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KUONの久遠

Author:KUONの久遠
・・・・・

やはり赤い口紅が好き。


ものすごく唐突ですが、私、口紅(だけ)はシャネルよ。(笑)。

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やはり赤い口紅が好き。


ものすごく唐突ですが、私、口紅(だけ)はシャネルよ。(笑)。

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ホウドウキョク 2/23(木) 7:37配信

皇太子さま、57歳の誕生日

(一番下に会見の全文がありますが、わたしKUONもまだ、全ては読んでおりません。一応、全文。

「ホウドウキョク」のまとめは、以下のようです。


皇太子さまは23日、57歳の誕生日を迎えられた。事前に行われた記者会見で、皇太子さまは、天皇陛下のお気持ち表明について、「とても心を揺さぶられました」と心境を明かされた。
皇太子さまは「(陛下が)『全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないか』と御案じになられていることに、とても心を揺さぶられました」と述べられた。
皇太子さまは、2016年8月、退位の思いがにじんだ陛下のビデオメッセージを、「厳粛な思いで伺いました」と振り返ったうえで、次の皇位継承者として、「真摯(しんし)に重く受け止め、常に心にとどめつつ務めに取り組んで参りたい」と述べられた。
陛下のお気持ち表明後、皇太子さまが感想を述べられるのは、これが初めて。
象徴天皇のあり方については、両陛下のように「国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむということを続けていきたい」との考えを示された。
また、中学校卒業を控えた長女・愛子さまの体調については、「今は普段通り、学校生活に戻っております」と説明し、雅子さまと共にご一家で臨む行事も増え、「私たち家族としては、活動の幅を広げることができた1年ではなかったか」と振り返られた。

さすが皇太子、コトバにも態度にも微塵のブレも無い。

恥が無いのは生まれつき。

心が無いのは(無いはずの心が揺さぶられたと自己申告はしてはるけど)これも生まれつき。

ナルちゃんというヒトの、標準装備に、恥も心も欠けていたのね。

オクスフォード出してもらって来たって、オプションとしてくっついた訳では無かったんだ。はあ、かわいそ。国民が。

・妻は頑張っておる。もうしばし温かく見守れ。

・娘も普段通りに戻っておる。高校へも進学するぞよ。

・自分も務めに取り組んでまいりたい。

・民は小さいことでガタガタ言わんように。

・わかったな。

だってさ。

57歳にもなって、何の深みも滋味も無いとっちゃん坊やの顔さらして。

若いコなんかにゃ負けません、髪を前に垂らして。たぶん歯周病、浮いて来ている前歯を見せて笑顔風のおばちゃんひでんか。

もうなにも言わせない痩せっぷりの、このお嬢さん、どなたなのかな、少し前のお洋服と色違いはこだわりのお表われか。

近眼乱視に老眼のきつくなっていますKUONの目に(なのか?)、このお嬢さんと下の制服姿のお嬢さん、同一とは見えにくいです。

ここで、かしこくおっちんして、ホホエミ風味でいる「愛子さん」は、おクスリのおかげで、こんな風にいられるのかな。

そうなのかな。某女性誌では、精神科のお医者さんが(東宮医師団一人氏では無い)、

激やせ愛子さま 精神科医は「拒食症で危険水域」と指摘

との記事が。今は詳しくご紹介できませんが。NEWS ポストセブン 2/22(水) 、です、言うてるのは。

誰に指摘されなくても親にはわかる。親に、心なんてものがあるなら。

そして両親、同じ場にいて、心配している様子も、これにも、微塵のブレも無い。

テレビで動画を見ましたが。

もうショックですら無い。ひどい痩せ。

機嫌を損ねたくない気持ちの透けて見える動画でした。

愛子さんは、ナルやまさに気を遣ってホホエミモドキしている、この女性みたいな。

あんな従順。恭順、びくびく引いている感じの内親王では無かった。

このお子にはまだ、感情がおありのような。

ナルとまさは、いつも通りニタニタしてた。何や、この。

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記者会見全文

(宮内記者会代表質問)
(問1)天皇陛下は昨年8月に公表された象徴の務めに対するおことばで、即位後に象徴天皇としてご自身が歩まれてきた道や、高齢となった天皇の在り方についてお考えを表明されました。表明に至るまで、殿下は天皇陛下のお考えをいつ、どのような形でお聞きになり、表明されたおことばをどのように受け止められましたか。今後、天皇、皇后両陛下にどのようにお過ごしになっていただきたいかという点もお聞かせください。

