今日も元気でいましょうね^^

返事の中までKUONです。

ぼったくった・・・

少しやっぱり書いておきたいので書きます。楽しかった日のこと。

会社の決算やボーナス支給やらの時期で、じたばたしていた中、お友達と神戸で待ち合わせて夕方まで、とても楽しかったです。

遠くから新幹線で来てくれて。予約もして下さっていた(いつも丸投げで、予約などもしてもらう・・ありがとう、ごめんなさい)北野ホテルでランチ。デザートが美味しかったです。超・人気で、この日も玄関やロビーに団体客の多かったこのホテルについての感想は、これだけ。(笑)。来たの初めてでしたので、来られてよかったな~、と。重厚なお洒落なホテルです。

正面にいる彼女の笑顔が素敵でした。よく喋りながら食べているのに、とても優雅なのです。ものすごく忙しいヒトなのに、せかせかしていないのが好きです。

そこを出て、以前も粘ったにしむら珈琲店を探したのに、二人とも「ド」のつく方向音痴で。北野坂の店を探せないで、道行く人に尋ねて教わったのは。本店の方でした、ここへも昔、このお友達と一緒に来た・・・。

店員さんのマナーと笑顔が素晴らしいお店、そして珈琲が、もちろん美味しい。

一応コースでランチ食べて来たのに、もうちょっと何か、で、パストラミなんちゃらサンドイッチを一皿頼みました。

切り口スパッと美しく、ボリュームも惜しげの無い、大満足のサンドウィッチ。つまみながら喋るわ喋るわ。

窓の外に黄昏色が迫りくるまで、喋り倒しておりました。

私は主に、聞き役。ホント。私はいつも聞き役なんです。静かにうなずきながら聞くに徹する。あのねあのねとぎゃあぎゃあ、わめかない。ホントですから。でも、少しはぎゃあぎゃあ、息切らして、ヒトのワルクチも言いました。女同士でのワルクチ合戦は楽しい。

サンドは、半分このはずが、ひときれ多く私が食べちゃった気がします。素直に認めます、これは。

で。もちろん、旅費を使って遠方から来てくれた彼女とも、飲食は割り勘です、私が計算しました。

1150円受け取ってわが財布に入れ、5000円札を出して、お願い支払しておいて下され、と、化粧室へ行き、レジのところにいた彼女に、レシートとお釣りをもらってそれもそのまま財布に突っ込み、神戸はもうすっかり夜の街の色、ウロウロしないでタクシーを止め、先に乗って行ってと勧められるまま乗り込んでバイバイと手を振って、帰って来ました。

二年ぶりくらいかなあ、会うの。気持ちにひっかかるところが何も無い、楽しくて懐かしいお友達。

帰って気づきました、その大好きな友達から、わたし、1150円、受け取った。

支払いの合計は1700円だったようです。おつりは3300円だったそうです(レシートを見ての推理)。

さて問題。わたしは、どんな勘違いをしでかして、大切なお友達から、どれだけ余分に、おかね、もらっちゃったのでしょうか。

今度また会えた時に、.お返ししますと連絡しました。また会って返してもらわなあかんなあ、と、文字で笑って下さいました。

・・・で。いくら、わたしは、返したらいいのでしょうか・・・ぼったくりの(笑)KUONでした。



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なまずのてんし30

「なまずのてんし30」

これは、なまずのてんし「さま」と読むそうです。

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熊本生まれの熊本育ち、「ハートのなまず」さんが、オリジナルの手拭いを作られました。

ブログをご紹介します。


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秋篠宮殿下から悠仁親王への皇位継承を望み

「ナマズノテンシサマ」言霊効果を、

また、鯰絵に地震の厄除け効果も期待して作った

オリジナルデザイン(商標登録済)です。

 本染め手拭い 綿100% 岡生地 35×90cm 両端縫製なし 

☆熊本駅前、森都心プラザ「わくわくカフェ」で販売中☆

県外の方にお届けできるように、
手拭い通販始めました。
売り上げの一部(1枚につき100円)は、
熊本地震で被災した「阿蘇神社」災害復旧事業奉賛として寄贈いたします。

なまずのてんし30手拭い

価格     1枚    1000円(税、送料込み)
       3枚組    2500円(税、送料込み)

注文方法
ご注文はメールにて承ります。

①注文数(○枚または△組)
②お届け先〒 住所
③お名前
④電話番号
を明記の上、
namazunotenshi30@gmail.com まで

お申し付けください。
※在庫確認後、振込先(郵便)口座番号をお知らせします。メール受信後、10日以内に送金ください。
※必ずお申込者ご本人の氏名でお振込みください。
※ 入金確認後、順次発送します。
※お届けは、スマートレターで郵便受けに投函します。受領確認は出来ませんのであらかじめご了承ください。



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この方は、数回お会いしたことのある知人です。

半年前の熊本地震を経験されました。

先日の熊本行きの際にも、お会いしました。

その少し前まで(訪問者リストで、来て下さっていることを知るまで)、この手拭に関することは、まったく知りませんでした。

知ってからも、宣伝して欲しいとか、たとえば私KUONのブログで取り上げて欲しい、などは、いっさい、仰いませんでした。

わたしも、親しい知人であっても、自分がご紹介したい、と感じないものについては、それが何であれ、それとこれとは別よ、と考えるにんげんです。

でもこの図柄のイヤミのないところ、押しつけがましい感じのないところ(デザインされた本人と同じ)、甘ったるくない可愛さと、ここは重要、

言霊効果。

てんし、は、天使・・・天子・・・かな、と、解釈しました。

・・天皇家に対するいろんな気持ちの通うあたり、

秋篠宮殿下に皇室を、との思いの重なりもあって、

ご紹介させてもらいたい、させて、と、申し出ました。

ご了承をいただき、11月の1日にアップ、と決めました。


ご紹介はしますが、わたしの役目はご紹介のみです。私に言っていただいても、取次などはできかねますので(エラソーな言い方だとわかってはおりますが)、直接、申し出て差し上げていただきたいです。よろしく、と、伏して申し上げます。


