
 「武甲山登山口」
 山裾の田中の道のきぶねぎく ゆふくれなゐににほへるを見つ
 
 「吉田茂追憶」
 君のいさをけふも思ふかなこの秋は さびしくなりぬ大磯の里
 
 「前同」
 外国の人とむつみし君はなし 思へばかなしこのをりふしに
 
 昭和四十三年
 
 「川」
*岸ちかく烏城ウジョウそびえて旭川 ながれゆたかに春たけむとす
 
 「宮殿竣功」
 新しく宮居成りたり人びとの よろこぶ声のとよもしきこゆ
 
 「北海道開道百年 層雲峡」
 そびえたつ大雪山のたにかげに 雪はのこれり秋立ついまも
 
 「稚内公園」
 樺太に命をすてしたをやめの こころを思モへばむねせまりくる
 
 昭和四十四年
 
 「星」
*なりひびく雷雨のやみて彗星の かがやきたりき春の夜空に
 
 「新宮殿初参賀」
 あらたまの年をむかへて人びとの こゑにぎはしき新宮の庭
 
 (靖国神社参拝)
 国のためいのちささげし人々を まつれる宮はももとせへたり
 
 「縄ケ池」
 水きよき池の辺ホトリにわがゆめの かなひたるかもみづばせを咲く
 
 「五島列島福江島」
 久しくも五島を視むと思ひゐしが つひにけふわたる波光テる灘を
 
 昭和四十五年
 
 「花」
*白笹山のすその沼原黄の色に につこうきすげむれ咲きにほふ
 
 「明治神宮鎮座五十年祭に 明治天皇をしのぶ」
 おほぢのきみのあつき病の枕べに 母とはべりしおもひでかなし
 
 「七十歳になりて 四首」
 七十ナナソヂの祝ひをうけてかへりみれば ただおもはゆく思ほゆるのみ
 
 「前同」
 ななそぢの迎へたりけるこの朝も 祈るはただに国のたひらぎ
 
 「前同」
 よろこびもかなしみも民と共にして 年はすぎゆきいまはななそぢ
 
 「前同」
 ななそぢになりしけふなほ忘れえぬ いそとせ前のとつ国のたび
 
 「福島県植樹祭 磐梯」
 松苗を天鏡台にうゑをへて いなはしろ湖をなつかしみ見つ
 
 「岩手県の旅・国民体育大会」
 人びとは秋のもなかにきそふなり 北上川のながるるあがた
 
 「万国博覧会」
 きのふよりふりいでし雪はやはれて 万国博覧会の時はいたりぬ
 
 「折にふれて」
 筑紫の旅志布志の沖にみいでつる カゴメウミヒドラを忘れかねつも

 
 昭和四十六年
 
 「家」
*はてもなき砺波トナミのひろ野杉むらに とりかこまるる家いへの見ゆ
 
 「欧州の旅(伊勢神宮参拝)」
 外国トツクニの旅やすらけくあらしめと けふは来ていのる五十鈴の宮に
 
 「前同(前同所感)」
 戦をとどめえざりしくちをしさ ななそぢになる今もなほおもふ
 
 「前同」
 戦果ててみそとせ近きになほうらむ 人あるをわれはおもひかなしむ
 
 「前同」
 さはあれど多くの人はあたたかく むかへくれしをうれしと思ふ
 
 「前同」
 戦にいたでをうけし諸人の うらむをおもひ深くつつしむ
 
 「前同 ワーテルローのパノラマを見て」
 戦の烈しきさまをしのびつつ パノラマみれば胸せまりくる
 
 「前同」
 時しもあれ王室の方の示されし あつきなさけをうれしとぞ思ふ
 
 「前同(光化学スモッグのこと)」
 秋の日に黒き霧なきはうらやまし ロンドンの空はすみわたりたる
 
 「前同」
 戦ひて共にいたつきし人々は あつくもわれらをむかへくれける
 
 「前同 デンマークの陶器工場にて」
 いそとせまへの外国の旅にもとめたる 陶器スエモノ思ひつつそのたくみ場に立つ
 
 「前同」
 この園のボールニシキヘビおとなしく きさきの宮の手の上にあり
 
 「前同」
 緑なる角もつカメレオンおもしろし わが手の中におとなしくゐて
 
 「前同(ウィンザー公と再会)」
 若き日に会ひしはすでにいそとせまへ けふなつかしくも君とかたりぬ
 
 「前同 フランス ホテル・クリヨンよりコンコルドの広場を眺む」
 この広場ながめつつ思ふ遠き世の わすれかねつる悲しきことを
 
 「前同」
 アラスカの空に聳えて白じろと マッキンレーの山は雪のかがやく
 
 「前同」
 外国の空の長旅ことなきは たづさはりし人の力とぞ思ふ
 
 昭和四十七年
 
 「山」
*ヨーロッパの空はろばろととびにけり アルプスの峰は雲の上に見て
 
 「伊豆須崎にて」