(皇太子さま)昨年8月8日の天皇陛下のおことばを、私は、愛知県での公務を終えた後の名古屋駅で厳粛な思いで伺いました。天皇陛下のお考えをいつ、どのような形でお聞きしたか、というお尋ねについては、何か特別な場でそういったお話があったというわけではありませんし、私自身は折に触れて陛下のお考えを直接お聞かせいただいたり、あるいは、そのお姿やお話しぶりから推し量ることもございましたので、明確にいつどの機会にどういった形でということを申し上げるのは難しいと思います。天皇陛下には、御即位以来、長年にわたり象徴天皇としてのお務めを果たされる中で、そのあるべき姿について真摯に模索してこられました。今回のお考えは、そうした模索と熟慮の結果を踏まえ、また、内閣を始め主な関係者とも御相談なさった上で、おまとめになられたものであろうと思います。思い返しますと、私が初めて両陛下の御公務に御一緒させていただいたのは、恐らく、私が4歳で、陛下が皇太子でいらっしゃった昭和39年の東京オリンピックではなかったかと思います。それ以来、ボーイスカウトのジャンボリー、高校総合体育大会、冬季スケート国体など、そういった行事にお連れいただきましたが、その度に、両陛下が一つ一つの行事を大切に思われ、真摯に取り組まれるお姿を間近に拝見してまいりました。ですので、今回、陛下がおことばの中で「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないか」と御案じになられていることに、とても心を揺さぶられましたが、同時に陛下のお気持ちがそこに至った背景につきましては十分お察し申し上げていると思います。私といたしましては、陛下のお考えを真摯に重く受け止めますとともに、今後私自身が活動していくのに当たって、常に心にとどめつつ務めに取り組んでまいりたいと思います。また、両陛下の御健康を御案じ申し上げつつ、両陛下には、お身体をお大切になさり、末永くお元気でいらっしゃることを心から願っております。それとともに、これからは、御自身のためにお使いになる時間をもう少しお取りになれるとよろしいのではないかと思っています。


(問2)政府が設置した有識者会議で象徴天皇の在り方について議論が重ねられており、国民の関心も高まっています。次期皇位継承者である殿下ご自身は象徴天皇とはどのような存在で、その活動はどうあるべきとお考えでしょうか。殿下が即位されれば皇后となられる雅子さまの将来の務めについて、お二人でどのようなお話をされておられますか。

(皇太子さま)象徴天皇については、陛下が繰り返し述べられていますように、また、私自身もこれまで何度かお話ししたように、過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして日本国民統合の象徴であるという憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。陛下は、おことばの中で「天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」と述べられました。私も、阪神淡路大震災や東日本大震災が発生した折には、雅子と共に数度にわたり被災地を訪れ、被災された方々から直接、大切な人を失った悲しみや生活面での御苦労などについて伺いました。とても心の痛むことでしたが、少しでも被災された方々の痛みに思いを寄せることができたのであればと願っています。また、ふだんの公務などでも国民の皆さんとお話をする機会が折々にありますが、そうした機会を通じ、直接国民と接することの大切さを実感しております。このような考えは、都を離れることがかなわなかった過去の天皇も同様に強くお持ちでいらっしゃったようです。昨年の8月、私は、愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に、戦国時代の16世紀中頃のことですが、洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が、苦しむ人々のために、諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。紺色の紙に金泥で書かれた後奈良天皇の般若心経は岩瀬文庫以外にも幾つか残っていますが、そのうちの一つの奥書には「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました。災害や疫病の流行に対して、般若心経を写経して奉納された例は、平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨天皇を始め、鎌倉時代の後嵯峨天皇、伏見天皇、南北朝時代の北朝の後光厳天皇、室町時代の後花園天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、そして、今お話しした後奈良天皇などが挙げられます。私自身、こうした先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がまさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたいと思います。私が、この後奈良天皇の宸翰を拝見したのは、8月8日に天皇陛下のおことばを伺う前日でした。時代は異なりますが、図らずも、2日続けて、天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます。私がここ10年ほど関わっている「水」問題については、水は人々の生活にとって不可欠なものであると同時に洪水などの災害をもたらすものです。このように、「水」を切り口として、国民生活の安定、発展、豊かさや防災などに考えを巡らせていくこともできると思います。私としては、今後とも、国民の幸せや、世界各地の人々の生活向上を願っていく上での、一つの軸として、「水」問題への取組を大切にしていければと思っております。また、私のこうした思いについては、日頃から雅子とも話をしてきており、将来の務めについても話し合っていきたいと考えております。


(問3)ご家族について伺います。雅子さまは式典への出席が増えるなど着実に活動の幅を広げられました。殿下が感じられた雅子さまの変化や現在のご体調についてお聞かせください。愛子さまはこの1年、両殿下とのお出ましが増える一方、体調を崩され学校を長期欠席されることもありました。春には高校進学を控える愛子さまのご様子、進学や皇族としての活動など今後に寄せられる思いについてもお聞かせください。