リンク欄に「なまずてんし30」さんを、加えました。そこからぴょーんと、飛んでいただけます。

自分にできることを何か、と、始められたことです、神社にもお城にも、熊本は(だけではないが、いまは熊本の話です)お金が必要です。

よろしければご賛同を、と、私は何もしないでいて・・・手拭の一番目の購入者になりたいが、一番はどなたかにお譲りします(笑)・・・ハートのなまずさんに代わりまして、末尾に記させていただきます。

今日以降は、この内容は当分、プロフィール欄に移させてもらうつもりです。

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買っていただいた中から100円ずつを、阿蘇神社へ、と、記しておられます。

阿蘇神社。

阿蘇神社と鯰.。

こんな話も読みました。↓。

健磐龍命が立野のスガルを蹴破ると、阿蘇谷の湖の水はごうごうと流れ出ました。
ところが、この湖の主とも精ともいわれていた大鯰が湖の水とともに流れ出て、
遠く上益城の村に流れつきました。そこでこの村を鯰村(上益城郡嘉島町鯰)
というようになったそうです。
 村人がこの鯰を片付けるのに六荷(ろくか)(天秤棒で六回分)あったので、
この部落を六嘉(ろくか)(上益城郡嘉島町六嘉)といいます。
また、阿蘇谷の黒川の流れが曲がりくねっているのは鯰の流れ出た跡ということです。

 鯰の別の話では阿蘇谷の水は流れ出たが、中ほどに大きな木のようなものが
往生岳(おうじょうだけ)の麓から尾籠(おごもり)(阿蘇郡一の宮町尾籠)まで横たわっています。
よく見ると大鯰が往生岳にヒゲを巻き付け、尾籠に尾を引っかけています。
(尾籠の字名の起源もここからきています。)そのため阿蘇谷の上半分の水は引きません。

 大明神は『開拓のさまたげをするにくいやつ』とこの鯰を始末して焼き、
その灰が灰塚であるといいます。
灰塚は阿蘇駅と内牧駅の中ほどの北側にある丘で、本塚・北塚・灰塚と
三つの丘の最も低い丘で、この塚には石はないといいます。
また鯰の霊は国造神社の神殿の右側の小さい祠(ほこら)に祀ってあります。

『阿蘇の神話と伝説』 (宮川進編)より 

 当社に於いても以前は第一鳥居前に池(現在この池は国道の拡幅工事のため廃池となる)
があり、鯰池と称して川などで釣れた鯰は決して殺生することなく池に放すなど
大切にされてまいりました。
阿蘇神社の氏子は今でも鯰を神様のお使いと称され尊ばれています。

 平成7年、有田焼窯元に依頼して『鯰』の置物を作成いたしました。
幾度となく型の手直しを重ね2体を焼き上げ、1体を当社御神前へ奉納し、
1体は秋篠宮殿下に献上申し上げました。


 
>皇室にも鯰にも所縁ある阿蘇神社。
>「日本三大楼門」に数えられる重要文化財の楼門も被災しました。
>11月1日より、本格的な復旧工事が始まるそうです。






帰って来ました



早朝、家を出る時には雨が降っていた。

西へと走る新幹線の車窓から見る空が、だんだん明るくなって行って、熊本に着いた時は、暑いと感じるほどのいいお天気だった。熊本を訪れるのは私には初めてのこと。

迎えに来て下さっていたTBさんが、地震の後で買い替えることになってしまったという車をスタートさせて、正面に見えるのが熊本城だと教えて下さる。

青い空の下、堂々たるお城・・・と見えつつ、てっぺん、天守閣の屋根が、妙に白っぽい。

瓦の多くが落ちてしまい、しゃちほこも、地震の折りに、落ちて粉々に割れてしまったのだった。

ランチは市役所の中のレストランでと言われて、へええ、とびっくりしつつ、ついて行く。

市役所の中にはたくさんの方がいた、さまざまな相談に訪れておられるのだろう、あの大地震から、まだ半年。

エレベーターで14階まで昇る。

窓際の席を取って下さっていた、大きなよく磨かれた窓の、まっすぐ向こうに、熊本城が見える。

てっぺんの屋根が、やはり白い、埃が積もっているように白い。あの大きなお城が揺さぶられて、瓦が落ち続けるって、どんな感じだったのだろう。

緑色の養生シートがかぶされているあたりは、崩れてしまった長塀か。

遠目には見えにくいが、随分なダメージを受けて、しかしある部分は、土台が崩れてしまったのに、建造物が落ちないで保たれている。

ランチを口に運びながら、青空と真っ白な雲のなかの、美しいかたち、悠然たる熊本城を、眺めていた。

加藤清正公が築城したという・・銀杏城とも呼ばれる・・日本三大名城の、一。

城を仰ぎ見られるあたりは、あまりひどい被害は無かったように思う、と、TBさんが、静かな声で言う。

「お城が守ってくれたみたいに思っている人は多いんとちがうかしら」

と、言われる。生まれも育ちも、この方は熊本。

早めにいったんホテルに入って、さまざまな話をうかがう。

地震のこと。

TBさんは、夫さんが公務員であの時は自分の家や家族のことどころでなく、激務に就いておられた、たまたま実家であるTBさん宅に来ておられた娘さんとその夫さん、生まれて2か月にもならない初孫ちゃん、地震が起きて固まってしまい、固まりがほどけたら逆にどこへ走っていってしまうか判らない愛犬と共に、一人暮らしのお母さんとまずは合流、お姉さん家族とも合流、2度目の大きな揺れ(これが本震)やその後の頻繁過ぎた余震のなか、力を合わせて乗り切られたのだった。

あの時は、周囲、どなたもどこも、知らない同士も助け合った、コンビニエンスストアも、来られる方にはどんどん買ってもらってくれ自分たち用になど残さないで、と店長は檄を飛ばし、店員は必死にモノを出し、客は行列を作って買い物をした、と。

通りいっぽん隔てて、水、出る、水、出ない、と分かれてしまった地区では、お水どうぞと水を提供しておられた、TBさんは、自分のところは大人の男が(娘ムコさんと息子さん。夫さんは、死ぬんじゃないかと危ぶむほどに外で業務を遂行しておられた)複数人いて、車のガソリンも初めの地震後満タンにできたし、孫のミルクやオムツも備蓄できていた、それは心強いことだった、と、感謝の言葉を何度も口にされた。