 谷かげの林の春は淡くして 風藤葛フウトウカヅラの実のあかあかと見ゆ
 
 「奄美大島マングローブの自生地にて」
 潮のさす浜にしげたるメヒルギと オヒルギを見つ暖国に来て
 
 昭和四十八年
 
 「子ども」
*氷る広場すべる子どもらのとばしたる 風船はゆくそらのはるかに
 
 「式年遷宮」
 宮移りの神にささぐる御宝の わざのたくみさみておどろけり
 
 「前同」
 秋さりてそのふの夜のしづけきに 伊勢の大神をはるかにをろがむ
 
 「上野動物園にて」
 ロンドンの旅おもひつつ大パンダ 上野の園にけふ見つるかな
 
 日本猿の親は子をつれゆくりなくも 森のこかげにあらはれたりけり
 
 「東久迩信彦の子供ロンドンに生る」
 やすらけく日向路さして立ちにけり 曾孫のあれしよろこびを胸に
 
 「須崎の冬」
 風寒く師走の月はさえわたり 海を照らしてひかりかがやく
 
 昭和四十九年
 
 「朝」
*岡こえて利島トシマかすかにみゆるかな 波風もなき朝のうなばら
 
 「須崎早春」
 緑こきしだ類をみれば楽しけど 世をしおもへばうれひふかしも
 
 「那須の町営牧場」
 あまたの牛のびのびと遊ぶ牧原に はたらく人のいたつき思ふ
 
 「迎賓館」
 たちなほれるこの建物に外つ国の まれびとを迎へむ時はきにけり
 
 「米国フォード大統領の初の訪問」
 大統領は冬晴のあしたに立ちましぬ むつみかはせしいく日ニチを経て
 
 「八幡平ハイツにて」
 夕空にたけだけしくもそびえたつ 岩手山には雪なほのこる
 
 「国民休暇村水郷にて」
 おそ秋の霞ヶ浦の岸の辺に 枯れ枯れにのこる大きはちす葉
 
 「十一月八日 内宮にまゐりて」
 冬ながら朝暖かししづかなる 五十鈴の宮にまうで来つれば

 昭和五十年
 
 「祭り」
*我が庭の宮居に祭る神神に 世の平らぎをいのる朝朝
 
 「北米合衆国の旅行 三首」
 いそぢあまりたちしちぎりをこの秋の アメリカの旅にはたしけるかな
 
 「前同」
 ながき年心にとどめしことなれば 旅の喜びこの上もなし
 
 「前同」
 こともなくアメリカの旅を終へしこと もろもろのひとの力ぞと思ふ
 
 「ワシントン私邸にて」
 在りし日のきみの遺品を見つつ思ふ をさなき頃に学びしことなど
 
 「アーリントン墓地にて」
 この国の戦死将兵をかなしみて 花環ささげて篤くいのりぬ
 
 「リンカーン記念堂にて」
 戦の最中モナカも居間にほまれの高き 君が像をかざりゐたりき
 
 「前同」
 わが国にてしりしなつかしきシーボルト ここに来たりて再びあひぬ
 
 「前同(佐分利貞夫外交官)」
 君が像スガタをわれにおくりし佐分利貞夫の 自らいのちを絶ちし思ほゆ
 
 「バルツ農場にて」
 畑つもの大豆のたぐひ我が国に わたり来む日も遠からなくに
 
 「サンディエゴ動物園にて」
 オカピーを現ウツつにみたるけふの日を われのひと世のよろこびとせむ
 
 「前同」
 豪州よりユーカリの木をうつしうゑて 飼いならしたりこのコアラベアは
 
 「捕鯨反対のデモ」
 時々は捕鯨反対をわれに示す 静かなるデモにあひにけるかな
 
 「多くの日系人にあひて」
 アメリカのためにはたらく人々の すがたをみつつたのもしと思ふ
 
 「前同」
 幸得たる人にはあれどそのかみの いたつきを思へばむねせまりくる
 
 「米国の旅行を無事に終へて帰国せし報告のため伊勢神宮に参拝して」
 たからかに鶏(奚+隹)トリのなく声ききにつつ 豊受の宮を今日しをろがむ
 
 「三重国民体育大会」
 秋深き三重の県アガタの人びとは さはやかにしもあひきそひけり
 
 「朝熊アサマ山の眺望」
 をちかたは朝霧こめて秋ふかき 野山のはてに鳥羽の海みゆ
 
 「湖畔のホテルにて」
 比良の山比叡の峯の見えてゐて 琵琶のみづうみ暮れゆかむとす
 
 「ハイレ・セラシエ エチオピア皇帝を悼む」
 永き年親しみまつりし皇帝の 悲しきさたをききにけるかな
 
 昭和五十一年
 
 「坂」
*ほのぐらき林の中の坂の道 のぼりつくせばひろきダム見ゆ
 
 「在位五十年」
 喜びも悲しみも皆国民と ともに過スグしきぬこの五十年
 
 「前同 東宮御所の祝」
 鮮やかなるハタタテハゼ見つつうかららと かたるもたのししはすにつどひて
 