(皇太子さま)雅子は、治療を続ける中で、体調に気を付けながら、努力と工夫を重ね、公私にわたってできる限りの務めを果たそうとしております。その結果、昨年は、式典への出席回数も増え、また、4月の神武天皇二千六百年式年祭の儀や、6月の岩手県での復興状況視察、8月の「山の日」記念全国大会など、公的な活動を、少しずつではありますが、一つ一つ着実に積み重ねてきており、それがまた本人の自信にもつながり、活動の幅が広がってきていることを、私としてもうれしく思っております。また、東宮御所内での仕事などでも、私をよく支えてくれておりますし、愛子が体調を崩した折を始め、母親として愛子の成長を見守り、導いてくれていることに、心から感謝しております。このように、雅子は着実に快復してきておりますが、一方で、依然として体調には波もありますので、引き続き焦ることなく、慎重に少しずつ活動の幅を広げていってほしいと思います。国民の皆様には、これまで雅子に温かく心を寄せていただいておりますことに、改めて心より感謝の気持ちを表すとともに、引き続き雅子の快復を温かく見守っていただければ有り難く思います。愛子については、先生方や多くの友達に囲まれ、中学校生活の最後をとても有意義に、そして楽しく過ごしているようです。一時期体調を崩したこともあり、皆様に御心配をお掛けいたしましたが、雅子の支えもあり、今はふだんどおり学校生活に戻っております。また、昨年は、夏休みの機会に、神武天皇山陵の参拝や、「水を考えるつどい」、「山の日」記念全国大会など、様々な行事や場所に3人で出掛けることができました。こうした機会を通じて、皇族としての務めについての理解を深め、また、自覚と役割を学びつつあるように思います。4月からは高校生になり、新たな環境に身を置くことになりますが、今後とも、機会を捉えていろいろな経験を積んで、人として、また、皇族の一員として、健やかに成長していくことを願っております。天皇皇后両陛下には、日頃、私ども家族を温かくお見守りいただいておりますことに、心から感謝申し上げます。


(問4)皇族方の減少や高齢化が進む中、皇室の現状や将来の在り方についてどのようにお考えでしょうか。両陛下の負担軽減や皇族方による公務の引継ぎ、分担についての殿下のお考えもお聞かせください。

(皇太子さま)皇室の現状についての御質問ですが、男性皇族の割合が減り、高齢化が進んでいること、また、女性皇族は結婚により皇籍を離れなければならないということを前提とした場合に、皇族が現在行っている公務をどのように引き継ぎ、どう分担していくべきかという点は、将来の皇室の在り方とも関係し、大切な問題であると思います。そして、皇室の将来の在り方に関しては、私は、以前にも申しましたけれども、その時代時代で新しい風が吹くように、皇室の在り方もその時代時代によって変わってきていると思います。過去から様々なことを学び、古くからの伝統をしっかりと引き継いでいくとともに、それぞれの時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたいと考えております。公務の引継ぎや分担につきましては、お仕事の一つ一つを心から大切にしてこられた陛下のお気持ちを十分に踏まえながら、私を始め、皇族が適切に役割を担っていくことが重要であると思います。一昨年から、こどもの日と敬老の日にちなんでの施設訪問を両陛下から秋篠宮と共に受け継がせていただきましたし、昨年は、小中学校長の拝謁及び国際緊急援助隊・国際平和協力隊の接見を私が引き継がせていただくことになりました。また、昨日まで、陛下の名代として第8回アジア冬季競技大会の開会式に出席するため、北海道を訪れておりました。私としては、今後とも、引き継がせていただいた公務を大切に務めながら、少しでもお役に立つことがあれば、喜んでできる限りのお手伝いをしてまいりたいと思っています。なお、皇室の制度面の事柄については、私が言及することは控えたいと思います。