「~でよかった」

「~だから助かった」

と、ネガティブな方向へは決して行かない言葉たち、皆が無事だったこと、今はともかく(自分たちは)平穏が戻っている幸せ、普通にお風呂に入れるありがたさ、などを、淡々と話された。

まつ毛の長い目のぱっちりした、お洒落な女性。

自分の「大変」を言いたてようとしない彼女の話を、ゆったりと聞いた。

自分も言ってみれば「被災者の一人」なのであるが、と笑う彼女は、自分としてできること、何か、という思いが、外に向かって、ぱっちり、開いておられる。

熊本には津波は来ず(1~2メートルくらい、来るかもしれないと避難された地区もあったそうだが)、あの地のように大津波も電力会社の大事故も無かった。それは本当のこと、でも、私自身、それはラッキーなことであろうと考えつつ、第三者が言うてはならない言葉であるなあと、自戒の思いを深くした。

たとえば、揺れた後に壁に走った筋いっぽん。

当事者にとっては大変なことなのだ、と、行って改めて感じた。その「たった」一本の亀裂の今後を想えば、当事者でない者が、

「この程度で済んでよかったよね~」

とは、言えない、言ってはいけないのだと感じた。

TBさんは、そして、見せて下さった。

揺れ続け、家具やら何やら倒れかかり、外は暗い、ただただ恐ろしかったであろう中での、一枚の写真。

がっしりした木製の座卓。画面を左右に横切っていた。

その下に、走り出して迷子にならない用心に、いつもは外しているリードをつけられている、小型犬。

腹ばいにぺたんと伏して、顎を床について、眠っている。前足を投げして。

その横に、お食い初めの赤飯などを業者に頼んだところだった、という時期の、まだ首も坐っていない赤ちゃん。初孫さん、そのお子が、仰向けになっている。

少しカールした前髪がおでこにかかっていて、色の白い男の子。

全身の力が抜けているのは写真からわかる、目を閉じて口元は微笑んで、不気味に揺れ続けている大地のその上で、完全に安らいでいる乳児。

そんな写真。

この、生まれて間もない赤ん坊と、地震の意味などわかりようのない小さな犬の、安心しきった様子。

この安逸を守るために、どれだけの気持ちが集まっているかを、感じて、私は、へええ、可愛いねえ、と、ニタニタしながら、その前にしていた、天皇夫婦の来県の話を、アタマの中で蒸し返していた。

TBさんは、多くの日本人と同じく、皇室に対しては崇敬の念を抱いていた、陛下が水俣へ行かれた時のお言葉には、ありがたい、という感じを持っておられた方。

その方が、もう、天皇さんたちは、被災地へ来てくれなくていい、と言う。

皇太子も雅子も要らない、来るな、と言う。

膨大なお金を使ってチョロチョロしなくていい、皇居で祈っていればいいのではないか、それが自分には、いちばん、腑に落ちるなさり方だと・・・私と同意見になる。

世界の平和と国家の繁栄と、国民の幸せ。そのことだけ考えていればいい、来なくていい、うろちょろしないで欲しい。

押さえた言い方ながら、思いの強い、TBさんの言葉だった。

・・・この一人と一匹の平和の写真を撮ってほどなく、この場所・・ご自宅をを出て、人と荷物でぎゅうぎゅう詰めの車で余震の激しい市内を避難、広大な駐車場で夜を過ごし、いちばん被害の少なそうないっときの宿り場を求め、を、始められたのだった。



いろんな話をお聞きしたが、今はうまくすんなりと出て来ない。

順序がバラバラになるが、おひるどきの話、

市役所レストランの、ギャルソンエプロンとてもお似合いのウェイターさん、ずっと笑顔だったレジの女性、とても感じのいい方々だった。

窓の向こうのお城を背景に、写真を撮るのに、ウェイター氏、思い切り体を反らしたり伸ばしたり、奮闘してくださったのだった。

ありがとうございました。


夜は、これもTBさんが予約を入れて下さっていて。二人ではなかった。

熊本名物の太平燕(タイピェイエン)という=春雨を、ツバメの巣に見立てて鳥のスープで煮込んで、海鮮物や野菜がどっさり使われている=料理をメインに、古老肉、唐揚げ、海老のチリソース、炒飯など、私はポットごと持ってきてもらって烏龍茶で、他の方々は黒生ビールから次は杏露酒とかいう、美味しそうなお酒を、お変わりして。〆は、甘さのほどよい杏仁豆腐だった。私は酢豚が大好きで、なんとも美味な酢豚だったので、嬉しかった。太平燕は優しい味で、癖になりそうな。

入って来るとき、通りから店までのアプローチ、前庭に幾つも卓が並べられ、卓の上に炎が揺れていて、店内はほの暗くしてあった、広い、天上の高めの店であまり明るくなく、ゆっくり食事ができるというのは、私の好み、で、よかった。

ここ「紅蘭亭」は、少し離れてもう一軒あり、そこは、最近ようやく、再開できたのだと、そういう話が、ここでも普通に出ているのだった。

ホテルは日航だった。

すべてバリアフリーで、足の悪い私にはよかった。このホテルの前のデパートが「turuya」、おつかい物にはここ(の包装紙)で、という老舗らしい。

部屋へ戻る前にしばらく一人にしてもらい、バス停のゆったりしたベンチにかけて、さまざまな種類のバスが、さまざまな方へ行くらしい、それを乗り降りする、熊本の方々の様子を、ぼんやりと眺めていた。市内でもっとも賑やかなあたりという、ベンチは悠々と座りごこちよく、2時間くらいは黙って座っていられそうだった。