 夕餉をへ辞書をひきつつ子らとともに しらべものすればたのしくもあるか
 
 「国際電信電話株式会社 茨城衛星通信所 二首のうち一首」
 このゆふべ南伊豆にて大雨の ふるとしききてうれひはふかし
 
 「佐賀の宿にて」
 朝晴の楠の木の間をうちつれて 二羽のかささぎとびすぎにけり
 
 昭和五十二年
 
 「海」
*はるばると利島トシマのみゆる海原の 朱アケにかがやく日ののぼりきて
 
 「須崎の立春」
 春たてど一しほ寒しこの庭の やぶこうじの葉も枯れにけるかな
 
 「常陸宮の新邸」
 新しき宮のやしきをおとづれて 二人のよろこびききてうれしも
 
 「高野山にて」
 史フミに見るおくつきどころををろがみつつ 杉大樹オホキ並む山のぼりゆく
 
 「折にふれて」
 初秋の空すみわたり雲の峯 ひざかりにそびゆ那須岳の辺ヘに
 
 弘前の秋はゆたけしりんごの実 小山田の園をあかくいろどる

 
 昭和五十三年
 
 「母」
*母宮のひろひたまへるまてばしひ 焼きていただけり秋のみそのに
 
 春はやく南風ハエふきたてて鳴神の とどろく夜なり雨ふりしきる
 
 「長野県の旅・繊維工業試験場にて」
 コンピューター入れて布地を織りなせる すすみたるわざに心ひかるる
 
 「中央線の車中にて」
 山やまの峯のたえまにはるけくも 富士は見えたり秋晴れの空
 
 「戸隠にて」
 秋ふけて緑すくなき森の中 ゆもとまゆみはあかくみのれり
 
 「高知県植樹祭」
 甫喜ケ峯みどり茂りてわざわひを ふせぐ守りになれとぞ思ふ
 
 昭和五十四年
 
 「丘」
*都井岬の丘のかたへに蘇鉄見ゆ ここは自生地の北限にして
 
 「明治村にて」
 人力車瓦斯燈などをここに見て なつかしみ思ふ明治の御代を
 
 「加江田渓谷にて」
 蘚むせる岩の谷間におひしげる あまたのしだは見つつたのしも
 
 「正倉院」
 遠つおやのいつき給へるかずかずの 正倉院のたからを見たり
 
 「甘橿丘にて」
 丘にたち歌をききつつ遠つおやの しろしめしたる世をししのびぬ
 
 「法隆寺」
 過ぎし日に炎をうけし法隆寺 たちなほれるをけふはきて見ぬ
 
 昭和五十五年
 
 「桜」
*紅クレナイのしだれざくらの大池に かげをうつして春ゆたかなり
 
 「成人式」
 初春におとなとなれる浩宮の たちまさりゆくおひたちいのる
 
 「須崎の春」
 朝風に白波たてりしかすがに 霞の中の伊豆の大島
 
 「明治神宮鎮座六十年にあたり明治天皇を偲びまつりて」
 外つ国の人もたたふるおほみうた いまさらにおもふむそぢのまつりに
 
 「伊勢神宮に参拝して」
 五月晴内外の宮にいのりけり 人びとのさちと世のたひらぎを
 
 「前同 賢島宝生の鼻」
 花の咲くそよごうばめがし生ひ茂り 浜辺の岡はこきみどりなり
 
 「栃木国民体育大会」
 とちの木の生ふる野山に若人は あがたのほまれをになひてきそふ
 
 「上二子山にて」
 岩かげにおほやましもつけ咲きにほふ ところどころのももいろの花
 
 「箒川のほとり滝岡にて」
 小雨ふる那須野が原を流れゆく 小川にすめるみやこたなごは
 
 昭和五十六年
 
 「音」
*伊豆の海のどかなりけり貝をとる 海人の磯笛の音のきこえて
 
 「春一番」
 南風ハエつよく雨もはげしき春のあらし ことしはおくれてやうやくきにけり
 
 須崎より帰りきにけるわが庭に はなあやめ咲けり梅雨寒のけふ
 
 「桃華楽堂にて沖縄の民謡と舞踊を見る」
 沖縄の昔の手ぶり子供らは しらべにあはせたくみにをどる
 
 「神戸ポートアイランド」
 めづらかにコンピューターにて動きゆく 電車に乗りぬここちよきかな
 
 伊香保山森の岩間に茂りたる しらねわらびのみどり目にしむ
 
 「大佛殿」
 いくたびか禍マガをうけたる大佛も たちなほりたり皆のさちとなれ
 
 「那須にて」
 野分の風ふきあれくるひ高原の 谷間のみちはとざされにけり
 
 「警視庁新館を見て」
 新しき館を見つつ警察の 世をまもるためのいたつきを思ふ
 
 「出光佐三逝く」
 国のためひとよつらぬき尽くしたる きみまた去りぬさびしと思ふ

 昭和五十七年
 
 「橋」
*ふじのみね雲間に見えて富士川の 橋わたる今の時の間惜しも
 