(問5)この1年を振り返り、印象に残った公務や社会、皇室の出来事についてお聞かせください。

(皇太子さま)この1年を振り返ると、昨年と同じように、国内外で多くの自然災害が発生し、各地で人々に大きな被害をもたらすとともに、多数の方々の命を奪ったことを、とても残念に思います。日本では、4月に発生した熊本地震により、被災者は今なお不安を抱えながら生活を続けておられると聞いております。8月末に東北地方と北海道を襲った台風10号による大雨は、北海道や、震災からの復興という険しい道のりを歩む岩手県に大きな傷跡を残しました。世界に目を向けても、エクアドルやイタリアなどで地震が発生し、それぞれ数百名が亡くなられるなど、人々の生活に大きな影響を与えています。こうした災害により、不幸にも犠牲になられた方々の御冥福をお祈りするとともに、被害に遭われた方々に心よりお見舞いを申し上げます。東日本大震災の発生から今年の3月で6年となりますが、昨年6月、復興状況視察のため岩手県を訪れました折には、着実に復興が進んでいることを実感すると同時に、引き続き仮設住宅にお住まいの方々が御苦労を重ねながら日々暮らしていらっしゃることを伺い、心が痛みました。被災された方々が1日も早く安心して暮らせるよう、被災者お一人お一人の御健康と幸せを祈りながら、今後とも、雅子と共に、被災者に寄り添い、被災地の復興に永く心を寄せていきたいと思います。そのほか、国内の出来事としては、7月下旬、神奈川県の障害者施設が襲われ19人もの尊い命が失われた事件に、大きな衝撃を受けました。また、高齢者による交通事故のニュースや子供を含む格差の問題もよく目にするようになったと感じており、気に懸かっております。日本国外でも、依然として世界各地でテロ事件が頻発しており、難民の問題もいまだ解決の糸口が見えておりません。そのような中で、リオデジャネイロのオリンピック・パラリンピック大会では、難民選手団が結成され、人々の拍手に応えて明るい表情で入場行進をしている姿には、安堵と喜びを覚えました。現在の世の中で、特に子供やお年寄り、障害者といった社会的に弱い立場にいる人々が犠牲になっていることは、とても残念に思います。全ての人が広い心を持って、お互いを尊重し合い、こうした弱い立場にある人々を含め、皆が安心して暮らせる社会を構築するために、地域社会、さらには国際社会全体が一つになって知恵を出し合い、協力していくことが、より一層求められる時代になっていると感じます。明るいニュースとしましては、夏のリオデジャネイロでのオリンピック・パラリンピックにおける日本選手団の活躍や、長年にわたるオートファジーの研究を評価された大隅良典博士のノーベル生理学・医学賞受賞などがありました。世界の中で日本人がそれぞれの分野で高く評価され、あるいは、世界の第一線で活躍していることの証であり、とてもうれしく思います。皇室の出来事としては、やはり昨年10月に三笠宮崇仁親王殿下がこう薨去されたことが思い出されます。三笠宮殿下には、私が学生だった時代、歴史研究のお話を伺い、研究者としての心構え、姿勢を学ばせていただいたことを感慨深く思い出します。また、私のみならず、雅子も愛子も、本当によくしていただきましたので、改めて、これまで私たちに寄せていただいた御厚意に感謝申し上げるとともに、心から御冥福をお祈り申し上げます。また、我が国皇室と関係の深かったタイのプミポン国王が崩御されたことも、悲しい出来事でした。タイ王室の方々とタイ国民の皆様に対して、心から哀悼の意を表したいと思います。印象に残った公務についての質問ですけれども、地方や都内での式典や視察、東宮御所内での行事など、いずれもそれぞれに特徴があり、印象深いものでしたので、特にこの公務と挙げることは難しいと思います。この週末に訪れた北海道を含め、地方訪問では、暑さや寒さの厳しい時もありましたが、長い時間沿道に立ち並び、いつも、私や、雅子も一緒の時には私たち2人を、温かく笑顔で迎えてくださった方々のお気持ちを、とてもうれしく思いました。また、視察先や東宮御所での行事などで、若い世代の方々とお話をする機会がありますが、皆さんが、目を輝かせながら自分たちの進みたい道を力強く語られるのを見て、とても心強く思いました。なお、この1年間、私たち家族としては、活動の幅を広げることができた1年ではなかったかと思います。先ほどもお話ししましたように、雅子は、治療を続けながら、努力と工夫を重ね、岩手県での復興状況視察、長野県での「山の日」記念全国大会、岐阜県での農業担い手サミットのほか、賢所での神武天皇二千六百年式年祭の儀や、都内での式典にも数多く出席するなど、公的な活動を少しずつですが着実に積み重ねることができました。また、愛子も、8月の「水を考えるつどい」の機会に初めての式典参加を経験するなど、様々な行事に3人で出掛けることができました。国民の皆様が私たちを温かく見守り、また、支えてくださったことに、改めて心から感謝いたします。


(関連質問)
(問1)第1問と第2問の象徴天皇の在り方に関連してお伺いします。殿下のお答えでかなり具体的に殿下のお考え理解できたのですが、あえてもう1回お尋ねいたします。昨年8月の天皇陛下のお言葉以来、象徴天皇というのはどのような在り方がふさわしいのかという様々な議論がありました。大きく分けると、いろいろな議論が出たのですが、一つは天皇というのは存在自体が重要である、そういう考え方と、活動してこそが象徴天皇であると、二つの考え方が大きく分ければ出たと言えるのですけれども、そのうちの一つの存在すればいいという天皇観は、似ていると言えば、戦前の神格化された天皇観ですね、こういうものに似ていると思うのですが、現代ではそういう考え方は少数であるとは思うのですけれども、日本社会に根強くそういう考えの方がいらっしゃるというのも事実だと思いますけれども、そのことに関して、殿下はどのようなお考えをお持ちでしょうか。

(皇太子さま)今お話のあったような、天皇に関しては二つの考え方があるということは私も承知しております。そして今、会見の席でもお話ししましたように、私としましても、象徴天皇の在り方というのをいろいろ本当に真摯に考えてまいっているところであります。象徴天皇についていろいろな考え方があるということは私も承知しておりますが、私自身としては、やはりいろいろと今後とも勉強しながら、象徴天皇の在り方というものを、今の陛下の例に倣いつつ考えていきたいと思っております。

(問2)今の質問とも若干関連しますが、先ほど殿下のお話の中で、次期皇位継承者としての象徴天皇像について、過去の長い天皇の歩みを振り返り、後奈良天皇の御宸翰の御紹介がありましたが、もう一つ天皇の長い歴史の中で譲位という形態が近代以前においては常態化してたわけですが、殿下の、長い皇室の歴史から見て、また次期天皇になられるお立場から、両陛下のお立場になられたときに置き換えて、その譲位について、日頃お考えになられていることがありましたら、お聞かせいただければと思います。

(皇太子さま)私自身、大学で日本中世史を勉強しておりました。特に鎌倉時代、室町時代の主に交通、あるいは流通史を中心に学んでいたわけですけれども、私自身、中世史を研究しているという関係で、譲位された天皇がおられるという事実は承知しております。私からは、特にそれ以上のことは、今申し上げるのは控えたいと思います。
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こんにちは。明日はこうたいしさんの誕生日です。国旗かかげませんよ、わたし。