11階のホテルの部屋から、熊本城が見えた。

ライトアップされていた。随分遅くまで、城は照らされていた。瓦は落ちてもあちこちガタが来てしまっても、残ってくれてよかった、と、思った。

ひそかに手を合わせて、頑張って熊本城、と、心の中で願った。


翌日も車を出していただいて、益城の方へ向かった。

途中、健軍神社の前も通りかかる。

一帯では、お宮参りも七五三もここへ、という、神社だとか。

国家「君が代」にある「さざれ石」

脚の具合がよろしくなく、降りて参拝したい気は重々あったが、ゆっくりと通り過ぎていただいたのみ。

・・・TBさんのお孫さんを、どうか、お見守り下さい。

「ここのスーパーの天井が落ちてしまったんです」

「ここはひどく傾いているけど」

「通りいっぽん違うと、被害のひどさも違うみたいで」

前を向いて運転中のTBさんの言葉を、黙って聞いていた。

無人の店舗が並んでいる。白昼の、人気の無い店舗群は、ぞわぞわと不安な感覚を引っ張り出す。

完全にぺしゃんこになっている、旧かったであろう、人家。

一部に斜めにブルーシートがかぶされていたり、

おそらくあの日以来、人が近づいていない、家。

大きく⇒マークを記して、建物の端っこで診療していると示しておられる医院、窓もドアもどうしようもなく壊れてしまっている医院もあった。

上から、ぐしゃっと力を加えられたように潰れている民家。中におられた方は。

壊れた家も、むき出しの壁の名残、折れた柱、家具も埃をかぶり、雨に打たれた姿で。

「片付けようのない、ということが、まだまだたくさん、あるんですよね・・・」

TBさんの声は静か、私にも、見ればわかる、駅の周囲や郵便局や銀行、どうしても必要なところは、復興も復元も、進んでいるようだ、が、私が案内していただいたあたりは。

益城は空港のある地区なのだそうで、そのあたりのことも、うまく説明できないが、教えてもらった。

ともあれ。

一人暮らしの、おじいさん、おばあさん。父祖の代からの土地、自然に受け継いだ家に、暮らしておられただろうが。

恐ろしい思いをされたのだろうな、一人では、どうすることもできなかっただろうな、いま、どうして。

いま、どうしておられるだろう、などと、つまり私のように、旅人としてひょこっと来て、思ってみるさえ傲岸な気がする。

地震後半年。

仮設住宅に、入っておられるのか。

私は、熊本の「仮設住宅」を、一軒も目にしないで、帰って来てしまった。

天皇が来るのなら、そのお金を、別の方に回して欲しい。

来てくれて嬉しいような天皇ではない、来てくれるな、来るな。


熊本で耳にした言葉。

淡くつながっている東北の方々からも、同じ言葉を聞く。

失望させている。

たぶん、絶望も、させている、天皇、という、存在。

復興にはお金が要る。

瓦礫を片付けないと、次へ進めようの無い現実がある。

お金が必要なんだ・・・。



と言いながら。

駅へ行く前に、観光もしました。

水前寺公園へ連れて行ってもらった。

桃山様式を代表する優美な回遊式庭園、だそうだ。

美しいお庭だった。向こうの方に出水神社が、と、遥かに(私の脚にはそうだった)打ち眺めながら、ここでも胸中に拝をした。

「古今伝授の間」を拝見できたのは、幸せだった。

現在は移築された場所にあるのだが、見事な茅葺の屋根、400年を経た建物、襖の模様が「五七の桐」、この襖を拝見できたのは嬉しかった、何よりここで、その昔、「古今和歌集の解釈の奥義を智仁親王に伝授した」と・・・説明書にある。

そうか、ここで、古今和歌集の奥義が、など、わかったつもりで、透き通った風の吹きぬけるお座敷、窓、などに、見とれていた。

赤い毛氈をテーブルクロスにした外の卓で、お薄をいただいた。

空は青く雲は白く、陽光に風はきらめきながら吹き通り。そこでいただく一服のお茶の、美味しかったこと。

この古今伝授の間の、維持管理を任されているのが、お菓子とお薄のセットを出して下さった「香梅」さんという、老舗の和菓子舗であるとも、ここで聞いた。

お世話になったTBさんのお宅でも、ここのお菓子を贔屓になさっているらしく、地震で大きなダメージを受けたお店が、復興されたことを、とても喜んでおられた。

お土産に買いたかったが、荷物を増やしたり大きくするのを避けたくて、後でネットで注文することにする。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思いが先走ってうまくまとまらなかったが、一泊の旅の、ご報告です。

私はスマホを持たない昔人間で、外にいる間、自分のブログを読んでいませんでした。

連絡を、と申し出て下さっていた〇さん、申し訳のないことでした。

旅の間、かかわって下さったお方、十分にご一緒できなくて、申し訳のないことでした。

また、ぼつぼつ、いただいているコメントへのお返事も、させていただきます。

ミテコさんの呆れた「お言葉」についても、書きたくてうずうずしますが。

そんなさっさと出来なくなっているワタシなのね、と、自覚は深まっています。

できるように、いろんなことに対して行きたいと願っています。




わたくしごと

今日は、まったくの私事。親馬鹿あるいはバカ親の記事になっていると思います。

ばりばりの宣伝になってもいると思います。

それをお含み置きくださいまして、と、、冒頭に記させていただきます。



専用のスタジオをオープンすることができたよ、6月4日、5日とパーティーしますので来てね、と、知らせて来たので、行ってきました。

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神戸・三宮で乗り換えて一駅。元町駅の西改札口から出て、私の足でも数分。

神戸中華街の西安門まで来れば、もう、ビルが見えています。

アミーゴスビル。ともだちビル?。一階はマシュマロ専門店です。

そこの4階。小さなエレベーターのドアが開いたら、右手がカフェ。左手がスタジオ。どtらにも花がどっさり届いていました。

ありがとうございました。と、つい、お腹の中で礼を言う。

ここで、スタジオを開設するのは、ポールダンサー柚月恵。

私の娘でもあります。

スタジオとカフェの、名前はアンブロジア。

スタジオ・アンブロジアと、カフェ・アンブロジア。同時にオープンしました。経営は違うみたいです。

利用者は重なるようです(笑)。

カフェの方は、カウンター数席と小さなテーブル席が3席。その他、(笑)、たたみ六枚?八枚・・入り口の左側の真ん中に敷いてある。なんじゃこれは。

窓の外は神戸の街、窓の内側には、ダラけやすそうなロー・ソファが壁に添って長く長く置かれ、それと

「人をダメにする椅子(ソファ)」が幾つか置かれています。

なんで、どうして畳なのか、靴を、しかも、脱いで上がるのです、人がダメになるソファとは、いったい、どんなオソロシイものであるのか。わかりません。

先鋭的なセンスのところが(名前も聞きましたが、すぐに出て来ませんすみません)、デザインしてくれた半分たたみ・カフェなんだって。面白い・・でも、昼寝はいけませんのですと。