 さんしゅゆの花を見ながら公魚ワカサギと 菜の花漬を昼にたうべぬ
 
 わが庭のひとつばたごを見つつ思ふ 海のかなたの対馬の春を
 
 わが庭のそぞろありきも楽しからず わざはひ多き今の世を思へば
 
 八月ハヅキなる嵐はやみて夏の夜の 空に望月のかがやきにけり
 
 「日御碕にて」
 秋の果の碕ミサキの浜のみやしろに をろがみ祈る世のたひらぎを
 
 「行徳野鳥観察舎にて」
 秋ふくる行徳の海をみわたせば すずがもはむれて渚にいこふ
 
 「八丈島にて」
 暖かき八丈島の道ゆけば 西山そびゆふじの姿して
 
 住む人の幸いのりつつ三宅島の ゆたけき自然に見入りけるかな
 
 昭和五十八年
 
 「島」
*凪ぎわたる朝明アサケの海のかなたには ほのぼのかすむ伊豆の大島
 
 「気多神社の森」
 斧入らぬみやしろの森めづらかに からたちばなの生ふるを見たり
 
 「埼玉県の旅行 行田の足袋を思ふ」
 足袋はきて葉山の磯を調べたる むかしおもへばなつかしくして
 
 「那須にて」
 夏山のゆふくるる庭に白浜の きすげの花は涼しげにさく
 
 「同じく(那須にて)」
 秋くれどあつさはきびし生業ナリハヒの 人のよろこびきけばうれしも
 
 「同じく(那須にて)」
 ボーイスカウトのキャンプに加はりしときの話 浩宮よりききしことあり
 
 「上州の秋 二首のうち一首」
 そびえたる三つの遠山みえにけり かみつけの秋の野は晴れわたる
 
 「須崎の冬」
 冬空の月の光は冴えわたり あまねくてれり伊豆の海原
 
 「木俣修逝く」
 義宮に歌合せなどを教へくれし 君をおもへばかなしみつきず
 
 昭和五十九年
 
 「緑」
*潮ひきし須崎の浜の岩の面オモ みどりにしげるうすばあをのり
 
 「赤坂東宮御所にゆきて」
 桜の花さきさかる庭に東宮らと そぞろにゆけばたのしかりけり
 
 「ロサンゼルスオリンピック」
 外国トツクニびととををしくきそふ若人の 心はうれし勝ちにこだはらず
 
 「那須にて」
 石塀を走り渡れるにほんりすの すがたはいとし夏たけし朝
 
 「鴨川シーワールドにて」
 いと聡きばんどういるかとさかまたの ともにをどるはおもしろきかな
 
 「天鏡閣」
 むそぢ前に泊りし館の思出も ほとほときえぬ秋の日さびし
 
 昭和六十年
 
 「旅」
*遠つおやのしろしめしたる大和路の 歴史をしのびけふも旅ゆく
 
 はるとらのをま白き花の穂にいでて おもしろきかな筑波山の道
 
 「皇居のベニセイヨウサンザシ」
 夏庭に紅(クレナヰ)の花さきたるを イギリスの浩宮も見たるなるべし
 
 「熊本県にて」
 なつかしき雲仙岳と天草の 島はるかなり朝晴れに見つ
 
 「米子市にて」
 あまたなるいか釣り舟の漁火は 夜のうなばらにかがやきて見ゆ
 
 「後水尾天皇を偲びまつりて」
 建物も庭のもみぢもうつくしく 池にかげうつす修学院離宮
 
 「リニアモーターカーに乗りて」
 リニアモーターカーに初めて乗りぬ やや浮きてはやさわからねどここちよきなり

 
 昭和六十一年
 
 「水」
*須崎なる岡をながるる桜川の 水清くして海に入るなり
 
 沼原にからくも咲けるやなぎらんの 紅の花をはじめて見たり
 
 「両国の国技館」
 ふたたび来て見たるやかたのこの角力 さかんなるさまをよろこびにけり
 
 「山梨国民体育大会」
 晴れわたる秋の広場に人びとの よろこびみつる甲斐路国体
 
 (山梨県)
 斧入らぬ青木ヶ原のこの樹海 のちの世までもつたへらるべし
 
 (高松宮の病)
 うれはしき病となりし弟を おもひつつ秘めて那須に来にけり
 
 (前同)
 成宮に声たててなくほととぎす あはれにきこえ弟をおもふ
 
 「後藤光蔵元侍従武官の死去」
 知恵ひろくわきまへ深き軍人の まれなる君のきえしををしむ
 
 昭和六十二年
 
 「木」
*わが国のたちなほり来し年どしに あけぼのすぎの木はのびにけり
 
 「八月十五日」
 この年のこの日にもまた靖国の みやしろのことにうれひは深し
 
 「しるしの木にたぐへて兄弟のうへをよめる」
 わが庭の竹の林にみどり濃き 杉は生ふれど松梅はなき
 
 「高速船シーガルに乗りて」
 ひさしぶりかつをどりみて静かなる おほうなばらの船旅うれし
 