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4月10日にご結婚されたお母さまが、2月の23日にお産みなされた皇子さま。

電光石火の早業で、皇子をあげられました。おめでたいことでした・・よね。

この写真を撮ったのは、結婚前から特別に正田邸にフリーパスにての出入りを許され、深窓のご令嬢だと言われた美智子嬢の私室にも出入りを許され、美智子嬢の、皇室へとつぐ日のためのドレス姿を撮ったり。

なんでだかハンカチかぶったんだ、と言い訳してるマリア様みたいなベールかぶった写真を撮ったり。

皇室へ向かう日の、ミンクのショールを肩にして家族にいとまを告げる美智子嬢を、正田さんチの二階から、蔭ながら見送った男性。

朝日新聞の記者だった佐伯某氏が、これを、これも、撮影されたのです。

2月の終わりの寒い日に、車の窓を全開に開け放ち、ミテ子さまは、胸に抱いたお子を、お撮らせあそばした。

佐伯某さんに。

お付の女官さんのお顔つき。

いま見れば、なりたての母。と言うよりおんな・・・おんなおんなした表情の、もしかして、この時にはお狐さんも憑いたりしていたように見えまする、ミテコさん。

あかんぼをのぞきこむかのごとく、うふふ私はこの子の母よ、アピールのすごいミテコさん。

女官の牧野さんは、寒風のなか、窓を開けたりするのには反対でいらした。

皇太子の御子に何かあったらいけません。そうですよね。

この牧野さまは、美智子さんのなすことなさぬこと気になさり、忠告なさり助言なさり、そんなことしたから、

ものすっごく、当時の皇太子に、怒られてしまわれたのでした。

マンガにあります。


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この漫画家さん。他のシーンでは、

これ誰や・・・こうたいし。

これ誰なん・・・まさこ。

みたいな場面も描いておられるようで、まさこを指して「あの自信に満ちた美しさ」としている場面も、有名なようですが。(よう、ようばかりでごめんあそばせ、文月きょうこさん、という漫画家さんです)。

この場面で牧野女官を叱りつけているのは今上。今上を諭しておられるのは、浜尾氏ですね。

浜尾さんのように、きちんと意見する方がおられた、古き良き時代の皇室を偲ばせるシーンだと思います。(だと思うのであります)

牧野女官は、辞めさせられたのでした、確かそうでした。

>美智子に敬意を払って彼女を助けるのがあなたの役目

二度とあの人を悲しませないように


ですと。

今上さん。あなたやっぱり、ダメダメじゃん。

美智子さん、どんな顔してどんな声出して、カワイソウナワタシ、を訴えられたのでしょう。

★牧野純子女官長を叱りつける夫
河原敏明著「美智子妃」より
浜尾侍従とは正反対の形で去っていったのが、牧野女官長であった。 時日からいえば浜尾より2年前の44年四月だが、同僚ではなく皇太子の覚えが悪くて退任に追い込まれる形となったのである。 就任して10年目、女官長は80歳前後まで勤めるのが通例だが、このときまだ68才だった。 敢えて書くが、美智子妃には真に、目の上のコブガがとれた思いだったろう。 牧野自身も、いまさら平民出のお妃の召使頭になるのは誇りが許さなかったが、常磐会等のつよい要請を受けて御所入りしたのであった。 もっとはっきり言えば、東宮妃が美智子様に決まって、かねがね、 「宮中には独特のしきたりがあり、元皇族、華族の方でなくては、とてもつとまりません」と言い続けてきた手前、 怒りも露わだった松平信子とその姉の梨本伊都子の鍋島本家の二姉妹が、分家の出の牧野純子を強く推薦したのだ。だから正式に決まったとき、 これで美智子妃に手綱をかけられる と常磐会の面々は優雅に喝采を交わした。 初めから美智子妃のお目付役の一面があったのである。 彼女はその任務を忠実に果たしただけかも知れない。元々格別に気丈な性格であり、美智子妃に対して何かにつけて厳しかった。 「私達に涙はお見せにならなかったが、ずいぶん悔しい思いをされたことは確かです」と 元側近の一人が遠慮がちにいう。 そんな牧野を明敏な皇太子が見過ごすはずはなかった。 「皇太子さまは牧野さんをいつもしかりつけていました。美智子妃への理解が足りない、意地悪をする、 改良することに反対する、というようなことでした。お叱りの回数が年ごとに多く、かつ強くなりました」


河原氏、いろんな見方もされておられますが、かつては ↑ のごとくも書いておられたのでした。

>明敏な皇太子・

ううむ。こういう時は、こう書かないとあかんかったのでしょうかしら。妻に泣きつかれ操られ妻のコトバ以外に聞く耳持たぬ、お優しい、だか阿房だか、初めからそうであって、ついには「生前退位」なんてことまで。