そしてカフェの「お勧め」は、神戸初の神戸ティ・パーティとか言うオリジナル紅茶で。

アイスでストレートで飲ませてもろた、アールグレィの風味の好きな方には、美味と思う。

私はアールグレィ好きです。というか、家でもアールグレィ。まず、名前がすてきと感じて、ずっと、そのお茶。

アンブロジアのオリジナル・ティは、とても美味しい。

この部分は完璧に、宣伝になってますね。でも嘘は書かないから、いつも、わたし。

カフェの壁面には、柚月恵のフォトが複数枚、飾られています。

「光の魔術師」写真家のI・アレクサンドロフの写真。記事の一番下の青い一枚も、彼の撮った柚月です。

イルコの宣伝もしてしまいました。(笑)。


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スタジオには、ポールダンス用のポールが、3本、立っています。壁の一面には鏡が、曇りなくすっきりとぴっかぴかに光っていました。

今までは、夜の7時までしか場所を借りられない状態でやって来ました。

初めはそれで、とてもありがたかったのです。

ポールも常備できませんでした。住まいのマンションのリビングに一本、立ててもいました。

ようやく、自分のスタジオを持てました。借金はしたようです。返せる範囲の融資を受けられました。


・・・この娘が、一人で、二十歳そこそこの身で、荒野のような世間に出て行ったころ、親は、倒産寸前の会社を抱えてぐらぐらしていました。

家庭内にも重なった大変が、巨大な台風みたいに渦巻いていました。

娘が、自分だけでも独立すると意を決して出た家は、ぐらぐらの限度まで行ってひっくり返り、人手に渡って、つまり、娘の帰る家は無くなりました。私たちは、頼れる親でいてやれませんでした。

娘は頑張ったと思います。

時々は外で会いましたが、人に見られる職業なのに、洋服も靴もとても古びたものでした。胸は痛んでも、ランチを共にする以上のゆとりは当時まったく、ありませんでした。

でも、美味しくごはん、食べました。

でも、胸を張って娘は笑っていました。

相変わらずのおバカぶりでした。


一人で泣きたかった日も、一人で泣いた夜もあったと思います。

だけど、一途にダンスに向かい、踊り続けていました。

六つの歳にクラシックバレエを始め、それから、踊っていなかった時期はありません。


ただ、ダンスを。どこまでも、ダンスを。

いろんなことがありました。

頑張ったなあ、えらかったよなあ、この娘。

親馬鹿全開で、思っています。


沢山の方々の「気持ち」をいただいて、今まで来たのだと思います。

詳しい話はしません。

めったに会わないし、メールも電話もしない。

勝手にいい子に育ったと思い感謝しています。

もう、子、というトシではないのですが。(笑)。

いつまでも、子、なのですね、親のエゴイズムの範疇では。

今日は、自分のブログで、公開で、娘の自慢をしました。

たまにはいいでしょうと思います。

写真が出来たら、また、その時はすこし恥ずかしいでしょうが、貼ってみたいと思います。

とにかく。

スタジオ開設、おめでとう。

よく励みましたね、そのことをお褒めします(今の学校、こういう言葉を遣いますよね)。


一般社団法人日本ポールダンスセラピー協会理事長 柚月恵さん。

第2歩目、くらいかな。

周りで支え、励まし、愛して下さっている皆さま、おめでとうございます、これからもよろしく。

・・・パーティーが始まる前に、おいとまして来ました。

帰りに、一人でしみじみ、コーヒーを飲みました。

晩ご飯のおかずを買って、坐ることのできた電車の座席で、うつら、うつら、しながら、帰って来ました。

あ、そうだ、アンブレジアとは、どんな意味か。

聞いたのに、いま、思いだしてここへ書けません。

愛の、なんとかだったか。

太陽のなんとかだったか。

神さまの食べ物、とか、聞いたかな???

思い出さないと、眠れないかも知れません。

どうしょ・・・

眠ると、思いますよ(笑)。




・・・・・・・・・・・勝手ですが、コメントへのお返事は、明日、させていただきます。



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明日のご体調は






皇室のスケジュール表があります。宮内庁が出して来る情報を、朝日新聞が、というもの。

天皇家、皇太子家(こう書いてあります)、秋篠宮家から、常陸宮家、三笠宮家、高円宮家までの、皇族方の「公務」が一覧表になっています。

皇太子家に公務が無い、と言われているのは、ここに「予定」がほぼ書きこまれていないことに拠るのでしょう。

スキー行き、なんぞは書いて無いです。


5月初めまでの現在のこの表の、皇太子家の欄は空白です。

前後の皇族はすべて、27日の園遊会にお出ましと記述あるなか、皇太子家は空白。

空白だから、明日、あの夫婦、もしくはナルさんが出て来ない。とは言い切れない。

空白でも、出て来るかも知れない。ナルさんが一人で、というのは、ほぼずっとそうだった、状態で。

ナルさん無しでまさこだけ、は、あり得ない。今までありませんでした。妃殿下個体としては何もできない、して来なかった。

では夫婦で、しゃら~~っと、ニタニタと、出ておいでか。

週刊誌が書きたてていました、雅子さま園遊会連続のご出席、着物も新調して、とか。

アホみたいなことを、多分、記者さん自身、わかっていて、これも飯のタネ、浮世の義理、いざ、ひっくり返ったら、はじめっから真実をお伝えしたかった、とか、そんな感じでゴンゴン行くと思われる。

昔の岡林 信康の歌にもありました。

犬ーが飼い主に噛みつきゃーえらいこーったー


今年の5月は、水俣病が公式確認をされてから、60年になります。



私は、いつもいつもあのことやそのことを考えている訳ではない。言うまでも無く。

自分自身の身の回りの、いろんなことに振り回されて、アタフタと日を送っているのが現状です。

そうであっても、現在の皇室の、内廷さんがたとやらの、あまりにもな惨状、醜状には、とらわれ過ぎている自覚の中にいます。

いっさい信用できません。

明日も出かける用があります、お招きにあずかって、黒柳てつこさんは、どんな思いで、目の前に現れるそのひとたちを、観察されるかなあ、など、考えたりしています。


・・・・・おととし書いた記事ですが、再度、以下に。


「銭は1銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、42人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に69人、水俣病になってもらう。あと100人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか(注)」