 (皇太子に国事行為の臨時代行をゆだねられる)
 秋なかば国のつとめを東宮に ゆづりてからだやすめけるかな
 
 思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果さむつとめありしを
 
 国民に外つ国人も加はりて 見舞を寄せてくれたるうれし
 
 「酒井恒博士逝く」
 船にのりて相模の海にともにいでし 君去りゆきぬゆふべはさびし
 
 「木原均博士逝く」
 久くも小麦のことにいそしみし 君のきえしはかなしくもあるか
 
 昭和六十三年
 
 「車」
*国鉄の車にのりておほちちの 明治のみ世をおもひみにけり
 
 「伊豆須崎の春 三月」
 みわたせば春の夜の海うつくしく いかつり舟のひかりかがやく
 
 「道潅堀 七月」
 夏たけて堀のはちすの花みつつ ほとけのをしへおもふ朝かな
 
 「全国戦没者追悼式」
 やすらけき世を祈りしもいまだならず くやしくもあるかきざしみゆれど
 
 「那須」
 あぶらぜみのこゑきかざるもえぞぜみと あかえぞぜみなく那須の山すずし
 
 「那須の秋の庭 九月」
 あかげらの叩く音するあさまだき 音たえてさびしうつりしならむ
 
 (治療にあたった医師への歌)
 くすしらの進みしわざにわれの身は おちつきにけりいたつきを思ふ
 
 昭和六十四年
 
 「晴」(歌会始のためにご準備された御製)
 空晴れてふりさけみれば那須岳は さやけくそびゆ高原のうへ


 
 昭和六十一年
 
 「水」
*須崎なる岡をながるる桜川の 水清くして海に入るなり
 
 沼原にからくも咲けるやなぎらんの 紅の花をはじめて見たり
 
 「両国の国技館」
 ふたたび来て見たるやかたのこの角力 さかんなるさまをよろこびにけり
 
 「山梨国民体育大会」
 晴れわたる秋の広場に人びとの よろこびみつる甲斐路国体
 
 (山梨県)
 斧入らぬ青木ヶ原のこの樹海 のちの世までもつたへらるべし
 
 (高松宮の病)
 うれはしき病となりし弟を おもひつつ秘めて那須に来にけり
 
 (前同)
 成宮に声たててなくほととぎす あはれにきこえ弟をおもふ
 
 「後藤光蔵元侍従武官の死去」
 知恵ひろくわきまへ深き軍人の まれなる君のきえしををしむ
 
 昭和六十二年
 
 「木」
*わが国のたちなほり来し年どしに あけぼのすぎの木はのびにけり
 
 「八月十五日」
 この年のこの日にもまた靖国の みやしろのことにうれひは深し
 
 「しるしの木にたぐへて兄弟のうへをよめる」
 わが庭の竹の林にみどり濃き 杉は生ふれど松梅はなき
 
 「高速船シーガルに乗りて」
 ひさしぶりかつをどりみて静かなる おほうなばらの船旅うれし
 
 (皇太子に国事行為の臨時代行をゆだねられる)
 秋なかば国のつとめを東宮に ゆづりてからだやすめけるかな
 
 思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果さむつとめありしを
 
 国民に外つ国人も加はりて 見舞を寄せてくれたるうれし
 
 「酒井恒博士逝く」
 船にのりて相模の海にともにいでし 君去りゆきぬゆふべはさびし
 
 「木原均博士逝く」
 久くも小麦のことにいそしみし 君のきえしはかなしくもあるか
 
 昭和六十三年
 
 「車」
*国鉄の車にのりておほちちの 明治のみ世をおもひみにけり
 
 「伊豆須崎の春 三月」
 みわたせば春の夜の海うつくしく いかつり舟のひかりかがやく
 
 「道潅堀 七月」
 夏たけて堀のはちすの花みつつ ほとけのをしへおもふ朝かな
 
 「全国戦没者追悼式」
 やすらけき世を祈りしもいまだならず くやしくもあるかきざしみゆれど
 
 「那須」
 あぶらぜみのこゑきかざるもえぞぜみと あかえぞぜみなく那須の山すずし
 
 「那須の秋の庭 九月」
 あかげらの叩く音するあさまだき 音たえてさびしうつりしならむ
 
 (治療にあたった医師への歌)
 くすしらの進みしわざにわれの身は おちつきにけりいたつきを思ふ
 
 昭和六十四年
 
 「晴」(歌会始のためにご準備された御製)
 空晴れてふりさけみれば那須岳は さやけくそびゆ高原のうへ



「素」のままを、詠まれた・・・?