・・・こういうなかから派生した皇太子・ナルちゃん。

明日、何を、しら~~っと仰るか、ちょっと楽しみです。わたし意地悪って公言していてよかったです(笑)。

あるじがバカだと忠臣は去るしかない。去らせられた、というのが本当でしょうか。で、残るのは、

荒涼たる不毛の荒野。豪壮たる御所といえど。

でも。ナルさん難産で、20分も呼吸が出なくて云々と言われておられますが。20分も呼吸できなかったら死んでしまう、と、素朴に思いますし。

帝王切開術など、それこそ辿ればローマのシーザーの時代から存在する手術。

皇太子妃の御身にメスを入れたらなんじゃらと緒論あったとも聞き及びますが。

男系固持のお家ならば、母体よりもお子が優先と考えられます。いい悪いの話ではありません。とにかく、そうなのです。

生まれた時から全くからだ動かすことも無く、なよなよと柳腰にお育ちあそばして。

運動不足で難産になるといけないからと、身ごもられたお姫さまが、お箸を手にして、床にまかれた大豆をお拾い、とか。

美智子さんは、そんな時代の女性でなくお姫さまでも無く。

出会いはテニス、がっしりとした頑丈そうな下半身の美智子さん、なんでそこまで難産でいらした。まあ。お産のことはそうなってみないとわからない。とも言います。もちろん存じておりmす、こんなこと言うのは、ワタシが意地悪だからでしょう。

スポーツしてた方なら大丈夫、という見方も、あの方をいれられるにあたって、おそらく、あったのかとも想われますが。

皇室に入って、全方向から苛められてたストレスのせい、だったのか、これも。

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美智子さん?? 頑健そうでいらっしゃる。

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とても小柄でいらっしゃる。


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昔むかし見て、もう一度見たい、と願っていた一枚の写真。

今上さん。

美智子さん。

抱いておられるのは、礼宮さまだと。

しかし。

お人形です、この[礼宮さま]。

けっこうな大きさの、お人形です。

何なのでしょう、この写真。大真面目に撮られておられます。

再びまみえて、背筋がぞわっとしてしまいました。

私にはわからない。

どなたか教えて下さいな。

理解の外です。



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あかちゃんの時は、全身で示すことができたのにね。

違う、も。イヤ、も。愛子さん。

このヒトじゃない、このヒトじゃない、抱っこして欲しいのは。

あたちが抱っこして欲しいのは、あっちにいる、あの。


愛子さんがなついていた養育係を、まさこは、おそらく嫉妬心から
解雇してしまった。

「後ろ髪引かれる思い」で、辞めて来た方がおられたのでした。

大切にもしないくせに、自分の所有物だという一点で、嫉妬だけはする人間未満がいるものです。


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父親も母親もパーだ。



父親が死んで長姉は高校の寮に入っていた、次姉は、ウチで預かる、と強行してくれた父方の叔母夫婦の家で暮らしていた。

母親と二人暮らしだった子ども時代、あんなこんなはあったものの、鍵っ子になっていておやつの買い食いはけっこうし放題でした。住まいは名古屋のお城の見えるあたり、町中で、それなりに美味しいものも食べさせてもらっていました。母の里の伯父が、戦中もそうだったように、自転車で何時間もかけて、米も野菜もおそらくは祖母に託されたお金も、運んでくれていたのでした。

中学にあがるのを機に、養父の家に引き取られました。

しょっちゅう到来物のある家で、食料タンスには乾物が積み上げられていたし、牛肉も大きな鯛もメロンも、明治屋の缶詰も届きました。私も受け取っていたので知っていました。

食事は寝たきりの親奥さんと、在宅する時は養父と、私より三つ上の長女のHちゃんが、親奥さんの寝間の隣りでお膳でとっていました。

養父の妻は、姑と夫と長女の食べ物は、欠かさず整えていました。親奥さんには朝はバタートースト、昼は煮魚を毎日つけ、魚は、そのたびにお金をもらって買いに行く。御用聞きも来ていたけれど、養母は魚は、自分で買いに出かけていました。

息抜きだったのでしょう。遅いと言って呼び鈴を鳴らして、親奥さんがよく怒っていました。

私より一つ上のそこの長男、二つ下の次女、そして養母は・・・何を食べていたのでしょう、深い記憶がありません。自分の日常食べていたものの記憶も。あまり無い。

ヒトの出入りの多い、来客も絶えずある(以前も書きましたが、宮さまが来られたことも一度ならず・・・学者さんでいらした、その講義や講演のお礼、ひっそりとお渡ししたのでしょう)その家の、財布は、親奥さんがしっかりと握ったままだったのです。いま思うとむごい話です。

大学の柔道部の学生が来るのですき焼きを食わせる、と、飛んで帰って来ていきなり養父が言いつけ、ネギだ豆腐だとおおわらわ、急遽私が肉を買いに。どれくらい買えばいいのか。肉屋で相談して、すき焼きならこれくらいあれば、と、1キロ買って帰って、巨体揃い、十数人の前に、1キロの肉・・・あの時のバツの悪さは、忘れられません。