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ユージン・スミスが撮った「智子」さん。

思春期の若い女性である。手は拘縮、硬直している。

お母さんは智子さんを大切に育てたが、水俣の象徴のようにとらえられることに、複雑な思いも洩らされたようです。

さもありなんと、思います。

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お父さんも愛情を注がれました。


現在も熊本市在住である石牟礼道子さんの「苦界浄土」の未発表部分が見つかったという。400字詰め原稿用紙20枚ほどであると。

昨日か、おとといの新聞に出ていた。

・・・・・

「う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほん、に、よかった。」                       
                                (第三章「ゆき女きき書き」

「嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた。…(ほ、ほん、に、じ、じい、ちゃん、しよの、な、か、おおな、ご、に、なった、な、あ。)うちは、もういっぺん、元の体になろうごたるばい。親さまに、働いて食えといただいた体じゃもね。」


「うちは情けなか。箸も握れん、茶碗もかかえられん、口もがくがく震えのくる。付添いさんが食べさしてくらすが、そりゃ大ごとばい・・・ 」

「苦界浄土」は、水俣病を描いた作品である。阿部公彦氏のブログから一部、引用させていただく。

たとえば「舟を焼く仕事」。舟を焼くというのは、漁師が舟の底にくっつく牡蠣殻や、藤壺の虫をとりのけるためにすることである。陸にひきあげた船体を斜めに倒し、舟底に薪をくべ、舟火事にならぬようにこれらを焼き落とす。なかなか面倒な作業である。

その手間をはぶくために、わざわざ百間の港まで、持ち舟を連れて来て、置き放すというのだった。きれいさっぱり、虫や、牡蠣殻が落ちるというのだ。百間の港の「会社」の排水口の水門近くにつなぎ放してさえおけば、いつも舟の底は、軽々となっている、というのであった。

そのうちに漁獲高が目に見えて減ってくる。水に魚が浮くようになる。それから猫がやられた。「猫が舞って死ぬ」との噂が流れる。「舞う」のは、神経の異常のためである。次は人間だった。海沿いの部落で病人が出始め、工場が排水口の向きをかえると、こんどはそちら側で病人が多発する。

はじめて病人が出た頃、この原因不明の奇病は伝染病と誤解されがちであった。当然、余計な恐怖心を持つ者もいた。

この頃、看護婦さんが、手が先生しびれます、といいだした。看護部さんたちが大勢で来て、先生うつりませんかという。よく消毒して、隔離病院にうつすようにするというと、うつらない証明をしてくれという。このとき手がしびれるといった湯堂部落出[水俣病の多発地帯のひとつ]の看護婦さんは、あとになって胎児性[水俣病]の子どもを産むことになった。まさかそこまではそのとき思いおよばなかった。

水俣病は伝染病ではない。しかし、この病気の出発点は、まさに「手が先生しびれます」という感覚なのだ。現在絶版だが、吉田司『下下戦記』(白水社)には次のような一節がある。

ところが今度ぁ、あたしが身体中痺れっきたったい。手とか指とか、足ン痺れひどうなって、なんじゃ手袋はめて物ば触っとる気色で、富子と清治に飯食する匙ばポロポロ落とすわけたい。茶碗まで落として割ってしまうわけたい。『あれーッ、こりゃいかん。まさか富子ン病気が伝染ったわけじゃなかろうねえ』もう居ても立っても居られんわけ。夜中他ン患者が寝てしもうてから、こっそり病院の炊事場さ行ったったい。なんとかこン痺れ取ってやれッち思て、指先ばゴシゴシ軽石でこすってみた。ゴシゴシゴシゴシ、取れんとたい、痺れが。今度ぁコンクリートの壁にこすりつけて、ゴシゴシゴシゴシ。

水俣病は何よりも「わからない病気」だった。何であれ、わからないということ自体、人間にとっては不気味なのである。コンクリートに指をこすりつけてでも取り去りたい、得体の知れない痺れは、原初的な恐怖を呼び起こした。

著者石牟礼はとにかく水俣病のすべてを見ようとしてきた。東京から視察に訪れたチッソ社長の車をタクシーで追うこともあれば、大学病院に頼んで患者の解剖に立ち会うこともあった。この本の力づくの文体には、力づくの視線が感じられる。

彼女のすんなりとしている両肢は少しひらきぎみに、その番い目ははらりと白いガーゼでおおわれているのである。にぎるともなく指をかろく握って、彼女は底しれぬ放意を、その執刀医たちにゆだねていた。内臓をとりだしてゆく腹腔の洞にいつの間にか沁み出すようにひっそりと血がたまり、白い上衣を着た執刀医のひとりはときどきそれを、とっ手のついた小さな白いコップでしずかにすくい出すのだった。


わたしKUONは、今までに数度、この本について書いた。知って欲しいことがあります、と、叫び出すみたいに、書いた。

発症前、元気だった娘を思い、

「木にも草にも、魂はあるとうちは思うとに。魚にもめずにも魂はあると思うとに。うちげのゆりにはそれがなかとはどういうことな」

と納得できない母親のことを、書いた。

健康な人が水俣病になることが多かったが、母親は無事でも生まれてきた子供が水俣病におかされていたというケースもあった。どんどん増えた。

生まれ出た日が、発症の日。「苦界浄土」の中にこんな部分がある。

山本富士夫・十三歳、胎児性水俣病。生まれてこの方、一語も発せず、一語もききわけぬ十三歳なのだ。両方の手の親指を同時に口に含み、絶えまなくおしゃぶりし、のこりの指と掌を、ひらひら、ひらひら、魚のひれのように動かすだけが、この少年の、すべての生存表現である。

中村千鶴・十三歳、胎児性水俣病。炎のような怜悧さに生まれつきながら、水俣病によって、人間の属性を、言葉を発する機能も身動きする機能も、全部溶かし去られ(略)。

・・・水俣病の裁判は今も続いている。そこには今は触れない。

江頭豊が、チッソの社長として現実に 関わりを持ち始めた頃には、初めは猫が踊り漁獲量が減ったことで不思議がられたこの海の異変が、企業の犯した深い犯罪によるものであるということが、既に認識されていた。認識はされていた。