今上と美智子さんの「二人の歌集・『ともしび』」・・・)について書きたいのが先月以来の望みなのですが、その前にと、昭和天皇さまの、公表されている御製をご紹介し始めて、いま、ちょっと引っかかってしまっています。

回りくどいことを書いているのは自覚しています、知識の量は貧弱でワタシの思いは激しい、からなのか・・・

山百合の花咲く庭にいとし子を 車にのせてその母はゆく


この一首に対する疑問で、停滞しているんです。

・山百合は白い百合です。

・白百合は聖母マリアの純潔をあらわす花、花言葉もそれに因んでいて、カそしてトリックの聖地バチカンの、国花でもある。

・香りが強すぎるほど強い花・・・花の個性の強さとも思えます。

・花にも葉にも毒を持つとは、言い慣らされていることであって、植物学者であらせられた昭和天皇は、むろんのことに、それをご存じだったであろう。

・うたを詠まれる時には、正確に言葉を選ばれる陛下であらしゃった。

・・・以上のことは、私の記事に対して読者さん(賛同者と感じています)が寄せて下さった、言葉の群れ。

強引に、こじつけて決めつける意図は「無い」ので、あえて、今は、皆さまやわたしKUONの私感としておきます。

べーる20151208200040



以下は、まことのKUONの私感です。

どこをどう読んでも、2月の23日に生まれた浩宮を、昭和の両陛下がご覧になったのは、初めに設定されていた「7月」にせよ、今上が誤りを見つけて宮内庁が訂正したと発表された「8月」にせよ、いくらなんでも、遅すぎはしないか、と、まず、感じたのです。

さまざまな儀式もあったのではないかと、モノ知らずの身は想いますし、片方だけのベビーシューズをむき出しに、親王のお生まれになった病院を、天皇皇后が見舞われるなどということは、当時は無かった。のでしょうが。

単に、それまでにも会っておられたことが、報じられなかっただけなのか。

美智子さんの実家の母上は、めったに会えなかったと喧伝されたのは偽りだったと今ではわかっています、妊娠中も、入内した長女さんのところへ、アドバイスをしに、また何かの手伝いに、なんとかいうでっかいアメリカ車で、通っておられた。