一人で1キロくらい、食べそうな詰襟の大男たちが・・・。私は中学生だったので。

養父はそこここの学生たちに肉をふるまうのが大好きで、木津川の河原で数十人でのバーベキューも、毎年、何組分か、していました。

養父は旧い家の親孝行の一人息子。できのいいお姉ちゃんが三人、いいとこへ嫁っておられて、運転手つきの車で時々、オカアチャンのお顔を見に、おいでになられた。立派な奥さま方でした、どなたも。姉妹そろっておいでの時は、仕出し屋が届けて来る料理をご一緒しておられた。

長女さんだけはその輪の中。優しい、いい方でした、いまもお幸せです。でも、自分がたべられるものが、弟、妹には無いと言う事には、無頓着だったような。

養母は、養父の女身内さんの中では、無休、無給の、気の利かない女中以下、の存在でした。お手伝いさん、などというきれいごとの言葉では言えません。何度も実家へ帰って、また戻って、の不毛の歳月の後に、諦めの後に私は、養母のお世話になるようになったのでした。

私の立場は、ひとことで言うと、微妙。

おば様方は、私には、それなりの気を配って下さっていた。チョコを下さったりローンのハンカチを下さったり。死んだ父への慮りだったのではありました。詳しく書くのは難しいことなので省略。

一人でおあがり、と、折り曲がって詰められたウナギの重を下さったこともあった・・・でも。

私は、一家のなかで長女さんとは違うグループ・・・その家の当主である養父の、長男であるKちゃんと、末っ子で誰にも見向きもされない次女のYちゃんと同じ群に普段は属していて、上(笑)から下がって来る、焼きプリンの空き缶やどこやら亭の折詰弁当などの残骸を、ただ珍しく見ていたばかり。12歳からの話です。

折詰の中には、紅白の飾り切りを施されたかまぼこや何やらの揚げ物などが、しおれて残ったりしていました。

養母は私に、よかったら食べや、と言いました。長男と次女には言いませんでした。私は「けっこうです」といいました。養母はそのまま引いて、結局かまぼこやフライは捨てられたのかどうか。

お手伝いの、30歳過ぎの女性もいました。実家から仕送りがあったようで、お菓子ばかりヒミツで食べていました。トイレに籠ったら1時間は出て来ませんでした。

・・・あの頃は、麦ごはんと、たまに、養母が仕込んで作る、上等らしいけど舌につぶつぶの残る味噌の汁と、それだけはふんだんにあった到来物の漬物や佃煮と。かつお節だけを扱う店の、木箱の隅に溜まるかつお節の粉。で、主に、食事をしていたのでした。

鯛の刺身も、出る時はどどんと出たりしました。マツタケもそうでした。マツタケの佃煮のようなものを、毎食、食べることもありました。

それしか無かったのです、その時は。

ご飯とかつお節の粉しか無いことも多く、そんな時は台所に、牛肉の甘煮のしょうがの匂いが残っていました。

皆で食べるには量の少ない肉を、養母が、甘辛く煮つけていたのです。味を濃くして、少ない量でご飯がすすむおかずです。

その家の長男Kちゃんは、私とは口をきかないよう、厳しく言いつけられていました。

マチガイが起こってはいけないらしかった。

その言いつけを遵守して彼は、一緒に暮らしている私を、ほぼ完璧に無視していました。私も同様。

飛び級で東京大学を出て来た父親の後を追わねばと、毎日ベンキョウ、ベンキョウ、のKちゃんでした。

財布さえ持たせてもらえない養母は、息子に、ベンキョウ生活を支える栄養のある食べ物を、食べさせてやりたかった。

当然の話です。

私は、外で、自分で食べられるものを食べていました。外食しました。母親とは月に一度、会う機会があり、そのたびに母は私に、何か食べろ、下着も買え、と言うのでした。中学生が持つにはかなりなお金を私は、受け取っていました。

暮らしている家の中で、得られないものを「欲しい」と思う自分を、許せなかったのです。高慢ちきな女の子だった。

挫けないためには、アタマを、思いっきり上げていなければならなかったと、ずっと、自己弁護しています。

自分の家は貧しいと、母子家庭ですし親子で暮らせなくなっていたのですし、普通に思い込んでいましたが、母はお金をくれました。

自分の暮らしを切りつめて、と、これも思い込んでいましたが、そうでもなかったようで。私の母は、セーターは純毛しか着ない人だったし。靴もいいものをはいていました。母が亡くなってかなり経って、姉妹が話をしていた時、不意に、私たちは悟ったのでした。

母には、相続した遺産があったのだと。夫からでない、親からのものが、あったのだと。ずっと後から気がついた話。

父が死んで母が引っ越しをして、帰る家を持たなくなった私たち姉妹は、まったく母の言葉を信じて、嫁いで、頑張って・・・いたのでした。

姉妹もバラバラに育って、ツギハギの育ち方をしたのだと。皆、思い込んでいたのでした、父の死後、残ったものはすべて、母が、当時信仰していた宗教に、つぎ込んでしまったので・・・。