〇チッソの補償(見舞金)を受けると、生活保護が受けられなくなった。


「水俣病がそのようにまで羨ましかかいなぁあんたたちは。今すぐ替わってよ。すぐなるるばい、会社の廃液で。百トンあるちゅうよ、茶ワンで呑みやんすぐならるるよ。汲んできてやろか、会社から。替わってよ、すぐ。うちはそげんいうぞ。なれなれみんな、水俣病に」
「あんたも水俣病を病んどるかな? どのくらい病んどるな? こげんきつか病気はなかばい。まぁだ他に、世界でいちばん重か病気の他にあると思うかな。その病(びょう)、病(や)んでおらぬなら、水俣病ばいうまいぞ」
                              (第一部「苦海浄土」170ページ)

わたしゃ、恥も業もいっちょもなかぞ。よかですか、川村さん。
おらぁな、会社ゆきとは違うとぞ。自分家(げ)で使うとる会社ゆきと同じような人間が、もの言いよると思うなぞ。
千円で働けといえば千円で、二千円で働けといえば二千円で働く人間とはわけがちがうぞ。人に使われとる人間とちがうとぞ、漁師は。
 おる家(げ)の海、おる家の田畠に水銀たれ流しておいて、誠意をつくしますちゅう言葉だけで足ると思うか。言葉だけで。いうな! 言葉だけば!
                              (第二部「神々の村」431ページ)

「病んでみろ、病みきれんぞこの病(びょう)は。一生かかっても、二生かかっても」
                              (第二部「神々の村」465ページ)


川本 よし、わかった。そんなら…… 
 あば、もう、あなたは会社の社長ばやめて、十日、いや一週間なり、一ヶ月なり、その、患者の苦しみば、いっしょに味おうてもろうて、ああた方ぜんぶ、患者の家に一ヶ月なり来てもらいまっしょ

川本 社長……わからんじゃろう、……俺が鬼か……なんいいよるかわかるか、……親父は母屋にひとり寝えとった……おら、小屋から行って、朝昼晩、めしゃあ食(か)せた。買うて食う米もなかった。なんもかんも持っとるもんな、背広でもなんでも、ぜんぶ、質に入れた。そげな暮しが、わかるか、明日食う米もなかこつも、何べんもあった。着て寝る蒲団もなかったよ。敷布団もなく寒さに凍えて泣いとったぞ、そんな暮しがわかるか。
 親父の舟も売ってしもうたぞ、
 うちん親父は、六十九で死んだ。六十九で……。精神病院の保護室で死んだぞ保護室で。水俣病で……。格子戸の、牢屋んごたる部屋で、死んだぞ。精神病院ば……見たこつがあるか、行ったことがあるかおまや。保護室の格子戸のごたるところで、……おまやしあわせぞ……誰もみとらんところで、ひとりで死んだぞ、おやじは。こげんこたぁおら、今まで……誰にもいまんじゃったぞ。
 そげんした苦しみがわかるか……。
                              (第三部「天の魚」586-587ページ)

当時も。

近いあたりに住んでいる人々が、チッソに勤めてチッソから収入を得ている人々と、チッソを「敵」と戦う人々と、分かれて。

そういう問題は、現在も、福島の原発事故の後のことを多少、見知っても、軽々にものの言えないことであると、感じてしまう、わたしKUONは意気地なしの、どっちつかずのコウモリ人間だと、常に、そんな気はある。

でも。この本のことを、何度も書いてしまうのは。

チッソの社長であった江頭豊が、現在の皇太子妃・雅子妃殿下の母方の祖父であること。

会社の社長であれば、会社の利益のために、が、最優先の思考になることは、責められないことなのかもしれないが…少なくとも、その程度の前提を置いて語りたいが・・・

江頭豊は、やくざを使ってデモ隊を鎮圧させようとした、多くのけが人を生んだ、水俣についてカメラを武器に、この企業犯罪を世界に発信しようとした(今はあえて、このように言い切ることにする)写真家の、ユージン・スミス氏をも襲わせて大けがをさせ、片目を失明させ、いずれの早死にを呼び寄せた、などということもした。

それ以前に、患者たちに対して、

「貧乏人が腐った魚を食べて病気になった」(それをチッソのせいにする)

「金はやるから文句を言うな」

と暴言を吐いている。

大阪の厚生年金会館で開催されたチッソの株主総会、一株株主になった患者たちの訴えの声が大きく大荒れになったその場では、両手に位牌を握りしめた患が、江頭に詰め寄った、叫び声が轟いた。

江頭個人の罪、ではないのかも知れない。


しかし。しかししかし。

江頭豊は、結局、チッソと言う会社の、終生の名誉会長の座にあった。

余生をどう過ごしたか。

一人娘である「優美子」の夫となった小和田恒とは、仲のいい・・話の合う関係を保ち、後ろ盾の無かった娘婿を擁して、ある時期に大きな家を建てて同じ敷地内に暮らした。

初孫である雅子に入内の話が出て、昭和天皇は、その縁談に反対された。

世界最大ともいわれる公害病の原因会社、世界に知られた企業犯罪の責任者であった男の孫娘と皇孫の結婚は、国民の総意にそむくであろうと。当時の後藤田長官は、この話が成れば、皇居の前にむしろ旗が林立すると発言した。

しかし、昭和帝の崩御の後に、皇太子の強い希望(という物語が、長い間、信じられてきた)によって、まずアメリカのメディアがすっぱ抜くと言うやり方でもって、皇太子妃は小和田雅子、と、決定した(ことになってしまった)。

雅子嬢は、お妃教育を半ばで放棄した。ブライダルチェックを拒否した。家系調査には妨害が入って実行されなかった、嬢の結婚前の芳しくない写真は秘匿された、それでもとにかく、強引に皇太子は遅めの結婚を果たした。

結婚の儀にも披露の宴にも、江頭豊と妻は出席している。

晩年を迎えた江頭は、おとなしい孫娘の夫(皇太子)に迎えられ、たびたび御所を訪問し、そればかりでなく、莫大な費用を投じて御所はバリアフリー化され、車いす用のスロープも設けられた。