1465370753983.jpg

美智子嬢と正田夫人



夫人は、長女美智子さんととその夫君を、実家へ迎えいれて、得意の中華料理をふるまってもおられた。

オワダさんとやらの夫婦も、入内させた娘が子を産んだ際に、両陛下より先んじて見に行って、会見まで開いていましたが。

浩宮は、美智子さん夫婦の愛児である前にまず、皇孫、公人なのであった。

認めたくは無いけれど、生まれた時から浩宮は、皇統を継承するべき立場でした。

天皇の孫。皇太子の息子。

そのナルちゃんが、生まれて何か月も、天皇と皇后に、どんな形ででも、会わずにいた、ということなのでしょうか。

確信が持てないので、今はここは疑問形です。


そして那須の御用邸で、両陛下は皇孫と会う機会を持たれた。

前記事でご紹介した動画は、そんな「ほほえましい」場面をも、収録しています。

美智子さんは、遠慮がちに顔を伏せ気味に、浩宮を抱き、乳母車に載せています。

陛下は温顔を保っておられ、皇后さまも笑みを浮かべておられます。


・・・この時、陛下はともかく、皇后陛下は、皇孫を、抱っこなど、されたのでしょうか。

香淳さまがお子さまを抱いて写っておられる写真は、沢山あります。

何人ものお子さまをあげられたお方、浩宮を「抱いてみたい」と、思召さなかったでしょうか。

それは、言い出しにくかったか。

遠慮されたか。

ミテコの子は抱きたくも無かったか(少し前の設定では、こんな感じにも悪役を振られておられた香淳さまでいらっしゃった)。

美智子さんはナルちゃんを、抱いて欲しくない意志を持っていたか。意志を通し抜いたか。



御製を読ませていただき、睦まじげな動画の様子を何度も見返し、私は、やはり、不思議だったのでした。

前記事にも書いていて、われながらしつこい(笑)のですが。

今上ご自身が、このうたは「山百合」とあるし、昭和天皇天皇秘録にある「東宮御所」でなく、那須の御用邸で詠まれたのではないか、と、お声をあげられたという。

しかし編纂に励む資料室では、「7月1日に昭和帝が」と、記載するに足る何かの事実を元に、記載するに至ったのではないかと考えるのが、妥当ではないか?。

忙しく週刊誌や月刊誌を作っている「現場」、とは、全く異なる環境が、そこに、あったのであって。

何年もかかって世に出された、数十冊に及ぶ本。24年以上もかかって作られています。

チェック機能も大変厳しいものだったろう・・・と、考えます。

その中に、このことが起こったのですね。

わたし思いますに。

動画の撮影も含めて、那須の御用邸での両陛下、皇太子夫婦と皇孫ナルちゃん。

その方々の上には、短時間とはいえ、それなりに複雑な思惑が存在した、と、考えてたって不思議では無い。

仲良さそうに集まって、写真などを撮らせていただけでない、別の時間もあったはず。

・・・思いますに。

発表された通り。

昭和天皇さまは、御用邸の二階から、下を。

庭を歩いて行く美智子さんを、見降ろされたのだろう。

たまたま、そんなことだったのかも知れません。上から見られているなどと、皇太子の母は、思っても見なかったのかもしれません。

つまり、無防備。油断の中にあった。「素」のままで、乳母車を押していた。

その美智子さんを、昭和帝は、詠まれたのではなかったか。

何かどこか、違う者。

皇室の中心に入って来ていながら、どうしても「異界」の者。

皇太子の妃、皇孫の母として、大きく違うサムシングを秘めている、抱えている、そのうちに正体を現して来るであろう・・・者。


そんな風にお感じに、実際になられたかどうか。

山百合と言う花の名を、ここで用いられたこと。

優しげに微笑んでいる時の美智子さんでない、何か大きな不穏を背負って乳母車を押して行く、後ろ姿を詠まれたこと。


思い過ごしでしょうか。

まさか、美智子さんのあの、ひらぺったいアタマの、おでこのあたりの両側に、何やらおそろしげな、おぞましげな「角」みたいなモンが生えていて、それは素の状態の美智子さんの、後ろからでも見えてしまっていた・・・・・なんてことは、そんなこつは、なかでしょうなあ。

最後。オカルトじみた話に持って行って、今夜のしつこい話は終わらせていただきます。






陛下は見送っておられた。



山百合の花咲く庭にいとし子を 車にのせてその母はゆく

昭和天皇の、生まれて初めての夏を迎える皇孫・浩宮(と、その母・美智子さん)をお詠みになった上記の御製をご紹介したら、沢山のコメントをお寄せいただきました。ありがとうございます。

詳しくは、前前記事「」のコメント欄をお読みいただけたら、と思います。コメントを読んで感じたことなど、参考にもさせていただきながら、少しずつ書きたいと思います。

発表されていることを信じない。 

この思いはますます強固です。

私が子どもだった時代、宮内庁とは、なんかわからないけどスゴいところ、という認識でした。

入江侍従の写真など見て、子ども心に、立派な人だなあと見上げる思いでした。

天皇とか皇太子とか、9歳の時に隣家の板塀に写真の貼られた正田美智子さんとか。どなたも別世界の人びとであり、ウソをついたり自分勝手だったり、とにかく、マイナスイメージなど、あると思うだけでいけないこと、そんなものは何も無い。そういう世界と思い込んでいました。

わが母は美智子さんを、(というより、美智子さんのファッションや、それにまつわる話題が)好きでした。母はお洒落が好きで、スーツやオーバーコートまでを、家庭用ののリッカーミシンを駆使して仕立ててしまう人だったので、美智子さんの、当時の皇太子妃ファッションに見惚れていたのでしょう。

時々ふらりとやって来る伯父は、京都の学生だった若い時代に「赤」にかぶれ、つかまってしまったこともあり、ごーもんなども受けたりした人、と聞かされていました、親戚からは冷たい目で見られていました、でも、母の実家の跡取りであって、パステル調の優しい絵を描く人で、焼酎の好きな人で、私を可愛がってくれることも時々はあり、生涯まともな職に就かず山も田んぼもどんどん売り払って酒を友とし、祖母をねんごろに見送ったあとに同窓会に出かけた夜、酔っ払って崖から落ちて田んぼの中に大の字に死んでいた、という、なかなか変わった人でしたが、この伯父は、天皇が嫌いでした。

思うことはいろいろ、でも、この。柚べしさんが教えて下さったことを、今夜は。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