次女の制服代だけ手元に残して。と。母自身がそう、言っていた。家もお金も全部、と。事実、そうであったのですし。

遺産だの何だの、思ってみたこともない。だから、欲しいとも思ったことも無い。

「おばあちゃんは、自分で言うほど、ビンボウで苦労したわけでは、なかったんだがねえ」。

みな三人とも、けっこうなトシになってからのそんな話で爆笑したものでした。

呑気な話、でも、自分たちらしい話で、頼り癖が持てなかったことは、よかったのだと結論が出て、また、笑った・・・

脱線しました。


中学生の私は、自分の暮らす家の中での格差、というかヒエラルキーというか、微妙な差、というか。むずむずと、居心地のよくない思いでいて。

確かに微妙でした。

先に書いたウナギの話。私だけで食べろと仰るのは、大家の奥さんである、養母の小姑さま。

そんなことができるはずもなく相談します。しかし養母はそんな時、必ず、

「そう言うてはんねやったら、〇ちゃん(わたし)がいただいたらええのやで」

でも、ですからとお願いして、大人が分けて、と、私は言う。

「少しずつみんなでいただいたらどやろか」。

気取り屋の私の美意識に反する、オバちゃんみたいなセリフを云わねばならず、もうウナギはいいから、こういうシチュエーションにならずにいたい。

養母には養母の、なんとも言えないこだわりめいた気分は、当然、あったのでしたし。

私は、養父の、いわば「恩人の娘さん」みたいなことで、世話になっていたのでした。それにしては養父は、日々の暮らしの些事には頓着なく、すべてを妻に丸投げで、生活費の自由さえ与えないまま。

養母のやるせない気持ちは、中学生ながら、自分ながら、いささかは解っていたつもりでおりました。

学校に行っている間に日記帳を読まれているのも知っていました、私が、町の食堂で、一人で親子どんぶり食べていた、お好み焼き屋から出て来たと、養母に告げる人があるのも知っていました。

いろんなことが、ありました。

主婦が。

よその子を預かっていて、財布の自由も無くて、夫は母親と嫁いだお姉ちゃんたちに牛耳られていて・・・社会的には全くそんな気配も見せない成功者でしたけれど・・・同じきょうだいでありながら長女は缶のままのゴーフルを与えられている、長男は「ダイドコの子」で、幼い頃は母親である自分を庇って、夫の鉄拳の前に立ちはだかってくれた子で、体は大きくて腹減らし、叶うかぎりに美味しいものを食べさせてやりたい。

これ。当たり前のこと。

と。本ばかり読んでいた私は、なんとなく、理解していたように思います。しかも預かってやっている子(わたし)は、一人で勝手に外でごはんを食べてしまうような金を持っていた。自由な金を持たされていた。

養母は、私が高校の寮に入る時、月に一度は顔を見せにおいでと。

お友達も連れておいでと。

言っていてくれました。行けば笑いかけて、煮込みうどんを作ってくれたりしました。恩知らずなのか面倒だったのか、月に一度も行かなくなりました。せっかくの一人の休日だとの気分があったのでしょう。

どこまで信用していいのかが、まず、わかっていなかった。

・・・私は、養父の家にいる間、家の中にいる一人に、まるきり無視され続けていることが、平気でいられませんでした。

養母に日記帳を読まれていたことにも。それをなじれないことにも。日記帳の中に挟んでいた紙幣の位置が、ずれていて、足らなかった数枚が数日後に戻っているようなことも。養母はきっと、複雑な思いを沢山、味わったと思います。私のせいで。

私は素直な子でなかった、よく嘘もつきました。

外でどんぶりメシ、食べて帰って、今日は天ぷらや、ごはん沢山おあがり、と言われて、おかわりが出来なくて、

「大好きなおかずやのに、なんでやろなあ」

と、言われたりすることも。

とても、とても、平気でいられなかった。小説の新人賞に応募して入賞していたのに、聞かされていなくて、結局、賞は辞退にされていた、そんなことも。

もしかして「将来を潰された」と感じた、そのことが、いちばん、

耐えられなかった・・・早く早く自分でお金を得られるようになりたかった、自分のお金で空気を吸いたかった、気詰まりなくごはんを食べたかった、そんなこんなで。

定時性高校なら寮へ入れる。家から出られる。

ことを知って、反対されましたが、定時制高校へ進学したのでした。

寮では、皆、同じタイミングで同じものを食べられました。

大ヤカンで、火鉢で、一度にたくさんインスタントラーメン作って、ずるずるすすって食べた、八人部屋。


養父にも養母にも感謝しています。この頃は特に。思い出はいっぱい、あります。

養母も晩年は穏やかでした。

心臓を患って、食事制限も厳しく受けて、長い間の闘病生活でした。

私が中年になって、時に、美味しいものをと連れ出して、あれもこれも勧めても、ほとんど何も口にできないでおられました。

・・・・・・・・・・


もっと、食べ物のリアル、自分の中の汚いこころ、食い意地の引き起こす醜い気持ちも、書くつもりでしたが。

中途半端になってしまいました。

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「愛子さん」の痛ましい姿を見て。

内親王さんと何を比較するなどの話でなく。

食べものに絡む気持ちの底の事など、書いてみたかったのでしたが。

なかなか・・・きれいごとになってしまったかも・・・

続きをまた、書くかもしれません。

「愛子さん」は、生きていたくないのかも、と思います。理屈でない、本能のところで。

見ていられない姿です。



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