江頭豊は、御所の庭を眺めるのが何よりの楽しみであると言い言いし、死んだときには皇太子は、通夜にも葬儀にも出ている。そういったことは、それまで無い、異例のことだった。似た時期に雅子妃は、皇太子の祖母君である香淳皇后の葬儀に「夏バテのようなもの」を理由に出ていない。

・・・…苦界浄土からかなり外れたあたりまで話が飛んでしまった。

その、水俣病を生んだ地へ、海へ、去年、天皇皇后両陛下は行啓された。

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(ここへ来てさえ、このナリ)。

秋篠宮殿下同妃殿下は、そのもっと前に訪れられて、殿下は、首を折るごとき悲しみの姿勢で、今は亡き方々を悼まれた。

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皇太子夫婦は行っていない。

結婚の後、早い時期に、水俣の方々の声として、以下の思いが流れた。

「おふたりで、おいでになっていただければ、ありがたいことです」

あの夫婦は、そんな声、きっと、聞こえもしないだろう。

妃殿下は、他人が自分の祖父についてイヤな風に言うことを、快く思わない。おじい様を悪く言われた、と、口を歪めるのだそうだ。口は歪み続けているが。

婚約発表の折の動画でも。皇太子が、婚約までの時間がかかったことにからめて、ミナマタの文字を口から出した、皇太子は少なくとも嘘のつけない人物ではあるようだ、隣席の女性をはばかる感じで・・・逃げられたくない、或いは、すでに「コワい」人になっていた・・・言葉を発した瞬間の、雅子サンの表情は、なかなかに微妙なものだった。

止まらない汽車が出発してしまっていたのか。



水俣病。

チッソの会社が海へ垂れ流した有機水銀の毒によって発症する病気。神経がやられてしまう。

ひどい症状の現れるその病気では、指が、あり得ない方向に曲がってしまうという形が多く見られる。

後天性のものでも、先天性のそれでも。指の拘縮は見られる。

食べるために、動けない子を荒ムシロの上へ転がしておいて、親たちはしごとに出る。その親たちを、日がな一日、待つしか無かった胎児性の水俣病の子どもたちの、指は、ぐにゃぐにゃに曲がっていた。伸びなかった。

足も。知能も遅れた、学校へ行くどころか、挨拶もできなかった。

ありがとう、とも、言えなかった。

楽しみです、と笑えるようなことも、おそらく、無かっただろう。

 
生まれたときから
 気ちがいでございました
                         (第二部「神々の村」246-247ページ)



◇ 参考までに。

皇太子は結婚後、数十億円かけた東宮御所に住み、その後、雅子さん祖父の元チッソ社長のためにスロープをつけた。

・ 1997年 東宮御所改修工事 5億8000万円 /バリアフリー化、公室棟改修(耐震補強工事・車椅子用リフト設置等))

・3000万円近くかけて子供部屋関係改修(紀宮さま御使用だった部屋の床を耐熱性のあるコルクタイルに、壁にはリノリウム使用、壁と床はクリーム色に塗られた。

・部屋を仕切って看護婦控えを設ける。

最終的には、たび重なる改修費用に 23億円 の拠出。

2001年には小和田氏は、軽井沢に別荘を購入している。

愛子さんが生まれた年にあたる。

もう一件。

秋篠宮ご夫妻が結婚した当初は赤坂御用地内の4LDKの職員住宅があてがわれた。

その後二人の内親王が誕生、が、小規模の増改築のみで住まわれてきた。

秩父宮妃殿下がご自分の宮邸を秋篠宮ご一家にお譲りになると遺言され、ようやく宮邸に引っ越された。

秋篠宮邸は,改修した旧秩父宮邸を平成9年3月からご使用になっており、その、

秩父宮邸改築費用は 1680万円 。

ケタの間違いは無し。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もう一件。平成22年に閣議決定されたこと。

療養費
関係県は、一時金等対象者に水俣病被害者手帳を交付します。水俣病被害者手帳の交付を受けた方が、通常起こり得る程度を超えるメチル水銀のばく露を受けたことによって発症すると考えられる症状(以下、「特定症状」といいます。)に関連して、社会保険各法の規定による療養を受けたときは、社会保険の医療費の自己負担分を支給します。
また、関係県は、水俣病被害者手帳の交付を受けた方が特定症状の軽減を図るために、はり師又はきゅう師から、はり又はきゅうの施術を受けたときや、温泉療養を行ったときは、

月7,500円を上限として、要した費用を支給します。

③ 療養手当
関係県は、一時金等対象者が特定症状に関連して社会保険各法の規定による療養を受けたときは、療養手当として次の金額を支給します。

入院による療養を受けた方 1月につき1万7,700円

通院による療養を受けた日数が1日以上の70歳以上の方

1月につき1万5,900円

通院による療養を受けた日数が1日以上の70歳未満の方

1月につき1万2,900円。

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恨、ではありません。

「怨」です。

すさまじい「怨」を、皇室に入れてしまいました。



東宮家の一人娘さんにも、手の硬直、拘縮があります。

愛子さんのせいではありません。

けれどこの娘さんの親は、これも含めた、わが子の存在そのものを否定する所業に出ました。

指のまっすぐに伸びる、目の前にいる人間に、媚びをうることもできる、違う子を。

この「怨」の字は、届いていないと断じます。

こと改めては申しませんが。

どこまでもエゴイスティックな、自分たちの、我欲、妄欲のために。

体調だの、連続ご出席すばらしいだの。

ふざけるな。と、申し上げたい。

ふざけるな。

あの腐り果てた、腐臭をはなつ、皇族どころか人ですらない、アレらが、とことんまで、もう、行かずばならないどん詰まるまで、機を待って、落ちるのを待つだけ、なのでしょうか。

もうしばらくなら、待ちます。



お返事ゆっくり書きたいので、お待ちくだせい。





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KUONの久遠

Author:KUONの久遠
・・・・・

五月雨の露もまだひぬ奥山の真木の葉がくれ鳴くほととぎす

さみだれの つゆもまだひぬ おくやまの まきのはがくれ なくほととぎす
   
金槐和歌集 源実朝


真木は「高野槇」ともいいます


・・・・・・・・・・・・・・・


やはり赤い口紅が好き。


ものすごく唐突ですが、私、口紅(だけ)はシャネルよ。(笑)。

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