昭和天皇実録の一部を訂正 陛下のご指摘で

2014.10.23 19:24

 >宮内庁の風岡典之長官は23日、昭和天皇実録で、昭和天皇が昭和35年7月1日に香淳皇后とともに東宮御所を訪れ、初の皇孫となった現在の皇太子さまに会った際のことを詠んだとしていた「山百合の花咲く庭にいとし子を車にのせてその母はゆく」の御製(お歌)の情景が別の月日、場所の情景だったことが分かり、訂正したと発表した。

 御製を紹介した新聞記事を読んだ天皇陛下が「『山百合』というのは東宮御所ではなく那須御用邸ではないか」などと指摘され、間違いが発覚。実際には、昭和天皇が同年8月6日に那須御用邸の2階から、現在の皇后さまが皇太子さまを乳母車に乗せて庭を通りかかったのを見て詠んだものだったという。

 風岡長官は「編集過程で思い込みがあり、資料を十分に精査せずに記載してしまった」と釈明。両陛下にも謝罪したという。
http://www.sankei.com/smp/life/news/141023/lif1410230026-s.html >

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「知恵蔵miniの解説

昭和天皇実録

昭和天皇の生涯をまとめた唯一の公式記録集。2014年9月9日に発表された。全61冊、計約1万2千ページ。宮内庁が、側近の日誌や公文書など3千点余りの資料をもとに、1901年の誕生から89年の死去、大喪の礼までを時系列にまとめた。1990年から編さんが始まり、終戦の前年まで8年近く侍従長を務めた百武三郎の日記ほか新資料の発見などで2度完成時期が延長され、完成までに24年5カ月が費やされた。宮内庁では、14年9月9日から同年11月30日(予定)まで、資格不問・先着順で「写し」の特別閲覧を実施する。
(2014-9-10)」


唯一の公式記録集なのだそうです。

その中の一部分の誤りを、今上陛下が見つけられ、指摘されて、訂正されたことを、宮内庁の(当時)風岡長官が発表、両陛下に謝罪したという。

どう、間違っていたか。

・昭和35年7月1日に昭和天皇が香淳皇后とともに東宮御所を訪れ、初の皇孫となった現在の皇太子さまに会った際のことを詠んだとしていた「山百合の花咲く庭にいとし子を車にのせてその母はゆく」の御製(お歌)の情景が別の月日、場所の情景だったことが分かり、訂正したと発表した。

・御製を紹介した新聞記事を読んだ天皇陛下が「『山百合』というのは東宮御所ではなく那須御用邸ではないか」などと指摘され、間違いが発覚。実際には、昭和天皇が同年8月6日に那須御用邸の2階から、現在の皇后さまが皇太子さまを乳母車に乗せて庭を通りかかったのを見て詠んだものだったという。

↑ のことを、

「編集過程で思い込みがあり、資料を十分に精査せずに記載してしまった」

と、風岡氏は釈明。

戦後15年も経って、皇孫も誕生して、落ち着いていた(と思われる)、当時の内廷。

皇室の歴史的には、けっこう重要な場面であろうに、と、不思議に感じます。

動画も存在します。

↓ です。

で。

この動画のシーンは、いつ、どこの、設定なのでしょうか。

「皇室の皆さまが愛する」とタイトルにある通り、動画中のここは、那須の御用邸と思われる。

であるなら、訂正された後の内容、

昭和天皇が同年8月6日に那須御用邸の2階から、現在の皇后さまが皇太子さまを乳母車に乗せて庭を通りかかったのを見て詠んだものだったという

これとは、趣が違う気がします。

動画では、那須の御用邸で、昭和の両陛下と、皇太子夫婦(現・今上夫婦)と、浩宮ナルさんが、集っておられたり、乳母車にナルさんを乗せて移動したり、されています。



二階から美智子さんとナルさんを見た・・・乳母車にナルさんを乗せて、庭を通りかかったのを見て、昭和帝が詠まれた・・という場面ではないように思えます。

違うよね。

御製自体は、風岡さんの釈明に添っている、そんな情景に見える、と言うことになりますので、私が(そして多くの方が)感じた違和感通りになって来る。

のではないか。

陛下は、見送っておられるのです、御製の中では。

動画のごとく睦んではおられない。

御用邸でご一緒に時を過ごされて、幾つかの場面がおありだったでしょう。

そうだとして、昭和帝が「うた」に詠まれたのは、掲出歌の場面だった。

そんな風に、考えるわけです。

うたにするには、やはり「このことを」という必然性、気持ちの高まり、というものが、ある。

と考えるのは、自然なことのよう。


別バージョンの「実は」があっても、驚きません。

「精査しないで記載してしまった」ことも、他に、無かったとは思えません。

あえて、事実でないことをしたって、そんなには分かんないだろう、とか。

疑問は続きます。






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Author:KUONの久遠
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  けふまでの日はけふ捨てて初桜

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やはり赤い口紅が好き。


ものすごく唐突ですが、私、口紅(だけ)はシャネルよ。(笑)。

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